九
文字数 1,236文字
道というものは、それが実在するという確かな真実性を持ちながら、何の働きをするものでもなく、また、形を持たないものである。
それは心から心へと伝えられるものではあるが、形あるものとして手に受け取ることはできない。
これを体得することはできるが、これを目に見ることはできない。
それは、みずからのうちに存在の根拠を持ち、みずからのうちに根ざして生じ、天地がまだ存在しない太古から、すでに存在するものである。
それは鬼神や天帝に霊妙な力を与え、天や地を生じさせるものである。
天のきわみにある太極の上においても高すぎることはなく、六極の底深くおいても深すぎることはない。
天地に先立って生じながら、時間の長久さを覚えることがなく、太古より以前から存在し続けながら、老いることのないものである。
上古の帝王の豨韋 氏は、この道を得て天地を手に引っさげ、伏戯 はこの道を得て天地を構成する気の中に没入することができ、北斗の神の維斗 はこの道を得て永遠に狂わない標準となり、日月はこの道を得て長くその輝きを失わず、堪杯 はこの道を得て崑崙 の山に入って神となり、馮夷 はこの道を得て黄河の神となって遊び、肩吾 はこの道を得て泰山 の神となった。
黄帝はこの道を得て雲天のかなたにのぼり、顫頊 はこれを得て玄宮に入り、禺強 はこの道を得て北極の神となった。西王母 はこの道を得て少広山 にすむ神となり、その生まれた時もわからず、その死んだ時もわからないほどの長生きをした。
彭祖 はこの道を得て、上は舜 の時代から、下は春秋 の五伯 の時代に及ぶ長生きをした。傅説 はこの道を得て、殷王 の武丁 の宰相となって天下を支配し、死後は東維 の星座にのぼり、箕 や尾 の星に乗り移って、星の神々の列に加わることができたのである。
── ゼイゼイ。いやあ、いっぱい、いろんな人がいた。
「悟りを開いた人は、今頃山の奥で一人で走り回っていますよ」。
知り合いに言われたことがある。
まあ、そうだろう。このお話に出てきた禺強の姿は、「山海経」に描かれたものとして挿絵にあるが、羽が生えて、いたずらっ子みたいな顔でこっちを見ているよ。
先日、ラジオで小説家が「あの世とこの世って、ありますね。でも、そんな二つだけじゃない、もう一つ、『その世』っていうのがあると思うんです。『その世』を書くのが小説だと思うんですね」と言っていた。
あの世でもその世でもこの世でも、何でもいい。
小説を、その文字通りに、つまらなく言えば「小さく説く」ことと僕は思う。
荘子は、その意味で小説ではないかと思う。そしてたしかに、「その世」的なことを、具体的な人名を出して執拗に書き続けている。
… まったく、このお話の冒頭、道についての表現は、その通りだと思う。
道の存在は、確かに感じられる。たしかに、それがあることが感じられる。
それを感じるだけで、そこで止まっている。
その先へ進めず、進まず、感じることだけで精一杯なふうにして、自分、生きてきたような気がする。
それは心から心へと伝えられるものではあるが、形あるものとして手に受け取ることはできない。
これを体得することはできるが、これを目に見ることはできない。
それは、みずからのうちに存在の根拠を持ち、みずからのうちに根ざして生じ、天地がまだ存在しない太古から、すでに存在するものである。
それは鬼神や天帝に霊妙な力を与え、天や地を生じさせるものである。
天のきわみにある太極の上においても高すぎることはなく、六極の底深くおいても深すぎることはない。
天地に先立って生じながら、時間の長久さを覚えることがなく、太古より以前から存在し続けながら、老いることのないものである。
上古の帝王の
黄帝はこの道を得て雲天のかなたにのぼり、
── ゼイゼイ。いやあ、いっぱい、いろんな人がいた。
「悟りを開いた人は、今頃山の奥で一人で走り回っていますよ」。
知り合いに言われたことがある。
まあ、そうだろう。このお話に出てきた禺強の姿は、「山海経」に描かれたものとして挿絵にあるが、羽が生えて、いたずらっ子みたいな顔でこっちを見ているよ。
先日、ラジオで小説家が「あの世とこの世って、ありますね。でも、そんな二つだけじゃない、もう一つ、『その世』っていうのがあると思うんです。『その世』を書くのが小説だと思うんですね」と言っていた。
あの世でもその世でもこの世でも、何でもいい。
小説を、その文字通りに、つまらなく言えば「小さく説く」ことと僕は思う。
荘子は、その意味で小説ではないかと思う。そしてたしかに、「その世」的なことを、具体的な人名を出して執拗に書き続けている。
… まったく、このお話の冒頭、道についての表現は、その通りだと思う。
道の存在は、確かに感じられる。たしかに、それがあることが感じられる。
それを感じるだけで、そこで止まっている。
その先へ進めず、進まず、感じることだけで精一杯なふうにして、自分、生きてきたような気がする。