第3話

文字数 3,642文字

 暗闇の中、ときおりパルスが走るように光る。やがて中央がぼんやりと薄明るくなった。
手が見える。守熊の太った手がサンドイッチを掴んだ。シーチキンの固まりが、無造作に食パンにはさまれている。
守熊は強く持ちすぎて少しはみ出したシーチキンを、パンの中に指先で押し戻した。そして大きな口をあけてかぶりついたとき、そのシーチキンの油が一滴、真新しい白いワイシャツの胸元に、ゆっくりとスローモーションで落ちた。男の座る前にはテーブルがあるだろう。丸い濃い茶色の木製テーブルだ。

 彼は男の意識を探り、それに自分でイメージを広げて行く。断片的に掴める男の意識を、その男の情報からくみとり、解釈したイメージで補い、つないでいくのだ。

 テーブルには牛乳パックと牛乳の入ったコップ。開けて空になったシーチキンの缶詰、それにフォークが乗っている。シーチキンにまとわりついていたオイルが数滴、食パンに運ぶまでに、テーブルにこぼれ落ちている。
 守熊は高級フレンチを食べる男だが、朝は外食している時間がない。忙しいが、だからといって、パックのままの牛乳を、そのまま飲むような男でもない。最低限の朝食としての構えはする。
 男はサンドイッチにかぶりついている。味わうというより、大きな身体を維持するための『供給』という感じだ。
 その手にはめられた指輪は、おそらくイミテーションだろう。あまりに大きく目立ち、不用心すぎる。パスワードコードをこまめに毎日変える用心深いこの男は、本物は隠している。が、派手な大きいデザインだ、顕示欲は強いから、持っていることは言いたい。ステイタスをアピールしたいはずである。

 男はひとりで暮らしている。誰かといっしょなら、生活のあらゆる場面で必要な相手を、すべて携帯にいれておく必要もないし、クリーニングを届けさせるサービスの契約もなくてもいい。用心深い男が、自宅の場所をあからさまに教えることになるからだ。
 そして、シャツに油がついていても、指に油分が残っていてもそのままだ。気がつかなかったのかもしれないが、気付いていても、手帳のスケジュールからみて、忙しすぎるのは確かだ。

 金持ちだからハウスキーパーを雇うのは簡単だが、この男は他人を入れたくないから、家の中のことは少々おろそかになっている。
 靴もいくぶんすり減ったままでも履いている。修理に出す暇があれば、新しい靴を買うだろう。
 玄関には靴がたくさんある。出ている靴は一足で、他は靴箱にしまわれている。靴箱を開ける。ずらりと並んだ靴。左の靴底を見て行くと、どれもわずかずつ外側がすり減っているから、確かに男のものだ。
 その中に、ひとつだけ修理したものがあった。この男が修理して履くのか?その靴を取り出す。修理した部分は接続面がはっきりしている。ひっぱると、簡単にはずれた。はめ込み式になっていて、そこには何かの小さな鍵が入れてあった。金庫の鍵だろうか。パスワードにつながるのかもしれない。どこにあるのだろう。より意識を探り、あたりを見回していく。

 次々と闇から新たに、ぼんやりと明るく見えてくる。それはやがて現実と違和感ないほどはっきりと、まるでそこにいるかのように立体感をもって見え始めた。

 玄関からリビングに戻る。左手にはキッチン、右手には丸い木のテーブル、そこに男が座り、サンドイッチにかぶりついている。
 壁の時計は8時を指している。が、文字盤は左右が反対に位置し、8の文字が4の位置にある奇妙なものだ。よく見ると、リビングの横に見える窓も1枚窓で、普通なら枠もあるはずだが、なんの仕切りもない。キッチンの電子レンジはまわりっぱなしだ。壁に目につく穴がある。何かをかけるために、ネジまわしのフックを入れ込んでいた跡だ。見ていると、その穴がどんどん広がる。

 それらは、男の意識のイメージが見せているものだから、現実と違い、強調されたり曖昧になったりしてそう見える。彼はそういう所に意識をもっていくのだ。

天井?

男の意識から、今度は天井が見えた。そこにはクモがいて、コソコソと動いている。違う、天井は関係ないと思った。

キッチン、冷蔵庫、キャビネット、ソファ、本棚、鏡…。

キッチン?

閉め切ってなかったのか、蛇口から水がぽとぽと落ちている。電子レンジはまわり続けているが、おそらくいつも男がガスを使わず、レンジで暖めることしかキッチンを使わないからだろう。
鏡はやけに大きい姿見だ。自分の見え方を気にしている。いかにも立派で、温厚そうな、好感あふれる人物に見えるように意識する。それは男がそうではないからだ。本当は誰も家に入れたくないほど警戒心が強い、人を信用できない、寛容さからはほど遠い、心の狭い人間であることを、誰よりも本人がよく知っている。

待てよ?

 鏡に映る背後、本棚に意識がいく。何かあるのか、鏡での目線が向く本棚の2段目、右から4つめあたりだ。振り向いて本棚に近づく。鏡と逆、左から4つ目あたりになる。そこの本を取り除いてみると、箱が隠されていた。 小さな鍵穴がある。靴底から見つけた鍵で開けてみると、たくさんの宝石があった。男が指にはめているのと同じ指輪もある。だが、宝石以外は何もない。

 パスワードはどこにあるのだろう。男は毎朝、パスワードを変えているとしたら?

 サンドイッチを食べ終わったあと、テーブルにはボールペンと新聞、チラシ、英和辞書、手帳、ティッシュ、書類、いろいろなものが次々と現れては消える。
 時計を見る。急いでいるのに、チャイムが鳴る。クリーニングが来た。昨日届いているはずのものだ。今日着ていこうと思っていたから、昨日、クレームをつけていた。腹がたっている。

急いで何かを破ると、丸めてゴミ箱に放った。

そうだ、ゴミ箱だ。その中には丸められた紙がたくさんある。

今日捨てた紙はいったいどれだ?

次々広げてみる。彼が広げていくのではない。時系列は関係なく、次々と男がそれを捨てる直前の、開いた状態がコマ送りのように見えてくるのだ。どれも辞書から破りとられた1枚だった。

あるひとつに意識が止まった。小さく油のシミがついていた。

 これだ。

ハッカーでもわかるはずのない、無作為に選ばれたパスワードだった。男はそのページのある文字を、ボールペンで丸く囲む。

 『iron』。

それを彼が見た途端、すべての景色が一気に遠のき、やがて闇に沈んだ。
 

『iron』とメガネの男が打ち込んだ。一気に情報が溢れた。

「でた」

 のぞきこんだ長髪とピアスも、顔を見合わせて驚いた。まさしく情報の宝庫である。
 守熊は表向きはネットビジネスでマージンをとる商売だが、裏では情報を売って、その何倍も儲けていた。情報とはさまざまで、顧客情報、様々な技術情報、いろいろある。

 彼ら3人は守熊にハッキング情報を売ったが、犯罪まがいで得る情報だ、あまりにも安く買いたたかれた。
 彼らは有名な大手企業に、ハッキング仕掛けることで情報を手に入れるが、それよりも侵入に成功し、企業や世間があわてることが自尊心をくすぐられた。だから情報を売るのは単なる小遣いかせぎの感覚ではあったが、その報酬が彼らの価値のようで、プライドが傷つけられた。
 3人は仕返しに金を奪おうと計画した。ハッキングに自信があったからだ。守熊も金を盗られても訴えることはできない。
 しかし、セキュリティを破れない。どうしても最後の、パスワードだけが不明だった。
 だから、守熊の行動を調べ、ホテルで食事に睡眠薬を混ぜて眠らせ、その間に彼の持ち物からパスワードを探ろうとしたのだ。だが、結局わからなかった。このままでは、守熊に仕返しができない。

 彼らは自分たちのプライドよりも、仕返しを優先した。急いでハッカー業界では仲介として有名な、“シフト”に依頼したのだ。至急、パスワード破れる高度なハッカー求むと、思い切って高額を提示した。

 その依頼を受けて、彼がやってきたのだ。そして今、裏の情報と、裏の隠し口座をすべて手にいれようとしている。これがあれば、彼に支払った高額の報酬さえも、まったく痛くもない。

「どうやって調べたんだ?おれらがさんざんやっても、わからなかったのに」
 ピアスがパソコンに向い、作業しながらつぶやいた。
「まさか、あんたが、噂のブレインハッカー?」
長髪が彼にたずねた。メガネとピアスが驚いたまま振り向く。
「残りをもらおうか」
彼はもう、ボックス型パソコンを無造作にリュックに放り込んでいる。 ピアスがあわてて、彼の指示する口座に送金した。
 彼はそれを確認すると、彼らには全く関心を払わず、さっさと出て行った。

 そう、彼がちまたで、ハッカーを超えた超能力者、“ブレインハッカー”と呼ばれている、その本人だった。誰も彼の素性を知らない。

 ブレインハッカー、彼の名前は、塔夏光一。

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