第24話

文字数 3,227文字

 翌日の夕方、塔夏は自転車を押す英里と並んで、このあいだと同じように、堤防沿いを歩いていた。今度は英里から連絡があったからだ。
「歩美さんの息子さんがね、うちの結衣が夜、ゲームセンターにいたのを見たって」
新屋敷歩美の息子は高校2年で、有名大学への進学率が高い塾へ通っている。歩美は結衣の成績のことや、どこの高校へ行くのか、関心を持っているという。

「うん」
「結衣、誰といた?」
「女友達2人と」
「ずっと?」
「うん」
 彼は結衣と話したことは言わなかった。英里は考え込んでいた。
「やっぱりあの子に聞くべきかな。でも、その日だけ行ってみたのかもしれないし」
「塾に問い合わせれば」
彼女は首を振った。
「あの子を信じたい。そんな子じゃない。もう少しだけ、見てくれない?」
「うん」
塔夏は頷いた。信じたいといいながら、彼には見張れと頼んでいる。客観的にはいろいろ矛盾しているが、彼女の中ではそうではないのだろう。母親とはそういうものかと思った。

だが、彼にはそれより気になることがある。
「新屋敷秀人のことだけど」
「役にたった?」
「うん。それで、彼の下で働いてて、たぶん2週間以上前にやめた派遣社員の女がいるんだが、その女のことで知ってることないか、できれば聞いてみてほしい」
「その女性がどうしたの?」

「英会話、芝西啓次を紹介したの、その女性みたいだ。しかも新屋敷秀人は横でそのことを耳にしただけで、紹介した相手はあの情報漏洩事件で自殺したという男だった」
「なにか関係あるの?」
「本当はその男を芝西啓次のところへ行かせるつもりで言ったのが、偶然聞いた新屋敷から紹介されたあんたが行った。関連性がないとは言えないだろう。なぜかわからないけど」
「その女性に聞いてみないとね」
「どこで何してるかを知れたら」
「そのあたり、聞けたら聞いてみる」

 日はすっかり暮れかけようとしていた。彼女は途中で止まった。
「これからまだ買い物があるの」
彼女は自転車に乗ろうとして、ふと思いついたように言った。
「あ、そうだ。よかったら協力してくれない?」

 堤防の途中から下りて細い道を抜け、大きめの通りに出ると、そこにスーパーがあった。英里はいつも仕事帰り、よくここで買い物して帰るという。慣れた手つきで買い物カゴを持つと、目的の醤油があるところまで、すぐに行った。塔夏も醤油を取った。彼女の頼みはこれだ。
「そのままレジに持って行けばいい?」
「カゴに入れて」と、英里は醤油をカゴに入れ、塔夏にも促した。

「でも」
確かに大きくおひとり様1つとある。
「いいの。レジのとこで2人でいれば、それで」
「そうなんだ」

「あなたはちっとも、料理とか作らないんだ」
「作るよ」
「うそ」
「パンにチーズはさむとか、スモークハムはさむとか」
「はさむだけじゃない」
英里はおかしそうに笑った。
「料理は料理だ」
塔夏は醤油をカゴに入れると、自分がそれを持った。
「他の買い物は?」
「あ、牛乳とかサラダ油とか」
「重いものばっかりだな」
「ごめんなさい」
「おれはいいけど」
「いつもこんなものよ。カートだと急いでると面倒で」
2人は牛乳が置いてあるコーナーへ行った。塔夏がよく買うメーカーのゴーダチーズがあった。
「このチーズ、うまいよ」
「そう?」
彼女はそのチーズを手に取り、値段を確かめた。
「ちょっと高いけど、じゃ、買ってみる」
「パンに、はさんでみて」
「チーズにくわしいんだ」
「いや、それしか食べたことない」
「なに、それ」
彼女はクスクス笑った。彼も笑いながら奇妙な感覚だった。いつの間にか、すごく親しい友人であるかのような会話をしている。自分がこういう感じで、人と話すことはなかった。 もちろん、親しい間柄のかりんとならラフに会話できるが、それも4年付き合ってきてのことである。そんな間柄でもない、知り合ってわずかの英里に、奇妙な親近感を持った自分自身に驚いていた。

 2人でレジに並んで、カゴの中の醤油がふたつ、レジで打たれるのを見て、彼らはにやりと目配せした。

「英里さんじゃない」
 彼らが買ったものを袋に入れていると、呼びかける女性がいた。
「歩美さん」
英里が驚いていた。 隣の家の新屋敷歩美だ。塔夏を意識して、興味深そうに見ながら軽く会釈した。彼も軽く頭を下げた。英里よりいくぶん年上に見える。
 カートのカゴにはまだ何も入っていない。店に来たばかりのようだった。髪をきれいにセットして、薄いピンクのブラウスに花柄のスカート、ストッキングの足にヒールのある靴、手には指輪が2つ、赤いマニキュアもしていて、おしゃれには気をつかっているようだ。
「今の時間に買い物なんてめずらしい」と、英里は少しあわてた様子だ。
「主婦だって、昼間忙しいときもあるわよ。それともお邪魔だった?」
歩美は意味深に笑った。
「まさか」
英里は手を左右に振った。塔夏は、自分と話しているときの彼女とは少し違う気がした。

「それに今日は、パパが買って来てくれないから」
「ご主人、お忙しい?」
「そうなのよ。人員が足りなくて」
塔夏は袋に買ったものを入れながら、話を聞いていた。
「私、どうしても英語習いたくて、またご主人にいいところ、教えて欲しいんだけど、そんな暇、ないですかねえ」
「英語?ああ、あれ、主人がたまたま聞いた話よ」
「会社の人に?」
「ええ、派遣の人。そうよ、その人に辞められて困ってるの。仕事はできる人だったらしいから。でも性格がね」
歩美は声をひそめた。
「仕事を途中で放り出して、いきなり辞めたんだって。非常識にもほどがあるわ。派遣会社との契約もやめて、ハローワーク通いだって聞いたけど、そんなんじゃ、どこ行ってもだめよね」
英里は黙ってうなずいている。

「ずいぶんとやさしい方ねえ」
 歩美はにやにやと、袋に入れ終えたところの塔夏を見ながら言った。
「ちょっと知り合いで、帰りにいっしょになったの。じゃあ、急ぐから」
英里は曖昧に答えた。
 外に出ると、すっかり暗くなっていた。遠くの山際だけが、まだ薄い色で、山の形をくっきり見せている。
「どうもありがとう」
塔夏から袋を受け取りながら、英里が言った。

「いや、こっちこそ」
「あれで役に立った?」
「聞き方が上手い」
「歩美さんが勝手にしゃべってくれたのよ」
「ハローワークに行ってみる」

「歩美さん、誤解したかもしれない」
「え?」
「さっきのこと。心配だな。すぐご主人に言うから」
「だろうね」

 これまで英里から聞いた話や、さきほどの様子は、確かにそう思えた。歩美は夫が会社で給料ほどの仕事をしていないことなど、まったく知らないだろう。たとえ現実そのままを見ても、そうは思わないだろう。部下がちゃんと動かない、ぐらいにしか思わないはずだ。
 迷いのないしゃべりかた。明るい好奇心を隠せないまなざし。細部まで気にした見かけ。おそらく新屋敷歩美は自分ほど常識的な人間はいないと思ってる側の人間だ。そして家族もまた同じように、世間に迷惑をかけることなく、いたって常識的だと。
 塔夏に言わせれば、常識など幻想に過ぎない。誰でも自分が現実以上に良い人間だと思いたがる。そしてたいていの人はそう思いたいが、実際はそうでもないことも知っている。
 だが、歩美たちの一家は、そうではない人たちなのだろう。ある意味、迷いのない生きやすい人たちだ。

「もう行かなくちゃ」
 英里は自転車の鍵をはずした。荷物をひとつは買い物カゴに入れ、もうひとつはハンドルにかけた。2つの醤油が重そうだ。
「じゃあ」
「じゃ、また」
「ありがとう」
英里は自転車のペダルを力強く踏んで、乗って行った。それを塔夏はしばらく見送った。

 携帯が鳴った。かりんからのメールだった。“今日そっち行くね”とあった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み