第二三部「消える命」第5話(第二三部最終話)
文字数 14,652文字
すでに高い陽がさしていた。
朝までの雪は姿を消し、太陽の熱が空気と土を暖める。
それでも冬ならではの薄い雲。
それは空にかかるベールのように揺れていた。
穏やかな風が、雄滝 神社の本殿をすり抜けていく。
早朝まで燻 っていた松明 の香りもすでにその風に流され、本殿を埋めるのは冬の匂い。
「……すっかりと……寒くなった…………」
外に目をやった恵麻 のその言葉に、咲 と苑清 は何も返せなかった。
〝事 〟の顛末 を総て話した。
御世 の出自 、清国会 の始まり。
歴史の真実。
総てを。
それに対しての恵麻 の返答は二人にとっては完全に予想に反したもの。
咲 も苑清 も、もちろん恵麻 が素直に受け入れてくれるとは思っていなかった。激昂 することも覚悟していた。
しかし今、祭壇を背に二人の前に座る恵麻 に、いつものような威圧感は感じられない。いつもの鋭い目はない。言葉で相手を押さえ付けるような〝強さ〟は見当たらない。それは祭壇横に控える恵麻 の両親、麻人 と陽恵 も同じ。
まるで別人のように、穏やかだった。
驚いた二人に、恵麻 は視線を軽く落として続ける。
「…………面白い話だな…………御主 はそれを信じるのか? ……咲 」
咲 はなおも応えられなかった。
恵麻 の心情がまったく見えなかった。
同時に、簡単に受け入れられない気持ちも理解出来る。咲 自身も朝まではそうだったからだ。自分の信じてきたものが簡単に崩れていく。その怖さを咲 も味わったばかり。
それでも、咲 は受け入れた。気持ちのどこかに小さく引っかかっていた棘 が取れた感覚だった。その棘 ですら見えないフリをしてきた。気付かないフリをしていた。しかしずっと気になっていた真実は、その先にあった。
まして恵麻 は清国会 の頂点。誰よりも清国会 を中心に生きてきた。肩に掛かる重責 は咲 とは比べ物にならないだろう。
恵麻 自身、多くのものを噛み締めていた。
自分の歩んできた時間だけではない。
清国会 の長い歴史。
「御主 は何を信じる…………」
そう口を開いた恵麻 が言葉を繋げていく。
「……私は伝承を信じてきた…………長きに渡るこの国の歴史を信じてきた…………」
「…………はい」
「しかし咲 ……御主 はどうしてその話を私に伝えに来たのだ…………私が素直に認めるとでも?」
──………………私は…………
「どうしてだ咲 ……清国会 の根幹 が崩れる話を…………御主 にも……御主 の娘にも無理を強 いてきた私に…………応えてくれ…………御主 が信じているものは何だ……?」
──………私は……
「……未来を信じます」
そう応えた咲 の真っ直ぐな目に、恵麻 が顔を上げた。
咲 が続ける。
「……私は……そのためにここにいます」
「そうか」
意外にもすぐに返した恵麻 が続けた。
「応えてくれたこと……嬉しく思う…………では、私の話も聞いてくれるか? 今朝……御世 が来たよ」
そう言う恵麻 の表情が柔らかくなった。いつも険しい印象しかないその顔に、小さく笑みが浮かぶ。
そして恵麻 は再び外に目を向ける。
「涼沙 からも話は聞いた……金櫻 家との戦 は避けて欲しいと言ってきたよ。誰一人として犠牲者は出したくないと言いおってな…………御世 も滝川 家を裏切った分際で……萌江 様たちから再び命を頂けたと言っておった…………御世 の魂の出自 がどこにあるのかなど考えもしなかった…………なるほど、清国会 を裏切るわけだ……そんな理由があったとはな」
恵麻 は座ったまま体を少し回し、祭壇横の母、陽恵 に顔を向けた。
「母上、陽麻 はどこにおりますか?」
陽恵 はその質問を予想していたかのように応える。
「先ほど遠方の神事 より帰ってきたばかり……もうすぐここに来ますよ」
「母上はどう思われますか…………咲 と苑清 の話…………」
「そうですね…………」
陽恵 は隣の夫、麻人 の顔を軽く見てから続けた。
「咲 殿のお話……嘘をついているとは思えません。少なくとも私の感覚はそう言っています。だから恵麻 も真剣に聞いたのでしょう? もしかしたら……私たちも……何か〝幻〟を見せられていただけなのかもしれませんね…………」
すると、陽恵 の隣の麻人 が言葉を拾う。
「おかしな感覚だな恵麻 ……真実とは何だ…………」
それを陽恵 が繋げる。
「もしかしたら…………我らの中にも迷いがあったのかもしれません…………こうなってからではそれも都合のいい話ですが…………しかしどうしてでしょうね…………不思議と嫌な感じがしません。とはいえ私も以前はあなたと同じ立場。責任をあなた一人に押し付けるつもりはありませんよ」
恵麻 は、母である陽恵 の真っ直ぐな目に、小さく頷く。
すると、本殿の奥から、足袋 が床を擦 る音。
「これは咲 殿に苑清 殿、御苦労様にございます」
そう言って恵麻 の隣に腰を降ろしたのは恵麻 の妹、陽麻 。
「御二人が揃うとは珍しいことですね。定期報告にはまだ早いのではありませんか?」
それに返すのは恵麻 。
「陽麻 こそ御苦労だった」
「何か緊急の動きでも…………」
訝 しんだようにそう言う陽麻 に、恵麻 は唐突に切り出す。
「……陽麻 ……お前には我々のような〝能力〟が無い…………」
「姉様? どうされました?」
突然の話に驚いた陽麻 が恵麻 に顔を向けた。
陽麻 は恵麻 たちのような〝能力〟を持ってはいない。まったくではないが恵麻 に比べると微々たるもの。滝川 家では初めてのことだった。もちろん恵麻 と同じように修行はしてきた。しかし能力を開花することのないまま、陽麻 は自分の存在意義を見失った過去を持っていた。
それでもその中で自分の立ち位置を求め、今では恵麻 の一番の相談役でもあった。
不思議そうな陽麻 に、恵麻 が応える。
「それでもお前は自分の存在意義を生み出した……感謝している…………今までずっと肩身の狭い思いをしてきたであろう。しかしお前がおかしいのではない…………我らのほうがおかしいのだ…………」
「…………姉様……」
「……清国会 の真実を聞いた…………真 の歴史だ…………」
「真 の……とは…………」
当然のように陽麻 に理解など出来るわけがない。陽麻 も信じてきた。見えるものが無い分、純粋に信じることに邁進してきた。そうしなければ自分の居場所がなかった。信じることで、自分自身を認められた。
呆然とする陽麻 に、恵麻 は震える声で続ける。
「……するとどうだ…………何も見えない…………何も感じなくなった…………まるで抜け殻のようだ…………ずっと幻を見ていたのか…………」
恵麻 は背中を丸めて体を震わせた。
その体に、反射的に陽麻 が身を寄せる。いつもとは違う恵麻 の様子から何かを感じたのか、その両腕が恵麻 を包んだ。
ただならぬものは陽麻 も感じていた。恵麻 をここまでさせるものが何か、その全容が見えない。しかし自分の唯一の拠り所である恵麻 が体を震わせて恐れるほどのものが、間違いなくこの本殿にある。それだけは分かった。
そして続く恵麻 の震えた声。
「…………咲 …………皆……ここに来ておるのだろう?」
しかし咲はすぐには応えられなかった。
嫌と言うほど気持ちが伝わっていた。咲 も目の前の光景に気持ちを揺さぶられる。それが清国会 の崩壊に繋がるのか、どんな未来へ続くのか、それが見えないまま。
ゆっくりと咲 が口を開いた。
「…………外に…………」
参道に、足音。
風が流れた。
空気が足音を運ぶ。
恵麻 がゆっくりと顔を上げた。
そこには、萌江 と咲恵 、二人の姿。
☆
小さな社 だった。
敷地と思われる場所の入り口には鳥居もあったが、決して大きな物ではない。木を組み立てただけ。それでも倒れてはいなかった。
建物自体は堅牢 な物。例え小さな集落の小さな神社とはいえ、そこは人々の生活の中心でもある。古くから大事にされてきたのだろう。
しかし今は誰もいなかった。そうなってから大分経つのだろうか。おそらくスズと青洲 が弔 った武士達が来るもっと以前に、この地の人々は離れてしまったのだろう。その人達の亡骸 は見付けられなかった。
捨てられた集落。
捨てられた人々の営み。
どんな所にも歴史があったはず。決して歴史の表舞台に出てこないような場所にも、そこには必ず時間が存在した。
そしてそれは過去だけではなく、今もある。
未来もある。
スズも青洲 も、それを見ていた。
社 の奥にある物を漁り、本殿の中を綺麗にし、周囲の草を刈った。
壊れかけていた燭台 を直し、そこに薪 を焼 べていく。その火の暖かさは二人の気持ちを少しだけ楽にした。
近くには小川。水には困らない。食べ物は木ノ実や、まだ辛うじて残っていた山菜を中心とした。焼いた馬の肉は燻 して保存食とし、冬に備える。
そうして、最初の〝唯独 神社〟が始まる。
集落に辿り着いて十日も経った頃だろうか。
屋根と食べ物を求めて、五人の野武士が訪ねてきた。宿主を失い、国を失った放浪者。
例え小綺麗とは言えなくても仮にも狩衣 と巫女 姿の二人の容姿に、スズと青洲 が神職者であることは明らか。飢えた野武士とはいえ、狼藉 を振るう事はしなかった。
二人は野武士に僅かな食事と水を振る舞う。
そして青洲 が言った。
「ここに座 すは天照大神 様の血筋を継ぐ金櫻鈴京 様だ。我らは訳あってこの地に逃れてきた身。御主 たちも同じ境遇なれば、ここで共に暮らすがよい。如何 か」
その言葉に、武士達は訝 しんだ。
一番正面に座る武士が口を開く。
「……天照大神 …………では帝 は────」
すると突然、青洲 が立ち上がった。
床の刀を手に取り、素早く抜くと、まさかの事に怯 んだ武士に刀を振り下ろす。
後ろに倒れ込んだ武士の首に刀を突き刺し、その呻 き声の中、青洲 が叫んでいた。
「────あのような紛 い物! 真 の歴史は我等 にある!」
刀を抜きかけた残りの武士を、左手を伸ばしたスズが止める。
その掌 からの言葉に出来ない圧力に、四人の武士は動けなかった。
スズの表情は冷ややかなまま。
「……我に平伏 せ…………これから新しい戦乱の世がやってくる……尾張 の小さな大名が天下を揺るがしていくだろう……貴様たちはどうする? 天下を取りたくはないのか?」
後に戦国時代と呼ばれる戦乱の歴史が、すでにこの頃から動き出していた。
四人はスズに傾倒するしかないまま、二人に従うこととなる。
集落の建物の修繕を始めていく。
やがて年を跨いだ頃、集落には戦によって住まいを奪われた放浪の民が集まってくるようになった。
そして春を迎えた頃には一つの集落が出来上がる。
畑も耕され、秋には食料だけでなく、四人の武士を中心とした武力までも備えていた。
そしてスズと青洲 の間に、女の子が産まれる。
神の血を引く世継ぎとして、盛大な神事 が執り行われ、その噂は次第に周囲に広がっていった。
しかしそんな独立性を伴った集落の存在を、快く思わない者がいた。
次第に大きくなっていく集落に脅威を感じたのは、その地、甲斐 の国を治める武田信昌 。
しかも、そこには〝神の末裔 〟がいるという。落武者が守る集落。しかも国の管轄を離れて独自の信仰を形成しようとしている。
神の末裔 は帝 だけ────そう信じられていた時代。
武田信昌 からすれば、金櫻鈴京 の存在は危険なものでしかなかった。
やがて武田信昌 は、その集落に五〇名程の軍勢を送り込んだ。
☆
本殿をくすぐる風は穏やかだった。
強くもなく、弱くもない。
まるで傍観者のように、漂い、流れるだけ。
祭壇を背に、恵麻 が座ったまま視線を軽く落としている。
その斜め後ろには陽麻 。
二人の正面。
並んで座るのは、萌江 と咲恵 。
その後ろには咲 と苑清 。
おかしな光景だった。以前までなら間違いなくありえない光景だっただろう。
しかし今、総てがここにあった。
そこは清国会 の頂点にして中心、雄滝 神社。
国を動かし、歴史を動かしてきた。その清国会 を翻弄 し続けてきた金櫻 家の最後の末裔 ────萌江 を中心に、ここに総てが集まっていた。
咲 と苑清 からの真実の話は、清国会 のトップである恵麻 の気持ちを揺らした。そして萌江 と咲恵 からの総ての顛末 が語られる。
それは受け入れられるかどうか、というものではなかった。
なぜなら、真実がそこにあったからだ。
恵麻 は耳ではなく、気持ちでその話の総てを聞いていた。
そしてそれは、自分たちにとってあまりにも残酷な現実。
外から冬の匂いが漂う。
そんな中で、口を開いたのは咲恵 だった。
「────話を聞いた上で、恵麻 さんはどうされますか? 清国会 のトップとして…………」
冷たい質問なのかもしれない、と咲恵 も思った。しかし逃げる気もない。相手は清国会 を束ねて国を動かしてきた滝川 家。その頂点にいる恵麻 に、中途半端な情 けをかけるほうが失礼にも感じた。
恵麻 はすぐには応えない。
しばらく身動きもせずに床に視線を落としたまま。
やっと聞こえた声は、それまで聞いたこともないような弱々しさ。
「……話の真意は理解致しました。私にも皆様同様に見えるものがあります……我らが清国会 として皆様と意見を違 えるのは簡単なこと…………しかしながら、これ以上はお互いに望まない戦 となりましょう…………」
──……終わったのね…………
そう思った咲恵 が返す。
「…………ご理解いただけて……」
「おかしなものですね……こうして向かい合うことになろうとは…………やっとここまで辿り着きましたか…………」
恵麻 はまるで遮るようにそう言うと、少しだけ目線を上げて続けた。
「黒井 様…………黒井 様が信じておられるのは……何ですか?」
恵麻 の予想外なその投げ掛けに、咲恵 は思う。
──……今まで……どれだけこの人の存在を捕まえようとしたんだろう…………
──……常にアンテナを張ってた…………ピリピリとした感情…………
──…………でも…………もう違う…………
──……この人は……私たちの〝覚悟〟を知りたいんだ…………
「私は……〝仲間〟を信じます。血筋ではありません。人生を共にする仲間がいます……私はそれを信じたい…………」
咲恵 はそう応えながら、無意識に凛 とした目を恵麻 に向けていた。
「そうですか…………その上で、皆様が我らにお求めになるのは────」
その恵麻 の問いかけを、萌江 が遮った。
「清国会 を貰い受けたい」
一瞬、空気が張り詰める。
外の音も消えた。
「────って、言ったら?」
その萌江 の言葉に、恵麻 はすぐに返した。
「解体は望まぬと?」
「清国会 はすでにこの国を動かしてる。解体したら国そのものが傾くよ。元々あなたが望んでいたのは私が頂点に立つことではないはず……自分が国を動かしたかっただけ…………そうなんでしょ? だから金櫻 家の血筋を求めてきた……〝神〟という存在を作るためにね。そして私を手に入れるために母を利用しようとした……そして御世 に阻 まれた。そして聞かされた真実は信仰の根底を覆 すもの…………スズって何者だったのかな……本当に特殊な能力を持っていたんだとしたら、いくらでも血筋の捏造 は出来るのに…………スズはそれをしなかった。そしてあなたも、なぜかそれをせずに素直に私たちの前にいる…………どうして?」
恵麻 は身動きもせずに、何も応えない。
咲恵 とは真逆。
萌江 は恵麻 を追い詰める。
その恵麻 の後ろから、陽麻 が唾を飲み込む音。
そして、萌江 の低い声が続いた。
「……出てきな…………スズ…………」
その萌江 の声に、瞬時に周囲が暗くなる。
まるで陽が落ち始めたかのよう。
完全に項垂 れたような恵麻 の体から、黒い霧 のようなものが立ち登り始めた。
それはしだいに恵麻 の頭上で塊となっていく。
やがて闇よりも深い〝影〟へ。
「……やはりお前か…………久しぶりだな…………スズ…………」
そう言った萌江 の口元に笑みが浮かぶ。
その〝影〟は、萌江 と咲恵 が京子 の記憶で見てきた〝異形 の存在〟そのもの。
金櫻 家を苦しめ続けた〝異形 〟────それがやっと目の前にいる。
そして萌江 の言葉に応える厚い声が、重くなった空気を震わす。
『……魔性 の子よ……よく聞くがよい…………我の血を継いでいるのは貴様のみ…………滝川 も御陵院 も一度その血は途絶えておる…………これが真実だ…………』
すでに誰も臆してはいなかった。
萌江 と咲恵 の後ろにいた咲 と苑清 も、黙って鋭い目を〝影〟に向け続ける。
二人には恐怖と共に、不思議な安心感があった。目の前の〝異形 の者〟に対峙しているのは、今まで自分たちが〝神の末裔 〟と信じてきた萌江 。その歴史が例え嘘であったとしても〝神〟がそこにいるとしか思えなかった。
そして応えるのは萌江 。
「その血を途絶えさせたのはお前か……そして最後に母と私を殺そうとして、お前は母によって水晶の奥深くに押し込められた。この水晶の力は母の力…………結果的に金櫻 家を苦しめることになったお前を押さえ込むために…………そして、お前は常に私たちと共にいた…………」
萌江 は首に下がる〝火の玉〟を左手で握った。
そこに〝異形 〟の声。
『……京子 はどこだ……京子 は貴様の中に閉じ込めたはずだ…………』
すると、萌江 の隣の咲恵 が口を開く。
「見えないでしょ? ここ……私の中…………」
『……馬鹿な……魔性 の中にいるはずだ…………』
「あなたへの…………京子 さんの抵抗……」
その咲恵 の言葉を、萌江 が繋ぐ。
「お母さんはね……あなたの監視を逃れて私を守るために、咲恵 の中にいたの」
周囲の暗さが増した。
空気まで小刻みに振動を始める。
『────あの小娘が! 我を邪魔するのか!』
〝影〟が膨れ上がった。
途端にその姿は大きな人の物へ。
萌江 と咲恵 の目の前に立ち塞がる。
二人は動かない。表情も変えないまま。
そして〝影〟の中に恐ろしい形相の顔のようなものが浮かんだ。
しかし直後、動きが止まる。
〝影〟の背後にいたのは、恵麻 。
片膝を立てた恵麻 が、右手を〝影〟の背中へ。
「……二度も三度も死にたいのか…………スズ…………」
『馬鹿な……京子 は私が魔性 の中に閉じ込めたはずだ…………だから私が魔性 の子を生かしたというのに…………』
萌江 が静かに応えた。
「笑わせないでよ。母が守ったから私はここにいる…………母は私の中に押し込められることで、私を守った。だからあなたは私を殺せなかった…………そして今は咲恵 の中にいる……私を守るため…………母親が子供を守る……愛情があれば当たり前のことでしょ? あなたは? あなただって母親だったんじゃないの? あなたにとって子供の存在って何だったの?」
『…………終わらせねばならんのだ…………我が力を継承 するな…………』
「それが青洲 さんの願いか……苦しかったのね……………………咲恵 、遡 って」
その萌江 の声に、咲恵 が首に下がる水晶を左手で握る。
☆
集落が火に包まれていた。
周囲の山ごと燃えていた。
武田信昌 の軍勢によって、集落の人間たちが次々と殺されていく。
暗闇に響く悲鳴と怒号を、軍勢が取り囲んでいた
響き渡るのは馬の鳴き声と蹄 の音。
唯独 神社の周囲を囲む森も燃え続け、やがて社 までも煙で包み始める。
炎の作り出す風のうねりが強くなってきた。
外の様子を伺い続ける青洲 とは違い、スズは涼 しい表情で本殿の中心に座っていた。
そして、声を上げた。
「青洲 ……ここを捨てる時だ」
青洲 は振り返って声を張り上げる。
「民 はどうするのだ⁉︎ ここまで共に生きてきたのだぞ!」
それに応えるスズの言葉は冷徹だった。
「……生き長らえるのは我等 のみ」
「そんな…………」
「何を恐れる。総ては我等 の血の為」
しかし、それでも青洲 は声を上げ続ける。
「ならん! スズなら民 を救えるはずだ!」
「救う理由は無い……武田 の軍勢も焼き払う…………」
周囲からは木が焼かれて割れる音。急激な温度変化で乾燥し、社 の木材が亀裂を生んでいた。
炎の熱が次第に二人を取り囲む。
青洲 が途端に声を落として返した。
「……よもや……この火もスズが放ったものか…………」
「無事に世継ぎを産めた。すでにこの地に用は無い」
「…………スズ…………」
──……〝魔性 の者〟か…………
青洲 がそう思った時、更なるスズの言葉が、青洲 の中の何かを壊す。
「〝鈴京 様〟と呼べ────」
──……違う…………どうして御主 は………………
「────御主 を…………御主 を〝神〟にしたくて救った訳ではないぞ‼︎」
叫んだ青洲 は無意識にスズに滲 み寄っていた。
いつの間にか、その目が潤 む。
スズは横に置いていた刀を手にすると、鞘 から抜く。
「……やはり我を裏切るか…………」
スズが青洲 の体に刀を突き刺していた。
薄らと見えていた。しかしスズはその未来を信じたくなかった。信じたくないまま、ここまで来た。違う未来を掴めると、僅かな糸に縋 った。
しかし、スズはその糸を見失う。
そして、同時に、青洲 の手にも刀。
その刃はスズの胸を貫 いていた。
弱まる力の中で、青洲 が声を絞り出す。
「……最初から…………こうしておけば良かったのか…………」
──…………どこで間違った………………
震える体の中で、スズの胸に懐かしい感覚が蘇 っていた。
──……こうするしか…………生きられなかった………………
スズの頬を、何かが零 れる。
やがて、痛みの苦しさは力を奪い、感覚をも弱めていく。
痛みが消えた。もはや感覚すら無い。
そして、二人は折り重なるように倒れた。
社 が炎の力で倒れ掛けた時、近くの川から突如として水が溢れた。
その大量の水は集落の火を押し消しながら次第に広がっていく。
燃え盛ろうとする炎と鬩 ぎ合った。
やがて、土に染み込み、木に染み込んだ水が炎の熱を弱め、集落が静かになったのは明け方。
あちこちに煙が漂う中、水の引いた土地に死体が並ぶ。
辛うじて生き残った武田 の軍勢が数名。
〝神〟と言われた金櫻鈴京 ────スズを探していた。しかし神社の焼け跡にも見付からないまま時間だけが過ぎていく。
焼け焦げた匂いの充満する神社の跡。
その焼け跡で、武士の一人が泣き叫ぶ赤子 を見付ける。
武士はすぐに抱き上げ、思わず呟いていた。
「……赤子 に罪はあるまい」
その赤子 は、しばらくの間、泣き続けていた。
そして、その赤子 の下には、小さな二つの水晶────。
☆
「こっから先は……蛇足 ね…………」
そう声を落とした咲恵 が続ける。
「結果的に場所を変えて唯独 神社は受け継がれた…………そこにスズさんの意思が介在していたことは明らか…………でもどうして? それならいつでも血筋を絶つことは出来たはず……」
目の前の〝影〟────スズは応えない。
それを、萌江 が拾う。
「二人で水晶に閉じ込められていたから? だから金櫻 家を苦しめることしか出来なかったの? それだけじゃないよね…………あなたにも運命は変えられなかった…………運命なんて言葉は私らしくないけどさ…………後悔があったのは……スズも同じなんだよね…………」
さらに咲恵 が繋ぐ。
「歴史という時間には、光と闇がある…………何が正しかったのかなんて誰にも分からない…………もしかしたら、私たちも一〇〇年後には悪者かもしれない」
大きな人の形になっていた〝影〟が、少しずつ小さくなっていく。
やがてそれは、二つの人の形へ。
そして、もう深い〝闇〟ではなかった。
いつの間にか、白く周囲を照らしていた。
その人の形は、青洲 とスズ。
その光を浴びながら、柔らかい表情を浮かべた萌江 が口を開いた。
「……青洲 さんに出会った時のこと……忘れないで…………それだけでいいから…………」
スズが顔を上げる。
萌江 が続けた。
「……もう……終わりでいいんだよね…………」
スズは小さく頷く。
その顔に浮かぶものは笑顔のようにも見えたが、萌江 と咲恵 には計りかねた。
そして、二人の姿が霧 が晴れるように消える。
本殿の中を静けさが包んだ。
もはや外の音も聞こえない。
僅かに暖かい風が渡った直後、衣擦 れの音。
意識を失った恵麻 の体が傾く。
一瞬緊張が走るが、その体を支えたのは、突然現れた西沙 だった。
「────間に合った」
西沙 は目を開け掛けた恵麻 に笑顔を向けて続ける。
「ごめんね。立坂 さんと雫 さんを迎えに行ってたら遅くなっちゃった」
その光景に、萌江 も咲恵 も小さく息を吐いた。
恵麻 は西沙 に抱かれながら呟く。
「……西沙 …………」
「これからは仲良く出来そうだね」
その西沙 の言葉に、返すのは咲恵 の明るい声。
「あら、西沙 ちゃんが仲良くだなんて珍しい」
すると、返す西沙 の声も幾分明るい。
「失礼ねえ、これでも恵麻 とは同じ日に産まれたんだよ。姉妹 みたいなものなんだから。ね? 陽麻 」
突然話を振られた陽麻 は戸惑った表情を見せた。
「え……ええ……まあ…………」
そこに萌江 が挟まる。
「いきなり現れて姉妹 って言われても……二人とも戸惑ってるじゃん」
その背後からは咲 の溜息。
しかし、次の咲恵 の声が全員の気持ちを高揚させた。
「……だったら…………〝仲間〟で…………」
まるで後光のように、咲恵 の背後から陽の光が差し込む。
そして恵麻 の顔に、笑みが浮かんでいた。
☆
『娘の西沙 が迎えに行きます』
その咲 の指示を電話で受けたのは総合統括事務次官の西浦 だった。
──……西沙 ……?
西浦 も何か嫌な予感のようなものは感じていた。自分たちの分からないところで何か今までとは違う動きがあったのは事実。
そして今回の咲 の指示。何も無いと考えるほうが不自然だった。
──……やはり何か動きがあったか…………
咲 の指示は〝立坂 と雫 の釈放〟。
しかも西沙 が迎えに来るという。
──…………清国会 の根幹 が崩れてる…………
しかしその説明は無い。言い知れぬ不安が西浦 を包んだ。
やがて二人を迎えに来たのは、西沙 と杏奈 、そして満田 の三人。
──……清国会 も終わりか…………
西浦 は三人の姿を見ながら、そう思っていた。
やがて満田 が立坂 と雫 を乗せて御陵院 神社の楓 の元へ。西沙 は杏奈 の車で雄滝 神社に向かう。
そして事 が終わると、咲 と西沙 は杏奈 の運転で御陵院 神社の涼沙 の元へ。
その御陵院 神社はすでに、うっすらと夕刻の始まり。
開け放たれた板戸をくすぐるように、本殿の中に緩やかな風が舞い込んでいた。
そこには三人だけ。
「綾芽 のことは……忘れないであげて…………」
そう言ったのは涼沙 だった。
側 には咲 と西沙 。久しぶりに西沙 を交えて家族が集まっていた。
「もちろんだよ……御世 の忘れ形見みたいなものだしね…………しかも最後は助けられた……」
そう返す西沙 の表情には、やはりまだ陰りはあった。あんな形で綾芽 と再開し、少し前までは想像もしなかった結果となった。西沙 も気持ちの整理が完全に出来ているわけではない。
そしてそれは咲 も同じ。
三〇年近くに渡って実の我が子同然に共に生きてきた。しかしその存在は幻だった。
「……元はと言えば……私も養子であることを隠していました…………」
咲 は冷たくなった本殿の床に視線を落とす。そこは前日まで血溜まりが出来ていた場所。しかし今はその痕跡すら見当たらない。総ては西沙 の作り出した幻。
殺されたと思い込んでいた涼沙 は、今、目の前で生きている。
咲 はそのことを西沙 に感謝した。
──…………さすがです…………西沙 ………………
その西沙 が声を落として咲 に返す。
「御世 がそうさせてたのかもよ。私と涼沙 に信じ込ませるためにさ…………それに、綾芽 はやっぱり長女だったよ。今までの記憶まで御世 は持っていかなかった……忘れたほうが楽なのは御世 が一番知ってるくせに……でもそのほうが、私は嬉しいかな……でしょ? 姉さん」
西沙 が涼沙 に顔を向けると、僅かに潤 んだ目で涼沙 が応えた。
「……いいこと言うようになって…………西沙 も大人になったねえ」
「姉さんたちに鍛えられたからねえ」
「嫌味な言い方は変わってないけど」
「何よ偉そうに」
そこに咲 が挟まる。
「……まったく……やめなさい二人とも」
しかし咲 はその顔に僅かに笑みを浮かべたまま。
以前までとは何かが違う関係性に、自然と気持ちが綻 んだまま続ける。
それでも現実は目の前。
「それより大事なのはこれからのことです。この国を本当の意味で正しい方向に導くために、清国会 を立て直さなければなりません」
それに、西沙 が目を鋭くさせて返す。
「内閣府はどうするの?」
「内閣府そのものは良しとしても総合統括事務次官は解体すべきでしょう……裏七福神など……この国にはもう必要ありません」
そう言う咲 の目に、西沙 は覚悟を感じていた。国のためと思って組織したものを自らの手でこれから解体しなければならない。しかも内閣府の一部門だけとは言っても簡単なことではないだろう。清国会 そのものを解体出来ない現実を改めて感じた。
「そっか……じゃあ、蛇の会も解散だね…………」
そう返しながら、やはり西沙 の中にも寂しさは残る。立坂 と二人で立ち上げ、やがて大きくなった蛇の会。西沙 は常にその中心にいた。総てを見てきた。
──……私は清国会 をどうするつもりだったんだろう…………
──…………萌江 と咲恵 がいなかったら、もしかしたら………………
西沙 の表情に何かを感じたのか、咲 が言葉を向ける。
「負けましたよ西沙 ……あなたが正しかった…………」
しかし西沙 は表情を変えないまま。
「勝ち負けじゃないよ、お母さん…………歴史の流れの一部だっただけ…………未来の総てを見通せるわけじゃない。萌江 の言ってた未来の可能性を掴むって、そういうことなんだよね。あるのは結果だけ。それには逆らえない」
すると、明るい声で返したのは涼沙 だった。
「やっぱり大人になったねえ」
「うるさいわね」
反射的に返した西沙 に笑顔が浮かぶ。
そして、咲 が真剣な声を西沙 に向けた。
「……あなたが必要です……西沙 …………滝川 家は清国会 の未来を我々に託しました。もちろん協力体制は変わりませんが、これからはあなたの力が必要です。戻ってきませんか?」
それを涼沙 が拾う。
「事実だね……悔しいけどさ」
それでもその目は優しいもの。
西沙 は本殿の外に目をやった。
そしてゆっくりと応える。
「そうだなあ…………でも、私に惚 れ込んだ女が一人いるからさ…………もう少し唯独 神社にいるよ」
その視線の先には、本殿に上がる階段に腰掛けた杏奈 の背中。
杏奈 は清々 しい表情で、うっすらとオレンジ色になり始めた青空を仰いでいた。
☆
陽が落ち始めていた。
この時期は夜の訪れが早い。
しかし萌江 はこの静かな時間が好きだった。
少しずつ空の色が変わり始め、やがてオレンジ色へ。真っ赤な時もある。同じ色は一日として存在しない。気温や湿度、様々な条件でいつも空の表情は変化してきた。それを一番感じられる時間。その時間を萌江 は大事にしたかった。
昔、人々は夜を恐れた。
そのため、空が暗くなり始める大禍時 を嫌った。
夜の闇は〝魔 〟の時。
〝闇〟に紛れるものの時間。
神社の鳥居は文字通り〝鳥の居る所〟。朝の鳥の鳴き声を求めた。陽が登ると〝魔の時間〟は終わりを告げる。
しかし歴史の流れの中で、夜は闇ではなくなった。
いつの間にか、この時間も、夜も、時代と共に意味を変えていく。萌江 はそれでいいと思っていた。それが時間の流れ。結果だからだ。
結果とは、受け入れるためにある。
萌江 はコーヒーメーカーからポットを外した。二つのマグカップに少な目にコーヒーを注ぐと、それを持って縁側に向かう。
そこには咲恵 の背中。
電話をしている咲恵 の声が聞こえた。
「ええ、色々とすいませんでした。立坂 さんにも迷惑かけて……総て解決しましたから……ええ、これから忙しくなると思いますけど少し休んでください。次に集まった時にはよろしくお願いします。では────」
通話を切った咲恵 の横に、コーヒーの香り。咲恵 が笑顔でマグカップを受け取ると、横に萌江 が座った。
その萌江 の声には、明るくも疲れが見て取れる。
「立坂 さん大丈夫だって? まあ手荒なことはしてないだろうけど」
「それは大丈夫。でも大きな仕事の途中で拘束されたから仕事が溜まってて大変みたいよ」
「そりゃ大変だ。でも雫 さんも楓 ちゃんも無事だったし……二人には今回も助けられたね…………」
「そうだね……後で電話しておく。今は家族二人で休ませてあげなくちゃ」
「…………うん……」
萌江 にも咲恵 にも、もちろん安堵感 はあった。
大きな懸案 が解決したことは事実。それが望んだ結果なのかどうかは、正直二人にはまだ分からない。
しかし、萌江 は濁 すのを嫌った。
「色々な意味で、犠牲はあったね……結果は覆 せない。それはこれからも消えることはないよ……受け入れたくないこともあるけどさ…………でも……だからこそ私は未来の可能性に賭ける」
その萌江 の真剣な横顔に、咲恵 も改めて萌江 の〝強さ〟を感じた。
「……そうだね……でもだからこそ…………望む未来のために今を大事にしなきゃ…………」
「そんな咲恵 の〝強さ〟がやっぱり好きだな」
萌江 はコーヒーを口に運ぶ。空気の冷たさのせいか、その暖かさは瞬く間に全身を巡った。
そんな萌江 に、咲恵 の声が響く。
「……そんな萌江 の〝弱さ〟が…………私は放っておけないんだ…………」
咲恵 はそう言うと、冷たい縁側の板の上で、萌江 の手を握った。
萌江 はその手を握り返しながら返していく。
「放っておかないでよ…………」
「うん…………これから忙しくなるしね…………まさか国の中枢を建て直すなんて…………」
「そっちは清国会 の仕事だよ。もう大丈夫……咲 さんが中心ならね。滝川 家だって協力してくれる。もうみんな〝仲間〟だしさ」
「新しい仲間が増えたら……水晶が軽くなった気がするよ…………」
咲恵 はそう言いながら、首に下がる水晶を胸元から取り出した。そして柔らかい表情で見つめると、隣の萌江 もその水晶────〝水の玉〟に目をやりながら返す。
「そうだね……キラキラしてた粒々も消えたし…………」
「ちょっと寂しい気もするけど……いっか、今日は久しぶりに二人きりだし」
「いいねえ」
萌江 は水晶から咲恵 の胸元に視線を移して身を寄せ始めた。
「イヤらしい言い方しないでよ」
そう言いながら咲恵 が顔を向けた時には、その体は萌江 に倒されて縁側の板の上。
咲恵 の顔を見下ろし続ける萌江 に対して、咲恵 自身は僅かに視線を外す。それでもすでに、唇には萌江 の唇が軽く触れていた。
咲恵 が、小さく。
「背中……冷たい……」
「…………暖めてあげる…………久しぶりに…………」
萌江 はそのまま咲恵 に唇を重ねた。
受け入れながらも、咲恵 の言葉は逆。
「……ここで?」
「萌江 様が我慢が出来ぬと申しておる」
「バカ」
こんな時に咲恵 が見せる子供のような笑顔が、萌江 は昔から好きだった。
しかし、二人の耳に聞こえる車の音。
それは聞き慣れたRV車のエンジン音。
二人の頭に西沙 と杏奈 の顔が浮かび、同時に小さく溜息。
そして咲恵 。
「あら」
「あいつら……」
萌江 が言葉を漏らした時、聞こえたのは、もう一人の声。
「ちょっと!」
そんな西沙 の声が空気を変えるように続いた。
「明るい内から何してんのよ!」
「夕方なんだからいいじゃん! 時間なんて関係あるか!」
萌江 が瞬時にテンションを西沙 に合わせる。
「見てるこっちが恥ずかしいのよ」
西沙 はそう言いながら縁側に足をかけた。
「見ろとは言ってない…………ってコラ────」
そう応える萌江 の横で西沙 はリビングへ。
「とりあえず日本酒ね」
西沙 のその声がリビングへと吸い込まれると、今度は杏奈 の声。
「私はビールで。萌江 さんもビールですよね。咲恵 さんはやっぱりワインですか?」
杏奈 は西沙 を追いかけてリビングからキッチンへ。
すると、萌江 の下から咲恵 の声。
「あらあら……まだ空は明るいのに……」
そう言って笑顔になる咲恵 の上で、萌江 が軽く空を見上げながら呟く。
「〝仲間〟だから許してやるか」
そして、笑みが浮かぶ。
こんな時に萌江 が見せる子供のような笑顔が、咲恵 は昔から大好きだった。
その首に下がる〝火の玉〟が、夕陽を写す。
そこに、光の粒は、もうなかった。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二三部「消える命」終 〜
朝までの雪は姿を消し、太陽の熱が空気と土を暖める。
それでも冬ならではの薄い雲。
それは空にかかるベールのように揺れていた。
穏やかな風が、
早朝まで
「……すっかりと……寒くなった…………」
外に目をやった
〝
歴史の真実。
総てを。
それに対しての
しかし今、祭壇を背に二人の前に座る
まるで別人のように、穏やかだった。
驚いた二人に、
「…………面白い話だな…………
同時に、簡単に受け入れられない気持ちも理解出来る。
それでも、
まして
自分の歩んできた時間だけではない。
「
そう口を開いた
「……私は伝承を信じてきた…………長きに渡るこの国の歴史を信じてきた…………」
「…………はい」
「しかし
──………………私は…………
「どうしてだ
──………私は……
「……未来を信じます」
そう応えた
「……私は……そのためにここにいます」
「そうか」
意外にもすぐに返した
「応えてくれたこと……嬉しく思う…………では、私の話も聞いてくれるか? 今朝……
そう言う
そして
「
「母上、
「先ほど遠方の
「母上はどう思われますか…………
「そうですね…………」
「
すると、
「おかしな感覚だな
それを
「もしかしたら…………我らの中にも迷いがあったのかもしれません…………こうなってからではそれも都合のいい話ですが…………しかしどうしてでしょうね…………不思議と嫌な感じがしません。とはいえ私も以前はあなたと同じ立場。責任をあなた一人に押し付けるつもりはありませんよ」
すると、本殿の奥から、
「これは
そう言って
「御二人が揃うとは珍しいことですね。定期報告にはまだ早いのではありませんか?」
それに返すのは
「
「何か緊急の動きでも…………」
「……
「姉様? どうされました?」
突然の話に驚いた
それでもその中で自分の立ち位置を求め、今では
不思議そうな
「それでもお前は自分の存在意義を生み出した……感謝している…………今までずっと肩身の狭い思いをしてきたであろう。しかしお前がおかしいのではない…………我らのほうがおかしいのだ…………」
「…………姉様……」
「……
「
当然のように
呆然とする
「……するとどうだ…………何も見えない…………何も感じなくなった…………まるで抜け殻のようだ…………ずっと幻を見ていたのか…………」
その体に、反射的に
ただならぬものは
そして続く
「…………
しかし咲はすぐには応えられなかった。
嫌と言うほど気持ちが伝わっていた。
ゆっくりと
「…………外に…………」
参道に、足音。
風が流れた。
空気が足音を運ぶ。
そこには、
☆
小さな
敷地と思われる場所の入り口には鳥居もあったが、決して大きな物ではない。木を組み立てただけ。それでも倒れてはいなかった。
建物自体は
しかし今は誰もいなかった。そうなってから大分経つのだろうか。おそらくスズと
捨てられた集落。
捨てられた人々の営み。
どんな所にも歴史があったはず。決して歴史の表舞台に出てこないような場所にも、そこには必ず時間が存在した。
そしてそれは過去だけではなく、今もある。
未来もある。
スズも
壊れかけていた
近くには小川。水には困らない。食べ物は木ノ実や、まだ辛うじて残っていた山菜を中心とした。焼いた馬の肉は
そうして、最初の〝
集落に辿り着いて十日も経った頃だろうか。
屋根と食べ物を求めて、五人の野武士が訪ねてきた。宿主を失い、国を失った放浪者。
例え小綺麗とは言えなくても仮にも
二人は野武士に僅かな食事と水を振る舞う。
そして
「ここに
その言葉に、武士達は
一番正面に座る武士が口を開く。
「……
すると突然、
床の刀を手に取り、素早く抜くと、まさかの事に
後ろに倒れ込んだ武士の首に刀を突き刺し、その
「────あのような
刀を抜きかけた残りの武士を、左手を伸ばしたスズが止める。
その
スズの表情は冷ややかなまま。
「……我に
後に戦国時代と呼ばれる戦乱の歴史が、すでにこの頃から動き出していた。
四人はスズに傾倒するしかないまま、二人に従うこととなる。
集落の建物の修繕を始めていく。
やがて年を跨いだ頃、集落には戦によって住まいを奪われた放浪の民が集まってくるようになった。
そして春を迎えた頃には一つの集落が出来上がる。
畑も耕され、秋には食料だけでなく、四人の武士を中心とした武力までも備えていた。
そしてスズと
神の血を引く世継ぎとして、盛大な
しかしそんな独立性を伴った集落の存在を、快く思わない者がいた。
次第に大きくなっていく集落に脅威を感じたのは、その地、
しかも、そこには〝神の
神の
やがて
☆
本殿をくすぐる風は穏やかだった。
強くもなく、弱くもない。
まるで傍観者のように、漂い、流れるだけ。
祭壇を背に、
その斜め後ろには
二人の正面。
並んで座るのは、
その後ろには
おかしな光景だった。以前までなら間違いなくありえない光景だっただろう。
しかし今、総てがここにあった。
そこは
国を動かし、歴史を動かしてきた。その
それは受け入れられるかどうか、というものではなかった。
なぜなら、真実がそこにあったからだ。
そしてそれは、自分たちにとってあまりにも残酷な現実。
外から冬の匂いが漂う。
そんな中で、口を開いたのは
「────話を聞いた上で、
冷たい質問なのかもしれない、と
しばらく身動きもせずに床に視線を落としたまま。
やっと聞こえた声は、それまで聞いたこともないような弱々しさ。
「……話の真意は理解致しました。私にも皆様同様に見えるものがあります……我らが
──……終わったのね…………
そう思った
「…………ご理解いただけて……」
「おかしなものですね……こうして向かい合うことになろうとは…………やっとここまで辿り着きましたか…………」
「
──……今まで……どれだけこの人の存在を捕まえようとしたんだろう…………
──……常にアンテナを張ってた…………ピリピリとした感情…………
──…………でも…………もう違う…………
──……この人は……私たちの〝覚悟〟を知りたいんだ…………
「私は……〝仲間〟を信じます。血筋ではありません。人生を共にする仲間がいます……私はそれを信じたい…………」
「そうですか…………その上で、皆様が我らにお求めになるのは────」
その
「
一瞬、空気が張り詰める。
外の音も消えた。
「────って、言ったら?」
その
「解体は望まぬと?」
「
その
そして、
「……出てきな…………スズ…………」
その
まるで陽が落ち始めたかのよう。
完全に
それはしだいに
やがて闇よりも深い〝影〟へ。
「……やはりお前か…………久しぶりだな…………スズ…………」
そう言った
その〝影〟は、
そして
『……
すでに誰も臆してはいなかった。
二人には恐怖と共に、不思議な安心感があった。目の前の〝
そして応えるのは
「その血を途絶えさせたのはお前か……そして最後に母と私を殺そうとして、お前は母によって水晶の奥深くに押し込められた。この水晶の力は母の力…………結果的に
そこに〝
『……
すると、
「見えないでしょ? ここ……私の中…………」
『……馬鹿な……
「あなたへの…………
その
「お母さんはね……あなたの監視を逃れて私を守るために、
周囲の暗さが増した。
空気まで小刻みに振動を始める。
『────あの小娘が! 我を邪魔するのか!』
〝影〟が膨れ上がった。
途端にその姿は大きな人の物へ。
二人は動かない。表情も変えないまま。
そして〝影〟の中に恐ろしい形相の顔のようなものが浮かんだ。
しかし直後、動きが止まる。
〝影〟の背後にいたのは、
片膝を立てた
「……二度も三度も死にたいのか…………スズ…………」
『馬鹿な……
「笑わせないでよ。母が守ったから私はここにいる…………母は私の中に押し込められることで、私を守った。だからあなたは私を殺せなかった…………そして今は
『…………終わらせねばならんのだ…………我が力を
「それが
その
☆
集落が火に包まれていた。
周囲の山ごと燃えていた。
暗闇に響く悲鳴と怒号を、軍勢が取り囲んでいた
響き渡るのは馬の鳴き声と
炎の作り出す風のうねりが強くなってきた。
外の様子を伺い続ける
そして、声を上げた。
「
「
それに応えるスズの言葉は冷徹だった。
「……生き長らえるのは
「そんな…………」
「何を恐れる。総ては
しかし、それでも
「ならん! スズなら
「救う理由は無い……
周囲からは木が焼かれて割れる音。急激な温度変化で乾燥し、
炎の熱が次第に二人を取り囲む。
「……よもや……この火もスズが放ったものか…………」
「無事に世継ぎを産めた。すでにこの地に用は無い」
「…………スズ…………」
──……〝
「〝
──……違う…………どうして
「────
叫んだ
いつの間にか、その目が
スズは横に置いていた刀を手にすると、
「……やはり我を裏切るか…………」
スズが
薄らと見えていた。しかしスズはその未来を信じたくなかった。信じたくないまま、ここまで来た。違う未来を掴めると、僅かな糸に
しかし、スズはその糸を見失う。
そして、同時に、
その刃はスズの胸を
弱まる力の中で、
「……最初から…………こうしておけば良かったのか…………」
──…………どこで間違った………………
震える体の中で、スズの胸に懐かしい感覚が
──……こうするしか…………生きられなかった………………
スズの頬を、何かが
やがて、痛みの苦しさは力を奪い、感覚をも弱めていく。
痛みが消えた。もはや感覚すら無い。
そして、二人は折り重なるように倒れた。
その大量の水は集落の火を押し消しながら次第に広がっていく。
燃え盛ろうとする炎と
やがて、土に染み込み、木に染み込んだ水が炎の熱を弱め、集落が静かになったのは明け方。
あちこちに煙が漂う中、水の引いた土地に死体が並ぶ。
辛うじて生き残った
〝神〟と言われた
焼け焦げた匂いの充満する神社の跡。
その焼け跡で、武士の一人が泣き叫ぶ
武士はすぐに抱き上げ、思わず呟いていた。
「……
その
そして、その
☆
「こっから先は……
そう声を落とした
「結果的に場所を変えて
目の前の〝影〟────スズは応えない。
それを、
「二人で水晶に閉じ込められていたから? だから
さらに
「歴史という時間には、光と闇がある…………何が正しかったのかなんて誰にも分からない…………もしかしたら、私たちも一〇〇年後には悪者かもしれない」
大きな人の形になっていた〝影〟が、少しずつ小さくなっていく。
やがてそれは、二つの人の形へ。
そして、もう深い〝闇〟ではなかった。
いつの間にか、白く周囲を照らしていた。
その人の形は、
その光を浴びながら、柔らかい表情を浮かべた
「……
スズが顔を上げる。
「……もう……終わりでいいんだよね…………」
スズは小さく頷く。
その顔に浮かぶものは笑顔のようにも見えたが、
そして、二人の姿が
本殿の中を静けさが包んだ。
もはや外の音も聞こえない。
僅かに暖かい風が渡った直後、
意識を失った
一瞬緊張が走るが、その体を支えたのは、突然現れた
「────間に合った」
「ごめんね。
その光景に、
「……
「これからは仲良く出来そうだね」
その
「あら、
すると、返す
「失礼ねえ、これでも
突然話を振られた
「え……ええ……まあ…………」
そこに
「いきなり現れて
その背後からは
しかし、次の
「……だったら…………〝仲間〟で…………」
まるで後光のように、
そして
☆
『娘の
その
──……
そして今回の
──……やはり何か動きがあったか…………
しかも
──…………
しかしその説明は無い。言い知れぬ不安が
やがて二人を迎えに来たのは、
──……
やがて
そして
その
開け放たれた板戸をくすぐるように、本殿の中に緩やかな風が舞い込んでいた。
そこには三人だけ。
「
そう言ったのは
「もちろんだよ……
そう返す
そしてそれは
三〇年近くに渡って実の我が子同然に共に生きてきた。しかしその存在は幻だった。
「……元はと言えば……私も養子であることを隠していました…………」
殺されたと思い込んでいた
──…………さすがです…………
その
「
「……いいこと言うようになって…………
「姉さんたちに鍛えられたからねえ」
「嫌味な言い方は変わってないけど」
「何よ偉そうに」
そこに
「……まったく……やめなさい二人とも」
しかし
以前までとは何かが違う関係性に、自然と気持ちが
それでも現実は目の前。
「それより大事なのはこれからのことです。この国を本当の意味で正しい方向に導くために、
それに、
「内閣府はどうするの?」
「内閣府そのものは良しとしても総合統括事務次官は解体すべきでしょう……裏七福神など……この国にはもう必要ありません」
そう言う
「そっか……じゃあ、蛇の会も解散だね…………」
そう返しながら、やはり
──……私は
──…………
「負けましたよ
しかし
「勝ち負けじゃないよ、お母さん…………歴史の流れの一部だっただけ…………未来の総てを見通せるわけじゃない。
すると、明るい声で返したのは
「やっぱり大人になったねえ」
「うるさいわね」
反射的に返した
そして、
「……あなたが必要です……
それを
「事実だね……悔しいけどさ」
それでもその目は優しいもの。
そしてゆっくりと応える。
「そうだなあ…………でも、私に
その視線の先には、本殿に上がる階段に腰掛けた
☆
陽が落ち始めていた。
この時期は夜の訪れが早い。
しかし
少しずつ空の色が変わり始め、やがてオレンジ色へ。真っ赤な時もある。同じ色は一日として存在しない。気温や湿度、様々な条件でいつも空の表情は変化してきた。それを一番感じられる時間。その時間を
昔、人々は夜を恐れた。
そのため、空が暗くなり始める
夜の闇は〝
〝闇〟に紛れるものの時間。
神社の鳥居は文字通り〝鳥の居る所〟。朝の鳥の鳴き声を求めた。陽が登ると〝魔の時間〟は終わりを告げる。
しかし歴史の流れの中で、夜は闇ではなくなった。
いつの間にか、この時間も、夜も、時代と共に意味を変えていく。
結果とは、受け入れるためにある。
そこには
電話をしている
「ええ、色々とすいませんでした。
通話を切った
その
「
「それは大丈夫。でも大きな仕事の途中で拘束されたから仕事が溜まってて大変みたいよ」
「そりゃ大変だ。でも
「そうだね……後で電話しておく。今は家族二人で休ませてあげなくちゃ」
「…………うん……」
大きな
しかし、
「色々な意味で、犠牲はあったね……結果は
その
「……そうだね……でもだからこそ…………望む未来のために今を大事にしなきゃ…………」
「そんな
そんな
「……そんな
「放っておかないでよ…………」
「うん…………これから忙しくなるしね…………まさか国の中枢を建て直すなんて…………」
「そっちは
「新しい仲間が増えたら……水晶が軽くなった気がするよ…………」
「そうだね……キラキラしてた粒々も消えたし…………」
「ちょっと寂しい気もするけど……いっか、今日は久しぶりに二人きりだし」
「いいねえ」
「イヤらしい言い方しないでよ」
そう言いながら
「背中……冷たい……」
「…………暖めてあげる…………久しぶりに…………」
受け入れながらも、
「……ここで?」
「
「バカ」
こんな時に
しかし、二人の耳に聞こえる車の音。
それは聞き慣れたRV車のエンジン音。
二人の頭に
そして
「あら」
「あいつら……」
「ちょっと!」
そんな
「明るい内から何してんのよ!」
「夕方なんだからいいじゃん! 時間なんて関係あるか!」
「見てるこっちが恥ずかしいのよ」
「見ろとは言ってない…………ってコラ────」
そう応える
「とりあえず日本酒ね」
「私はビールで。
すると、
「あらあら……まだ空は明るいのに……」
そう言って笑顔になる
「〝仲間〟だから許してやるか」
そして、笑みが浮かぶ。
こんな時に
その首に下がる〝火の玉〟が、夕陽を写す。
そこに、光の粒は、もうなかった。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二三部「消える命」終 〜