40、深海の使徒
文字数 2,611文字
『哀しみは愛の伴侶』は良い映画だった。世津奈はエンドロールが終わるまで、情報受け渡しの時に感じた不安を忘れて画面に集中できた。
劇場が明るくなる。ここからが正念場だと世津奈は思う。世津奈は秘密文書を入れたバッグを手に、退出する観客の群れに紛れて劇場を後にする。人ごみに身を隠せた代わりに、尾行されている気配を感じることができない。
ロビーに出る。
「宝生さん」
と言って、コータローが近づいてくる。
「私、尾行されていない?」
世津奈はコータローの耳もとでささやく。
「なんで、そんな心配するんすか? 何かマズイことがありました? この人ごみの中じゃ、宝生さんが尾行されてるかどうか、ボクにはわからないっす。駐車場に移動する時にわかるんじゃないすか?」
なるほどコータローの言う通りだと世津奈は思う。
世津奈とコータローは駐車場に停めてあったコータローのクルマに着いた。駐車場はシネコンの中より人が少なく尾行に気づきやすいが、世津奈もコータローも尾行されている気配は感じない。
世津奈とコータローは大きく遠回りしてバー・マーロウに戻った。二人を迎えた玲子が「遅かったわね」と少し苛立った感じで言う。
世津奈が事情を話し、玲子は「素人はパニックしやすいから危ないわね」と肩をすくめる。
「でも、白石課長が無茶をしたおかげで、お目当ての文書は手に入った。さっそく、拝見しましょう」
世津奈が持ち帰った文書を、玲子が開く。
「ほ、ほぅ」
玲子が目を輝かせる。
「玲子さん、でしたっけ? ボクラが命がけで受け取ってきた書類っすよ。まず、ボクラに見せて欲しいっす」
コータローが玲子に向かって口を尖らす。
「玲子、若造の言う通りだ。独りで喜んでないで、みんなに見せろ」
九鬼がコータローを援護する。
「わかったわ」
と言って、玲子が文書を開き、世津奈、コータロー、九鬼の三人に見せる。
「この写真は、日本海溝の深さ6000メートル地点で撮影された」
玲子が言う。
「釜を縦に引き伸ばしたみたいなこの形、見覚えがある。どこで見たのかな?」
コータローが首をひねる。
世津奈は、中央第一原発が事故を起こした時、テレビのニュースで毎日のようにこんな形のものを見た覚えがある。
「まさか、原子炉の格納容器ではありませんよね」
世津奈は半信半疑で玲子に尋ねる。
「そう、これは沈没した原子力潜水艦の原子炉の圧力容器」
玲子がケロリと答える。
「原潜が事故を起こして沈んだんだ……」
と世津奈がつぶやくと、九鬼が
「事故とは限らないぞ」
と言う。
「冷戦時代、日本海溝付近では米国とソ連の原潜が追跡し合っていた。原潜同士が偶発的に衝突しても不思議がない海域だった」
「それにしても、原潜が見つかる場所として、ここは深すぎないすか? 原潜が活動する水深は300メートルから400メートル程度と聞いたことがあるっす」
コータローがいぶかしそうに言う。
「原潜が致命的な打撃を受けたのは、もっと浅い海中なのよ」
玲子がコータローの疑問に答える。
「その後、沈降し続ける間に原潜は水圧で跡形もなく粉砕された。だけど、圧力容器は特別に頑丈に出来ていたから、水深6000メートルまで形を保ったまま沈んできた。でも、さすがに水深6000メートルの水圧には耐えられず、壊れてしまった」
玲子が圧力容器をアップする。不鮮明な映像だが、容器がひしゃげているのが見てとれる。
「これじゃ、周辺の海が激しく放射能汚染されてしまうっす」
コータローの声が裏返る。
「そう思うでしょう。でも、この報告書によると、圧力容器周辺の放射線量は海洋一般と変わらなかった」
「ええっ」
コータローが驚く。
玲子が別のページをめくる。
「そこで、この周辺の海水が採取された」
「採取された海水からREB、放射線無害化バクテリアが見つかったのですね」
そう言って世津奈が玲子の目をのぞき込むと、玲子がにたっと笑う。
「正解。ただし、厳密に言うと放射線を無害化していたのはバクテリアではなく、古細菌だった。でも、どちらも微生物であるのは同じなので、ここでは違いは無視する。呼び名も、あなたたちが慣れているREBを使う」
「REB発見の報告書が環境省にあったってことすね」
コータローが言う。
「ええ。この文書は、5年前に経産省、文科省、水産庁が合同で実施した日本海溝調査の報告書から抜粋して作られたもの。私は報告書が存在することは白石課長から聞いて知っていたけど、実物を見るのは、これが初めて」
「REBは5年前に発見されていたのか」
九鬼がつぶやく。
「ええ。合同調査団のメンバーは躍り上がって喜んだそうよ。自然は、人類と地球を放射能から守るために深海の底からREBを遣わした。REBは、人類と地球の守護者、『深海の使徒』なの」
「経産省、文科省、水産庁の合同調査で発見されたREBを、なぜ、民間の『海洋資源開発コンソーシアム』が保有しているのでしょう?」
世津奈の問いかけに玲子の表情が硬くなる。
「政治がらみのいやらしい展開になったのよ。合同調査が終わった後、経産省、文科省、水産庁は共同でREBを研究することを決め、国立の研究機関3つに呼びかけて省庁横断の研究体制を作った」
「ところが、そこで内閣府が介入してきた。そうだな?」
九鬼が言う。
「ええ。内閣情報調査室の科学者が環境省に来て、採取されたREBを全部持ち去った。そして、REBに関わった人間全員に厳重な箝口令が敷かれた」
「そして、内閣府は経産省だけを仲間に引き込んだのですね」
世津奈が玲子に念押しする。
「政府与党と経産省は原発と高濃度放射性廃棄物のバーター取引を進めることでは一枚岩だった。内閣府からREBをバーター取引の道具に使うと言われて、経産省には断る理由がなかった」
玲子が答える。
コータローがメガネの奥で目玉をくるりと回してから、玲子に尋ねる。
「防衛省もからんでないすか? 防衛産業に仕事を発注しているのは防衛省です。放射線防護には軍事上のニーズがある」
「その通り。防衛省も一枚かんでいる」
「経産省はREBの実用化と高濃度放射性廃棄物の深海底投棄のため、防衛産業の企業に『海洋資源開発コンソーシアム』を作らせた。もちろん、防衛省も企業に働きかけた。そういう構図だな」
九鬼が言う。
これで「海洋資源開発コンソーシアム」の舞台裏がわかった。世津奈は謎の解明に一歩近づけた気がした。
劇場が明るくなる。ここからが正念場だと世津奈は思う。世津奈は秘密文書を入れたバッグを手に、退出する観客の群れに紛れて劇場を後にする。人ごみに身を隠せた代わりに、尾行されている気配を感じることができない。
ロビーに出る。
「宝生さん」
と言って、コータローが近づいてくる。
「私、尾行されていない?」
世津奈はコータローの耳もとでささやく。
「なんで、そんな心配するんすか? 何かマズイことがありました? この人ごみの中じゃ、宝生さんが尾行されてるかどうか、ボクにはわからないっす。駐車場に移動する時にわかるんじゃないすか?」
なるほどコータローの言う通りだと世津奈は思う。
世津奈とコータローは駐車場に停めてあったコータローのクルマに着いた。駐車場はシネコンの中より人が少なく尾行に気づきやすいが、世津奈もコータローも尾行されている気配は感じない。
世津奈とコータローは大きく遠回りしてバー・マーロウに戻った。二人を迎えた玲子が「遅かったわね」と少し苛立った感じで言う。
世津奈が事情を話し、玲子は「素人はパニックしやすいから危ないわね」と肩をすくめる。
「でも、白石課長が無茶をしたおかげで、お目当ての文書は手に入った。さっそく、拝見しましょう」
世津奈が持ち帰った文書を、玲子が開く。
「ほ、ほぅ」
玲子が目を輝かせる。
「玲子さん、でしたっけ? ボクラが命がけで受け取ってきた書類っすよ。まず、ボクラに見せて欲しいっす」
コータローが玲子に向かって口を尖らす。
「玲子、若造の言う通りだ。独りで喜んでないで、みんなに見せろ」
九鬼がコータローを援護する。
「わかったわ」
と言って、玲子が文書を開き、世津奈、コータロー、九鬼の三人に見せる。
「この写真は、日本海溝の深さ6000メートル地点で撮影された」
玲子が言う。
「釜を縦に引き伸ばしたみたいなこの形、見覚えがある。どこで見たのかな?」
コータローが首をひねる。
世津奈は、中央第一原発が事故を起こした時、テレビのニュースで毎日のようにこんな形のものを見た覚えがある。
「まさか、原子炉の格納容器ではありませんよね」
世津奈は半信半疑で玲子に尋ねる。
「そう、これは沈没した原子力潜水艦の原子炉の圧力容器」
玲子がケロリと答える。
「原潜が事故を起こして沈んだんだ……」
と世津奈がつぶやくと、九鬼が
「事故とは限らないぞ」
と言う。
「冷戦時代、日本海溝付近では米国とソ連の原潜が追跡し合っていた。原潜同士が偶発的に衝突しても不思議がない海域だった」
「それにしても、原潜が見つかる場所として、ここは深すぎないすか? 原潜が活動する水深は300メートルから400メートル程度と聞いたことがあるっす」
コータローがいぶかしそうに言う。
「原潜が致命的な打撃を受けたのは、もっと浅い海中なのよ」
玲子がコータローの疑問に答える。
「その後、沈降し続ける間に原潜は水圧で跡形もなく粉砕された。だけど、圧力容器は特別に頑丈に出来ていたから、水深6000メートルまで形を保ったまま沈んできた。でも、さすがに水深6000メートルの水圧には耐えられず、壊れてしまった」
玲子が圧力容器をアップする。不鮮明な映像だが、容器がひしゃげているのが見てとれる。
「これじゃ、周辺の海が激しく放射能汚染されてしまうっす」
コータローの声が裏返る。
「そう思うでしょう。でも、この報告書によると、圧力容器周辺の放射線量は海洋一般と変わらなかった」
「ええっ」
コータローが驚く。
玲子が別のページをめくる。
「そこで、この周辺の海水が採取された」
「採取された海水からREB、放射線無害化バクテリアが見つかったのですね」
そう言って世津奈が玲子の目をのぞき込むと、玲子がにたっと笑う。
「正解。ただし、厳密に言うと放射線を無害化していたのはバクテリアではなく、古細菌だった。でも、どちらも微生物であるのは同じなので、ここでは違いは無視する。呼び名も、あなたたちが慣れているREBを使う」
「REB発見の報告書が環境省にあったってことすね」
コータローが言う。
「ええ。この文書は、5年前に経産省、文科省、水産庁が合同で実施した日本海溝調査の報告書から抜粋して作られたもの。私は報告書が存在することは白石課長から聞いて知っていたけど、実物を見るのは、これが初めて」
「REBは5年前に発見されていたのか」
九鬼がつぶやく。
「ええ。合同調査団のメンバーは躍り上がって喜んだそうよ。自然は、人類と地球を放射能から守るために深海の底からREBを遣わした。REBは、人類と地球の守護者、『深海の使徒』なの」
「経産省、文科省、水産庁の合同調査で発見されたREBを、なぜ、民間の『海洋資源開発コンソーシアム』が保有しているのでしょう?」
世津奈の問いかけに玲子の表情が硬くなる。
「政治がらみのいやらしい展開になったのよ。合同調査が終わった後、経産省、文科省、水産庁は共同でREBを研究することを決め、国立の研究機関3つに呼びかけて省庁横断の研究体制を作った」
「ところが、そこで内閣府が介入してきた。そうだな?」
九鬼が言う。
「ええ。内閣情報調査室の科学者が環境省に来て、採取されたREBを全部持ち去った。そして、REBに関わった人間全員に厳重な箝口令が敷かれた」
「そして、内閣府は経産省だけを仲間に引き込んだのですね」
世津奈が玲子に念押しする。
「政府与党と経産省は原発と高濃度放射性廃棄物のバーター取引を進めることでは一枚岩だった。内閣府からREBをバーター取引の道具に使うと言われて、経産省には断る理由がなかった」
玲子が答える。
コータローがメガネの奥で目玉をくるりと回してから、玲子に尋ねる。
「防衛省もからんでないすか? 防衛産業に仕事を発注しているのは防衛省です。放射線防護には軍事上のニーズがある」
「その通り。防衛省も一枚かんでいる」
「経産省はREBの実用化と高濃度放射性廃棄物の深海底投棄のため、防衛産業の企業に『海洋資源開発コンソーシアム』を作らせた。もちろん、防衛省も企業に働きかけた。そういう構図だな」
九鬼が言う。
これで「海洋資源開発コンソーシアム」の舞台裏がわかった。世津奈は謎の解明に一歩近づけた気がした。