文字数 2,434文字

 森さんによれば、「荘子の『道』の内容は、自然であり、運命」であるという。
 この篇はその思想を最もよく表したもので、「斉物論篇」と並んで重要な篇である、と。

 自然のままに生きること、自然に身をまかせて生きること── そう言われると気が楽になるが、実際にそのように生きることはほんとうに難しい。
 が、心というものは、自由であるということも、ほんとうのことだと思う。

 考え方、ものの見方一つで、人生みたいなものの景色は変わるし、自分の歩み方に荘子はぜひ取り入れたいものだ。
 その世界は穏やかで、およそ平和的なものだと思う。
 意味のない戦争やら殺人やら、わけのわからない今に、この思想があの大鵬のように飛び立って、空を覆ってくれないかと願いたい気持ちになる。

 情緒不安定な書き方を続けてきたが、こりずにはじめよう。

 天が営む自然のはたらきを知り、人間の営みの正しいありかたを知ることができれば、人知の最高の境地に達したと言えよう。

 天が営む自然のはたらきを知るとは、人知の及ぶ限界を守ることによって、人知の及ばない自然の大きなはたらきを養うことである。

 このような態度で人生を送れば、天から与えられた寿命を完全に終え、途中で若死にすることはないが、それはこのすぐれた知のはたらきによるのである。

 とは言っても、このようにすぐれた知にも、なお欠陥がある。
 知というものは、その知の対象となるものが存在してこそ、はじめて妥当するのであるが、その対象となるものは決して一定することがなく、たえず変化するからである。

 だから、自分では、これが天だ、自然だと思っていることが案外に人為であったり、逆にこれが人為だと思っていることが、自然であったりするものである。

 とするならば、やはり真人(しんじん)の境地に達したものだけが、真の知恵をもつことができると言えよう。

 ── 今までも、何回となく見てきた内容。
 若死にについて書かれている。これではまるで、老衰まで生きるのが天寿、寿命のまっとうであるかのようだが、自然に逆らって生きた者はそうなるという例え話、一つの例として挙げているのだと僕は思う。

 事故であれ戦死であれ自殺であれ、それはその人の運命であったと考えたい。
 それはその人以外の者、殊に親近者にとっては耐え難いものだが、そのほんとうの理由は「知の及ばないもの」「ほんとうの原因は知るよしもないもの」と捉えたい。
 死者は、「なぜ自分がこうなったのか」わからぬまま死んでいくのだと思う。ことに、自殺は。

〈 自殺者は、自分の頭に飛び込んで自殺する 〉
〈 自殺は、人間に残された最後の自由ではないか 〉
 賢いひとが、どんなに理由をつけようが、当人にとってはその時の最大限の、精一杯の、これ以外にどうしようもない選択であり、決断であったのだ。

 ぼくは、自死を選んだその人を、その人自身の精一杯の選択を、断じて否定したくない。尊重したい。あらん限りの力をもって。

「知は、その対象をもって初めて存在する」。これは、あのブッダの「心」のありかたと同じことをいっている。
 その対象は一定することがない。だから心も、知も、一定することはない。
 知、心は、むしろその対象を探す。(うつつ)に、その対象はありすぎるほどにある。

 身体、この身体というものが、個人、ひとりの人間にとっての最も重大な「物」であり、当人にとって最も近しい「存在」だ。
 それは、他者の決定的な介入を許さない。それほどに、密接な関係であろう。
 その存在が衰え、病になったら、今度は心が病み、まして寝たきりになったら周囲に迷惑がかかる、そんな意識も働いてしまうだろう。

 悔しいのは、他の誰でもない。以前のようにもう動けない、それが何ヵ月も続き、まして原因不明であったなら、絶望以外に何が残るだろう?
 ぼくは、そんな理由からその人が自死をしたとして、絶対に否定しない。尊重したいとしか言いようがない。

「真の知恵」というからには、── 虚でも実でもない、真だろう。
 が、その真とは? 自然に生きる、自然に沿って、そのままに自身を添えて生きる、絶対的なもの、どうしようもないものがあるとしたら、それと調和するようにして生きることか。

 自分の力ではどうしようもないもの。それは自分の限界を越えたものなのか。
 だとしたら、その限界をつくるのは、その心の内にあるものなのか、それとも、ほんとうに自分の外にあり、この力の全く及びもしない、絶対的といえるほどに絶対なものであるのか。

 それは同じ、同一のものにみえる。

 荘子のいう「真人」、真の人とは、真に生きた人というより、生きる死ぬとに関わりなく、関わらず、ただ「ある」人、「あった」人、そこに・ここに、ある・あった人── をさすのではないかと思う。
 それはあたかも、まるで己が自然そのものであるかのように、そこにただ存在するもののように。

 そこに、主観も客観もない。真は、ただひとり、ポツンと、そこにあるだけである。そこにあり、ここにあるのは事実だとして、でも、しかしそんな事実は、真の前には全く無意味に等しい、意味の為さないものにみえる。

 そこに何かを見い出そう、意味をつけようなどとすることこそ人為であって、真から人を遠ざける、最も忌むべき、愚かな、といっていいほどのおこないと思う。

 死に対して、己のために、理由など探りたくない。のこされた人ともに、この時間を、いっしょに生きていくだけだと思う。

 池田晶子の言を借りるまでもなく、死の原因は、生まれたことにある。
 あらゆる死因も、真のものではない。

 ならば、生きる理由も、真のものはない。

 真のものは、そんなものではない。
 生も死も、そのところ、このところには、ない── それに対して、ぼくは怒りを覚えた。
 そのひとの死にでなく。人間であるところのもの、人間を人間とするもの、世界、これを動かす、目に見えぬもの、それに対して、いいようもない怒りを覚えた。
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