第36話

文字数 1,633文字

彼女の様子が変だった。
「結衣が、今日も普通に出かけたんだけど、電話がかかってきて、あなたに探してもらってって言うの」
「え?」事態が飲み込めない。「どういうこと?」
英里も首を振った。
「何を言ってるのか聞いたけど、何も言わない。塔夏光一に探してもらってっていうだけ」
彼ははっとした。
「彼女におれの名前言った?」
絵里は首を振る。結衣は自分の名前は知らないはずだ。嫌な予感がする。
「他には?」
「なにも、私どうしたらいいか。どうして」と言って、英里は思いだしたようにつぶやいた。「あの子、意味のわからないこと言ってた。見てるかって」
「“見てるか”?」彼もつぶやく。

 塔夏は芝西啓次の死にかけた脳みそを見たときのビジョンを思い出した。公園のベンチ裏にひっかくように彫られた、いろいろな落書きの中のひとつ、“見てるか?”の文字だ。

 背筋が寒くなった。事態がわかったからだ。あれは単なる落書きかと思っていた。だが、そうではなかった。彼に、塔夏に“見せる“ためにつけられたものだったのだ。塔夏光一の能力を知ったうえでのことだ。

 結衣は連れ去られた。

相手は岩戸を利用し、芝西啓次や伊勢山譲を死に追いやったやつだ。そして塔夏のことを知っている。

「どういうこと?結衣は、結衣は大丈夫?」
英里は今にも泣きそうになった。

「おれが探す。あんたは警察に行って、秋本という刑事に会うんだ。おれから言われたと、これまでのことを話すんだ。いいね」
「どうして…」

「その刑事さんが、ちゃんと探してくれるから、いいね」
塔夏はしっかり英里の目を見てそう言った。彼女はあきらかに狼狽している。英里は何度もうなずくと、そのまま急いで帰った。

 塔夏は急いで部屋に戻ると、台の上の腕時計をとる。

「どこへ行くの?」
振り向くと、かりんが立っていた。
「ちょっと出かけてくる」

「どうして?」
「問題が起きたんだ。きみには関係ない」
彼は急いで腕時計をはめる。

「あの人のために?」
「そうじゃない、おれのせいだから」

「どうして?」
彼は引き出しをあけて、財布を探している。
「行かないでよ」
かりんが小さな声でそう言ったが、塔夏は気がつかなかった。彼は財布を見つけると、腰のポケットにねじこむ。そして自分のハッキング用道具が入った鞄をとると、急いで玄関に向かった。

「私、待ってるの、嫌だから」
彼が靴をはいたとき、かりんが玄関まで追って来て言った。


「私のお母さん、お父さんが死んでから仕事に追われて、そのうち男つくって、家に帰ってこなかったりしたの。私はずっと帰るの待ってた。だから待つのは嫌なの。私だけがいちばんじゃないと、嫌なの」

「悪い。今は早く行かないと…」
彼には聞いている余裕がなかった。

「あの人のこと好きなんでしょ?」
塔夏は一瞬言葉につまったが、「だから今、そんなこと言ってる時間がないんだ」と、行こうとした。
「ねえ。“バカ、そんなことあるわけないよ”って言わないの?」
「帰ったら話そう」

 塔夏が急いでドアを開けたとき、かりんが「バイバイ」と言った。塔夏は思わず振り向いた。

「このあいだ見たときから、そうなんじゃないかって思ってた。だから、バイバイ。光一が帰って来たら、もう私、いないからね」

塔夏はかりんに言う言葉を探したが、かりんはそのままドアを閉めた。彼は何も言えなかった。何を言っても言い訳になりそうだったからだ。かりんは彼の気持ちに気付いていたのだ。ドアの向こうで泣いているだろう。彼女が泣き虫なのは知っている。

 塔夏はこのまま行ってしまうのをためらった。ドアを開け、かりんを抱きしめて謝れば、なぐさめればと一瞬思うが、それでその後は?彼女をもっと傷つけてしまう。
 今の彼は結衣を探さなくてはという思いが、英里のためにもという思いが、どうしようもなく溢れてくる。
「ごめん」
罪悪感をしょったまま、ドアから背を向け、一気に階段を下りていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み