21. 栗林由紀子

文字数 2,856文字

「探偵さん、手厚いおもてなし、ありがとう」
栗林夫人がペットボトルのミネラルウォーターを一口すすり、フタを元に戻す。
汗でチクチクしている世津奈の肌を、夫人の皮肉が逆なでする。
 
 世津奈は、総合病院のデイ・ルームでペットボトルを手に栗林夫人と向き合っている。カエデを運ぶ救急車に同乗して運ばれて来たのだが、この病院だ。
 栗林夫人がカエデが安静になるのを見届けてから世津奈をデイ・ルームに誘った。デイ・ルームは、病院の廊下から中庭に向けてフレンチ・ウィンドウのように張り出している。外からの陽射しにさらされ、中は温室のようだ。

「厚遇だなんて、めっそうもない。十分なおもてなしが出来ず、本当に申し訳ないと思っています。特に、お嬢さんの事は心からお詫びします」
「あら、自分たちが拙い仕事をしているという自覚は、あるのね」
 全身に汗をにじませている世津奈の前で、栗林夫人は陶器のような肌に汗の玉ひとつ浮かべず、涼しい顔をしている。
 栗林夫人は美しかった。うりざね顔で、頬骨が少しだけ尖っている。顔の中央を高くまっすぐ鼻筋が通り、鼻筋をを中心に見事に対称な位置に、一重瞼の切れ長の目が彫り込まれている。引き締まった薄い唇と額に浮いた血管が、美しい顔に冷酷そうな印象を添えている。

「遠回しの皮肉は止めて、ストレートに言うわ。あなたの会社のスタッフは、私と娘を保護すると言ってホテルに連れて行った。それなのに、私たちはたった一人の襲撃者に拉致されてしまった」
夫人は京橋テクノサービス緊急保護センターのスタッフ3名がニセのボーイにたちまち倒されたことを言っている。
「あなたは私たちを取り戻すため白昼のガソリンスタンドで銃撃戦を演じ、あやうく警察に捕まるところだった」
今度は、世津奈とコータローが非難される。

 夫人が唇の端に小さな笑みを浮かべる。だが、目は笑っていない。
「プロらしからぬ不始末の連続。誰が、あなた達みたいな間抜けな探偵を雇ったのかしら?」
 夫人が世津奈の目を射抜くような視線を向けてきた。栗林夫人はシャープな知性の底に邪悪なものを潜ませていそうだ。
「探偵は、クライエントを明かしません」
「守秘義務?」
「はい」

 夫人がミネラルウォーターのペットボトルのフタをあけ一口すすり、フタを戻す。細く長い指が美しい。
「毎回、そうやって元に戻すのですか?」
世津奈は尋ねる。
 夫人が首をかしげ、形の良い眉を寄せる。世津奈の質問が飲み込めなかったようだ。
「ペットボトルのフタです。まだ、ふた口しか飲んでいらっしゃいません。もっと、飲みますよね。毎回開け閉めするのは、面倒ではないかと思いまして」

「あなたは、開けっ放しね」
夫人があごを持ち上げるようにして世津奈を見返す。
「ええ、飲み終わるまで」

 栗林夫人の白魚のような手がテーブルの上で閃き、世津奈のペットボトルを倒した。中身のダイエット・ペプシがテーブルの上で泡を立てる。
「こうして、何かのはずみでボトルが倒れたら?」
「中味がこぼれます」
「そう、こぼれる。大事な書類やスマホにダイエット・コークをかけたくないでしょ?」
「これはペプシです」
世津奈は、フタがあいたままの自分のペットボトルをかがげてみせる。
「Whatever」
夫人が唇の端を持ち上げ英語でつぶやく。

「探偵さん、つまらない時間稼ぎをしてないで、さっさと質問に答えたら?」
夫人がミネラルウォーターのボトルを開けて口を湿らせ、フタを元に戻す。
 世津奈は、時間を稼ぐためにフタの話をしたのではない。思ったことが、ふと口をついて出てしまったのだ。いつの間にか自分がコータローに似てきている事に気づき、世津奈は胸の内で苦笑する。
 
 夫人の質問への答えについては、考える余地も迷う余地もない。
「ですから、先ほどのご質問にはお答えできません」
世津奈は、きっぱり言い切る。

「そぉ、粗忽な探偵さんでも守秘義務には忠実ってこと」
薄い唇に軽蔑の笑み。
「でも、その雇い主があなたを騙していたら? それでも雇い主の秘密を守る義務があるかしら?」
「クライエントが私たちを騙す? どういう意味ですか?」

 夫人が椅子の背に身をもたせ、両脚を組む。同性の世津奈でも惚れ惚れする長く、美しい脚。ストッキングにほつれがあるのが、世津奈の目に留まった。栗林夫人にストッキングのほつれは似合わない。普通ならあり得ないはず。ガソリンスタンドでの乱闘中に出来たのだろう。

「あなた達のクライエントは、あなた達に実在する物の機密漏洩を調べろと命じた。でも、クライエントが本当に知りたいのは、その物が実在しないという真実が外部に漏れていな事だった。例えば、そういう話」
夫人が世津奈の心の底を見とおそうとするような視線を投げてよこした。

 世津奈は、驚く。この人は、コータローが指摘したのとまったく同じ事を言っている。
 世津奈は、できるだけ冷静な表情を装って答える。
「それでも、同じ事です。クライエントが私たちを騙している確かな証拠が見つかれば、私たちは仕事を下ります。ですが、その場合でも、クライエントの名前を外部に漏らすことはありません」

「あなたは律儀なのね」
「業界の掟です」
「あなたの口から雇い主の名前を訊き出せないことは、わかった。では、私の推測を言う。あなた達を雇ったのは『海洋資源開発コンソーシアム』。そして、コンソーシアムが恐れているのは、私の夫、栗林がREBが実在しない事実を中国人女性研究者に漏らした可能性」

「奥様は、ご主人が中国人女性研究者に何らかの秘密を洩らしたとお考えなのですか?」
夫人の額に血管が浮き上がった。
「私を『奥様』と呼ばないで。私は栗林太一の妻である前に、一個の独立した人間です。栗林との関係性で名付けられる事には納得できない。それから『ご主人』という呼び方も止めなさい。栗林が私のマスターである事など、あり得ない。あっては、ならない」
 
 世津奈は深い考えもなく日本での慣例に従ったのだが、夫人の指摘は正しい。
「それでは、あなたをどうお呼びすれば?」
「由紀子さん、あるいは、片倉さんと呼んで。片倉は、私の旧姓。本当は夫婦別姓にしたかった。だけど、栗林の父親が強く反対し、議論するのが面倒になって折れてしまった」
「『片倉さん』では、あなたがこの件の関係者らしく感じられないので、『由紀子さん』と呼ばせていただきます」
「いいわ。どういう字を書くかは、知っているでしょ」
「はい。クライエントからいただいた資料に栗林さんの家族構成が出ています」

「私は、あなたをどう呼べばいいのかしら?」
「『探偵さん』では?」
「あなたも、探偵である前に人間でしょ。名前は何というの?」
「世津奈です。宝生世津奈」
「セツナ? 面白い名前ね。どういう字を書くの?」
「世界の『世』、三重県の『津』、奈良の『奈』で、世津奈です」
「では、私はあなたを『世津奈さん』と呼ぶことにする」
そう言って、栗林由紀子が微笑む。今度は、あまり毒気のない笑みだと、世津奈は思う。
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登場人物紹介

宝生世津奈

2年前まで、警視庁生活安全部・生活経済課で産業スパイ事件を担当していた。警察が自らの権威を守るために過ちを認めようとしない姿勢に嫌気がさして警察を辞め、民間で産業スパイ案件を調査する「京橋テクノサービス」に転職してきた。

小柄で骨太だが、身体に占める手足の比率が高いので、すらっとしたモデル体型に、見えなくもない。

穏やかだが、肚が据わっていて、いざとなると、思い切った行動がとれる。

受験に数学のない私大出身の純・文系なので、実は、科学には、あまり強くない。

コータロー(菊村 幸太郎)

「京橋テクノサービス」で、世津奈とバディを組んでいる。

一流国立大学の数学科を卒業、同じ大学の大学院で応用数学の修士号を取り、さらに数量経済学の博士課程に進んだが、そこで強烈なアカデミック・ハラスメントにあい、引きこもりとなって2年間を過ごす。親戚の手で無理やり家から引きずり出されて、「京橋テクノサービス」に入社させられた。

頭脳明晰だが、精神年齢が幼い。普段は「ヘタレ」なのだが、時々、思い切った行動に出て、世津奈をハラハラさせる。IT、メカの操作、自動車の運転に優れている。

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