十一

文字数 1,364文字

 世の人は、もともと一つであるはずのものを、可と不可に分け、可であるものを可とし、不可であるものを不可としている。
 だがそれは、ちょうど道路が人の通行によって出来上がるように、世間の人々がそう言っているからという理由で、習慣的にそのやり方を認めているにすぎない。

 それでは、かれらは何をそうであるとして是認するのであろうか。
 世の人が習慣的にそうであるとすることを、そうであるとしているまでのことである。
 何をそうでないとして否定するのであろうか。世の人がそうではないとすることを、そうではないとしているにすぎない。

 だが、先に述べた無差別の道枢(どうすう)の立場から見れば、あらゆる対立が無意味なものになる。
 したがって、この立場からすれば、どのような物にも必ずそうであるとして肯定すべきところがあり、可として認められるべきところがある。

 言い換えれば、いかなる物もそうであるとして肯定されない物はなく、いかなる物も可として是認されないものはない。
 その例として、横に渡る梁と縦に立つ柱、(らい)病患者と美女の西施(せいし)、けたはずれのものと奇怪を極めたもの、などの対立を挙げてみよう。

 それらの対立差別は、人間の知恵がつくり出したものであり、自然の道から見れば、すべて一つなのである。
 この自然の道の立場から見れば、分散し消滅することは、そのまま生成することであり、生成することは、またそのまま死滅することでもある。

 すべてのものは、生成と死滅との差別なく、すべて一つである。
 ただ道に達したものだけが、すべてが通じて一であることを知る。だから達人は分別の知恵を用いないで、すべて自然の働きのままに任せるのである。

 (よう)とは用の意味であり、自然の作用ということである。
 自然の作用とは、すべてを通じて一である道の働きである。
 すべてに通じて一であるものを知るとは、道を体得することにほかならない。

 この道を体得した瞬間に、たちまち究極の境地に近づくことができるのである。
 究極の境地とは何か。
 是非の対立を越えた()に、いいかえれば自然のままの道に、ひたすら()り従うことである。
 ひたすら因り従うだけで、その因り従うことさえ意識しなくなること。これが道の境地である。

 ── ごもっともだと思う。これがヨシ、あれはワルし、と、この時点でぼくは「差別」しようとは思わない。

 この荘子の言う「自然」の前には、ぼくは全く無力になる。荘子に言われる前から、この「自然」というものの前には、もう、抗う余地もなく、屈するしかなかった。

 屈するも何も、もう「そうする」何ものかがあり、「そうされる」自分がいた、ということになる。
 それ以上も以下もない。

 自然に任せる── 任せるしか、ないようにも思える。結局のところは。
 ブッダも、そのようなことを言っていた。荘子はそれを「道」と呼び、ブッダは「涅槃」と呼んで。
 ソクラテスは「真理」…
 ついでに言えば、ニーチェが晩年、ブッダの思想に興味を持っていたことも、面白い。

 モンテーニュはもともと「自然に任せる」東洋的思想を持っていた。感じ方、観じ方、か… そこから出発して。
 運命随順(モンテーニュ)と無為自然(荘子)。

 東洋も西洋も、じつはなく、まことのものへ視線を注ぐ者の、そのつながり、交点が、ぼくには何とも愛おしい。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み