第33話
文字数 1,564文字
彼らが自分たちの街に戻ってきたときは、もう夕方になっていた。空港からの英里の車の中でも彼らは何も言わなかった。
「よく夢を見たよ。父親がどんどん去って行く夢。おれは待ってと追いかけようとするけど、足が動かないんだ」
市内の渋滞で車が進まないとき、彼は口を開いた。
「きっともう、そんな夢は見ないと思う」
「そう」
彼女は前を向いたまま微笑んだだけで、何も言わなかったが、彼はそんな彼女が嬉しかった。
のろのろと少しずつ進む車が大きな橋にかかったとき、英里が窓の外を向いた。
「こんなにきれいだったっけ」
夕日が空を赤く染め、川面もきらきら赤く光っている。
「眺めたこともなかったな」
「私が行きたいところ、どこだと思う?」
ふいに英里が言った。
「コスタ・デル・ソルって知ってる?」
「コスタ…?」
「意味は“太陽の海岸”。名前のとおり、太陽が降り注ぐ、とてもきれいなところ。スペインにある。名前が素敵だなって、それだけで憧れた」
「“あまり目につかない、例えば引き出しに行きたい場所のものを置いているはずだ。それを時々黙って眺めている”って、あなたが私のこと言ったとき、どきっとした。だって、私は自分の机の引き出しに絵葉書を入れてる。すごいね、透視能力があるみたい」
塔夏は苦笑した。
「行って、何したいの?」
「さあねえ」
英里は動かない車で、ずっと川の方を眺めたままだ。
「このあいだね、止めてた私の自転車が邪魔だったんだろうけど、子供を連れた若いお母さんが、“なんでこんなとこ止めてるの”って、独り言のように、でも聞こえるように言って、通り過ぎた。でも、もしあれが私でなかったら、怖そうな男の人ならきっと言わない。私にさえ、面と向かって言わなかったもの。私のこと見もしなかった。スーパーの同じパートの人で“いいわよ”ってにっこりしながら、さりげなく嫌味言ったり、噂を広めたりする人も、面と向かって思ってることを言ったりしない。私も結衣に何も聞けなかった。主人に自分の気持ちを何も言わなかった。しっぺ返しが怖いから。弱いから、傷つきたくないから自分を守ろうとして、窮屈そうにギスギスしてる。我慢して、思ってることを隠してれば、安全だから」
「でも」
英里は確認するかのように、言葉を止め、一呼吸おいた。
「つまらない。自分じゃない人でいなくちゃいけないなんて。人生は一度きりなのにね」
「自分は自分だよ」と、彼は言った。
「あなたはね、そういう人。どこに行っても塔夏光一でいられる人。でも、私は違う」
ようやく車が動き出した。
市内に入ってからずいぶん時間がかかったが、英里の車は彼のアパート近くに到着した。
「ほら、鎖につながれたままブロック塀を乗り越えて、宙ぶらりんでもがいてた青い首輪の犬のこと話したよね」 と、彼女が降り際の彼に唐突に言った。
「なんで助けてあげなかったんだろうって、今でもずっと忘れられない。世の中じゃひどいことはいっぱいあるけど、私にはあの犬だけが、実際目に見えた残酷なことだったの」
そう言って、まだ腫れが残った左頬を押さえた」
「こんなこと話したの初めて」
英里は明るく言った。
「おれも」
「あなたがこんなに、おしゃべりだなんて思わなかった」
「おれも」
2人は笑い合った。
「あなたは探偵さんの“仕事”終わったし、私も結衣のこと調べてもらった。これで、お互い終了ね」
「うん」
「なんだか変わった関係だったね」
「うん」
「そうだ」
英里は封筒を取り出した。
「これ。かかった経費代とかいれたら少ないかもしれないけど」
「いらないよ」
「だめ」
「いらない」
「どうして」
「また会いたいから、あんたに」
塔夏は思わず言った。英里は一瞬、はっとした顔をした。 彼は言ったことを後悔した。
「よく夢を見たよ。父親がどんどん去って行く夢。おれは待ってと追いかけようとするけど、足が動かないんだ」
市内の渋滞で車が進まないとき、彼は口を開いた。
「きっともう、そんな夢は見ないと思う」
「そう」
彼女は前を向いたまま微笑んだだけで、何も言わなかったが、彼はそんな彼女が嬉しかった。
のろのろと少しずつ進む車が大きな橋にかかったとき、英里が窓の外を向いた。
「こんなにきれいだったっけ」
夕日が空を赤く染め、川面もきらきら赤く光っている。
「眺めたこともなかったな」
「私が行きたいところ、どこだと思う?」
ふいに英里が言った。
「コスタ・デル・ソルって知ってる?」
「コスタ…?」
「意味は“太陽の海岸”。名前のとおり、太陽が降り注ぐ、とてもきれいなところ。スペインにある。名前が素敵だなって、それだけで憧れた」
「“あまり目につかない、例えば引き出しに行きたい場所のものを置いているはずだ。それを時々黙って眺めている”って、あなたが私のこと言ったとき、どきっとした。だって、私は自分の机の引き出しに絵葉書を入れてる。すごいね、透視能力があるみたい」
塔夏は苦笑した。
「行って、何したいの?」
「さあねえ」
英里は動かない車で、ずっと川の方を眺めたままだ。
「このあいだね、止めてた私の自転車が邪魔だったんだろうけど、子供を連れた若いお母さんが、“なんでこんなとこ止めてるの”って、独り言のように、でも聞こえるように言って、通り過ぎた。でも、もしあれが私でなかったら、怖そうな男の人ならきっと言わない。私にさえ、面と向かって言わなかったもの。私のこと見もしなかった。スーパーの同じパートの人で“いいわよ”ってにっこりしながら、さりげなく嫌味言ったり、噂を広めたりする人も、面と向かって思ってることを言ったりしない。私も結衣に何も聞けなかった。主人に自分の気持ちを何も言わなかった。しっぺ返しが怖いから。弱いから、傷つきたくないから自分を守ろうとして、窮屈そうにギスギスしてる。我慢して、思ってることを隠してれば、安全だから」
「でも」
英里は確認するかのように、言葉を止め、一呼吸おいた。
「つまらない。自分じゃない人でいなくちゃいけないなんて。人生は一度きりなのにね」
「自分は自分だよ」と、彼は言った。
「あなたはね、そういう人。どこに行っても塔夏光一でいられる人。でも、私は違う」
ようやく車が動き出した。
市内に入ってからずいぶん時間がかかったが、英里の車は彼のアパート近くに到着した。
「ほら、鎖につながれたままブロック塀を乗り越えて、宙ぶらりんでもがいてた青い首輪の犬のこと話したよね」 と、彼女が降り際の彼に唐突に言った。
「なんで助けてあげなかったんだろうって、今でもずっと忘れられない。世の中じゃひどいことはいっぱいあるけど、私にはあの犬だけが、実際目に見えた残酷なことだったの」
そう言って、まだ腫れが残った左頬を押さえた」
「こんなこと話したの初めて」
英里は明るく言った。
「おれも」
「あなたがこんなに、おしゃべりだなんて思わなかった」
「おれも」
2人は笑い合った。
「あなたは探偵さんの“仕事”終わったし、私も結衣のこと調べてもらった。これで、お互い終了ね」
「うん」
「なんだか変わった関係だったね」
「うん」
「そうだ」
英里は封筒を取り出した。
「これ。かかった経費代とかいれたら少ないかもしれないけど」
「いらないよ」
「だめ」
「いらない」
「どうして」
「また会いたいから、あんたに」
塔夏は思わず言った。英里は一瞬、はっとした顔をした。 彼は言ったことを後悔した。