22、世津奈、追い詰められる

文字数 2,506文字

「由紀子さんは、栗林さんからREBは実在しないと聞かされたのですか?」
「いいえ。彼はREBの研究を担当する事になったとは言ったけど、REBが本当は存在しないとは、言わなかった。ただ、REBの研究担当になってから、ずっとふさぎ気味だった」
「失礼ですが、ご主人の――いえ、栗林さんの――ご様子だけでは、判断の根拠として弱いように感じますが」

 由紀子が目に悪戯っぽい光を浮かべて笑った。
「私は、REBは生物学的に存在し得ないと思っている。私は、今でこそ平凡な主婦に身をやつしているけど、アメリカの海洋生物研究所で研究員をしていたの。栗林とはそこで知り合った」
「平凡な主婦」という表現を、世津奈は不快に感じた。人は誰しも、他人には分からない苦労をし、悩みを抱えて生きている。「平凡な主婦」とひと言で括るのは乱暴であり失礼だ。

「つまり、海洋生物の研究者として、REBはあり得ないというご意見ですね」
「私の論拠を知りたければ説明するわよ。あなたが理解できれば……だけど」
「いえ、結構です」
 
 世津奈は受験に数学のない私大出身の「ベタ文系」だ。高校時代、生物の時間をどう過ごしていたのか、記憶すらない。
「京橋テクノサービス」には生物、物理の専門家がいるから、彼らなら由紀子の論の妥当性を判断できるかもしれないと思う。
 しかし、彼らの助力を得るためには高山社長の了解が必要だ。REBの機密漏洩調査員として「海洋資源開発コンソーシアム」に申請していない調査員を巻き込むことになるからだ。

「由紀子さんは、REBは存在し得ないというご意見を栗林さんにお伝えになりましたか?」
「いいえ。そんな事をしても彼を追い詰めるだけだと思って、口にしなかった」
「追い詰める?」
「栗林は優秀な研究者。REBが存在し得ない事くらいわかっていたはず。でも、会社からREBが実在する証拠をでっち上げろと言われたら逆らえる人間ではない。大洋重工本体でエリートコースを歩んできて、『海洋資源開発コンソーシアム』にエースとして送り込まれた。それを自覚し、まだまだ上を目指している」
由紀子の唇に冷たい笑みが浮かぶ。
 
 自分の夫の事をずいぶん突き放して見られるものだと、世津奈は驚く。それとも、夫婦生活を続けていると、伴侶を醒めた目で見るようになるのだろうか? 未婚の世津奈には理解できない世界だ。

「栗林さんがREBが実在し得ないと知っていて由紀子さんに黙っていたとします。その栗林さんが、研究助手に過ぎない中国人女性に秘密を漏らしたりするでしょうか?」
「私を妻として尊重してくれていれば、私に真っ先に話していたでしょうけど」
由紀子が突き放すような口調になる。
「栗林は、あの女性研究員と出来ていた」
冷ややかに付け加えた。

 世津奈は、夫婦間の機微に関する話にこれ以上踏み込みたくなかった。男女間の生臭い話が苦手なのだ。この辺は、高山社長に対応してもらった方が良い。
 由紀子との話を早めに切り上げ、生物学と物理学の専門家を動員してもらう件と合わせて、高山に由紀子の事情聴取を依頼するとしよう。

 世津奈が会話を切り上げるため由紀子と目を合わせると、由紀子がからんできた。
「世津奈さんは、私が栗林と彼女が出来ていたと判断する根拠は気にしないの?」
由紀子が探るような目を向けてくる。
「諺に『夫婦喧嘩は犬も食わない』と言いますから」
言ってしまってから、「しまった」と思う。動揺して不適切な言葉を使ってしまった。

「あなた、私たち夫婦をバカにしてる?」
「言葉の選択を間違えました。人様のプライバシーに踏み込みたくないのです」
「それで、よく探偵が務まるわね」
「二流ですので」
「あなたの会社は、私と娘の警護に二流の探偵をあてがったわけ? 見くびられたものね」

 墓穴を掘ってしまった。これ以上あがいても、穴に落ちていくばかりだ。世津奈は、唐突でも、ここで会話を切り上げることにする。
「由紀子さん、申し訳ありませんが、由紀子さんとカエデさんがご無事な事をまだ会社に連絡していません。連絡を入れた上で、また、お話をうかがわせてください」
「逃げるの?」
「ご自由にご想像ください」
「開き直るのね」
 
 世津奈も、さすがに切れそうになる。「しつけぇ女だなぁ。言いたいだけ言ってろ」と胸の中で呟く。
「まぁ、いいでしょう。私は、カエデの病室に戻っています」
由紀子が冷たい笑みを浮かべて立ち上がった。

 世津奈が状況と自分の案を高山に伝えると、珍しく高山が難癖つけずに世津奈の案に乗ってきた。
「いいわね。生物学の博士号を持っている田中君と物理の修士課程卒の山本君が、ちょうど空いている。二人に話を聞かせましょう」
「『海洋資源開発コンソーシアム』には、どのように話したらよいでしょう?」
「あら、二人が栗林夫人の理論を聞くことを『海洋資源開発コンソーシアム』に断る必要なんか、ないわよ。だって、調査というより科学談義でしょ」
この辺は、高山は融通が利く。

「それにしても、男女のドロドロした話が苦手というのは、調査員として困ったことね。あーたも、一度泥沼の恋愛を経験してみたら? 腹が据わるわよ」
「あ、はぁ……」
「いいわ、そっちは、あたしが対応する。ただ、一つだけ問題がある。田中君と山本君は、明日から新しい仕事が入っている。栗林夫人の話を聞かせるなら、今日しかないわよ」

 由紀子は、病院の医師から今晩はカエデに付き添うよう言われている。娘を残して「京橋テクノサービス」に「科学談義」をしに行くだろうか?
 不安が湧いてきたが、ここでくよくよ悩んでいても、何かが変わるわけではない。ともかく、由紀子に話を持ちかけるしかない。
「カエデさんには私が付き添うことにして、由紀子さんに『京橋テクノサービス』に行ってもらうよう説得します」
「成功を期待してる。説得できたら連絡して。あたしが迎えにいくから」
「わかりました」
世津奈は、両の拳を握って、自分に喝を入れた。
 

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

宝生世津奈

2年前まで、警視庁生活安全部・生活経済課で産業スパイ事件を担当していた。警察が自らの権威を守るために過ちを認めようとしない姿勢に嫌気がさして警察を辞め、民間で産業スパイ案件を調査する「京橋テクノサービス」に転職してきた。

小柄で骨太だが、身体に占める手足の比率が高いので、すらっとしたモデル体型に、見えなくもない。

穏やかだが、肚が据わっていて、いざとなると、思い切った行動がとれる。

受験に数学のない私大出身の純・文系なので、実は、科学には、あまり強くない。

コータロー(菊村 幸太郎)

「京橋テクノサービス」で、世津奈とバディを組んでいる。

一流国立大学の数学科を卒業、同じ大学の大学院で応用数学の修士号を取り、さらに数量経済学の博士課程に進んだが、そこで強烈なアカデミック・ハラスメントにあい、引きこもりとなって2年間を過ごす。親戚の手で無理やり家から引きずり出されて、「京橋テクノサービス」に入社させられた。

頭脳明晰だが、精神年齢が幼い。普段は「ヘタレ」なのだが、時々、思い切った行動に出て、世津奈をハラハラさせる。IT、メカの操作、自動車の運転に優れている。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み