第5話

文字数 2,937文字

 肩より下に垂れた髪、30代半ばぐらいだろうか、Tシャツにデニムのパンツのシンプルな格好をしている。背丈も肉付きも普通で、化粧気もあまりなかったが、その女には見覚えがあった。時々その部屋に住む、男子学生のところに来ていたからだ。

「あの、すいません…」

 塔夏がそのまま通り過ぎようとすると、女性が声をかけて来た。
「芝西さん、お留守なんでしょうか?」
困っている様子だ。
「さあ」
彼は首を横に振ると、すぐ螺旋状になった階段を下りて行った。彼はこのアパートの住人の顔は見ることがあっても、付き合いはしないし、詮索もしない。 隣向いの男がそういう名前なのも初めて知った。後ろから足音は聞こえなかった。彼女はまだその場所にとどまっているだろう。

 塔夏はアパートを出ると、向かいにある小さな店に入った。食料品や日用品が所狭しと置かれている。子供がふたり、駄菓子を買っていたのか、「おじちゃん、ありがとう」と、走り出て行った。
 レジの奥で、店主の男が塔夏に顔を向け、「らっしゃい」と、気の抜けたような声をかけてきた。塔夏は軽く会釈すると、フランスパンとビール3缶、オレンジを2個、そして新聞を順に手に取っていった。
「フランスパンはいいよ。卵使ってないからな、コレステロールの心配しなくていい」
店主が塔夏の買物を袋に入れながら、そんなことを言う。
「今日は煙草はいいの?」
塔夏は頷いた。

「あーあー、あれじゃ通り抜けできないよ」
 店主が今度は外をうかがっている。彼も振り向いた。店の前に黒い車が止まっていた。その中から背広姿の男が2人出て来た。見かけない顔だった。彼らは様子をうかがうように上を見上げる。 顔を戻す瞬間、塔夏は顔をそらせた。
「あ、やっぱりひとつ…」
店主に言った

 何か気になった。車から下りるときに辺りを見回す仕草、来たのは初めてなのだろう。片手をポケットに入れる。電話を持っているのを確認しているのなら、いつでも連絡をとる必要があるのかもしれない。
 そして、彼らが見上げたのは上の方、4、5階あたり。見上げたあと、彼らは顔を見合わせた。

 店主が煙草を出す間に、また外を振り返ると、男2人は彼の住むアパートへ入って行くところだった。たずねる先の相手がいることを確認したのだろうか。

 そういえば塔夏は、この道路が見える窓を開けている。嫌な予感がした。車の中には、運転席に1人残っている。その男はハンドルにかけた手を、ときおりリズムをとるように動かしている。所在なげに辺りに視線をやり、店の方にも顔を向けた。彼を確認したかのように、じっと見て、なにかの写真を取り出した。

 塔夏はまた後ろを向くと、側にあったリンゴを1つとって、「あ、これも」と、レジに置いた。
自分を捜しているようだと、彼の不安はどんどん大きくなっていく。

 彼がこれまでやってきた仕事は、良くいえば“人助け”である。だが、人をハッピーにすれば、必ず別の誰かを不幸にしてきた。
 仕事関係でやばい相手に関わってしまったのか。だが、“シフト”は関係先を裏切ることは決してしない。それをすれば、二度と信頼されず、仕事が成り立たなくなるからだ。
 もしかしたら“シフト”をとばして仕事を受ける、“タブ”と呼ばれる連中の誰かの仕業かもしれない。 やつらは塔夏らの裏稼業にもある、暗黙のルールを守らない。ギャンブル的に高報酬の仕事に群がり、他のハッカーと敵対しようが、たとえ社会的混乱を招き、この業界自体に悪影響を及ぼし、自らの首を絞めることになろうが、知ったことではないというような連中だ。その“タブ”でなければ、最悪なら・・・。

 車の運転席の男が反対側を向いた。アパートから女性が出て来たからだ。さきほどの、隣の男子学生をたずねてきていた女だ。どうやらあきらめて帰るようだ。
 塔夏はわざとリンゴをかじりながら、店を出ると、その女に近づいて行った。ちょうど、車の前の方へと歩いて行く女性と、歩調を合わせた。
「彼、帰ってこなかった?」
 彼は声をかけた。 女は彼を見て一瞬意外な顔をした。
「ええ、約束してたんですけど」
すぐ愛想よくにっこりした。肩にはカジュアルなバッグをかけ、手には厚手の生地で作られた丈夫そうなトートバッグを、重そうに持っている。

「どうしたんだろうなあ」
塔夏は親身になっているような素振りを見せながら、背後の車を意識していた。車のドアが閉まる音がした。ちらりと振り向くと、運転席にいた男がこちらに急いで歩いてくる。塔夏は彼らがやってきた目的が、自分であることを確信した。

「よかったら、乗っていかれませんか?」
 女が鍵を目の前に止めてある、白の車に向けた。ロックがはずれる音がした。
「お急ぎなんじゃないです?」
女もちらりと後ろを見た。彼とその車の男たちとの気配を、察したようだった。 女はバッグやトートバッグを後部座席に放り投げ、助手席に置いてあった、女の子のポーチやピンクの髪留めもかき集めると後ろに放った。
「どうも。じゃあ街中までいいですか?」
彼が車の助手席に乗り込むと、女はすぐに車を出した。後ろを見ると、男がこちらを見ながら、電話を取り出しているのが見えた。

 車はカーブを曲がると、大通りに出た。
「平日のこんな時間なのに、けっこう車多いな…」
彼女は独り言のように言った。
 それからしばらく沈黙が続き、気まずく思ったのか、女が「芝西さんに」と、言い出した。
「え?」
「芝西さんにね、英語を習ってるんですよ。つい、この間から、習い始めたばかりだけど」
 追われているのかとか、あれは誰だ、何してるとは聞かない。気を遣っているのは明らかだ。彼はちらりと後ろを見たが、もはや車の列があるだけだった。
 視線を落とすと、後部座席に放られたトートバッグから、英語の本が見えた。さきほど後ろにやったキャラクターのついた赤いポーチ、ピンクの髪留めもある。

「週に1回、2時間で月謝5千円って、英会話学校へ行くより安いでしょ?」
 彼女は笑った。

 ハンドルをにぎる左手の薬指には指輪、マニキュアはしていない。肩より垂れた髪はパーマがとれかかっている。 飾り気のない車内、飲みかけのジュースのペットボトルが置かれている。だが、それは彼女のではない気がした。 車のキーホルダーはごつい革製で、メンズブランドの名前が入っている。塔夏はいつもの仕事のくせでつい、いろいろ見てしまう。

「外国へ行く予定でも?」
「行きたかったけど」
女はふふっと笑った。
「仕事をしてたり、家のことがあると、お金も暇もないよね」
彼は自分の分析から、ふってみた。

「そうそう。パートでも他の人に迷惑かけるから、まとまった休みはとれないのね。子供にはお金がかかるし、私の収入は娘の塾代」
女は彼の話に乗ってきて言った。
「それは大変だ」
「でも、どっちみち、もう行けない」
そう付け加えたときの表情は、どこか憂鬱そうだった。

「あ、じゃあ、あの信号の手前で」
 塔夏が前を指差した。彼女を観察しているのが、何か悪い気がしたからだ。彼女はまた笑顔を見せて、車のスピードを落としていった。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み