文字数 1,198文字

 さて、言葉というものは、口から吹きだす単なる音ではない。言葉を口から出すものは、何事かを言おうとするのである。
 ただ、その言おうとする内容が、人によって異なり、一定しないところに問題がある。

 もし言葉の内容が一定しないままに発言したとすれば、その言ったことが、はたして言ったことになるのか、それとも何も言わなかったことになるのか、わかったものではない。

 たとえ自分では単なる(ひな)のさえずりとは違うと思っていても、はたして区別がつくのかどうか、あやしいものである。
 それでは、道は何に覆い隠されて、真と偽の区別を生ずるのであろうか。
 言葉は何に覆い隠されて、是と非の対立を生ずるのであろうか。

 もともと道というものは、どこまで行っても存在しないところはなく、言葉というものは、どこにあっても妥当するはずのものである。
 それが、そうでなくなるのはなぜか。
 ほかでもない。道は小さな成功を求める心によって隠され、言葉は栄誉と華やかさを求める議論のうちに隠されてしまうのである。

 だからこそ、そこに儒家と墨家との、是非の対立が生まれる。
 こうして相手の非とするところを()としたり、相手の是とするところを非としたりするようになる。
 もしほんとうに、相手の非とするところを是とし、相手の是とするところを非としようと思えば、是非の対立を越えた、明らかな知恵をもって照らすのが第一である。

 ── 対立。(どうしたところで、現在行われている戦争のことを考えざるを得ないが)意見の対立、是非善悪、正義・不正、対立するあらゆるのものを、知恵をもって見つめること。それを「明らかな知恵」、ほんとうの知恵、と荘子は言う。

 この文中にある儒家と墨家の対立の場合、その因を照らしてみれば、孔子の死後、世に広まった儒教の上に弟子たちがあぐらをかいてしまったのが原因だ。
 孔子は儀礼を重んじたが、後世の弟子たちは、心を込めて冠婚葬祭をするとか、そんな心はとうに失われ、形ばかりの冠婚葬祭等の儀式に徹し、儒家はボロ儲けし、贅沢と放埓な暮らしに溺れはじめたという。

 そんな儒家を、けしからぬとしたのが墨家だった。
 その祖・墨子はかなりの努力家だったと見え、弟子たちとともに河川の工事やら道路の整備やら、民が困っていると知れば労を厭わず出向き、まさに世のため人のために尽くす活躍ぶりだったという。
 だがその墨家も、始祖の死後、弟子たちの間に対立が生まれ、ほろんでしまった。

 それはそれとして、この(八)でやっと「道」という言葉が出てきた。
 言葉にできぬものに、仕方なく付けたとでもいう「(タオ)」、荘子の生きた道そのものだったはずのところのものだ。

 ブッダの「涅槃」、ソクラテスの「真理」を追究する姿勢、荘子の生きた「道」。正しさを追求する、その生き方というべきもの、この三人の生き様のようなものには、根底に通じている、大切な接点がある…
 
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