9.1回、休む

文字数 3,604文字

「世津奈、世津奈」と呼ぶ声が近付いてくる。父の声だ。
「こんなに早くこっちに来ようなんて、気でも狂ったのか?」
すぐそばで、半分怒り半分泣いてる声がする。
「お前には、永遠に生き続けて欲しいと願っているのに、こんなに早々と、こっちに寄ってくるなんて」
「お父さん、永遠に生きてたら、私、山姥か吸血鬼になっちゃうよ」
「山姥でも吸血鬼でもいい。子どもには、いつまでも生きてて欲しいと思う。それが親の心だ。ともかく、ここには絶対に近づくな。帰れ、いますぐ、お前のいるべき場所に帰るんだ」
父の大きな手が、胸を強く押してきた。

 そこで、ハッと目が醒めた。世津奈は、ベッドに横倒しになっていた。身体中の力が抜けて、どよんとしているのに、背中の二ヶ所だけに、刺すような痛みを感じる。
「意識が戻りました。もう、大丈夫でしょう」
聞きなれない男性の声がする。
「あ~、良かった。本当に、心配したよの」
聞きなれた声がして、高山の小さな、丸っこい手が世津奈の右手を握ってきた。身体の温もりが伝わってくる。
「社長、私は、いったい?」
「あーた、ダムの展望塔の前で、つぶされたカエルみたいに腹ばいに倒れてたのよ。背中に、2本も麻酔ダーツを撃ち込まれて」

 手術衣姿のやせた男性が、世津奈の前に、銀色に冷たく光る金属製のダーツを差し出した。「成人男性を5秒で身動きできなくする筋弛緩剤が入っていたと思われる。君は丈夫にできている。ご両親に感謝するんだね。普通、君くらいのサイズの女性がこんなものを2本も刺されたら、30分以内に死んでいるところだ」
本当に、父が死の世界から押し返してくれたのかもしれない。そんな気がした。

 視界がはっきりしてきて、周りを見回すと、ここが、「京橋テクノサービス」の「緊急治療室」だとわかった。「緊急治療室」は、表沙汰にできない状況で負傷した調査員と調査関係者の駆け込み寺で、脳外科以外の救命措置は、ほとんど、ここでできてしまう。脳外科だけは、高山のつてで大病院に転院させているらしいが、詳しい仕組みは知らされていない。。

「でも、私は、どうやって、ここに?」
「あたしが、ダムまであーたを探しに行って、連れ帰ってきたの」
「探しにきてくだったのですか?」
「そぉ。コータローが、泣きそうな声で電話してきて、あーたと連絡が取れなくなったから、心配でダムに戻るって言うから、あの子には栗林の尾行を続けさせて、あたしが、ダムに回ったの」
「そうだったのですか。ご迷惑おかけしました」

「展望塔の前で伸びてるあーたを見つけて、ここに連れてきた。あたしが、あーたを連れてくるのが30分遅れてたら、あーたの命は、危なかったそうよ」
「ありがとうございます」
「雇用主には、従業員の安全管理義務ってのがあるらしいからね」
「コー君は、栗林研究員を家までつけていったのですよね。栗林はどうなったのですか?」
 高山が顔を曇らせた。
「それが、不愉快な話でさぁ、東光物産の保安部が来て連れて行ったわよ」
「じゃ、私たちは取り調べさせてもらえないんですか?」
高山が顔をしかめてうなずいた。

「それでいて、東光物産の井出部長は、栗林の奥さんと娘さんを『京橋テクノサービス』で預かれと言ってきた」
「預かったのですか?」
「預かったわよ。あーたが麻酔ダートで撃たれたり荒っぽい展開になっているのに、母親と娘だけで家に残しておくわけにいかないでしょ」
「では、お二人は『京橋テクノサービス』の避難所にいるのですね」
 
 高山が苦虫を噛みつぶしたような顔になる。
「ついてないことに、避難所がふさがってたのよ。仕方ないからホテルに移ってもらって、護衛のために、うちの人間を3人つけてある」
 つづけて「この分はうちの持ち出しなのよ」と文句を言うところが、シブチンの高山らしいと世津奈は思う。

 世津奈にダーツを見せた担当医が「では、私は、これで、失礼します。薬を処方しておきましたから、帰りに受け取ってください」と言って、個室を出て行った。

 病室に二人だけになると、高山が折りたたみイスを持ち出して、世津奈の横に座った。
「宝生ちゃんはさ~ぁ、状況不明な時も、くよくよ立ち止まらずに攻めて出るから、厄介な事件で頼りになるんだ。特に、昨日の乱闘事、あれ、名判断だった。柳田をそのまま連れてかれたら、口封じに殺されてたと思う」
「褒められると、照れます」

「はは」と高山が半分呆れたように笑う。
「そういう素直さも、あーたのイイ所なんだけど、それが調査員向きかと言うと、また別の話ね」
 高山の目つきが厳しくなる。
「ダムでの待ち伏せは、乱暴すぎた。あたしに事前に相談してほしかった」
「そうでしたか」
「『そうでしたか』って!  あーたでなかったら、こぉ~いう場面で『そうでした』なんて言ったら、クビよ」
高山が苦笑する。

「あーた、監視塔の運転員のこと、考えてなかったでしょ。あーたが銃を抜くところを見られて警察に通報されてたら、どぉ~するつもりだったの?」
「水道局のホームページに、ダムから放流する時と悪天候の時以外は、監視塔からの目視観察はしていないと書いてありましたので、一応、大丈夫かと……」
「事前調査はしなかったが、公式情報で確かめはしたと言いたいわけ」
「ええ、一応」

「でも、女性スパイに仲間がいて、あーたを眠らせてスパイと一緒に引き上げることまでは、考えなかったわけだ」
 これについては、世津奈は一言もない。女性スパイが仲間を連れてくることは想定したが、同じクルマで来るとばかり考え、展望塔付近で待機している可能性に思い及ばなかった。
 
 ところで、高山は、女性スパイが殺害されたことは知らずに話しているようだ。
「社長、女性スパイは逃げたわけじゃなくて、私の目の前で頭部を撃ちぬかれたんです。即死に見えました。私は、その直後に麻酔ダーツを食らったんです」
「ええっ」
高山が驚く。
「あたしが現場に着いた時、死体はもちろん、血痕すらなかったわよ」
「プロの仕業ですね」
「女性スパイと敵対するグループがいて、彼女を殺して現場をクリーンにして立ち去ったってこと?」
「敵対するグループだったら、殺さず生け捕りにして尋問すると思います。彼女が仲間を裏切って処刑された可能性の方が大きいと思います」

「うーん」とうなって、高山が天井を仰いだ。
「宝生ちゃんとコータローが調査を始めたとたんに、柳田部長が拉致されかけた。追跡対象を栗林に変えたら、すぐにスパイと接触しようとして、スパイが射殺された……なんか、いやな展開だねぇ~」
 高山が視線を世津奈に移してきた。
「宝生ちゃん、このREBの調査、展開が荒っぽい上に速すぎると思わない?」
「思います。誰かが作ったシナリオに乗せられている感じがします」

 高山が「そう、そうなのよ」と言って、うつむいて考え始めた。少しして顔を上げ、
「ここはスゴロクで言う『一回休む』にしようか」
 と言った。
「とおっしゃいますと?」
「昨日から今日にかけての騒動で、宝生ちゃんとコータローはスパイと栗林の両方に顔を覚えられた可能性があるじゃない。それを理由に、調査員の交代を東光物産に申し入れる。理由が理由だから、向こうは合意するはず」
「そうですね」
「あなたたちと違って、細々した調べごとをしみじみ進めるのが得意な調査員を投入して、この事案の背景もよく調べて足元を固め直す」

「では、コータローさんと私は、この件とは縁切りでよろしいですね」
世津奈は、つい、笑みをこぼしてしまった。REBの一件は、陰で日本政府が糸を引いていそうだし、人殺しもためらわない産業スパイ組織もからんでいる。「京橋テクノサービス」のような民間の調査会社には荷の重すぎる仕事だと、世津奈は、思い始めていた。

「とぼけたことを言ってもらっちゃ、困るわよ。この事案は、この先、もっともっと荒れ模様になるのが目に見えている。その時に、トラブル・シューターとして、あーたとコータローに戻ってもらえば、調査員4人分の経費を井出部長から引き出せるじゃない」
 えっ? 私たちは解放してもらえないの? 世津奈は、不満が自分の顔に出てしまっている事に気づく。

「そもそも、あたしは、調査員10名が必要だって、ふっかけたのよ。半分の5人で着地すると思ったら、井出のシブチンが、あたしを含めた3人までしか無理だと言い張った。事案の大きさに対して頂戴するものが少なすぎると腹が立ってたのよ。でも、これで、当初の着地点に近づくことができる」
高山の方は、笑いを隠そうとしない。

まったく、経営者というのは食えない人種だと、世津奈は、つくづく思った。
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登場人物紹介

宝生世津奈

2年前まで、警視庁生活安全部・生活経済課で産業スパイ事件を担当していた。警察が自らの権威を守るために過ちを認めようとしない姿勢に嫌気がさして警察を辞め、民間で産業スパイ案件を調査する「京橋テクノサービス」に転職してきた。

小柄で骨太だが、身体に占める手足の比率が高いので、すらっとしたモデル体型に、見えなくもない。

穏やかだが、肚が据わっていて、いざとなると、思い切った行動がとれる。

受験に数学のない私大出身の純・文系なので、実は、科学には、あまり強くない。

コータロー(菊村 幸太郎)

「京橋テクノサービス」で、世津奈とバディを組んでいる。

一流国立大学の数学科を卒業、同じ大学の大学院で応用数学の修士号を取り、さらに数量経済学の博士課程に進んだが、そこで強烈なアカデミック・ハラスメントにあい、引きこもりとなって2年間を過ごす。親戚の手で無理やり家から引きずり出されて、「京橋テクノサービス」に入社させられた。

頭脳明晰だが、精神年齢が幼い。普段は「ヘタレ」なのだが、時々、思い切った行動に出て、世津奈をハラハラさせる。IT、メカの操作、自動車の運転に優れている。

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