二十

文字数 848文字

 齧缺(げっけつ)が、師の王倪(おうげい)に問いかけた。
「先生は万人が一致して正しいと認めるような事実を、ご存知でしょうか」

「わしは、そんなことは知らないよ」
「それでは先生は、自分が知らないということを、ご存知でしょうか」

「それも知らないね」
「それでは、いっさいのものは、何もわからないということになるのでしょうか」

 すると、王倪は答えた。
「それも、わしにはわからんよ。だが、せっかくだから、いちど試しに言ってみよう。

 自分で知っていると思っていることが、実は何も知っていないことであったり、反対に、自分では知っていないと思っていることが、案外に知っていることであったりするものだ。

 それでは、お前にたずねてみよう。人間は湿気の多いところで寝起きすると、腰の病気が出て、半身不随になって死んでしまうが、(どじょう)などにはそんなことはないではないか。

 また、人間は高い木の上に住んだりすると、ふるえあがって怖がるが、(さる)はいっこうに平気だ。
 人間、鰌、猿のこの三者のうちで、どれがほんとうの住処(すみか)を知っていることになるのだろうか。

 人間は家畜の肉を食い、鹿(しか)は草を食い、百足(むかで)(へび)をうまいと思い、(とび)(からす)(ねずみ)を喜んで食う。

 この四つのもののうちで、どれがほんとうの味を知っていることになるのだろうか。
 猿は狗狙(いぬざる)(めす)として追い求め、馴鹿(となかい)は鹿と交わり、鰌は魚と仲良く泳ぎまわる。

 ところで、毛嬙(もうしょう)麗姫(りき)は、人間がこれを絶世の美女だとするけれども、魚はその姿を見ると、恐れて水中深く沈み、鳥はその姿を見ると、驚いて空高く飛び去り、鹿の群れはその姿を見て、一目散に逃げ出すだろう。

 わしの目から見れば、世間でいう仁義のけじめや、是非の道すじなどは、わけがわからないほどに混乱しており、わしにはさっぱり区別がつかないよ」

 ── この出だしがたまらない。
「ご存知ですか」「知らないよ」「では、これは?」「それも知らないね」

 これなんて、ソクラテスの「無知の知」だ。
 ほんとうのこと(大切なこと)を、わたしは知らない、という…

 これだけで、もういいんだよ。
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