第20話

文字数 1,602文字

 そのとき、塔夏は急に上に行きたいと思った。携帯とコネクターをつないだままトイレを出ると、左に向う。エレベーターがあったが、目の前の階段にまっすぐ向う。そのまままっすぐ上に行きたいと思ったからだ。
 どんどん上がって行く。5階、6階、足が疲れてきた。だが、まだ上に早く行きたい。階段で行き違う人はいなかった。8階、息があがってきた。10階、11階、まだ上に行きたい。12階、そして行き止まりになり、目の前のドアを開けた。

 ぱあっと風が吹き込んで来た。屋上に出た。広々としていて、空が遠くまで見えている。

 彼はそのまままっすぐ歩いた。フェンスが近づいて来て、ずっとある違和感に、彼はようやく気付いた。 歩くな、止まろうと自分では思うが、足を前に出すことがたまらなく気持ちがいいのだ。それに抗おうとする自分の意思が、なさそうにも思える。自分が考えていることがわからなくなった。
 また一歩、また一歩と、塔夏の足はフェンスに近づいて行く。とうとうフェンスまでたどり着くと、彼はフェンスを握った。はるか下が遠くに見える。あたりは夕焼けに染まり、どこも赤々としている。
 フェンスを握る手が、震えながらゆっくり開いていく。それは自分の意志とは別に動いているようで、自分のではない手を眺めている気分だった。 まだ、まっすぐ前に行きたくなる。前がもうないのはわかっているのに、行きたい。

 塔夏が両手を上げて、前にのばした。風が吹き抜ける。気持ちよかった。
 瞬間、彼は身体ごとものすごい力で後ろに引き倒された。その勢いで携帯が飛び、コードが離れる。

「なにやってるんだ!」
 彼の目の前には、屈強な身体の太い腕をした男がいた。刑事の江田真人だった。
「死んだらそれっきりだぜ。これまでの人生は何だったんだってことになる。だろ?」
秋本が飛んで転がった携帯を拾いながら言った。
「このビルで働いてるのか?」
塔夏は首を振った。 よくわからない今の自分の状況を整理しようとしている。

「あんたね、知ってる?ついこのあいだ、ここで、そう、まさにここ」と、江田がさきほど塔夏が掴んでいたところのフェンスを指差した。「ここから飛び降りたやつがいるんだよ。なにも同じとこで死に急ぐことないよ」
「ここで…」
「名前は?」
江田は手帳を取り出した。
「おい」
秋本は、面倒だからよせよとでも言いたげだった。

「コムテックの件に、関係ないとは言いきれないでしょう?」
江田は秋本にそう言うと、手帳をめくる。
「警察?」
塔夏は驚いた。
「そうだ、自殺なんてバカな考え起こすなら、保護しなきゃならんからな。はい、名前」

「いや、そうじゃない」
塔夏は首を振り、つぶやいた。
「困るなあ、名前は言ってもらわないと」と、江田が顔を上げた。

「伊勢山譲は自殺じゃない」

塔夏のつぶやきに、秋本と江田は顔を見合わせた。

 塔夏がさっき、江田に引き倒されたとき、その勢いで携帯からコードが離れたとたんに、前に行きたい気持ちが消え失せた。眠りから覚めたように、自分の意識をはっきり感じた。
後になってようやく、何かに無意識にコントロールされてるような、違和感だったことがわかった。それがいったいどういうことなのかはわからないが、何者かがネットを通して実行しているように思えたのだ。
 伊勢山譲はそうさせられたのだ。それは彼自身も同じだ。この刑事たちが止めなければ、同じようにビルから飛び降りていただろう。

 あの、奇妙な抗いきれない、脳が自分の意思に反して、勝手に指令をするような感覚は、今となって思い返すほど、とても恐ろしいものだった。
 もし、芝西啓次もこうやって、何かにコントロールされていたとしたら、あの、脳から見えたビジョンで、寸前まで爆発物を意識していなかったことも、理解できる。

だが、いったい誰が何のためなのか?そこが問題だった。


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