39、『哀しみは愛の伴侶』

文字数 1,951文字

 世津奈は、シネコンの混みあったロビーを抜けて7つのシアターが並ぶ館内に入っていく。
 世津奈は、バー・マーロウで玲子が言った言葉を思い出す。
「あなたが私の情報源に映画のチケットを2枚送ったら、彼が奥さんを連れて観に来るですって? あなた、本気でそう思っているの? 環境省の課長級のキャリア官僚は、妻と映画になんか行かない。仮に彼が行く気になって妻を誘っても、妻がついてこない」
 
 しかし、九鬼が玲子に反論してくれた。
「試してみる価値はある。もし、情報源をマークしている人間がいたとしても、情報源が妻を同伴して女性ジャーナリストと接触するとは思わないはずだ。映画館の中は暗がりだ。密かに物を受け渡しするのに適している」

 そして、結果は、こうして世津奈は劇場で環境省の課長・白石聡一とコンタクトしつつある。 
 世津奈は玲子から白石が40代前半だと聞いた時、映画の選択を誤らなければ、この作戦は成功すると確信した。
 
 ネットと新聞、雑誌で30代前半から40代前半の女性が好みそうな恋愛映画を探した。そして、『哀しみは愛の伴侶』が公開から4週間経過しても人々の関心を集め続けている事を知った。世津奈は、今日のコンタクト用にこの映画を選んだ。

 白石が多忙で、妻と映画に行く機会がめったにないと仮定する。一方、白石の妻は『哀しみは愛の伴侶』が世間で話題になっていることを知っているに違いない。
 白石が『哀しみは愛の伴侶』のチケットを予約して誘ってくれたら? 私が白石の妻だったら、一緒に行く。世津奈はそう考え、その予測は当たった。

 世津奈は、劇場が半分暗くなり予告編が始まってから、自分の席、E17に座った。白石夫妻はまだ来ていない。
 二人が来たら、白石が世津奈の隣のE18、白石の妻がE19に座る段取りになっている。この段取りは、玲子が公衆電話で白石に伝えてある。

 白石夫妻は本編開始の直前にやってきた。白石が世津奈の隣に腰を下ろす。映画が始まり、白石の妻が画面に集中し出したら、ブツの引き渡しだ。

 腰を下ろした白石に妻が小声で話しかけるのが聞こえた。
「席、代わってくれない?」
白石の妻は言っている。
「どうして?」と白石が訊き返す。妻はあごで自分の前の席を指す。
 
 世津奈は、その席を見る。そこには、身長が2メートル近くありそうな男性が座っている。白石の妻に目をやる。彼女の身長は150センチくらいだ。シネコンのシートは傾斜の大きな階段状に配置されているが、それでも白石の妻は画面を見にくいに違いない。
 
 私が白石の妻でも、夫に席を代わって欲しいと言うだろうと、世津奈は思う。そして、私が白石だったら、妻と席を代わってやるだろう。

 白石が椅子の上でモジモジし始める。「お願い」と白石の妻が言う。
「あなたと映画に来るなんて、めったにない事だから」
白石の妻が決定的なひと言を口にする。白石が妻と席を代わる。

 世津奈は白石の妻のために喜びながら、自分の仕事の上では実に困ったことになったと思う。
 役所は機密管理を厳しくしていて、文書をUSBなどのメモリーにダウンロードすることができない。
 だから、白石がこっそり持ち出した印刷済のA4サイズで20枚の文書を、映画館の暗がりの中で世津奈が引き取ることにした。それが、この状況では出来ない。

 トイレに行くふりをして席を立ち、白石の前で躓いたふりをして文書を受け取るか? いや、それはダメだ。白石にも監視がついているかもしれない。世津奈が白石の近くで目立つ行動をとると、世津奈がマークされてしまう。

 世津奈は、白石が、今自分が考えたことをしでかしたら困ると思う。今の状況では、世津奈も白石も何もせず、映画が終わったらシネコンから出て行くのが最も安全なのだ。世津奈は、白石が何もアクションを起こさない事を祈る。

 しかし、白石は動いた。映画が始まって1時間ほど経った時、彼は席を立ち、小声で「すみません」と言いながら移動し始めた。世津奈の前に来て、手にしていたものを世津奈の膝に落とす。

 世津奈はできるだけ小さな動きで文書を丸め、自分の足元に置いた袋に押し込む。

 白石に見張りがついていたら、今の白石と世津奈の動きを怪しむに違いない。シネコンの帰りに世津奈は襲われるかもしれない。
 世津奈は、ロビーでコータローと合流することになっている。コータローの助けを借りれば、襲撃者を撃退できるだろうか?
 
 世津奈が思いをめぐらせている間に、白石が戻ってきた。世津奈はほっと息をつく。白石が劇場を出たまま戻ってこないのが最悪のケースだったから。

 世津奈は肚を据えた。今、この場で襲われる危険はない。この映画は、世間の評判通り、なかなか良さそうだ。世津奈は、今は映画に集中することにした。

 
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登場人物紹介

宝生世津奈

2年前まで、警視庁生活安全部・生活経済課で産業スパイ事件を担当していた。警察が自らの権威を守るために過ちを認めようとしない姿勢に嫌気がさして警察を辞め、民間で産業スパイ案件を調査する「京橋テクノサービス」に転職してきた。

小柄で骨太だが、身体に占める手足の比率が高いので、すらっとしたモデル体型に、見えなくもない。

穏やかだが、肚が据わっていて、いざとなると、思い切った行動がとれる。

受験に数学のない私大出身の純・文系なので、実は、科学には、あまり強くない。

コータロー(菊村 幸太郎)

「京橋テクノサービス」で、世津奈とバディを組んでいる。

一流国立大学の数学科を卒業、同じ大学の大学院で応用数学の修士号を取り、さらに数量経済学の博士課程に進んだが、そこで強烈なアカデミック・ハラスメントにあい、引きこもりとなって2年間を過ごす。親戚の手で無理やり家から引きずり出されて、「京橋テクノサービス」に入社させられた。

頭脳明晰だが、精神年齢が幼い。普段は「ヘタレ」なのだが、時々、思い切った行動に出て、世津奈をハラハラさせる。IT、メカの操作、自動車の運転に優れている。

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