第9話

文字数 2,304文字

 大きな男が背中を向け、歩いて行く。開けた扉からのまぶしい光で、その男の姿ははっきりとは見えない。男はどんどん遠ざかっていく。

「待って」
 彼は叫ぼうとして、目がさめた。

「じゃね、光一、また電話する」
奈川かりんが出かけるところだった。扉を閉めても、「あー、早番だからサイアク」とつぶやくのが聞こえた。そして彼女の、力強いミュールのヒールの音が遠ざかって行くと、また静かになった。

 小さくテレビの音がしている。 彼はしばらく、ベッドの中でぼんやりしていた。また同じ夢を見た。度々あの夢を見る。夢の大きな男は父親だ。そして自分が、父親にこだわっていることもわかっていた。
 ベッド脇に置いてあった煙草に火をつけると、リビングに行き、椅子に片足を上げ、だらしなくもたれた。
 テレビはつけっぱなしだ。大手企業の情報漏洩事件についての、ニュースをやっていた。 5日ほど前、コンピュータシステム会社で、顧客データを意図的に流す事件が発覚し、その容疑者の社員が逮捕される前に自殺して、大きなニュースになった。
 次に画面には茅時優生という、若手議員が映っていた。彼は父親が自由共生党幹事長だった2世議員で、独身でルックスも良く、人気抜群で、まだ35歳ながら、最年少次期総理候補と言われていた。 茅時は議会で、社会から不安を取り除くために、もっと法整備を進め、管理を強化していく必要があると、訴えていた。

 塔夏はさほど関心なく、目の前のミニチュアハウスに目をやった。昨日のままだ。 居間のテーブルの足の装飾を彫りかけたままで、彫刻刀が側にあり、木屑も散らかっていた。そのやりかけの装飾を眺め回していたが、やがてそれを放り投げた。
 床に転がったが、そのままにして、キッチンに行くと、冷蔵庫から牛乳パックを取り出してコップに注いだ。
 キッチンとリビングを隔てる台の上には、ひからびたように固まった目玉焼きとベーコンの皿がある。かりんが作って帰ったのだ。彼女は来るときには食材を買って持ってきては、彼の冷蔵庫に残りも置いていく。
 今朝も作って自分も食べたのだろう。流しには食べ終えた皿を置きっぱなし、フライパンも洗わずそのままだ。塔夏は気にする様子もなく、牛乳の入ったコップも、目玉焼きの皿の横にどかっと置いた。

 テレビでは続いて今日も、電車爆発事件を取り上げ、検証し始めた。

 彼は昨日の脳みそをハッキングしたとき見えた、ビジョンを思い出した。 扉を開けたときの泥のついた靴跡、感じた部屋の空間、そしてあの窓枠、自分の記憶が勝手にイメージを作ったのでないとしたら、思い当たる部屋がある。
 もしかしたらあのビジョンで見た部屋は、このアパートの部屋ではないのかと。

 彼は思い立ったように部屋を出ると、螺旋状の階段を1階へ駆け下りた。そして、入口からすぐにある郵便受けを見た。5階建てのこの建物の住人分の20ほどの箱が並んでいる。少し距離を置いて全体を眺めると、新聞が溜まったままの郵便受けがあった。
 「芝西」とある。昨日、女性がたずねてきていた、塔夏の向いの大学生の男の部屋だった。 手をのばしたとき、「おはようございます」と声がした。思わず手を止めると、横に見覚えのある高齢の女がやってきて、別の郵便受けから新聞を取った。塔夏の方を探るように見る。
「どうも」
塔夏が軽く頭を下げると、女はまたのそりのそりと去って行った。

 彼はそれを確かめると、郵便受けから新聞を引き抜いた。おとといの夕刊から、昨日の朝刊、夕刊、そして今日の朝刊もある。この芝西が容疑者だと考えられそうだった。
 塔夏はまた階段を駆け上がった。芝西の部屋の前に立つと、少しためらった後、ノックをした。反応はない。ドアノブをまわしてみたが、もちろん鍵はしまったままだ。

 どうしてもあの脳みそから感じたビジョンを確認したかった。
 彼はいったん自分の部屋に戻ると、リビングの大きな窓を開け、ベランダに出た。そこからぐるりと角を回ると、自分の部屋の縦長の上下に開く窓のところに来た。 その向こうには、芝西という男の部屋とのしきりがある。それは胸ほどの高さだったので、彼はそこを乗り越えた。ビジョンでは、上下に開く窓の鍵はかかってなかったはずだった。

 窓を上に持ち上げると、簡単に開いた。そこにはベッドがある。服や雑誌がそのまま放られており、壁にはずらりとポスターや写真が貼られている。音楽好きらしく、オーディオ機器も高そうなものが置かれている。 そのとなりには持ち運びできる、小さなテレビ。そしてパソコンがあり、ケーブルがつけられたままになっている。

 ベッドのあるこの部屋は、芝西という男のいわばメインの、いちばん使っていた部屋だろう。壁際にある台は下にキャスターがついていて、実際、その台の上にはパンくずのようなものが残っていた。
 そのままリビングに向う。台所とつながった広い空間、そこから玄関まで行った。鍵を確かめるが閉まったままだ。玄関入口の床を見た。よく見ると、汚れた靴跡があった。ビジョンで見たとおり、少し右に傾いている。また、リビングに戻った。

「やっぱりここだった」
 塔夏は壁の一点を見つめた。ビジョンでシミのように見えたものは、陽が差し込みあたる場所の色あせた壁のなか、元の色を濃く残した跡だった。四角い形になっているのを見ると、ここにはおそらくポスターがはってあったのだろう。彼はビジョンで見た部屋が、ここであることを確信した。

 そのとき、ノックの音がした。玄関に行ってみると、「芝西さん」と、聞き覚えのある声がした。




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