文字数 474文字

 もし、自分に自然に備わっている心に従い、これを我が師とするならば、誰でも自分の師を持っていることになる。
 この師は自然に備わっているものであり、あれこれと、これに代わるものを探した末に、自分の心が選び取ったものではない。

 だから、この心の師は、どんな愚かなものでも、これを心に備えている。
 ところが、この自然に備わる心を師としないで、いたずらに是非の判断をするのは、たとえば「今日(えつ)の国に旅立つのは、昨日越の国に到着したのと同じだ」といった詭弁を弄ぶことになる。

 これは、ありえないことを、あるとするものである。
 ありえないことをあるとするものには、たとえ神に等しい知恵を持つ禹王(うおう)でも、手の施しようがないであろう。
 まして私の手に負えるはずもない。

 ── ブッダは「心はその対象をもって初めて動く」というふうに言ったが、荘子は「心はすでにあるもの、対象がなくても動くもの」として書いている。

 自分としては心が、いずれにしても「ある」ということは分かる。
 そしてほんとうに分かっているのかといえば、さだかでない。
 まったく、手に負えるどころでない。
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