7.ワナ

文字数 4,028文字

 強烈な日差しが錐をもみ込むようにフロントガラスを突き抜け、車内の冷房を最大にしていても、世津奈の上半身はじっとり汗ばんでいた。
「クルマに逃げ込んでも、暑さから完全に逃がれるのは無理っすね」
隣でハンドルを握っているコータローが悔しそうに言う。
「でも、歩くより、全然マシでしょ」
「そりゃ、もちろん」

 念願のクルマを手に入れたコータローは、暑さにぼやく事をのぞけば、朝からずっと上機嫌だ。世津奈には、まったく馴染みのないロック・ナンバーをカーステレオで次から次へと流し、それに声を合わせて、小刻みに身体を揺らしながらクルマを転がしている。
 
 世津奈が心配していたクルマ酔いは、今のところ兆しすらない。高山がくれた酔い止め薬がよく効く体質に変わったのか、それとも、コータローの運転が上手いのか?
 多分、後の理由だと世津奈は思う。信号の多い都内で栗林研究員のミニバンを追尾していても、急なストップ・アンド・ゴーがほとんどない。コータローは車の流れと前方の3つから4つ先までの信号の変化をよく見て、実にスムーズにクルマを走らせてきた。

 都心を離れて1時間半、世津奈たちは、奥多摩渓谷に沿って小河内ダムに続く曲がりくねった国道を登っている。前方を行く栗林研究員のミニバンがカーブに近づくと山陰に姿を消し、世津奈たちがカーブに突入すると、また目の前に姿を現す。栗林研究員は、助手席に妻、後部座席に四歳になる独り娘を乗せている。

 世津奈、コータローは、高山は、昨晩、再度社長室に集まり今後の調査計画を検討した。3人とも、柳田をこれ以上つついても何も出そうにないと判断し、産業スパイの女性研究者と職場で最も親しかった栗林研究員の行動を監視することにした。
 
 といっても、高山、世津奈、コータローの3人だけで24時間監視するのは、無理。高山が東光物産・井出部長に調査員の増員を掛け合い、増員が実現するまでの間は、夜間は栗林の自宅をカメラで監視し、少しでも動きがあったら世津奈とコータローのスマホに緊急速報が入るようにした。
 
 深夜1時過ぎ、世津奈とコータローは栗林家の近くまでクルマを走らせ、超小型の監視用ドローンを飛ばして、栗林家の玄関と勝手口を見渡せる外壁の上に着地させた。ドローンは人の出入りがあれば、直ちに世津奈とコータローに緊急連絡するようにセットしてある。
 世津奈とコータローは、栗林家から1キロ圏内にあるビジネスホテルに泊まり込んで、栗林の動きに即応できる態勢を取った。

 世津奈と高山は、危機感を持っていた。産業スパイと思われる女性研究員は、すでに姿をくらませている。必要な情報を収集し終えて撤収したのだとすると、もう海外に高飛びしているかもしれない。
 まだ必要な情報が残っていて、もう一度栗林研究員と接触してくれることを、世津奈は祈っている。そうなってくれれば、スパイと栗林研究員の双方を抑えて締め上げることが出来るからだ。

「今日、栗林さんは産業スパイと接触しませんよ。家族連れですもん。ダム見物ですって」
コータローが世津奈の期待に水を差すようなことを言った。
「わからないわよ。あなたと同じ発想かも」
世津奈は、シートの背中越しに、後部座席に据え付けられたチャイルドシートと、そこに括りつけられたママさん教室の育児指導に使うのと同じ本物感あふれる赤ん坊の人形を指さす。コータローが尾行をカムフラージュするために細工したものだ。
「これなら、ボクら、赤ん坊連れの夫婦にしかみえないっすよ」
コータローは、自慢げに言ったものだ。

「栗林さんが、スパイと会うのをカモフラージュするために家族を連れてきたって言うんすか?奥さんだけならともかく、4歳の娘さんまでそんな危ないビジネスに巻き込むとしたら、栗林さんは、人でなしですよ」
コータローの声のトーンが、少し、下がった。
 警察出身の世津奈は、調査対象者を白黒関係なく、すべて呼び捨てにする。コータローは、たとえ黒だとわかっても、対象者を「さん」付けで呼ぶ。コータローのそういう所を、世津奈は好ましく思っている。
「そうね。栗林が人でなしであって欲しくは、ないわね」
コータローと話していると、本当に、そういう気分になってくるから不思議だ。
 
 今までの中でも特にキツいカーブを抜けると、前方にかなり長い直線路が開けた。
「あれっ」
 とコータローが声を出す。栗林の車が、突然、右手に迫る山の中に消えたのだ。世津奈は、カーナビの画面をのぞく。国道から山中に入っていく狭い道路が一筋映っていた。

「コー君、ちょっと停めて」
世津奈はコータローに車を停めさせ、栗林が折れて入った狭い道の先をカーナビで調べる。入口から1キロほどで道はY字型に分岐し、左の道は山中を多摩川の上流方向に進んで小河内ダムへ、右の道は下流方向に進んで、ここに来る途中で通り越したキャンプ場につながっている。

 しまった、やられたと思った。
「栗林は、私たちの正体を確かめようとしている」
「えっ、どういうことすか?」
「私たちが赤ん坊連れでダム見物に来た夫婦なら、山中を遠回りするのは変でしょう。もし、キャンプ場が目的地で、それを通り越してしまったから戻るのなら、この国道をUターンすればすむ」
「つまり、ボクらが栗林さんの後をつけてこの道に入ったら、ボクらが栗林さんを尾行してることがバレるってことすか?」
「そうなるわね」

「じゃあ、このままダムに行って、待ち伏せましょう」
「そうしたら、栗林はキャンプ場でスパイと接触するかもしれない」
「ボクらがダムに先回りしたなんて、栗林さんにわかるわけないっすよ」
「こんなやり口を、素人の栗林が考え付くとは思えない。産業スパイから指示を受けたのよ。すると、ダムでも、キャンプ場でも、産業スパイとその仲間が見張っている可能性が高い」
「つまり、ボクらがダムに先回りしても、キャンプ場に先回りしても、それとは反対の場所でスパイと栗林さんが会うってことか」
コータローがさすがに困った顔になる。
「宝生さん、どうします?」

「どうもこうも、こうなったら、この細道で追尾していくしかない。私たちが見ていないところで栗林とスパイが接触するのが、最悪の事態なんだから。コー君、クルマを出して」
 コータローは、両側から森が迫り対向車が来たら身動き取れなくなりそうな狭い砂利道に高速で突っ込んでいく。一刻も早く栗林のクルマに追いつきたい。タイヤが砂利を弾く音が聞こえ、クルマが激しく上下に揺れる。世津奈の胸にクルマ酔いの不安が兆してきた。

 栗林のクルマが前方に見えてきた。こちらも、砂利をはね上げながらかなりのスピードで走っている。コータローは速度を落とし、車間距離を一定に保ちながら安定したハンドルさばきで追い始めた。
「宝生さん、かなり揺れるけど、大丈夫すか?」
コータローが心配そうに訊いてくる。

「うん、大丈夫。今日、気が付いたんだけど、私は、クルマが揺れても同じ速度で走り続けていれば大丈夫みたい。止まったり・走ったりを繰り返されると、気分が悪くなっちゃうのね」
実際、世津奈が懸念したクルマ酔いは、まだ起こっていない。
「あっ、栗林さん、左に行きますね。ダムに向うんだ」
コータローが言い、栗林のワゴン車がY字路を左に折れていった。世津奈たちは、その後に続く。5分も走っただろうか。栗林のミニバンの前方で、狭い砂利道がより広い舗装道路に突き当たるのが見える。その先には、キラキラ輝く水面。小河内ダムだ。

「やられましたね。今日は産業スパイとの接触はなしっすよ。この後、どうします?」
「このまま、くっついていくのよ。行動監視って、そういうものでしょ」
 と世津奈が言うと、コータローが「はぁ」と気のない声を出した。世津奈は、警察官時代に、猛暑、厳寒の中、何の収穫もなしに被疑者の行動監視を続けることに慣れていたが、長く引きこもり常態にあったコータローには、そんな我慢を身に着ける機会はなかった。

「クルマ好きのコー君にとっては、会社のクルマとガソリンでドライブを楽しんでるみたいなもんじゃない。それを続けるだけのこと」
世津奈がからかうように言うと、コータローが
「まぁ、そうなんすけど。でも、ボクも、実は心のどっかで、スパイの顔が拝めるかなって期待してたんすよ」とぼやいた。

「ダム見物で気分転換も悪くないわ」
そう言い終えた瞬間、世津奈の頭に「ひょっとして」と一つの可能性がひらめいた。
 栗林はスパイに直接情報を渡すのでなく、あらかじめスパイとの間で決めた隠し場所に情報の入った書類なりUSBメモリーなりを残して立ち去るのではないだろうか?
 その情報を後からスパイがやってきてピックアップする。「デッド・ドロップ」と呼ばれる、古典的なスパイ同士の情報交換方法だ。

「コー君、『見張り箱』は積んできたよね」世津奈が尋ねると、コータローが「投下器に5個装填してラゲッジ・スペースに積んでありますけど」と答えた。
「見張り箱」は、縦・横・高さが3センチの立方体の箱に広角レンズを仕込んだ小型監視ロボットだ。外面には光学迷彩が施され、周囲の景色に溶け込んで発見されにくい。筐体の裏に衝撃吸収材を貼り、底面に重しをつけてあるので、時速30キロほどで走行しているクルマから投下しても、1メートルほど転がるだけで静止する。

「栗林さんがクルマを停めてくつろぎ始めるようだったら、横を徐行しながら、『見張り箱』を3個、落とそう」
「それは、いいすけど。それで、何がわかるんすか?」
「スパイとお目にかかれるかもしれないってこと」
世津奈はハンドルを握っているコータローの横顔に微笑みかけた。


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登場人物紹介

宝生世津奈

2年前まで、警視庁生活安全部・生活経済課で産業スパイ事件を担当していた。警察が自らの権威を守るために過ちを認めようとしない姿勢に嫌気がさして警察を辞め、民間で産業スパイ案件を調査する「京橋テクノサービス」に転職してきた。

小柄で骨太だが、身体に占める手足の比率が高いので、すらっとしたモデル体型に、見えなくもない。

穏やかだが、肚が据わっていて、いざとなると、思い切った行動がとれる。

受験に数学のない私大出身の純・文系なので、実は、科学には、あまり強くない。

コータロー(菊村 幸太郎)

「京橋テクノサービス」で、世津奈とバディを組んでいる。

一流国立大学の数学科を卒業、同じ大学の大学院で応用数学の修士号を取り、さらに数量経済学の博士課程に進んだが、そこで強烈なアカデミック・ハラスメントにあい、引きこもりとなって2年間を過ごす。親戚の手で無理やり家から引きずり出されて、「京橋テクノサービス」に入社させられた。

頭脳明晰だが、精神年齢が幼い。普段は「ヘタレ」なのだが、時々、思い切った行動に出て、世津奈をハラハラさせる。IT、メカの操作、自動車の運転に優れている。

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