23、交 渉
文字数 2,454文字
世津奈は、カエデの病室に戻った。カエデはぐっすり眠っていて、そのベッドの傍らで由紀子が雑誌を読んでいる。病院の売店で買ってきたのだろう。
世津奈は、由紀子をデイ・ルームに誘い出し、高山と擦り合わせた案をぶつけた。
「これから『京橋テクノサービス』にお出向きいただき、社内の専門家にREB不在論をご説明いただきたいのです。カエデさんには、私が付き添います」
強い抵抗が返ってきた。
「冗談じゃないわ。どうして、私が大切な娘を置いて私の理論を教えてやりに行かなきゃならないの? あなた達は『海洋資源開発コンソーシアム』からREBが実在すると言われて、その機密漏洩を調査してるのでしょ。探偵はクライエントの言う事を信じて、調査を進めればいいんじゃないの」
由紀子は、先の会話と矛盾したことを言っていた。先ほどREBが実在しない可能性を匂わせて世津奈の興味を引こうとしたのは、由紀子の方だ。それが、今度は、世津奈はクライエントが言う通りREBが実在を信じて漏洩調査をすればよいと突き放してくる。
由紀子は本当はREBの存在を否定する理論を語りたくてウズウズしているが、もったいを付けているだけ。世津奈は、そう判断した。
もったいをつける一つの理由は、母親らしいポーズをとるためだ。娘への付き添いを放り出して自分の理論を語る機会に飛びつくのは、普通、母親として不自然だろう。
もう一つの理由は、内心自分が望んでいる機会に飛びついて足元を見られるのを恐れているから。
それなら、母親としての務めを後回しにしてでも依頼に応じる正当な理由を持ち出してやろう。
「ひとつ、気がかりなことがあるのです」
「気がかりなこと?」
「由紀子さんは、公益通報者保護法をご存じですよね」
「企業の不祥事を内部告発した従業員を企業が不利益扱いするのを禁じた法律でしょ」
「そうです。私たちは、公益通報者保護法に抵触しないよう、最大限の注意を払っています」
「どういうこと?」
「企業から社内の機密漏洩者を突き止めるよう依頼を受けて調査を進めるうちに、機密漏洩者が善意の内部告発者だと判明する事があります」
「あなた達がその社員を企業に教え、企業がその社員を不利益扱いすると、あなた達が公益通報者保護法違反に加担したと見られるかもしれないわね」
「ご指摘の通りです。ですから、機密漏洩者が善意の内部通報者である可能性が高いと判断した場合、私達は調査契約の解除を申し出ます」
「内部通報者の名前は?」
「クライエントにお伝えしません」
「そこまでにかかった費用は?」
「請求しません」
「クリーンなビジネスをしているのね」
「今回の件で気がかりなのは、栗林さんが善意の内部通報者かもしれないという事です。由紀子さんがおっしゃるようにREBは実在しないと仮定します。それが実在すると『海洋資源開発コンソーシアム』が言い張るとしたら、それは国民を欺く不正行為です。それに対して、栗林さんががコンソーシアムの不正を行政機関や報道機関に通報しようとしていたとします」
「ところが、あなた達の調査が栗林をあぶりだし、彼は『海洋資源開発コンソーシアム』の保安部に連れ去られた。あなた達にとっては、困った状況ね」
「おっしゃる通りです。そこで、私達は由紀子さんのREB不在論をうかがって、栗林さんが善意の内部通報者である蓋然性を判断したいのです」
「私の話を聞いてREBが実在しない蓋然性が極めて高いと判断したら、その後、どうするの?」
「栗林さんをコンソーシアムの保安部から救出します」
「救い出すと言っても、あなたは、栗林の居場所がわかっているの?」
「お宅の周りの塀や電柱に超小型の監視ドローンを6機配置してありました。その中の1機が栗林さんを連れ去る保安部の車に降下して電波を送りってきました」
「なるほど、粗忽かと思うと、用意周到なところもあるのね。でも、栗林を助け出すと、『海洋資源開発コンソーシアム』を裏切ることになるわよ? 業界の掟に反するんじゃないの?」
「由紀子さん、私達が『海洋資源開発コンソーシアム』に雇われたなどと、私はひと言も言っていません」
「あなたがそこまで言うなら、あなたを雇ったのはコンソーシアム以外のXさんだとしましょう。でも、Xさんは『海洋資源開発コンソーシアム』と利害が一致する人間に違いない。栗林を『海洋資源開発コンソーシアム』の保安部から救出したら、Xさんを裏切ることになる」
「しかし、REBが実在しない蓋然性が高いという事は、Xの注文通りに行動すると、『海洋資源開発コンソーシアム』が善意の内部通報者を迫害するのに手を貸したことになります。先にお話した通り、そういう状況では、私達はXとの契約を解除して栗林さんを守らなければなりません」
「なるほど、社会正義で攻めてくるわけね。善意の内部通報者を守るために、私の理論を語れと」
「はい」
由紀子が薄い唇に笑みを浮かべた。
「でも、私には、あなたの要望に応える義務はない」
「義務はありません。ですが、もし、栗林さんがこのまま姿を消したりしたら、後悔しませんか? 栗林さんは由紀子さんを裏切ったかもしれませんが、カエデさんの父親ですよ」
「おや、今度は情に訴えてくるわけ」
「はい。なんとしても、お話しいただきたいのです」
「あら、最後はストレートに要求してくるわけだ。いいわ、わかった。私が科学談義をすることが社会正義とやらに役立つなら、してあげる。栗林は私を裏切った男だけどコンクリ―ト詰めで東京湾に沈む場面を想像すると、胸が悪くなる」
「ありがとうございます。では、私どもの社長がお迎えに参りますので、病室でお待ちください」
病室に帰る由紀子を見送っているうちに、世津奈の全身から力が抜けそのまま床に崩れ落ちそうになった。世津奈は自分にムチを打って、高山に連絡するために公衆電話に向かうのだった。
世津奈は、由紀子をデイ・ルームに誘い出し、高山と擦り合わせた案をぶつけた。
「これから『京橋テクノサービス』にお出向きいただき、社内の専門家にREB不在論をご説明いただきたいのです。カエデさんには、私が付き添います」
強い抵抗が返ってきた。
「冗談じゃないわ。どうして、私が大切な娘を置いて私の理論を教えてやりに行かなきゃならないの? あなた達は『海洋資源開発コンソーシアム』からREBが実在すると言われて、その機密漏洩を調査してるのでしょ。探偵はクライエントの言う事を信じて、調査を進めればいいんじゃないの」
由紀子は、先の会話と矛盾したことを言っていた。先ほどREBが実在しない可能性を匂わせて世津奈の興味を引こうとしたのは、由紀子の方だ。それが、今度は、世津奈はクライエントが言う通りREBが実在を信じて漏洩調査をすればよいと突き放してくる。
由紀子は本当はREBの存在を否定する理論を語りたくてウズウズしているが、もったいを付けているだけ。世津奈は、そう判断した。
もったいをつける一つの理由は、母親らしいポーズをとるためだ。娘への付き添いを放り出して自分の理論を語る機会に飛びつくのは、普通、母親として不自然だろう。
もう一つの理由は、内心自分が望んでいる機会に飛びついて足元を見られるのを恐れているから。
それなら、母親としての務めを後回しにしてでも依頼に応じる正当な理由を持ち出してやろう。
「ひとつ、気がかりなことがあるのです」
「気がかりなこと?」
「由紀子さんは、公益通報者保護法をご存じですよね」
「企業の不祥事を内部告発した従業員を企業が不利益扱いするのを禁じた法律でしょ」
「そうです。私たちは、公益通報者保護法に抵触しないよう、最大限の注意を払っています」
「どういうこと?」
「企業から社内の機密漏洩者を突き止めるよう依頼を受けて調査を進めるうちに、機密漏洩者が善意の内部告発者だと判明する事があります」
「あなた達がその社員を企業に教え、企業がその社員を不利益扱いすると、あなた達が公益通報者保護法違反に加担したと見られるかもしれないわね」
「ご指摘の通りです。ですから、機密漏洩者が善意の内部通報者である可能性が高いと判断した場合、私達は調査契約の解除を申し出ます」
「内部通報者の名前は?」
「クライエントにお伝えしません」
「そこまでにかかった費用は?」
「請求しません」
「クリーンなビジネスをしているのね」
「今回の件で気がかりなのは、栗林さんが善意の内部通報者かもしれないという事です。由紀子さんがおっしゃるようにREBは実在しないと仮定します。それが実在すると『海洋資源開発コンソーシアム』が言い張るとしたら、それは国民を欺く不正行為です。それに対して、栗林さんががコンソーシアムの不正を行政機関や報道機関に通報しようとしていたとします」
「ところが、あなた達の調査が栗林をあぶりだし、彼は『海洋資源開発コンソーシアム』の保安部に連れ去られた。あなた達にとっては、困った状況ね」
「おっしゃる通りです。そこで、私達は由紀子さんのREB不在論をうかがって、栗林さんが善意の内部通報者である蓋然性を判断したいのです」
「私の話を聞いてREBが実在しない蓋然性が極めて高いと判断したら、その後、どうするの?」
「栗林さんをコンソーシアムの保安部から救出します」
「救い出すと言っても、あなたは、栗林の居場所がわかっているの?」
「お宅の周りの塀や電柱に超小型の監視ドローンを6機配置してありました。その中の1機が栗林さんを連れ去る保安部の車に降下して電波を送りってきました」
「なるほど、粗忽かと思うと、用意周到なところもあるのね。でも、栗林を助け出すと、『海洋資源開発コンソーシアム』を裏切ることになるわよ? 業界の掟に反するんじゃないの?」
「由紀子さん、私達が『海洋資源開発コンソーシアム』に雇われたなどと、私はひと言も言っていません」
「あなたがそこまで言うなら、あなたを雇ったのはコンソーシアム以外のXさんだとしましょう。でも、Xさんは『海洋資源開発コンソーシアム』と利害が一致する人間に違いない。栗林を『海洋資源開発コンソーシアム』の保安部から救出したら、Xさんを裏切ることになる」
「しかし、REBが実在しない蓋然性が高いという事は、Xの注文通りに行動すると、『海洋資源開発コンソーシアム』が善意の内部通報者を迫害するのに手を貸したことになります。先にお話した通り、そういう状況では、私達はXとの契約を解除して栗林さんを守らなければなりません」
「なるほど、社会正義で攻めてくるわけね。善意の内部通報者を守るために、私の理論を語れと」
「はい」
由紀子が薄い唇に笑みを浮かべた。
「でも、私には、あなたの要望に応える義務はない」
「義務はありません。ですが、もし、栗林さんがこのまま姿を消したりしたら、後悔しませんか? 栗林さんは由紀子さんを裏切ったかもしれませんが、カエデさんの父親ですよ」
「おや、今度は情に訴えてくるわけ」
「はい。なんとしても、お話しいただきたいのです」
「あら、最後はストレートに要求してくるわけだ。いいわ、わかった。私が科学談義をすることが社会正義とやらに役立つなら、してあげる。栗林は私を裏切った男だけどコンクリ―ト詰めで東京湾に沈む場面を想像すると、胸が悪くなる」
「ありがとうございます。では、私どもの社長がお迎えに参りますので、病室でお待ちください」
病室に帰る由紀子を見送っているうちに、世津奈の全身から力が抜けそのまま床に崩れ落ちそうになった。世津奈は自分にムチを打って、高山に連絡するために公衆電話に向かうのだった。