2.白昼の激闘

文字数 3,169文字

「車両進入禁止」の標識が立っている路地の手前でタクシーが停まる。「ここから先は、クルマは入れないよ」中年のタクシードライバーがダミ声で言う。
「このあたりは昔からの下町がそのまま残ってて、狭い路地だらけだ。消防車が入れないから建て替えろって都が住民に言ってるけど、ちっとも進んじゃいない」
 ドライバーがカーナビを見て「お客さんから聞いた住所は、その路地に入って、半分ばかり行ったあたり。路地の右側だね」と教えてくれる。

「ありがとうございます」と世津奈が運賃を渡している間にコータローがタクシーを降り、「うへえー、センターより、もっと暑いっす」と言う。コー君、当たり前だよ。今は午後の2時、暑さのピークだ。
 路地はクルマ1台しか通り抜けられない細い通りだ。その両側に塀も生垣もない二階建ての民家がずらっと並んでいる。家の軒先に朝顔の鉢が並び、乾きかけた打ち水の痕が見られる。昔ながらの下町風景そのものだ。

「『深海技術センター』の柳田部長は大洋重工みたいな大企業の次長っすよね。臨海部のタワーマンションに住んでるに違いないと思ったんすけど」
「部長は生まれ育った土地に愛着を持っている代々の江戸っ子なのかもしれない。そうでなかったとしても、自分の家を建て替えるためには道路を広げなきゃいけなくて面倒だわ」

「それから、『次長』っていうのは、大洋重工での資格ね。柳田氏は今は『深海技術センター』に出向して『部長』なの。本人の前では『部長』といわなきゃダメよ」
「そんなこと、問題になるんすか?」
「大企業のサラリーマンを相手にする時は大問題よ。警察なら、下手すると命取りになる」
「そんな事にこだわってるから、日本は生産性が低いんすよ」
「日本って、生産性が低いの?」
「製造現場以外は、他の先進国に比べてずいぶん劣ります」
「そうなんだ」

 柳田は大洋重工から「深海技術センター」に出向して、生物資源開発部を統括している。生物資源開発部はREB研究の中心だ。
 世津奈が予想したとおり、「深海技術センター」の倉田総務部長には後ろ暗いところがあった。世津奈が「海洋資源開発センター」から依頼された調査だと強調すると、倉田は簡単に白状し始めた。倉田は、柳田が彼の知人である中国人女性を正式手続き抜きで研究員に採用するのを黙認していたのだ。

 機密保持のため、「深海技術センター」はセンターを所有する「海洋資源開発コンソーシアム」が審査・承認した人間しか採用できない。総務部長の倉田は、柳田にルールを守らせなければならない立場にある。 
 
 2人は大洋重工からの出向者だが、大洋重工では柳田が次長、倉田が課長だった。つまり、柳田の方がランクが上だった。倉田は柳田が圧力をかけてくると抵抗できなかったのだという。この状況は、徹底した階級社会である警察に身を置いていた世津奈には痛いほどわかる。

 世津奈が倉田から教わった女性研究員の電話番号にかけると、固定電話はもちろん、携帯にも応答がなかった。
 女性研究員がすでに欲しい情報を手に入れて逃亡した可能性が高い。世津奈は女性研究員の身元や彼女の立ち回り先のヒントを得るために、至急、柳田部長に会う必要がある。

 世津奈が柳田部長に電話すると、幸い、彼は自宅にいた。柳田は世津奈が調査員と知ると逃げ出すかもしれない。単純な用件を偽ると夏休み中の柳田に断られるおそれもある。
 世津奈は、中間を取って「井出の部下です。井出の代理で至急お伝えしたいことがあります。電話やメールでお伝えするのは不都合な件なです」と告げた。
 世津奈は柳田が少し言葉に詰まったように感じたが、彼は「では、お待ちしています」と硬い口調で答えた。柳田は、世津奈が女性研究員の件を問い質しに柳田を訪れることに気づいてしまったかもしれない。そのことが、世津奈を不安にしていた。

 路地の中は意外に風通しが良く、外の大通りより快適だ。世津奈とコータローは一軒、一軒、表札を確かめながら歩いていく。2人は10メートルほど先に、周りの家より豊かそうな二階家を見つけた。路地と玄関の間には狭い庭がある。

「柳田部長の家って、あれすかね?」とコータローが言う。
その時、家から4人の男性が出てきた。50代半ばくらいの男性を、引き締まった身体つきの30から40代らしき3人が取り巻いている。みな、カジュアルな服装だ。年長の男性の顔は、柳田部長の写真とそっくりだ。

「柳田部長」
世津奈が声をかけると、年長の男が驚いた様子で彼女を見る。男が救いを求める表情をしていると、世津奈は判断した。

 世津奈は左肩に片掛けしていたバックパックの外ポケットを右手でこじあける。右手で中の特殊警棒を握る。
「宝生さん、これって」
コータローが緊張した声を出す。
「ええ、荒っぽいことになるわよ」小声で答える。

 世津奈は急ぎ足で男達に近づきながら、声をかける。
「どちら様か存じあげませんが、私どもが柳田部長と先約があります。お帰りください」
 3人の男が世津奈に向かって歩み出て、柳田の前に壁を作る。世津奈は、男たちの2メートルほど手前で止まり、再び声をかける。
「もう一度、申し上げます。私どもが部長と先約があります。どうぞ、お帰りください」

「痛い目にあいたくなかったら、さっさと引き揚げるんだな」
真ん中の一番図体のでかい男が、太く低い声で威嚇してくる。世津奈は黙って笑顔を返す。
「へらへら笑ってんじゃねえ。さっさと、引きあげろ」男が声にドスをきかせながら、こちらに踏み出してくる。

 世津奈は左手でバックパックの背負いヒモをつかんで肩から外し、そのまま、中央の大男に投げつける。男がよけきれず脇腹にバックパックを受ける。男が一歩後退する。バックパックの中には200ページ以上ある契約書が入っているのだ。それなりの衝撃を受けたはずだ。

 世津奈は右手に握った特殊警棒を振り出しながら、右端の男に向かって宙を飛ぶ。着地と同時に、男の左ひざ外側に警棒を叩き込む。男がひざを折る。続けて男の腰骨にも一撃。男がバランスを崩して横転する。世津奈は男の腹を蹴飛ばし、中央の大男に向かう。
 警棒で、世津奈は空手の構えを取った大男の肘を一撃する。警棒が固い金属にはじき返されたような衝撃が右手を襲った。こいつは、手ごわい。コータローに目をやると、もう一人の男と組み手で闘っている最中で、助けは期待できそうにない。

 大男の回し蹴りがうなりを上げて世津奈を襲う。男はその大柄な身体からは想像できない速さで次々と回し蹴りを繰り出し、世津奈はよけることしかできない。
 世津奈は我慢強く耐える。男が激しくケリを繰り出し続けるのは、小柄な世津奈が懐に飛びこんでくるのを恐れているからだ。
 その証拠に、男は世津奈との間合いを詰める必要がある突き、打ちなどの手わざは一切使ってこない。恐れを持っている人間は、いつかは焦って自滅する。そのチャンスをじっとうかがうのだ。

 世津奈は、男の蹴りをよけながら右に回りこんで柳田宅の庭先に移動する。庭と路地の間に段差がある。世津奈は大きく後ろに飛び下がり、庭に着地する。男が世津奈を追う。世津奈に向かって右足を繰り出してくる。その時、男の左足が路地と庭の段差にひっかかった。男のバランスが崩れ、右足が空中で中途半端に止まる。

 世津奈は男の前に飛び出し、宙にある男のつま先に警棒を叩き込んだ。男がつま先を両手で抱えて片足立ちになる。世津奈は男に立ち直るスキを与えず、軸足のひざと腰骨を連打する。男の身体が揺れ、路地に横倒しになる。世津奈は男のみぞおちに蹴りを叩きこんで男の動きを完全に止める。

 世津奈の視線の先で、コータローの回しゲリが相手の後頭部をクリーンヒットした。男がふらりと揺れてから、前方にばったり倒れた。
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登場人物紹介

宝生世津奈

2年前まで、警視庁生活安全部・生活経済課で産業スパイ事件を担当していた。警察が自らの権威を守るために過ちを認めようとしない姿勢に嫌気がさして警察を辞め、民間で産業スパイ案件を調査する「京橋テクノサービス」に転職してきた。

小柄で骨太だが、身体に占める手足の比率が高いので、すらっとしたモデル体型に、見えなくもない。

穏やかだが、肚が据わっていて、いざとなると、思い切った行動がとれる。

受験に数学のない私大出身の純・文系なので、実は、科学には、あまり強くない。

コータロー(菊村 幸太郎)

「京橋テクノサービス」で、世津奈とバディを組んでいる。

一流国立大学の数学科を卒業、同じ大学の大学院で応用数学の修士号を取り、さらに数量経済学の博士課程に進んだが、そこで強烈なアカデミック・ハラスメントにあい、引きこもりとなって2年間を過ごす。親戚の手で無理やり家から引きずり出されて、「京橋テクノサービス」に入社させられた。

頭脳明晰だが、精神年齢が幼い。普段は「ヘタレ」なのだが、時々、思い切った行動に出て、世津奈をハラハラさせる。IT、メカの操作、自動車の運転に優れている。

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