四
文字数 1,466文字
「きみはそんなひどい姿をしながら、
一度自分の徳の高さを計ってみて、自分の身のほどを反省してみたらどうかね」
すると、
「世の中には、自分の過失をいろいろと弁解して、足をなくすような刑には相当しないと主張する者は多いが、自分の過失を弁解しないで、足を切らずに残しておくのはよくないと思う者は少ない。
私は、あとの例だ。
いったん人力ではどうすることもできないことだと悟れば、その運命のままに安んじて従うということは、ただ有徳者だけにできることだ。
たとえば、弓の名人である
そのまんなかにいれば、命中するのが当たり前だ。それなのに命中しないこともあるのは、その人の運命によるものだ。
世の人のうちは、自分の足が完全なままであるので、私の足の不具を笑う者が多い。
彼らは、それが運命の偶然によることを知らないのだ。
笑われて私も腹が立ってたまらないが、先生のところへうかがうと、すっかり忘れて、平静になることができる。
先生の善徳が、私の心のけがれを洗いおとしてくださるのかもれない。
私は先生のもとで学ぶようになってから十九年にもなるが、一度だって私が足のない不具者であることを気にしたことがない。
今、あなたと私とは、身体の内にある心の世界で交際しているはずなのに、あなたは私を身体の外に現われた形に求めようとされる。おかしなことではないか」
すると子産もすっかり恐れ入り、態度をあらためて言った。
「もうこれ以上は、何も言わないでくれ」
── よく、「師」「先生」というものが登場するが、その実体は不明瞭なままだ。
不具であったり、何も語らぬ人、何もせぬ、ほぼ無為のような人が、その姿として表されている。
それは、荘子が「自然」を師とし、それに従っていたからのように思える。
モンテーニュが自然と運命を同義語に扱ったように、荘子に見える「運命」という言葉も、「自然」と同義であったと思える。
全く、それには従うほかないのだ。
運命随順。無為自然。だれもが有徳者であるだろう、コンクリートだって、瓦にだって、
その徳を、正しく用いる… 正しい、まちがいは人為による分別だとしても、そこはソクラテス的態度で貫けるものと思う。
このお話にある申徒嘉と子産の関係、日常の仕事場なんかによくあった。
「こいつは仕事ができない(よくミスをする等で)と上司から判断され、まわりもそのように彼を見て、でも当人は特に反省もせず気にもしていない。
そんな場合、その人と、ちょっと距離を置こうとしたものだった。
一緒にいると、彼と「同類」に見られるのがいやだったからだ。
逆に、「よく仕事のできる人」「有能」と周囲から認められている人と一緒にいると、何だか嬉しく感じられた。もちろん、その人柄というのも大きい。
あなたとは心で交際しているのに、という申徒嘉の告白が愛おしい。
しかし当世、現代にひるがえって、たとえばSNSなどの「文字だけの人間関係」は、何とも難しい。
会って話すのとは大違いだ。
人と人との関係は、文字だけでは… 言葉だけでは、どうとでも解釈されてしまう。
しかも字体、字ヅラ、行間の長短も定められた画面では、どうにも難しい。手紙とも全然違う。
こんなニュアンスで言っているんだよ、と、実際に会って態度、雰囲気で示されるような、そんな言葉だけであったらいいのだけど。自分の筆力の拙さか。