第30話

文字数 2,479文字

「じゃあ、あとをよろしく」
 松島が高橋に言った。岩戸は警察の方に渡され、時計は5時半をまわっていた。
「彼はどうします?」
高橋が塔夏を指した。
「いいいい、帰って。ごくろうさん。高橋くんも、たまには早く帰ったらいい」
松島はさっさと笑顔で出て行った。
 高橋はそれを見送ると、ちっと舌打ちした。そして書類の作成に取りかかった。
「いいぞ、帰って」
不機嫌そうに言う。
「共犯者はいいのか?」
「まだこれからも、協力してくれるのか?」
塔夏は共犯者をどのように探っていくか、考えようとしていた。
「もういい。おまえを解放してやるよ。良かったな」
高橋は彼の顔も見ようともしなかった。塔夏は共犯者は気になったが、これで高橋らとの関わりがやっと切れるというすっきりした気持ちが強かった。

「まだ帰らないんです?」
帰り間際に、ひとり机に向かう高橋にそう聞いた。
「別にいい。いつ帰ろうと、どうせ母親は待ってる。松島さんは家族サービスで忙しいが」
やはり顔も上げずに言う。
 高橋は今日もこの間のネクタイをしていた。母親の見立てなのだろうか。彼の母親は、どんなに彼が遅くなろうが、ずっと食事を共にしようと待っているぐらいだ、彼に尽くし、家のことは一切を取り仕切っているのだろう。


 その日、英里が突然、塔夏のところにやって来た。扉を開けると、相変わらずデニム姿で、さっぱりした服装の英里がうつむき加減に立っていた。
「連絡くれればよかったのに」塔夏はとまどった。
「ごめんなさい」
「いや、別に。ただ、ここまで来るのが面倒だろうと思って」
英里はうつむいたまま、首を振った。
「どうぞ」
 塔夏が入るように仕草をすると、英里はお辞儀をして、入って来るが、彼女の左の頬は赤くはれていた。

「どうしたの?」
英里は頬を隠すように押さえた。 うつむき加減の意味がわかった。
「殴られた?」
彼は思わず、彼女の手をのけると、その頬を調べるように、少し触れた。
「あなたのこと、歩美さんが言ったみたいで」
スーパーで遭遇した、彼女の隣人の新屋敷歩美の好奇のまなざしを思い出す。
 彼は手を止めた。自分の英里の頬に触れるその動作は、普通は親しい相手にするものに見えることに気付いた。そして、彼女を殴った相手が誰なのかわかったからだ。手を引っ込めた。
「ごめんなさい、こんなこと言って。気にしないで。あなたは関係ないから」
英里は笑顔でとりつくろった。

「ところでうまくいった?例の」空気を変えるように、英里が明るく言った。
「うまくいった。ようやくお役目は終わったよ」
「そう、よかったね」
彼女はそう言ったが、心はどこか別にあるようだった。

「実は、謝らないといけないことがある。そっちの用件の方だ。彼女に、あなたに頼まれたことを話した」
彼女は黙って聞いている。
「本当は最初調べたときから、彼女は塾には行かず、ゲームセンターで友だちの分も金を払って遊んでいたんだ。そういう仲間は友だちじゃないとか、塾に行きたくないなら、親にちゃんと言えとか、つい説教までしてしまった」
「そうだったの」
英里はそう言いながらも、たいして驚いた様子ではなかった。

「彼女のことで?」来たのはそのためなのだろうか。「彼女、何か言ってなかった?」
「何も。ただ、一言もものを言わなくて、むっつりして、こんなこと初めてで…。だから何があったのかと思って…」
英里が来た理由がわかった。

 誠実になろうとすることは難しい。それは正直であろうとすることと、必ずしも一致しない。時には嘘をつくことも必要なのだろう。が、結局彼は、結衣に正直である方を選んだ。そのことを後悔するわけではないが、決して満足していなかった。
「結局、ひどく彼女を傷つけたな」
彼女は首を振った。
「傷つけたのは私。 これまでなんにも言わずにいて、自分が我慢してればいいなんて、都合のいい言い訳だった。そうやっていつも本音は人のせいだと思って、自分は責任逃れしてた。あなたにまで嘘をつかせてしまって」

「おれが嘘ついてたのは彼女にだけじゃない。あんたにもだ」
「確かに、きのう思いきって娘のこと塾に聞いたら、この3週間ほどずっと来てなかったって言ってたけど」
塔夏は驚いた。自ら聞くことをあれほど怖がっていた英里が、何か変わったように思えたからだ。
「でもね、きのうは来てたって」と、英里の顔が明るくなった。「それが言いたくて」
塔夏は少しうれしかった。結衣の行動の変化に、多少なりとも自分のとった行動が関わっていることであり、そして今、目の前に明るい顔の彼女がいることがだ。
「ありがとう。私が娘に言わなければいけないことを、代わりに言わせて」
「ろくでもないおれが、えらそうにね」
「そんなことない。あなたは」
英里はじっと彼を見た。
「職業はあやしいけど」と、ふざけたように付け足した。

「このお家、あれからちっとも変わってないね」
英里は、そのまま置かれている、作りかけのままのミニチュアハウスを眺めた。
「ここにはテーブル、ソファー?」
ミニチュアの居間の部分を指す。
「もうやめようかと思ってる」
「どうして?せっかくこんなに細かく、ていねいに作ってるのに」
「どうしても思い出せない。これは、昔、おれが小さいときに住んでいた家なんだ」
「いくつまで?」
彼女はしげしげと眺めた。

「6歳ぐらいまで。それから10歳まで父親に連れられて、転々とした。時々は車の中に住んでたよ。それから父親は施設におれを、ものみたいに置いてった」
塔夏は、彼女に自分の過去を自然に話すのが不思議だった。

 彼は引き出しを開けて、汚れた小さな犬の人形を取り出した。
「これだけ今でもとってある。モッチっていうんだ」
その人形を振ってみせると、自嘲気味に小さく笑った。 彼女は何も言わずそのモッチをなで、その手が彼の手に少し触れた。彼は胸がつまるような思いにとらわれた。
「それからお父さんには?」
「一度だけ会ったよ。いや、直接じゃないけど」

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