第15話

文字数 3,783文字

 塔夏は女性の突然の訪問に驚いたままだ。
「芝西さんの部屋、まだそのままなんですか?」と、彼女は向いを見た。表情が固い。
「みたいだ。警察も調べ回ってたけど」
「あなたも。それで何かわかりました?」
塔夏は首を振った。

「芝西さんを教えてくれたのは、歩美さんよ」
「歩美さん?」
「新屋敷歩美さん。お隣の奥さんで。でも、歩美さんはテロなんか関係ないですよ」
「それはわかってるけど」
彼はどこかに、ほどきやすそうな場所を探しているようなものだった。きっかけや糸口になればと思っていたが、今はいきなり、彼女がしゃべりだしたことに驚いていた。

「どうぞ」
 彼は部屋に招き入れた。彼女はゆっくり入ってきた。どうやら協力してくれるようだが、どうして気が変わったんだろうかと気になった。
「ここって、めずらしいですね。土足なんて。間違って靴を脱ぐ人いない?」
「いや、そんなに人が来ないから」
「私も間違ったけど」
彼女は少し笑った。気を遣っているような、ぎこちない笑顔だ。

 このあいだ、高橋がやってきて、塔夏は彼女が見つからないようにと、しばらくこの部屋に入れた。 彼女はそのときの様子を確認するかのように、ちらちらと部屋のあちこちに、視線を走らせた。ミニチュアハウスが置いてある、近くの椅子に座った。
 いつものデニムにパーカーを着ている。髪は束ねていて、トートバックは持っていないが、代わりにいくらか小さめのビニールの袋と、小さなバッグを、ぎゅっと握りしめて持っていた。
「これから仕事?」
塔夏はその持ち物を見て言った。
「そうです。あなたは」と言いかげたが、「もしかして、まだ寝てました?」と、塔夏の服装を上から下まで見た。シャツは羽織っているだけで、下はスエット、足は裸足のままだった。
「あ、まあ…。あきらめてたから」
そう言うと、彼女は少し笑った。

「何か…?」
「いえ、普通は寝てた?って聞かれたら、本当に寝てたとしても、いえいえとか、ちょうど起きてましたとか言いません?」
「たぶん、普通じゃないから」
「たぶん?」と、彼女はまた笑った。
「たぶん、かなり」
塔夏も少し笑った。お互いの間の空気が少しなごんだようだった。

「昨日、帰ったら、ちょうど歩美さんが庭にいたから、芝西さんがどういう知り合いか聞いたんです。そしたら、彼女はご主人から聞いたって言うことでした」
「ご主人て、何してる人?」
「ええと、大手の、そう、この間情報が漏れたとかでニュースに出てた、コンピュータの」
「コムテック?」
塔夏もニュースで、その企業は知っていた。自殺者まで出た企業だ。
「そう、それ。会社がだいぶあれで悪くなってるらしくて、歩美さん、英会話学校へ行ってたけど、飽きたから止めたって言ってたけど、多分、本当はそのせい」

 彼は興味を持った。ただの偶然だろうか。情報漏洩事件と爆破事件、コムテックに勤める男から紹介で、彼女が芝西に英語を習いに来た。偶然、彼は向いに住んでいる。 さらに偶然、爆破事件にも遭遇しかけている。2つの事件に間接的にでも関わる者が、こんな密度で遭遇するだろうかと、彼は非常に興味を抱いた。あきらめていた気持ちが嘘のように消えた。

「少しはお役に立てました?」
「ありがとう」
彼女は曖昧に微笑んだ。
「良かった。私も頼みやすくなって。実は、私も調べてほしいことがあるんです」
彼は納得した。彼女が協力的なのには、理由があったのだ。

「娘のことを、調べてほしいんです」と、彼女はバッグから写真を出して、ミニチュアハウスを置いてあるテーブルの横の、空いているところに置いた。明るい笑顔でVサインをする少女が写っている。
「結衣という、中学2年の娘です」
「なにを?」
「本当にちゃんと塾に行ってるのか、調べてほしいんです。もちろん実費は払いますから」
塔夏が本当に探偵だと思っているようだった。
「本人に聞けばいいのに」
彼女は首を振った。
「じゃあ塾に」
また彼女は首を振った。
「怖いんです。事実を知るのが。知れば、面と向って聞かないといけなくなる。時々、財布からお金がなくなってて、最初は思い違いかと思ってたけど、やっぱりなくなってて。でも、あの子はとてもいい子なんです。いつもニコニコして、怒ったり、ひどい口の聞き方とかしたこともない。だから、どうしても結びつかなくて」
「ご主人には?」
「まさか」
そう言うと、彼女は自嘲気味に少し笑った。
「おれが調べても、事実を知ることになる」
「ええ、そうですが…」
「ま、あんたが娘にどう対応しようが、おれには関係ない。塾に行ってるか確認するだけなら」
一度で済むだろう、そんなに難しい頼みでもないと思い、彼は引き受けることにした。彼女の家庭の事情に関わる気は、さらさらない。

「じゃあ、電話番号を。知らせるために」
「いえ、私はスマホ、持ってないんです。娘には持たせてますが」
「じゃあ、パソコンのメールとか」
「いえ、パソコンも夫は使ってますけど、私は。こちらから連絡します。すいませんが、番号教えてもらえますか?」

彼は無造作に、自分の携帯の番号を紙に書いた。渡そうとすると、
「あの、お名前…」と、彼女が言うので、自分の名前も書いた。
「と…とう」
「“トウガ”」
「塔夏光一さん」
彼女は書かれた名前を読んだ。
「あの、私は来栖英里です」
今になって、お互い初めて名前を知り合ったのも、おかしな話だ。

「ねえ」
塔夏は名前と電話番号を書いた紙を渡しながら、興味を持ってたずねた。
「なんでおれに頼もうと思った?」
 知り合った状況を考えると、もしかしたらあのテロに関係してるとか、心配しないんだろうかと思った。来栖英里は少しの間考えた。
「たぶん、あなたが先に私に頼んできたから。きっと」
塔夏は納得がいかなかった。人にはいろんな事情がある。仕事上、思いもしないようなことも見てきた。 だから塔夏は彼女の事情もそれなりに受け入れられるが、この状況は違う。この間、偶然会ったばかりの、しかもテロと関係してるかもしれない状況の男に、家庭内の、しかも子供の問題を調べてくれと、普通、言うだろうか?
 芝西のことで聞いて欲しいと頼んだとはいえ、それがすんなり疑わないことにはならないだろう。彼が彼女の立場なら、テロと結びつく芝西と自分の関係を知る者が他にいないか、探っているのかとも考えるだろう。 彼がたずねたことへの彼女の答えは、彼の分析からいくと違うはずだった。

「かわいいお家」
彼女は立ち上がりながら、ミニチュアハウスを見て言った。
「オタクっぽい?」
かりんに言われたことだ。
「ううん。こんな趣味がある人に見えなかったから」
「じゃあ、どう見えた?」
彼女は「え?」という顔で、彼を見た。塔夏は自分がまだ納得できないこの英里に、どう自分が映っているのか、興味がわいたのだ。
「いえ、やっぱり似合ってるのかも。あまり人と話すのが、お好きでなさそうだから」

「試験は受けることに決めた?」
 昨日、上司らしき男に勧められていた件を思い出して、わざと人と話すことが楽しそうな素振りをして見せた。
「聞いてたの?」
彼女はちょっと笑った。
「どうせ時給が、50円上がるくらいでしょ?保険がついて、ボーナスも良くなるとまずいの。扶養家族でないと、パート仕事なのに、余計税金払うことになるから、どうしても扶養控除限度額でおさめないと」
「なんだ、受けるのかと思った」

 英里は行きかけた足を止めた。
「昔のことだけど」と、振り返った。「自転車で、結衣を幼稚園に迎えに行ってたとき、青い首輪の犬がね、鎖につながれたままブロック塀を乗り越えて、宙ぶらりんでもがいてたのを見た。
当時はまだ開発中の地域で、その家の裏側はまだ畑だった。しかも家よりかなり下だったから、地面まで何メートルかあって。 青い首輪が、犬の首を吊った状態になって、だから犬はブロックをかきむしって上に必死に上がろうともがいてた。でもどうにもできなくて、大きく舌を出して、疲れて足を動かすのを止める。でも首が締まるから、また必死にかきむしる。もがいて、止まって、またもがく。それを見たのに、でも、私はそのまま通り過ぎた」

 塔夏はどう答えればいいのか、わからなかった。
「それで、犬はどうなったの?」
彼は自分でも、下手な質問だと思った。分析するには時間がいる。
「ごめんなさい。忘れて」
英里はしまったというような顔をして、玄関へさっさと向った。
 来栖英里は人にああいうことを言ったのは、初めてだろうと思った。
なぜなら、すべて夫への非難だった。直接の非難を一言も言わないところが、日頃、感情を押し隠している様を表している。

    『どうせ時給が、50円上がるくらいでしょ?保険がついて、
    ボーナスも良くなるとまずいの。扶養家族でないと、パート
    仕事なのに、余計税金払うことになるから、どうしても扶養
    控除限度額でおさめないと』

それもまた、彼女の考えでなく、夫の考えなのだろう。彼女は試験を受けたいが、だから受けられないのだ。

「よろしくお願いします」
 英里は彼と視線を合わせないままドアを閉めた。

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