文字数 1,268文字

 詭弁(きべん)学派のうちには、まず指という個物の存在を認めたあとで、指が指でないことを論証しようとする者がある。
 しかしそれは、最初から指という個物を越えた一般者から出発して、そのあとで指が指でないことを論証するのに及ばない。

 また、まず馬という個物の存在を認めたあとで、馬が馬でないことを論証しようとする者がある。
 しかしそれは、最初から馬という個物を越えた一般者から出発して、そのあとで馬が馬でないことを論証するのには及ばない。

 先に述べた、無差別の道枢(どうすう)の立場からみれば、天地は一本の指とも言えるし、万物は一頭の馬であるとも言えるのである。

 ── うん、詭弁はずるいわな。狡猾だよ。理論武装は、好きでないよ。
 知識も、そんな欲しくない。知ることは、何も悪いことには繋がらないけれど、もう、特にいろんなことを頭に詰め込みたいとは思わない。

 知ろうとしなくても、知れるものは、向こうからやって来て、自然にこちらの内に入り込む。
 こちらにも、アンテナ、嗅覚?のようなものはあるが、それは身につけたいと思ってつけたものではない。

 その「ついたもの」は、個々、人によって異なる。それは生まれながらにして、どうしたわけか体内に埋め込まれた遠い記憶のような気もする。人ひとりに備わったそんな記憶が、一人一人の生き方の土台をつくっているような気もする。

 さらに、かてて加えて、いろんな記憶でいっぱいな頭に、どんどん記憶に上乗せされる。メモリー、メモリー、メモリー。もう、容量はパンパンではないか。
 そして、しかし自分をそうさせているのは自分自身であるという…。

 詭弁── 相手(自己を含む)をこうしよう・ああしようと、自分の思惑通りに動かそうとして、恣意のかたまりであることを自覚もせず、だから恥とも思わず「世を渡る」(自己を渡る)、そんな時と場合に、詭弁は便利かもしれない。
「そんな時と場合」が、でも常にあるとしたら、「まわりがそうしているんだから自分もそうする」者が増え、それが常識化して行くだろう。

 そして「対立」する、その攻撃相手は、「まわりがそうしているからといって自分はそうしない」者に向けられる。
 そのような行き方は、恐ろしいことだ。この行く末の極地は、かの戦地か、とも思えてしまう。

 ここで、戦乱を生きた「荘子」の言う「一般者」とは何を指すのか。
 指や馬、それが「ここにある」という事実を、何も考えずに見る。先入観、記憶もなくし、指や馬、その存在を見る…。
 それだけで、一本の指は天地にも通じるし、一頭の馬は万物であるように見えてくるものだろう。そのような者に、詭弁者はまさることはないよ、と言っているように聞こえる。

 あるものを、そのままに認める。受け容れる。そこから出発すると、馬は馬でなくなり、指は指でなくなり── 「道枢」の立場に立つ、と。
「一般者」とは、この道枢の立場から見れば、その立場に立つその「者」も、指や馬と同列の、「一般」なのだ、と。
 このような一般者に、戦争を繰り返さない望みをもちたい自分は、頭がおかしいのだろうか。
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