四
文字数 1,277文字
さて、大木の洞穴が、その形に応じて、さまざまな音を立てるように、人間の心もまた、そのありかたに応じて、喜怒哀楽さまざまに揺れ動く。
大知のあるものは、ゆうゆうとして迫らず、小知の持ち主はこせこせとしてゆとりがない。
偉大な言葉は、燃えさかる炎のように美しく、つまらぬ言葉は、いたずらに口数が多いばかりである。
多くの人は、寝ている時は、夢の中で魂が物と交わり、さめている時は、身体の感覚が働いて外物と接する。
このように、たえず外物と接して交わりを結び、そのため日ごとに心が物と戦うことになる。
その物との交わり方も、またさまざまである。
ゆるやかなものがあり、深く入り込むものがあり、こまやかなものがある。
小事を恐れるものは、たえずびくびくしているが、真に大きな恐れを持つものは、かえってゆうゆうとして余裕があるように見える。
まるで機 や栝 を放つ時のように素早い、という形容は、凡人が是非を立てて争う時のたとえにふさわしく、まるで神との誓いを守るかのように頑固であるとは、凡人が手に入れた勝利を失うまいとして守るさまの形容としてふさわしい。
秋や冬の季節が植物を枯らしていくようだという形容は、凡人が毎日その生命をすり減らしていくたとえにふさわしい。
このようにして凡人は、いよいよ深みに溺れていき、再びこれを元にかえすことは不可能となる。
欲望の世界のうちに固く閉じ込められているという表現は、老いていよいよ道を踏み外す人間の形容にふさわしい。
このようにして死に近づいた人間の心は、もはや、蘇らす術もないであろう。
── 手厳しい。特に、面白くもない。何が言いたいのかも、よく分からない。いや、分かるが、「で?」という感じがする。
でも、これを書いた人の気持ちは分かる気がする。
荘子は戦乱の時代を生きた。どうしたら世を平和に治めることができるか、という時、為政者に「こうしたらどうか」とアドバイスする「諸子百家」の一人であった。
荘子は、そんな「自分の思想こそ正しい」と、選挙運動さながらに声をあげ、「立候補」する人たちの中で、明らかに異質だった。
「政治など要らぬ」考えでもあったから、為政者に採用されるどころの話ではなかったろう…
この点、ブッダとよく似ている。真のものは、相対を超えてあるものだから、こっちが正しい、あっちは間違っている、などという争いに加わりようもない。加わりたいとも思わなかったろう。
だから荘子は孤独であったらしい。
誰もが「生きる」ことを前提としているのに、荘子の「死と生は同列である」とする思想など、誰にも振り向かれなかったかもしれない。
生命に、差別なんかない。万物に、差別なんかない。人間が、そうしているだけなのに。
だからこれを書いた人は、嘆いているようにも見える。
「真に大きな恐れを持つものは、かえってゆうゆうとして余裕があるように見える」とは、荘子のことだったのではないか。
恐れ、というより、畏れ…「大いなるもの」への畏れ。
その畏れを道にして生きたのが、荘子そのものだったのではないか、と想像する。
大知のあるものは、ゆうゆうとして迫らず、小知の持ち主はこせこせとしてゆとりがない。
偉大な言葉は、燃えさかる炎のように美しく、つまらぬ言葉は、いたずらに口数が多いばかりである。
多くの人は、寝ている時は、夢の中で魂が物と交わり、さめている時は、身体の感覚が働いて外物と接する。
このように、たえず外物と接して交わりを結び、そのため日ごとに心が物と戦うことになる。
その物との交わり方も、またさまざまである。
ゆるやかなものがあり、深く入り込むものがあり、こまやかなものがある。
小事を恐れるものは、たえずびくびくしているが、真に大きな恐れを持つものは、かえってゆうゆうとして余裕があるように見える。
まるで
秋や冬の季節が植物を枯らしていくようだという形容は、凡人が毎日その生命をすり減らしていくたとえにふさわしい。
このようにして凡人は、いよいよ深みに溺れていき、再びこれを元にかえすことは不可能となる。
欲望の世界のうちに固く閉じ込められているという表現は、老いていよいよ道を踏み外す人間の形容にふさわしい。
このようにして死に近づいた人間の心は、もはや、蘇らす術もないであろう。
── 手厳しい。特に、面白くもない。何が言いたいのかも、よく分からない。いや、分かるが、「で?」という感じがする。
でも、これを書いた人の気持ちは分かる気がする。
荘子は戦乱の時代を生きた。どうしたら世を平和に治めることができるか、という時、為政者に「こうしたらどうか」とアドバイスする「諸子百家」の一人であった。
荘子は、そんな「自分の思想こそ正しい」と、選挙運動さながらに声をあげ、「立候補」する人たちの中で、明らかに異質だった。
「政治など要らぬ」考えでもあったから、為政者に採用されるどころの話ではなかったろう…
この点、ブッダとよく似ている。真のものは、相対を超えてあるものだから、こっちが正しい、あっちは間違っている、などという争いに加わりようもない。加わりたいとも思わなかったろう。
だから荘子は孤独であったらしい。
誰もが「生きる」ことを前提としているのに、荘子の「死と生は同列である」とする思想など、誰にも振り向かれなかったかもしれない。
生命に、差別なんかない。万物に、差別なんかない。人間が、そうしているだけなのに。
だからこれを書いた人は、嘆いているようにも見える。
「真に大きな恐れを持つものは、かえってゆうゆうとして余裕があるように見える」とは、荘子のことだったのではないか。
恐れ、というより、畏れ…「大いなるもの」への畏れ。
その畏れを道にして生きたのが、荘子そのものだったのではないか、と想像する。