文字数 1,040文字

 老聃(ろうたん)が死んだ。秦失(そうしつ)弔問(ちょうもん)に出掛けたが、作法通りの三度の号泣をすますと、さっさと外に出てしまった。
 これを見た奏失の弟子が、ふしぎに思って尋ねた。「あの方は先生の友人だったのではありませんか」

「その通りだ」
「それでは友人を弔うのに、この程度ですまして、よろしいのでしょうか」

 奏失は答えた。
「そうだ、あれでよいのだよ。初め、わしは彼を見どころのある人物だと思っていたが、今はやめたよ。
 先ほどわしは、彼の家に入って弔問した時、老人どもは、まるで我が子を失ったかのように泣き悲しんでいたし、若者どもは、我が母を失ったかのように泣き悲しんでいるのを見た。

 このように彼が大勢の弔問者を集めたのは、平生から彼が、人々に弔問の言葉を述べてくれと頼みはしないものの、弔問の言葉を述べずにはいられないように仕向けたり、泣いてくれとは求めないものの、泣かずにはいられないようにする行為があったためだろう。

 つまり彼は、生前に人々に情けをかけていたのだ。
 このような行為は、天道から外れ、人間の本来のありかたに背き、天から授かった本分を忘れるものだ。
 昔の人は、これを遁天(とんてん)の刑── 天命から逃れようとする罪悪と呼んだものである。

 あの先生が、この世に生まれて来たのは、生まれるべき時に偶然に巡り合ったまでのことであり、今この世を去って行くのは、たまたま去るべき運命に従うまでのことだ。

 巡り合った時のままに安んじ、与えられた運命のままに従っていれば、喜びや悲しみの入り込む隙はない。
 このような境地を、昔の人は、帝の県解(けんかい)── 自然の道による束縛からの解放、と呼んでいたのである」

 ── 老聃とは、老子のこと。
「作法通りの三度の号泣をすまし、さっさと外に出てしまった」は孔子の「儀礼・形式」に対する皮肉のように思えるし、面白い。

「巡り合った時のままに安んじ、与えられた運命のままに従っていれば、喜びや悲しみの入り込む隙はない」。
 ここに重いものを感じる。「情けの入る余地がない」ところに、何かほんとうのものがあるような気がする。

「義」ばかりでは、しんどい。自分なんか、義を果たしていないことばかりだ。
「義理を忘れよ」とは、誰かが言っていた言葉。ありがたい、救われる言葉と思う。

 言葉によって、ずいぶん心持ちも変わるものだ。
 これまた不思議なことだ。形のない心が、形ある言葉に、羽毛みたいにくるまってきて暖まる…

 最後の「帝の県解」の「自然の道による束縛からの解放」は、死に対する見解、と解釈したい。
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