第32話

文字数 3,138文字

「その家の住所はわからないの?」
 英里が聞いた。
「昔、おれを補導した警官にこのあいだ会ったんだ。刑事になってたけど、当時、探してくれたそうだ」
塔夏は秋本刑事にもらった封筒から、黄ばんだ紙切れを出した。
「そんなに遠くじゃない」 と英里。
「遠くじゃないって?飛行機ででも行くの?」
英里の言葉に彼は笑った。
「そうよ」
「え?」
「飛行機の時間、調べないと」
「なに?」
「戻るのよ、あなたの家に」
「もう住んでないよ。ずいぶん昔の住所だ」
「それでもいいじゃない。行かなかったことを後悔するより」
英里は、それでも突っ立っている彼の手を引っ張った。
「行くのよ」
       
 
 どこまで行っても、海が見える。

 あれから、彼らは荷物も持たず空港へ急いだ。48分後に出発の飛行機の座席が空いていた。塔夏は彼女の行動力に引っ張られるように来たようなものだった。
 空港でタクシーの運転手に住所を見せると、旧町名だが田舎だからたぶんわかるだろうと、彼らを乗せてくれたのだ。もう大分走っている。

「きれいなところね。見て、海がきらきらしてる」
英里が楽しそうに指差した。塔夏は緊張した面持ちのまま、ずっと沈黙している。それを察しているのか、余計にはしゃいでいる。
「じゃろ?お客さんはみんな、まあ、うれしそうに見てるわなぁ」
運転手が自慢げに大きい声で言った。
「ほんと外国みたい。私、こんなところ大好き」
英里は塔夏を振り返り笑うと、また車の窓に、顔をくっつけるように眺めていた。
 1時間少し走っただろうか。やがて海岸沿いの道から離れた。園芸ハウスが並ぶ平地を15分ほど行くと、今度はこんもりした山につながる、少し緩やかな坂道を走って行く。
「このあたりじゃろが・・・」
運転手もきょろきょろしながら、車をゆっくり走らせる。

家はどこにも見えない。狭い道でまわりには木々が茂っている。やがて木の間に屋根が見えた。
「あ、あれじゃない?」
英里がその屋根を指した。

 カーブを曲がると、視界が開けた。見える範囲には4軒の家が点在している。家々の間には畑があったり、木々があったり、塀もなく、どこが境目なのかわからなかった。

「この番地だと、ここじゃないかねえ」と、運転手が順に家を指して、ひとつの家に止まった。2階建てだが屋根が低い古い家屋だ。瓦屋根は苔むして、草が生えている。家の前は草が刈られた跡があるが窓も玄関も閉まり、人が住んでいる気配がなかった。

 タクシーに待ってもらうように頼み、彼らは家の前に来た。表札もない。
「すいません」
声をかけるが、何の返事もない。
扉に手をやると鍵はかかってなかった。玄関には靴もない。
「覚えてる?」
英里にたずねられたが、塔夏には覚えがなかった。本当にここに住んでいたのだろうかと、疑問に思った。

 廊下はうっすらと埃があったが、思ったより荒れてなかった。廊下の向こうに目をやると、そこには、彼の見覚えのある絵が見えた。確かめようと、自然に足が出た。そのまま廊下の向こうの部屋へ向かった。彼の記憶にある絵が誰の絵なのかわからなかったが、数年前に調べて初めて有名な画家の絵なのを知った。母親が好きだったのだろうか。
 ラファエロの“聖母子と幼児聖ヨハネ”の小さなポスターが額縁に入れられ、掛けられていた。聖母が慈愛に満ちたまなざしを幼児のキリストに向けているものだ。
 壁紙は薄いクリーム色でざらざらした表面、そして、深い赤茶色の3人がけソファーと1人がけソファーがある。壁際にはキャビネットがあり、いちばん上の棚にはガラスがはめられている。その下には観音開きの扉があり、下の段は引き出し用に開いているが、引き出し自体はない。

「これだ」
「やっぱりここが、あなたの家だったんだ」

 それはまさしく、彼が記憶していたもの、父親の記憶から見たものだった。ここが彼の家だったのだ。古い家だが、改装されたのだろう、床はフローリングでテーブルやソファーが置かれたところだけはマットが敷かれている。記憶にある薄いベージュの毛足が長い絨毯ではなかった。
 キャビネットにも外国ふうの花瓶どころか、何もなかった。ガラスもすっかり埃ですすけている。テーブルの足には彼が取りかかっていたような装飾が施されていた。

「あれ?これ、違ってなかった?」
英里がソファーに置かれたふたつのクッションを指した。生成りのカヴァーの刺繍は、彼がミニチュアハウスで作った赤ではなく、青い花だった。
「青だったんだ。青の花だったんだ」と、塔夏はその刺繍を指でなぞった。
 この家にいつまで母親が住んでいたんだろうか、疑問が残ったが、そんなに遠くない以前まで、誰か人は住んでいたようだった。

 外に出ると、近所の人だろうか、急いできたのか、はあはあと息を切らした高齢の女性が立っていた。
「どなたです?」と、明らかに不審そうに彼らを見た。
「塔夏と言いますが…」
「は?」耳が遠いらしく、耳を近づけた。
「塔夏、光一、といいます」
「塔夏!」女性は驚いた。「もしかして、あの小さかった」
「ここにおれ、住んでたはずなんですが、ご存知なんですか?」
女性は複雑そうな顔をした。
「お父さん、お元気?」
「亡くなりました」
塔夏は断定して言った。そうでなければ、今の状況を語らなくてはいけなくなるからだ。
「そう。一度も帰って来れないままねえ」
「あの、ここに住んでた人は…」

「あなたのお母さんね」
彼はどきりとした。
「3年前にお亡くなりになったわ。残念だねえ、もう少し早かったら会えたのに。最後の1年は市の方の施設に入って、帰って来なかったけど、そのとき、私がこの家の管理を頼まれてねえ」
「そうですか」
彼にはほとんど記憶にない母親だったが、何となくショックだった。やさしく額に手を当ててくれた感触を思い出した。

「お父さんが帰ってくるまではと思って、時々窓を開けたり、掃除したり、庭の草とりしたりしてたのよ。あなたが小さいときだけのことだったから、もう帰ってくると思ってたのに」
「え?どういうことですか?」
「聞いてなかった?」
彼女は困った顔をした。

「教えてください。父親がどうして母と離れて、あちこち転々とするんだろうと、ずっと思ってたんです」

女性はため息をついた。
「ほんとかどうかは知らないのよ。けど、お父さん、あなたがお母さんに虐待されてるって」
塔夏には思いもかけないことだった。

「そういえば、あなた、よく熱出したとか、ケガしたとか、悪いもの食べたとか言って、お母さんがあわてて病院へ連れて行ってたから、いつも大変ねえ、なんて話してたのよ。虐待なんて信じられなかったけど、あとで、テレビの番組で、子供を病院へ連れていって同情されたり、献身的にがんばってるところをみんなにほめられたいとか、なんとか症候群、病気があるってやってたから、そういうのがあったのかもねえ」

彼は自分が身体が弱かったような覚えがあるだけだ。
「それで父が、おれを連れて?」
「びっくりしたのよ。私にお母さんをよろしくって、お金送ってきて。私も近況を教えてあげたんだけど、そのときはまさかそんな病気なんて知らないから、お母さんにもお父さんから連絡来たよーって教えてあげて。お母さん、急いで訪ねても結局会えなかったのね。何回か、そんなことあったわ」

母親が居場所を突き止めて、追って来たから、父親は急いで彼を連れて、また逃げたのだ。

塔夏はようやく本当のことを知った。かわいそうな父、かわいそうな母。彼はあれほどこだわり、憎しみさえ抱いていた両親のことをそう思った。
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