19. 死闘のあと……

文字数 1,598文字

 栗林母子は奪い返したものの、厄介なことになっていた。
 世津奈の目の前で、4歳の幼女が背骨が折れそうなほど激しくせき込んでいる。母親が鬼の形相で世津奈をにらんでいる。
 拉致犯たちのバンの周囲には、催涙ガスが漂い、世津奈が行動不能にした4人の男たちが転がっている。
 コータローも防弾ベストの上からではあるが、銃弾を受け、気を失って倒れている。
 修羅場……だった。

 どこから手を付けるか? 栗林母子を離れた場所まで移動させ救急車を呼ぼうとしたが、母親に頑強に抵抗された。考えてみれば、当然だ。幼女に一刻も早い処置が必要なことは、世津奈にもわかる。
 そこで、自分の考えを再点検する。なぜ、私は、ここには救急車を呼べないと思っているのか? 救急隊員が、この修羅場を見て警察に通報するのを恐れているからだ。待てよ。だったら、通報させなければいい。なんだ、簡単な話じゃないか。

 世津奈はカーゴパンツのポケットからいつもの「飛ばし」スマホを取り出し、栗林夫人に見せた。「今すぐ、救急車を呼びます」夫人が疑い深い目で世津奈を見る。
 今は鬼の形相だが、元々は知的で端正な容貌なのではないのか? ふと、そんな気がした。

 119を呼んだ。「火事ですか? 救急ですか?」というオペレーターの問いに、喘息発作で死にそうな4歳児がいると答え、ガソリンスタンドの名前を告げた。住所を尋ねられたが、わからない。スマホをつないだままにしておくから、発信場所を見つけてくれと答える。
 スマホを栗林夫人に渡す。
「安心してください。本当に、119につながっています」
そう言い置いて、コータローの様子を見に行く。

 コータローは、意識を取り戻してうめいていた。世津奈が顔をのぞきこむと、目に涙がにじんでいる。
「宝生さん、撃たれちゃいました」
泣き声を出す。
「宝生さん、ほんと、お世話になりました。言いたい放題言ってきたけど、でも、」
ついに、大泣きになる。
「でも、本当は、宝生さんのこと、尊敬してました。大好きでした」

「あら、コー君、早まったことを言ったね。私は物覚えがいいから、あとで後悔するよ。コー君の傷、命に関わるものじゃないから。至近距離で撃たれた衝撃で気を失っただけ。防弾ベストが銃弾を食い止めてる。銃弾の先端だけがベストを突き抜けて、身体に食い込んでるの」
「気休めなんか言ってくれなくて、いいっす」
「この忙しい時に気休めなんか言ってる暇、ないわ。それで、お願いがあるんだけど、このお金で」
と言って、世津奈はポケットから1万円札を2枚取り出してコータローに握らせる。
「タクシーで『青柳商会』へ行ってよ」

「宝生さんは、どうするんすか?」
「私は、栗林母子と一緒に救急車に乗って近所の病院に行く。娘さんがひどい喘息発作を起こして一刻を争うの」
 コータローがわかったような、わからないような顔でうなずく。不安になった世津奈は、「仕事でケガしたら」と京橋テクノサービス内の合言葉を唱える。コータローが反射的に「青柳商会」と答える。
「そう、その通り。じゃ、頼んだわよ。ガソリンスタンドの店員が110番するかもしれないから、急いでね」
 世津奈は、ポケットから水なしで飲める鎮痛剤を取り出しコータローの口に押し込んだ。今日は、色々持ってきていて、よかった。

 ピーポーピーポーという、どことなく間抜けな救急車のサイレンが聞こえ始めたと思うと、どんどん近づいてくる。まだパトカーのサイレンが聞えないところを見ると、店員は気が動転して警察に連絡するのを忘れているのだろう。ずっと忘れていて欲しいものだが、そう、うまい話はない。一刻も早く、ここを離れなくては。
 
 栗林夫人が通りに出て、両手を振って救急車を招き寄せている。やるじゃない、お母さん。世津奈は栗林夫人に合流した。
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登場人物紹介

宝生世津奈

2年前まで、警視庁生活安全部・生活経済課で産業スパイ事件を担当していた。警察が自らの権威を守るために過ちを認めようとしない姿勢に嫌気がさして警察を辞め、民間で産業スパイ案件を調査する「京橋テクノサービス」に転職してきた。

小柄で骨太だが、身体に占める手足の比率が高いので、すらっとしたモデル体型に、見えなくもない。

穏やかだが、肚が据わっていて、いざとなると、思い切った行動がとれる。

受験に数学のない私大出身の純・文系なので、実は、科学には、あまり強くない。

コータロー(菊村 幸太郎)

「京橋テクノサービス」で、世津奈とバディを組んでいる。

一流国立大学の数学科を卒業、同じ大学の大学院で応用数学の修士号を取り、さらに数量経済学の博士課程に進んだが、そこで強烈なアカデミック・ハラスメントにあい、引きこもりとなって2年間を過ごす。親戚の手で無理やり家から引きずり出されて、「京橋テクノサービス」に入社させられた。

頭脳明晰だが、精神年齢が幼い。普段は「ヘタレ」なのだが、時々、思い切った行動に出て、世津奈をハラハラさせる。IT、メカの操作、自動車の運転に優れている。

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