第4話

文字数 3,181文字

 外はいい天気だった。塔夏光一はホテルを出ると、空を見上げていったん立ち止まったが、すぐに歩き出した。

 今日の仕事は簡単で、リツが良かった。が、彼らが送った入金先は彼の口座ではない。“シフト”だ。もちろん、入金を確認すると、即座に金は別の口座に移されるし、毎回こういうときに使われる口座も替えている。
 塔夏は“シフト”から契約の金を受け取るのだ。もう彼の口座にも入金されているだろう。

 “シフト”から依頼されるだけの者は、登録する必要はない。選んで仕事をする。塔夏もそうだ。知られているのは、仕事依頼のネット上の匿名で借りられる連絡先と、送金用の架空名義の口座番号だけだ。

 彼自身の素性は誰も知らない。だが、彼の特殊な才能は、ブレインハッカーと呼ばれて、この業界では有名だった。

 彼がこういう世界に入ったのは、12年前、16のときだ。ナビというコネクターを使ったハッカーとして、先駆者的な男と知り合ったからだ。

 もちろん今の塔夏がするような特殊なハッキングではなく、当時はコネクターで直接脳とコンピュータを接続し始めたところだった。
 塔夏もその当時はまだ、特殊な能力は本人も気付いていなかった。いわゆる不正アクセス、ウイルス投入、スパイウェア、プログラミングの仕掛け、盗聴などの物理的行為を、コネクターを通して素早く処理するのだ。

 塔夏は16でコネクターをつけた。しばらくの間は、それを自分の意思でコントロールしてネットと繋がることが難しく、その練習に明け暮れた。

 ナビはおれのようになりたいならがんばれと、やさしい言葉をかけてくれたが、直接教わることはなかった。“仕事”で手伝わす必要があるときだけ、彼にうまくやらせようと、細かく指導した。
 ナビは決して親切な男ではなかったが、おかげで塔夏は、通信の基本を理解するまで学ぶことができた。それは塔夏が今のように、ビジョンを拾い出せるようになっても役立っている。

 電車に乗ろうと、駅構内に入った。

 その途中で、電話が鳴った。番号を見ると、奈川かりんからだった。付き合ってもう4年になる。彼女と知り合ったのは、彼女が18で家を出て来たときだった。

「え、今から?」
 塔夏は時計を見た。お昼を今から一緒に食べようと言うのだ。

 彼女はイタリアンカジュアルレストランで働いているから、昼食休憩はいつも遅くて、たいていは2時か3時だ。

「わかった、行くよ」
 彼はすでに昼は食べていたが、彼女に付き合うことにした。再び外へと出る。

 そのときだ。突き上げるような轟音と震動があり、塔夏はとっさに頭をかばった。

 振り向くと、駅構内から煙が立ちのぼってくる。

 たくさんの人が我れ先にと飛び出てくる。転んでしまう人を踏みつけて、どんどん飛び出てくる。通行人もしだいにざわざわと集まって来た。

 彼は出てくる人と、集まってくる人にもまれながら、身動きできない状態で、ぼんやりとそこに立っていた。やがてサイレンがたくさん鳴り響くのが聞こえてきた。


 塔夏光一が住む場所は、表のメインストリートから3つ入った、車がすれ違うにはぎりぎりの細い通りにある。壁の下の方にうっすらと緑の苔がはえ、いささか古びた5階建ての安アパートの4階に住んでいる。おそらく建った当時は違ったのであろうが、今は土足のまま入る作りになっている。

 ドアからすぐ前に、トイレと風呂場がある。短い狭い廊下を左へ3、4歩行けばすぐ、8畳ほどの台所とリビングがいっしょになった部屋がある。
 壁は薄汚れたクリーム色で、陽が差し込みあたる場所の色はくっきりと、他の場所の壁の色と違っている。右のリビング側の窓は広く、外には小さなベランダが見える。左の台所側の窓は換気扇の横に小さくある。
 リビングには古い木製のテーブルと椅子が2つ置かれていて、壁際にもひとつ机がある。そこには作りかけのミニチュアハウスとその道具などがごちゃごちゃ散乱し、床には壁に沿って雑然と物が置いてある。しかし、家具がほとんどないので、部屋を広く見せている。
 台所の棚にもほとんど食器がなく、殺風景だ。奥には6畳の寝室がある。まっすぐ向こうには縦長の、上下に開く窓が見えていた。

 塔夏はその窓をカタカタと上げた。ぼさぼさの寝起きの髪、くわえ煙草でのぞいている。ぐるりと建物を囲むように、柵のついたベランダがあり、その向こうには裏の路地を挟んで、密集したビルが見える。
 屋上に洗濯物が干されていたり、アンテナが立ち並ぶ。下を見ると、路地には野菜を乗せた車に、近所の人が入れ物をもって集まっていて、その横を子供が走り抜けていく。
 彼は短くなった煙草をそのまま外に放り捨て、あくびをすると、リビングの方へ行った。

 彼がここに越してきて、2年ほどになる。ここの住人は、昔から住んでいる高齢の年金生活者か、通学する間だけ借りる学生がほとんどだ。
 ときおり、すれ違う住人の高齢者が声をかけてくるが、「今日はアルバイトだったの?」などと聞く。彼をフリーターと思っているようだった。

 塔夏は今日も日課の、ミニチュアの家づくりに熱心だ。壁紙は薄いクリーム色でざらざらした表面、そこにはラファエロの“聖母子と幼児聖ヨハネ”の小さなコピーが額縁に入れられ、掛けられている。
 そして、深い赤茶色の3人がけソファーと、1人がけソファーがある。そこに置かれたふたつのクッションは、赤い花の刺繍が施された生成りのカヴァーがかけられている。
 床はフローリングだが、テーブルやソファーが置かれたところだけは、薄いベージュの毛足が長い絨毯が敷かれている。
 壁際にはキャビネットがあり、いちばん上の棚にはガラスがはめられ、中には外国ふうの花瓶が飾られている。その下には観音開きの扉があり、下の段は引き出し用に開いているが、引き出し自体はない。

 すべて手作りで、細かく隅々までつくっているから、1年以上かかっても、まだひとつの居間も完成していない。今は、ソファーの中心に置くテーブルを作っている。
 本物の木を小さく切り分け、テーブルの足になる部分に、カッターでていねいに曲線の装飾を削り出していく。自分の目の前に拡大鏡を置き、それをのぞきながら、少しずつ削っていた。

 壁にかけられたテレビでは、ニュースをやっていた。昨日、彼が遭遇した、駅で起きた爆発のことだ。ぐしゃっとなった電車内が映っている。

 塔夏はカッターを置くと、壁からテレビをテーブルに持って来て、画面にタッチした。画面内の横側に、その事件の詳細と関連ニュースが出た。それを指で触り、開いていく。
 意図的に爆発させたテロ事件だった。犯人やその背景はいまだ不明で、犯行声明などは出されていないが、死傷者数は増えているところだった。
 あのとき、もし奈川かりんが電話してこなかったら、巻き込まれていたかもしれない。彼女とはあれから遅い昼食をいっしょにとった。

 そのときのことを思い出していると、ちょうど電話が鳴った。かりんからだ。番号を知っているのは、仕事以外では彼女しかいない。

 彼女は日に2回は電話をかけてくる。食事の誘いはもちろん、何してる?元気?天気悪いねとか、髪切ったのとか、今日変な客が来たとか、彼にとってはどうでもよさそうなことで電話をかけてくる。
 塔夏はときには鬱陶しくもあるが、彼女の楽しそうな声を聞くのは、決して嫌ではなかった。今晩泊まりに行っていいかと言う。彼はいいよと電話を切った。
 彼女は時々、彼のところに泊まる。かりんは一緒に住みたがっていたが、塔夏がそうしなかった。

 塔夏はパーカーを羽織るとドアを開けた。ちょうど向いの部屋のドアの前に、女性が立っていて、はっとしたように彼を見た。

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