十五
文字数 1,089文字
それは世のつねの木とは、まるで違ったものであった。
四頭だての馬車千台でも、その大木の陰におおわれて、隠されてしまうほどであった。
これを見た子綦は「これはいったい何の木だろう。これはきっと上等な材木がとれる木に違いない」とつぶやいた。
ところが、上を向いて、その小枝を見ると、
その葉をなめてみると、ひどく酔っぱらって、三日たっても、まだ気がつかないというありさまである。
そこで子綦も、はじめて気がついた。
「これは、やはり材木にならない木であった。だからこそ、ここまで大きくなれたのだ。
あの
── 前の(十四)と同じ内容。
初めて「荘子」を読んだ時、おおらかな空間に行ったような、太古の自然あふれる山々、山林、森に包まれたような、落ち着いた、嬉しい気持ちになった。
荘子がこの空間をつくっているような、荘子じたいがこの空間そのもののような、そこで自分が遊んでいるような、楽しい気持ちになった。
そうして、何かの不安、憂鬱、焦りのようなものがゆっくり薄らいで、この空間に同化していくようだった。
短い、荘子の平素な言葉が、自分の言いたかったことと同じところもあって、嬉しかった。
荘子が代弁してくれた!というより、確認できた、仲間がいた!、しかも2000年前から! という喜びのほうが大きかった。
嬉しさにやられた勢いで読み続けたから、同じ内容の文であっても嬉しかった。
荘子の世界が、とにかく心地よかった。
何回も読み返したけれど、今こうして、読んだ文章を書いてみると、また違った発見がある。これは翻訳の仕方が大きいけれど、些細なこと──「あ、ここは『が』でなく『は』なんだ」とか。
『が』でなく『は』、これだけで全然印象が違う。
訳者の森さんの荘子愛か、人間性のようなものか、とてもとても丁寧に繊細に、しかも堂々と訳されているなぁと実感する。
これは読んでいても感じていたけれど、手を動かして改めて感じた。
… どう対していいのか分からない、対処のしようがない出来事があって、荘子に助けを乞うというか、自分の気持ちを何とかしたい気もあって、この「写経」を始めた。
やるせない気持ちが過ぎ行くまでの、それまでの時間をやり過ごすために、始めたんだ。
現実逃避の、異世界ファンタジーか。