第25話

文字数 3,816文字

 皿には黄身が崩れた目玉焼きと、ベーコンが乗っている。かりんが持ってきた食料だった。それをテーブルに置くと、塔夏自身は普段どおり、フランスパンに今日はゴーダチーズをはさんで食べ、牛乳を飲んだ。
 かりんはまだ寝ているが、彼はすぐ出かけた。


 職探しの人々の朝は早い。ハローワークは大勢の人で混雑していた。だが、しゃべっているのは、そこの職員と面談中の人たちだけで、ずいぶん静かだった。みんな黙々と探している。 募集リストはパソコンで検索できるようになっているが、書類でも見ることができる。業種で分類されていて、それを手に取って見ている人も多かった。彼は入口に近い書類棚で探すふりして、やって来る人をチェックしていた。

 1時間ぐらい経っただろうか、新屋敷秀人のビジョンで見た、覚えのある顔の女が現れた。女は入って来るとすぐにパソコンの前に座った。何度かもう通ってるのか、慣れている様子だ。 やはりスーツを着ていて、かかとの高いピンヒールをはいている。まっすぐの長い髪で、前髪は短く少しカールさせていて、サイドの髪を後ろにまとめて大きな髪留めでとめている。鞄は書類の入る大きめのビジネスバッグだし、仕事がよくできそうなしっかりした雰囲気だった。
 彼女のとなりのパソコンの前に、座っていた人が席をたった。彼はすぐにそこに座った。女はそんなことを気にすることもなく、一心に画面を見つめている。
 彼が視線を落とすと、女はヒールを脱ぎ、足をごそごそさせている。ストッキングから透けて、足の指に貼った絆創膏が見えていた。

「これ、どうやって見るんですか?」
 塔夏はわからないふりをして、女に聞いた。女は少し面倒そうな感じだったが、操作の仕方を教えた。
「メモを取りたいから、コネクター使っていいのかな?」
「プリントアウトできます」
「いや、それほどじゃないから」
「特に月曜日の朝は、区切りがいいせいか、企業からの新しい募集のリストが増えるから、来た方がいいですよ」
彼女はそう言いながら、自分もコネクターに、こうするのとつないでみせた。彼はすぐ自分も接続した。女はそれを確認すると、そのまま画面に向かった。
 彼は一応メモ用紙を取り出して書き留めようとするかのような態勢で、女の脳のハッキングを試みようと意識を集中していった。

任海(にうみ)翔子さんですか?」
 そのとき、背後から女を呼ぶ声に、彼も振り向いた。秋本と江田が立っていた。彼は驚いたが、彼らも驚いた。

「あんた、ここでなにしてるんだ」
江田が言った。任海翔子と呼ばれたその女はコネクターをはずしながら、塔夏と秋本たちを交互に見た。

「何でしょうか?」
「警察のものですが」
秋本が手帳を見せた。

「もう話しました」
任海翔子はまた画面を見た。
「もう少し、お聞きしたいことができまして」
「何ですか?」

彼らは少し躊躇した。
「別のところで、お話できませんか」
「ここでいいですよ。どうぞ」
非常に事務的な口調で、協力的なようで、実はあきらかに嫌そうなのはわかった。
「ネット検閲チェックリストのことなんですが、1枚、亡くなった伊勢山さんのサインは修正された上に書かれてあったんです」
翔子ははじめて刑事たちの方を向いた。
「その修正液の下に書かれていたサインは“任海”でした」
「そういえば、私がうっかりサインしてしまったのも、あったように思います」
「どういう意味ですか?」
江田が聞いた。

「私たち派遣やアルバイトが、ネット監視、チェックして、作業していたんですけど、最終的報告書にサインするのは伊勢山さんでしたから」
「でも、任海さんや他の人のサインもありましたよ」
「それは伊勢山さんがこれにサインしろって、指示してましたから」
「おかしくないですか?報告書に記入した人がサインしないと」
「だから、知りませんよ。派遣になんて何の権限もないんです。社員の手足にすぎません。伊勢山さんがすべて指示されていましたから。社員の方に聞いてください」

 任海翔子は立ち上がった。
「もういいでしょうか?」
「どうもすいません」
江田は頭をかいた。
「またお聞きすることがあるかもしれないんで、そのときはよろしくお願いします」
秋本はスタスタ足早に出て行く、彼女に声をかけた。

「おい、あんたは関わるな」
江田が後を追って出る塔夏に言ったが、彼はそのまま任海翔子を追った。

 彼女はどんどん歩道を走るように歩いて行く。
「ちょっと待って」
「ついて来ないでください」
彼女は走り出した。彼も走った。角を曲がり、細い道に隠れるように走り込む。
「なんでついて来るの!」
「伊勢山譲は自殺じゃない。殺されたんだ」
任海翔子は驚いたように、彼を見た。
「誰なんです?あなたも警察?」
「いや、でも似たようなところに関わってる」
「どうして、殺されたって思うんですか?警察でも自殺だと」
「おれも同じように殺されかけたから」
「どうやって?誰かが突き落としでもしました?」
翔子は強く反応した。

「おそらく電波を通して、何かにコントロールされたんだ」
「コントロール」
「何か思い当たることがある?」
彼女は無言だ。
「伊勢山譲は普段は株三昧して、あんたたちの成果を自分のものにしたんだ」

 さっきの秋本たちが言っていたことで、彼にもその状況がわかった。
「疑われないように、少しはあんたたちのサインもまぜたが、上にはきっと“これだからバイトは”とか言って、出来が悪いことを強調しただろう。上司も株に熱心で、伊勢山からいい情報もらっていたから、彼には甘かった。あんたは向上心があるし、仕事もできる。くやしかったはずだ」
彼女は大きく息をはいた。
「伊勢山は人には仕事おしつけといて、自分は適当にやってた。社員と同じ仕事してるのに、おいしいところだけもっていかれて、でも文句言えない。ほとんど自分がしたみたいに、私がやったことも自分のサインを勝手にして。 おかげで私は、あいつの上司に仕事の成果をもっと上げないと、もう契約止めると言われた。私は頑張ったのに、これ以上どうしろというの。もうできないと思った」
「なぜ伊勢山に、芝西啓次のことを教えたの?」
彼女は首を振った。
「何か理由があったはずだ」
「知らない」
「芝西は電車爆破事件の犯人とされている」
「知らない!そんなの私のせいじゃない!ただ、伊勢山に対して言えと言われたのよ」
任海翔子は顔を両手で覆った。

「誰から?」
塔夏はどきりとした。核心にたどりついたと思ったからだ。
「知らない。私は何も知らない。ネットで知り合っただけで、顔も名前も知らないのよ。ちょっと、ほんのちょっと、伊勢山を困らせてやってって、顧客情報を少しメールで送って頼んだだけ。お金だって少しだったし、まさか、殺すなんて、殺してなんて頼んでない」

 彼は同業者のハッカーが関わっていると実感した。事件では情報流出がどこからか不明だった。おそらく情報の書類をコピーするとか、データをディスクに入れて持ち出したのだろうとされていた。彼女がメールで送ったとしたら、その足跡を消したということだ。

「最悪よね。ほんと、最悪。なんでこうなっちゃったんだろう。ずっと真面目にやってきて、報われなくて、自分の成果を横取りした男にちょっとだけいじわるしようと思ったら、殺されちゃうんだもの。それが私のせい?」
彼女は自虐的に笑った。
「なんにもいいことがない。仕事探しても、もう29だから、条件はますます悪くなってる。あちこち面接に行っても、会社を以前やめて社員としてブランクがあるから、すぐやめると思われたりしてるんだと思う。 “今回は見送らせていただきます”ってお決まりの言葉で断られた。もしかしたら私には、自分でできるって思ってるだけで、本当は能力がないんだろうかって思えてくるし」

 塔夏が口を開いた。
「あんたの格好は隙がない。しわのないスーツ、乱れない髪。あんたが求める会社は、そういうのが似合うイメージなんだろうけど、実際に面接に行く会社はそこまで堅苦しさは求めないんだろう。 人の付き合いと同じで、どこか緩さがある方が安心する。ハイヒールの中の指の絆創膏は、誰にも見えないから」

 彼は自分でも意外だった。前の彼ならそんな、ある意味なぐさめるような分析はしなかったからだ。いや、もはや分析からは外れていた。なぜなら彼はいま、ハッキングもしていない彼女の仕事上の能力を知っているわけではないのだ。

 彼女は顔を上げた。目が潤んでいる。
「学校出て、最初普通に企業に勤めたけど暇がなかった。これから先もこうやって、ずっとやっていくのかと思ったら嫌になって、会社を止めて1年外国へ行ったの。行きたかったから。 帰ってきたら、就職先がなかったけど、でも今でも、行かなかったことを後悔するより、行って良かったと思ってる」
任海翔子は自分を納得させるかのように頷いた。

 塔夏は英里のことを思った。

『行きたかったけど。 でも、どっちみち、もう行けない』

もし彼が想像したとおりなら、彼女は今日も、あまり目につかない場所に置いてある、行きたい所を思わせるものを眺めているのだろうか。妙に気になった。
「言っとくよ。知り合いに、行きたいところに行けないままの人がいるから」

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