第1話

文字数 3,603文字

 小さな犬の人形が、フロントミラーの側で吊られ、リズミカルに揺れている。笑っているような顔で愛嬌たっぷりだ。

 10歳の塔夏光一(とうがこういち)は、助手席でずり落ちそうに座り、足を宙でぶらぶらさせながら、その犬を見ていた。視線を隣にやると、ハンドルを握る男は、くわえ煙草で、まっすぐ前を見ている。日焼けした肌、節くれだった指、うっすら伸びた髭、髪の生え際には白いものが混じっている。

 のどかな昼下がりの一本道、まわりには畑が広がり、遠くには山が連なっている。すれ違う車もほとんどない、舗装がでこぼこした道を、がたがたと揺れながら走る。

 朱色のトタン屋根の店が、ぽつんとあるのが見えて来た。そこに男は車を寄せた。
 男がその店に入って行くのを、光一は車の中から見ていたが、すぐ、フロントミラーのところに吊ってあった犬の人形を手に取った。
「モッチ」
 彼はその人形に向って言った。
「今度はどこへ行くのかな?」
「きっといいところだよ」
光一は声色を変えて、モッチの役で答えた。
「せっかく、しょうたくんちで明日、ゲームさせてくれるって約束してたのにな」
モッチをぴょこぴょこと歩かせた。
「しょうがないよ。お父さんの仕事のつごうだもん。ぜったい今度いく学校でも、友だちとゲームできるよ」
「そうだよね」
「そうだそうだ」
彼はモッチをぴょこぴょこ左右に振った。

 男が袋を抱えて戻って来るのを見ると、彼はモッチを動かすのをやめ、両手で包み込んだ。男は袋をごそごそすると、光一にサンドイッチとジュースを渡した。ひとつはタマゴ、ひとつはトマトとしおれたレタスがはさんであった。
 彼はそれを黙って食べ始めた。 男はくわえ煙草のまま、車を出した。光一はその横顔をちらりと盗み見するが、無表情で前を向いたままだった。

 光一は6歳の頃から、この男と2人で暮らしている。男は光一の父親だ。これまで何度も仕事先を変えるため、転々と引っ越して、学校もその度に変わった。だから荷物も、車に積めるほどしか持っていない。
 窓の外はもう真っ暗で、あたりは静けさに包まれている。

 彼は母親のことはうっすらとしか覚えていない。病気をしたら、やさしく看病してくれた。額に当てられた、ふんわりした掌の感触を覚えている。昔、住んでいた家も、部分しか覚えていなかった。 「お母さん、どうしたんだろうね」 父親に聞いたことがあったが、「もういないんだよ」とだけ言って、何も教えてくれなかった。

「死んじゃったのかな」
「そんなことないよ。きっと元気にいるって」
 モッチを揺らせた。
「会いたいな」
モッチの頭を大きく動かした。
「会えるよ、ぜったいぜったい」
モッチが明るく笑って、自分をはげましてくれている気がした。

 翌朝、光一が目を覚ますと、車はいつの間にか街中にやって来ていた。
 目をこする。遠くに遊園地があるのだろうか、観覧車の上の部分が見えている。それを彼が興味深そうに目で追っているうちに、車はウインカーを出して、駐車場に入った。となりには公園がある。

 男は光一を連れて、公園のトイレに行った。そこで2人は歯を磨き、顔を洗った。男は伸びた髭をきれいに剃った。服も着替えて、身なりもさっぱりしている。めずらしくネクタイまで締めた。
「何か欲しいものはないか?」
男が聞いた。あまりお金がないことは、幼い彼でも何となくわかっていた。光一は首を横に振った。
「そうか」
2人は黙って車に戻った。車のキーをかけようとして、また男が言った。
「どこか、行きたいところはないか?」
光一はそろそろと、車の窓から見える観覧車の上の部分を指した。

 平日の遊園地は人出が少なかった。天気も良くない。だが、光一は夢中で遊んだ。男はいっしょに遊ばず、ただ見ていたが、彼が手を振ると、振り返してくれた。
 お昼もそこで食べ、ずっと遊園地にいた。彼が夢中になって乗ったアトラクションのことなどを話すと、父親は微笑んで聞いてくれる。こんなに楽しいのは初めてで、雨が降ってきても、彼は遊ぶことを止めなかった。

 遊び疲れた後、遊園地を出てまた車に乗ると、しばらく街中を走った。男はやがて郊外のひとつの建物の前で車を止めた。彼にも下りるように促すと、車のドアを開けた。大きな門、広い敷地、建物は小さな学校みたいな感じだったが、少し古びていた。

 男が荷物を持って、建物へ向う。光一もあとに続いたが、雨が大降りになったので、たまらなくなって、男を追い抜いて入口の屋根の下へ走り込んだ。
 中から子供たちの声が聞こえている。彼は興味深そうに中をのぞきこんだ。学校というより、普通の家のいくぶん大きい居間のような部屋が見える。 「こんにちは」と、声がしたので振り返ると、女性が微笑んで立っていた。男が用があるからと言って、その居間のような部屋へ入って行った後、その女性が光一の肩を抱いた。
「こっちにいらっしゃい。ここを案内してあげる」と2階へ向った。木造の階段がぎしぎしと音をたてた。廊下に沿って部屋が並んでいる。子供の泣き声がしたと思ったら、小さな女の子が泣いて走ってきて、その女性にすがりついた。
「こらユウキくん、いじめちゃだめでしょ」
女性は後から出て来た、光一と同じ年ぐらいの男の子を叱った。子供が何人かのぞいている。

 遠くに扉が閉まる音がした。光一が窓際に行くと、彼の父親が、車に向おうとしていた。彼が後を追って行こうとすると、女性が彼の手を取った。しゃがんで彼の目線に顔を合わせる。
「光一くん、ここにいる子はね、お父さんやお母さんがいない子もいるし、お家の事情で預けられている子もいるの。でもね、みんなここでは家族なの」
 光一は女性の手を振りほどくようにして、階段を駆け下りた。
「光一くん!」
 女性の声がしたが、そのまま扉を開け、門まで走った。雨が激しく降っている。門を抜けて道路を見たが、もう車は見えなかった。だが、彼は道路を走って行く。激しい雨で道路の先はぼやけていたが、彼は走り続けた。
 その道の先からライトが光った。車がこちらへ向って来る。彼は期待して立ち止まった。が、それは見覚えのある車ではなく、彼の横をそのまま通り過ぎて行った。
 彼は雨に打たれながら突っ立ったままだった。雨で見えない道路の先に向って、「お父さん!お父さん!お父さん!お父さん!」と、何度も叫んだが、激しい雨の音にかき消されるばかりだった。

   *          *

 ひとりの若い男がホテルの廊下をやって来た。首もとのくたびれたカーキのTシャツ、グレーのパーカーにデニムのパンツ、ナイキの汚れたスニーカーを履き、片方の肩にはリーボックのナイロンのオレンジのリュックをかけている。

 一見、大学生のようだ。その男はある部屋の前で止まった。扉には「356」とある。それを確かめるとノックした。

 扉を開けた男もまた若い男だった。茶色の長髪だ。
「“シフト”の紹介か?」
彼をじろじろと、うさんくさそうに見ながら聞いた。彼が頷くと、そのまま扉を開けて、入れという仕草をした。その間も長髪の男は、彼を疑わしげに見ていた。
 部屋の中にはあと2人、若い男がいて、折りたたみ式のキーボードのついた携帯パソコンに向っていたが、彼に注意を向けた。
 テーブルには食べられかけた食事。若い男2人の近くに鞄が転がっている。そのあたりには財布、身分証、手帳、領収証、ボールペン、書類、ガムの残りまで散らばっていた。

 2人の男も立ち上がった。
「おい、本当にこいつ?」
片方のメガネが眉を下げた。
「らしい」
「どこのオタ学生呼んできた?単位はちゃんととれてんの?」
メガネが笑って言った。
「前金を」
 彼はオレンジのリュックを下ろすと、パソコンを取り出した。ハードディスクだけの小さなボックス型で、それにはキーボードやディスプレイなどはついていない。
 長髪がメガネの男に合図した。メガネの男はパソコンで、ネットバンクにアクセスした。自分たちの口座を開ける。彼が送金先の口座番号を言うと、メガネが打ち込む。
 入金する額を打ち込もうとすると、横で見ていた耳にピアスをした男が、「おい、信用できるのか?」と、長髪らに声をひそめて聞いた。
「一応“シフト”だし」と、長髪。
「本当にこれに見合うだけのことを、してくれるんだろうな」
 ピアスの男が彼をにらんだ。彼が黙って頷くと、メガネが送金するボタンを押した。

 彼は確認すると、取り出したボックス型のパソコンを持ってベッドに近づいた。太った中年の男がワイシャツ姿で靴をはいたまま大の字になっている。意識はない。
「死んでる?」
「んなわけねーだろ」
彼の質問にメガネが切れた声をだした。3人とも疲れているようだ。
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