文字数 1,333文字

 闉跂支離無賑(いんきしりむしん)という、がにまたで、せむしで、三ツ口の不具者が、(えい)の霊公に道を説いたことがあった。
 霊公はその説に感心したが、それからというものは、五体満足な男を見ると、首が細くて貧弱に見えるようになった。

 また甕盎大癭(おうおうだいえん)という、大きなこぶだらけの男が、(せい)桓公(かんこう)に道を説いたことがあった。
 桓公はその説に感服したが、それからというものは、まともな人間を見ると、やはり首が細くて貧弱に見えるようになったという。

 このように、その人間の徳がすぐれていれば、その外形などは忘れてしまうことがあるものである。
 もし、これとは逆に、忘れてよいことを忘れず、忘れてはならないことを忘れるようなものがあれば、これこそ真の忘却というのである。

 だから聖人はいっさいの忘れるべきことを忘れて、自由の世界に遊ぶのである。
 知恵を不必要なひこばえのように見なし、身をしめくくる礼儀については自由を奪う(にかわ)と見なし、恩愛を人と人とを結びつける絆と見なし、生活に役立つ工業を無用の商業に等しいものと見なすのである。

 聖人は、はからいごとをしないのであるから、知恵を必要とすることがない。
 人間の品性を削り落とすことがないのであるから、それをくっつける役目をする礼儀の膠を必要とすることがない。

 人心を失うことがないのであるから、恩愛の絆で結びつける必要もない。
 物を売買することがないのであるから、商業を必要とするはずもない。

 この四つのもの、知、約、徳、工は、天が人間を養うために、自然に与えてくれるものである。
 天が人間を養うために与えてくれるもの、それはいわば天然の食物のようなものである。

 天から自然に食物を与えられているとすれば、わざわざそれを捜し求める人為は不必要ではないか。

 聖人は、人間の形をそなえてはいるものの、人間のような欲情はもたない。
 人間の形をそなえているために、その身は人間の世界の中にあって生活をする。
 だが、人間なみの欲情をもつことがないから、是非善悪の対立によって身をわずらわされることがない。

 その人間に属すという点だけから見れば、聖人もまた卑小な存在にすぎない。
 だが、自然のままを完成しているという点から見れば、それは限りなく偉大な存在である。

 ── 荘子という師を、このように見ていた弟子(荘子学派)の感懐か。

 欲情が善悪の対立をつくるのだろうか。我欲とは違うのか。同じか。

 内にある自然と、外にある自然。
「外にある自然」、この自然が運命と同義語であるとしたら、この運命と「内なる自然」を調和することがヨシ、であるはずだ。

 しかし、そもそも内と外、「分ける」必要、あるんだろうか。
 必要というか、「分け」ないと、でもどうもうまく行かない。

 いや、こんな聖人になるのはムリだよ。具体的に表現されているけど、ムリだ。
 人間の形をしているならば、その臓器や性器がその役割を果たそうとして、はたらき始めるものだろう。
 いくら聖人、「人間なみの欲情を持つことがない」なんて言ったって、そりゃ持つだろうよ。

 この聖人は、ちょっといただけない。
 美化、捏造しすぎて、せっかくの具体例が現実から離れすぎてしまう。
 だから「聖人」なんだとしても、これはちょっとイキスギだよ。
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