17.  追尾、チャンス到来

文字数 1,972文字

 
栗林夫人の追跡は、夫を小河内ダムまで追いかけた時のようにスムーズには進まなかった。100メートルも進んだと思うと、ブレーキがかかり身体が前にのめる。
 都心の真ん中を通る片道2車線の通りは商用車であふれ、その上やたらに信号が多い。ここ1時間ほど、クルマは走ったり止まったりの繰り返しだ。車酔いしやすい世津奈には、最悪の状況だった。

「宝生さん、大丈夫すか? ここに『ゲロ袋』が入ってるから、使ってください」
コータローが左手を伸ばしてダッシュボードから四角いバッグを取り出す。旅客機で使われている汚物入れにそっくりだ。
「航空会社で使われてる本物っすよ」
コータローが、メガネの向こうで目をクリクリさせ、眉を上下に動かす。「どこで手に入れたの?」と訊いて欲しがっている顔だ。
 
 元気な時なら訊いてやるのだが、今の世津奈には、そんな余裕はなかった。それよりも、栗林夫人を載せたバンが視界から消えてしまったことの方が、気になる。
「夫人が乗せられているバンはどうした?」
「信号が黄色のうちに渡っちゃいましたよ」
ウッとこみあげてきたものを飲み下し、コータローをにらむ。
「大丈夫っすよ。このあたりは200メートルおきに信号があるんすから。すぐ、追いつきますって」
コータローがシャラリと答える。

 栗林夫人と娘が男性四人と乗っているバンは、すでに2時間以上、都内を走り続けていた。人質を取ったら、マンションの一室、廃屋、山小屋といった固定したロケーションに監禁するのが相場だが、栗林母子をさらった連中には、止まる気配がない。夫人の臀部にGPS発信機が埋め込まれているのに気づいたのかもしれない。だとしても、永遠に走り続ける事は出来ないはずだが。

「いやー、でも、昼日中の大通りを車で逃げ回られてちゃ、手出しできないっすね。夜を待つしかないすかね」
「コー君、それは甘いよ。夜になったら、連中は、高速に乗って、ガンガン飛ばすわ」
 それでも、沖合のプレジャーボートに拘束されていなくて良かったと、世津奈は思っていた。周囲360度見晴らしが効く海上の敵は、空からでもなければ奇襲できない。いや、空から迫っても、連中に音で気づかれたらすぐに母子に銃を突き付けられ、こちらは動きがとれなくなる。クルマが相手で、まだマシなのだ。

 しかし、こうして追跡を続けているだけでは、時間の浪費にしかならない。一刻も早く栗林母子を解放するのが世津奈たちの使命だからだ。それは母と娘を恐怖から救い出すためであると同時に、この稼業の人間としての仁義を守ることでもある。
 
 企業、研究機関から機密技術を盗み出す産業スパイ行為は明らかな犯罪だが、その犯罪を警察に告発せず非合法手段を使ってでも水面下で封じ込める世津奈たちだって、決して正義の味方ではない。毒を制するための別の毒、ワルだ。
 
 だが、ワルには、ワルなりの「仁義」がなければならないと、世津奈は考えている。その歯止めがないと、ワルは坂を転げ落ちて「人でなし」になる。
 産業スパイとの闘いに無関係な人々はもちろん、関係者の家族も巻き込まない。それが、世津奈の「仁義」だ。
 拉致犯の正体と栗林母子を拘束している目的は不明だが、そんなことは今気にすることではない。目下の最大の課題は、一刻も早く栗林母子を解放して「仁義」を守ることだ。

 こうして、ただ追いかけているだけでは、栗林母子を救い出すことはできない。何か、方法があるはずだ……車酔いしている場合じゃないぞ、考えろ。
 世津奈は、こみ上げてくる吐き気と闘いながら、必死で考えを巡らせる。

「周りを車でふさがれて視界が悪くなってきました。ちょっと、荒っぽいことをしますよ」
コータローが言う。
 左車線斜め後方から迫ってくるトラックとの間にギリギリ1台分の空間があった。そこにコータローがクルマを滑り込ませる。トラックの強烈な非難のクラクションを浴びながら、今度はパッシングして前方の軽自動車に迫る。軽自動車のルームミラーに、脅えた中年女性の顔が映る。コータローが汗の浮いた顔を一瞬、世津奈に向ける。
「大丈夫、コー君なら、追い越せる」

 コータローはクルマを路肩いっぱいに寄せながら追い越しにかかった。前を行く軽自動車の女性は、思いがけない機敏なハンドルさばきで右車線ぎりぎりに寄せて、世津奈たちを通してくれた。世津奈が一礼して顔を上げると、驚いているのか怒っているのかわからない顔が世津奈を見返していた。

 前方200メートルほどの所にガソリンスタンドがある。栗林母子を乗せたバンがガソリンスタンドに入って行く。バンが、止まるのだ。
「コー君、チャンス到来だわ。あのガソリンスタンドで、栗林さん親子を奪い返すわよ」

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

宝生世津奈

2年前まで、警視庁生活安全部・生活経済課で産業スパイ事件を担当していた。警察が自らの権威を守るために過ちを認めようとしない姿勢に嫌気がさして警察を辞め、民間で産業スパイ案件を調査する「京橋テクノサービス」に転職してきた。

小柄で骨太だが、身体に占める手足の比率が高いので、すらっとしたモデル体型に、見えなくもない。

穏やかだが、肚が据わっていて、いざとなると、思い切った行動がとれる。

受験に数学のない私大出身の純・文系なので、実は、科学には、あまり強くない。

コータロー(菊村 幸太郎)

「京橋テクノサービス」で、世津奈とバディを組んでいる。

一流国立大学の数学科を卒業、同じ大学の大学院で応用数学の修士号を取り、さらに数量経済学の博士課程に進んだが、そこで強烈なアカデミック・ハラスメントにあい、引きこもりとなって2年間を過ごす。親戚の手で無理やり家から引きずり出されて、「京橋テクノサービス」に入社させられた。

頭脳明晰だが、精神年齢が幼い。普段は「ヘタレ」なのだが、時々、思い切った行動に出て、世津奈をハラハラさせる。IT、メカの操作、自動車の運転に優れている。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み