第二五部「黒い点」第2話

文字数 9,046文字

 昭和四〇年代。
 当時、周囲から聞こえてくる言葉、新聞に載る文字は明るい物が多くなっていた。表向きな歴史として、この当時の日本は少し浮かれていたのかもしれない。それは一度壊れたものを再建していく高揚感が作り出していたのだろう。例えどんなに戦勝国の占領政策があろうとも、やはり根の部分に存在する愛国心までは崩せなかった。一度壊れた自国を復興させたい感情は決して間違ったものではない。しかし同時にそれは、臭い物に蓋をしなければ成し遂げられない成果でもある。
 どんな歴史にも、光と影があった。
 清のように影の中だけで生きた人間も多い。そこしか行き場がなかった。そうするしかなかった。
 やがて新聞の見出しは「環境破壊」や「オイルショック」「戦争」の文字が並び、浮き足立っているだけの世の中ではないことを感じさせた。それでもそれは直接的には清の生活に関係のないまま。
 好景気に沸いていた町工場で働いていた時、事務員の牧田耶絵(やえ)と出会った。
 すでに二〇才を迎えていた清に対して、耶絵は一つ下の一九才。
 耶絵との出会いにより、清は久しぶりに半年近くをその職場で働くことになる。
 あの脱線事故から、自分の被害妄想が強いことも分かってはいた。あれから何度か命の危機があった。少なくとも清はそう思っていた。そのため、人と関わることを極度に避けてきたところがある。そんな清に積極的に接してきたのは耶絵のほうからだった。
「いつもお一人ですよね」
 決して大きな工場というわけではない。しかし小さいながらも食堂があった。結果的にそこが清と耶絵を繋ぐことになる。
 何も応えずに視線だけを向ける清の正面の席に、耶絵は大きなお椀の乗ったトレイを置いて座った。そして続ける。
「牛抱さんは蕎麦派ですか? 私はうどん派なんですよ」
 自分とは正反対の明るく抑揚のある声。
 その言葉に、清も無意識に目の前の〝かき揚げ蕎麦〟と耶絵の前に置かれた〝キツネうどん〟に視線を配った。〝食〟というものにこだわりを持ったことはない。外食と呼べるものは昼食の食堂くらいだった。それ以外は家で質素な食事を摂るだけ。アパートの近くの肉屋や魚屋で買った惣菜。安く済ませるために米だけはアパートで炊いていた。
 あまり一所に長くいるのを嫌った。気持ちが落ち着かない。周囲からの視線を気持ち悪く感じていた。
 誰が自分の命を狙っているか分からない。
 常にその考えが消えなかった。
 そのためか、転職を繰り返してきたこともあり、誰とも親密になったことはない。何年もそうやって生きてきた。今更、それを寂しいなどと感じることもない。だからこそ、耶絵が話しかけてきてもその会話に深入りするつもりはなかった。
「……別に…………」
 〝蕎麦〟か〝うどん〟かなど、どうでもよかった。そのことを説明することすら無意味に感じられた。
「ごめんなさい、突然……」
 そして声を少しだけ落とした耶絵が続ける。
「実は昨日なんですけどね。新聞記者っていう人に話しかけられて…………牛抱さんのこと聞かれて…………」

 ──…………新聞記者……?

「家族はいるのか、とか……恋人はいるか、とか…………色々聞かれて…………分かりませんって言って逃げましたけど、誰か分かります?」

 ──……怪しまれてる…………

 そう清が考えるのも無理はない。反射的に視線を上げて耶絵の顔を見るが、その目は純粋だった。決して清に対して不信感を抱いているようには見えない。とはいえ、他人の心情を読み取れるほど誰かと深く関わったことはない。不信感を増幅させていたのは清自身だった。
「……何も……してませんけど…………」
 嘘ではない。
 何も怪しまれることなどない。
 清は何も悪いことなどしていない。

 ──……もしかしてあの時の新聞記者か…………?
 ──……今更、何だ…………

 その日の退社時間。
 一斉に工場の出入り口から従業員が溢れ出す。
 その波に紛れるように歩を進めていた清に声を掛けてきたのは、やはりあの時の新聞記者、月乃隆一だった。
「久しぶりだね」
 およそ五年ぶり。しかしその笑顔に、なぜか清は嫌なものを感じていた。
 あの時、一度は清国会に触れた人間。命を危険に晒した人間。そんな人間と再び関わることすら危険に感じられる。
 清は返事もせずに月乃に鋭い目を向けていた。
 しかし月乃はお構いなしに口を開く。
「あれからどうしてるかと思って、心配してたよ。君が無事で良かった」
 新聞記者という仕事柄なのか、そうでなければ数ヶ月毎に職場と住まいを変えていた清に辿り着ける者はいなかっただろう。

 ──……また……どこかに行かないと…………

 清がそう思った時、前から声がした。
 周囲の多くの足音に混じる。
「牛抱さん!」

 ──…………え……?

 昼に聞いた声。その声の主、耶絵が小走りに清の腕を掴む。
「行こ! 約束したでしょ」

 ──……約束?

 清は腕を引かれたまま、足早な耶絵に着いていくだけ。
 しかしなぜか、その腕に暖かさを感じた。
 同時に感じる〝嫌な他人〟から解放された安堵感。こんな些細なことでも、人と関わることを避けてきた清にとって、それは大きなことだった。
 いくつかの角を曲がり、やがて建物の影に隠れるようにして、二人は月乃が追いかけてきていないことを確認すると、最初に口を開いたのは耶絵だった。
「ごめんなさい。牛抱さんが困ってるように見えたから…………昨日の人……昼間に話したら嫌そうな顔してたし…………ごめんなさい、勝手に…………」
 そして、無意識の内に、清は言葉を返していた。
「……いや…………実際、嫌だったから…………」
「そっか…………良かった」
 その耶絵の言葉には、笑みが籠る。
 そんなことをきっかけにして、少しずつ、少しずつ、二人は近付いていった。

 耶絵は母の顔しか知らなかった。その母を就職直後に亡くす。耶絵も中等学校を卒業後にすぐに就職したが、母親がいわゆる風俗の世界で体を売っていたことを知ったのは亡くなってからだった。葬儀で元同僚という人から声を掛けられたことで初めて真実を知ることになる。
 そうするしかなかった人生だったのだろう、と、耶絵は思った。
 優しい母だった。
 常に愛情を注いでくれた母だった。
 その母のことを、耶絵は清にだけは話した。
 それに応えるかのように、清も初めて自分のことを他人に話した。
 そうすることで、自分の中の緊張感が少しだけ解れるような、お互いにそんな気がした。
 初めて、他人と気持ちを寄せ合った。

 そして清は変わっていった。
 あまり自覚は無い。
 清は懸命に働き始めた。以前のような、なんの展望も持てないままに常に何かから逃げるような生き方ではない。自分のような人間でも〝希望〟を持つことが許されることを知った。
 総ては〝妄想〟。
 誰も自分の命を奪おうとなど考えてはいない。あの時の工場長の交通事故もただの偶然。
 そう思い始めていた。
 しかし父の言葉が頭から離れない。

  〝 清国会には気を付けなさい 〟

 それが何者なのかも分からない。
 本当に存在しているのかも分からない。
 なぜ、気を付けなければならないのか、何も分からない。
 ただ確実に言えることは、直接その存在が自分に接触してきたことはなかったということ。結局は両親の言葉に振り回されてきた現実。自分が妄想を膨らませてきた。
 勝手に。
 ただそれだけ。

  〝 清国会には気を付けなさい 〟

  〝 血を繋がなければよかったのに………… 〟

 自分は望まれて産まれた人間ではなかったのだろう。
 成長と共に、なんとなくそれは理解していた。

 ──……望まないなら……産まなければよかったのに…………

「君に家族はいるのかい? もしくは彼女とか……」
 再び仕事帰りに月乃に捕まったことはストレスでしかなかった。それでも冷静に考えるならば、月乃も生きている。決して清国会に命を狙われているわけではないようだ。そう思うことで、清は自分の中の考えを再び噛み締める。
「誰もいませんよ」
 自然と無愛想に応えていた。自分の中で清国会への不安が薄れたとは言っても、自分の過去と繋がりのある人間に対していい印象を持てなかった。
 常にそれまでの生活から逃げてきた。いつしかそれが当たり前のような生活を続けてきた。しかし耶絵に出会ったことで確かに心境の変化は感じる。そのせいか、最近はやたらと過去を思い出すことも多くなっていた。
 いずれも些細なことだ。決して楽しい記憶はない。いつも孤独で、同じ日々の繰り返し。その頃はそれを受け入れていた。辛く感じたことはない。
 それなのに、今は何か違う感覚を伴って記憶の奥から浮かんでくる。
 結果的に、初めて〝孤独〟の意味を知った。
 一人でいることに寂しさを感じる。
 耶絵の存在が、清の何かを揺り動かしていた。
「家族なんか作ったら……僕に何かあった時に迷惑かけますから」
 それだけ言うと、清は月乃を振り払うように歩き始める。

 ──……もう関係ないじゃないか…………

 今まで、常に周囲に気を張って生きてきた。決して楽ではない。それが当たり前になってしまえば特別に疲れるというほどではないが、やはり気持ちは擦り減っていくものなのだろう。常に誰かに尾けられていないか、誰かに見られていないかと気を配り続ける。アパートの部屋に帰ってからも真に安心出来たことはなかったように感じる。窓の外、ドアの外に常に誰かがいるような強迫観念に囚われてきた。
 しかもそういう慣習は身につくと中々離れない。
 だから気が付いたのだろう、と清は思った。
 今日は耶絵の部屋に行く日ではない。自分のアパートに向かっていた。それに安心しながらも鼓動だけが速くなる。
 おそらくは一人。
 スーツ姿の猫背の男が一人。

 ──……ずっと後ろにいる…………

 駅のホーム。
 商店街の角。
 曲がり角。

 ──……妄想だ…………

 そう思いたかった。
 最近は記憶を辿ることが増えていた。そのせいだと思った。

 ──……あの新聞記者に会ったから古い感覚を思い出してるだけだ…………

 足がしだいに早くなる。
 僅かに荒くなった息のまま、清はアパートの近くにある公衆電話の受話器を手にしていた。背後からの圧迫感からか、震える指で硬貨を入れ、ダイヤルを回し始める。
「あ、えっと……月乃さんを……月乃隆一さんをお願いしたいんですが────」
 受話器の向こうの女性の声は、少し間を空けた。
『……月乃……隆一、ですか? 少々お待ち頂けますか』
 待たされる間、清は硬貨を追加し始めるが、やはり指は落ち着かない。
 やがて聞こえてきた男性の声に、清の震えは止まる。
『お待たせしました。えっと……月乃隆一ですよね……実は亡くなってましてね…………』

 ──…………え?

『……線路に自分で飛び込んだようでして…………もう五年くらい前になるんですが…………あなたは────』

  〝 清国会には気を付けなさい 〟

 無意識に、清は受話器を置いていた。
 体は震えていない。

 確信を持った。

 ──…………妄想なんかじゃない…………


      ☆


 なぜそんな所が存在するのか。

 いつもは見ることが出来ないのか。

 それとも普通の人間では見ることが出来ないのか。

 そう思うしかなかったのは、恵麻も同じ。
 いつもはこんな場所にこんな森は存在していない。そう記憶している。それとも今までは見えなかっただけなのか。思考が絶え間なく空回りするだけ。
 雄滝神社からはそう遠くない所。だからこそ恵麻も不思議に思った。
 そんな恵麻の様子に気が付いたのか〝六神通(ろくじんつう)〟の若い男が背後から声を掛けた。
 やはりこの日も初めて見る使者。
「〝場所〟というものは存在しません。〝ここ〟に場所という概念は必要ありませんので。次は別の場所かもしれませんよ」
 幼い頃から特殊な世界に生き、生と死の世界の狭間を何度も見てきた恵麻でさえ、その言葉を理解するのは難しかった。
 そんな不安定な思考のまま言葉を返すが、やはりその声色の不安は隠せていない。
「……この世の〝場所〟ではないと…………?」
 森の入り口と思しき土の道に足を踏み入れながら、男の返答は早かった。
「この世もあの世もありませんよ。貴女様も…………その世界で生きてこられたのでしょう?」
 恵麻は何も返さず、無言で男の後ろに着いていく。
 距離は取った。目の前の男の背中も〝六神通〟そのものも完全に信頼することは出来ていない。それは以前から変わらない。遥か昔から素性の知れない組織である、というのが清国会の認識。
 そして今回、どうして恵麻がここに来ることを許したのかというのも疑問だった。詳細を知らなくても、清国会のトップにいる人間なら必ず存在は認知していたはず。

 ──……本当に、誰も詳細を知ろうとしてこなかったのか?

 それが恵麻の中の疑問の一つ。
 過去に誰も接触してこなかったとされている。
 だからこそ、誰も知らない。
 しかし、今回の恵麻の要望に、なぜかその許可は簡単に降りた。

 ──……興味を持った者はいたはずだ…………
 ──…………本当に……許されたのは私だけなのか…………?

 ──……そもそも…………ここはなんだ…………?

 細い道。
 明らかに意図的に草の生えていない土の道。周囲は腰の高さほどの草で地面が隠され、さらには太く高い無数の木々が犇めき、その広がる枝の数々が太陽の光を遮る。風をそれほど感じることはなかったが、それでも微かに揺れる枝から零れ落ちる葉の擦れる音。
 土を擦る恵麻の草履の音が静かな空気を揺らしていた。
 やがて、視界が白く霞み始める。それが霧であることに気が付くのには少し時間が掛かった。
 少しずつ、少しずつ。
 そして、その霧のせいですでに足元が見えない。一人ではどこが道なのかも分からなかっただろう。少し先を行く使者の背中が白く揺らめいていった。
 ゆっくりと濃くなる霧の中、恵麻の足が止まった。
 右。
 足元に、道に並行し、膝を着いて座っている人影。
 白い和装。
 白装束というよりは白無垢。
 黒く長い髪。
 そこから覗く、僅かに下を向く横顔までははっきりと伺えない。
 ただ、その肌は異常に白い。
 恵麻が横目で見降ろすが、その姿からはまるで生気を感じられなかった。
 そして、やはり生気の無い冷たい声。
 どこから聞こえているのか、恵麻の頭の中に響くような声が届く。
「…………いつぶりでしょうか…………清国会の方がこちらにいらっしゃるのは…………」

 ──…………いつぶり…………?

 薄気味悪くさえ感じるその声に恵麻が何も応えられずにいると、女の声が続いた。
「…………御元気でしょうか…………スズ様は…………」

 ──……………………

「……あれから……お会いしておりませんが…………」

 ──…………なんだ…………

 よもや、予想だにしていなかった名前。

 ──……これは、私の手に負えるものか…………?

 なぜか恵麻の頭に、萌江の顔が浮かんでいた。
 それでも恵麻はそれを振り払う。
「我は清国会を預かる滝川家の者────」
「────恵麻様ですね」
「名を聞いておったか────」
「いえ……ここは時間も場所も無い所…………分からぬことなどありませんよ…………」
 その女の言葉から、恵麻は不信感しか受け取ることが出来ないまま、総てが予想の範囲外の会話。何が起きているのか、恵麻の思考を鈍らせていく。

 ──……ここは……やはりまともな場所ではないのか…………

 しかし、恵麻はその不安を押し隠した。
「お前はここを預かる者か?」
 すると、女の返答は早い。
「いかにも…………ナギ……と申します」
「いつからだ……スズ様に会ったのはいつか────」
「……はて…………今も昔も……ここでは同じことです…………ですので…………」
 目の前の霧が僅かに晴れた。
 そこには開けた空間に鎮座する、大きな社。
 神社の本殿に見えるその前に、いつの間にかナギと名乗る女の姿。ナギは地面に正座したまま、変わらず僅か下に視線を落としている。
 そんな突然の光景の変化にも、もはや恵麻は驚きもしなかった。

 ──……物の怪の類いか…………

 ナギの目が見えない。
 下を向いているとはいえ、少しだけ開かれた瞼の下に見えるのは長いまつ毛のみ。
 そこから感じられるのは、なぜか冷たさだけ。
 それでも恵麻もすでに臆さない。
「我が先祖が古くにここに頼んでいたことがあるはず」
「いかにも……承っておりました」
 そう応える女の口の動きさえ霧に隠された。
 しかし声だけが続く。
「……必要な時だけ…………〝奉納品〟と共に…………」
 その時は必要なことだと恵麻自身も判断した。そして従者を経由して清国会の誰かが〝奉納品〟を用意してきた。直接、自らが手を下してきたわけではない。それでもやはり気持ちのどこかに燻るものがあった。
 ある種の虚勢のようなものだろうか。その度に何かを振り払ってきた。
 だからこそ、恵麻はここにいた。

 ──……私が、終わらせる…………

「それを…………終わりにして頂きたく参った次第…………」
「終わり……とは…………我等の世に〝命の終わり〟等、有りはせぬ事。貴女様も御分かりのはずでは? それとも巫女の御姿は偽りか…………」
 ナギの口角が少しだけ上がるのが見えた。
 恵麻の背筋を何かが走る。
「話は聞いておろう…………我等から求める事は……もう無くなった」
「求められぬ命など…………私は知りませぬ。命は〝神〟そのもの…………我等の信ずるものの中に、貴女方と同じ〝神〟は存在致しません」

 ──……命……だと…………?

「それが〝神無し〟と言われる所以か」
 恵麻はそう返しながら、自分の中で何かが湧き上がってくるのを感じていた。

 ──……お前達の求める〝奉納品〟は〝命〟ではないと言うのか…………?

 そんな恵麻の気持ちに気付いているのか気付いていないのか、ナギは声色もそのままに。
「貴女方の〝神〟等……人如きが創ったもの…………どこにも存在等致しません…………〝命〟には敵いませぬよ…………」
 寒気がした。
 清国会は〝神〟を諦めた。
 今の清国会に〝神〟はいない。
 恵麻も未だ気持ちのどこかで、やはり自分の信じられる〝神〟を求めていた。


      ☆


 日が改められ、再び毘沙門天神社に集まった。
 集まったのは萌江、咲恵、大見坂親子。
 集まった時刻はすでに夕方。
 秋の終わり。
 冬の始まり。
 陽の時間は短い。
 大きく傾いた眩しい西陽に、空の色も変わり始めていた。

 大見坂楓のサポートのため、毘沙門天神社を護る宮司と巫女である鬼郷佐平治と結妃の夫婦は朝から祭壇の準備を進めていた。しかし二人とも気持ちが落ち着かない。
 そして、その空気感を萌江も咲恵も感じていた。
 祭壇の前に座る大見坂楓と、その隣の母、雫の後ろ。その背中を見ながら萌江と咲恵が座ると、先に口を開いたのは咲恵。
「結妃さん……? 日を改めますか?」
 佐平治と結妃は大見坂親子の横、左右から挟むように祭壇に向かっていた。佐平治も不安な気持ちを隠しきれず、微かに結妃の側に顔を向けたのも隠せていない。
 咲恵はその二人の背中に言葉を続ける。
「……今回の神事は……お二人の出生にも関わること……私たちもそれは理解しています」
 あの後、二人には説明がされていた。隠すことも出来る。しかし最終的には萌江の決断で現段階での情報を伝えていた。
 毘沙門天神社の血筋は清国会が〝後継〟を連れてくることで紡がれてきた。
 そしてその命は清国会が子供を攫ってくるか、もしくは〝カバネの社〟に依頼するか。
 かつては、例え誰かは分からなくても、どこかの誰かから産まれたことを疑う必要はなかった。どこかに両親は必ずいる。そう思って生きてきた。しかしそれが覆された。もしかしたら自分が〝作られた命〟かもしれないなどと、誰が想像するだろう。
 〝カバネの社〟自体が一体〝何なのか〟、それが分からない内は、自分達の中にいるものが〝本当の命〟なのかどうかも怪しくさえ感じた。
 しだいに自分たちの存在自体が現実かどうかも浮つく。もしも〝現実〟でなかったとしたら、今までの自分の経験からくる記憶の総てが〝作り物〟ということに思える。
 〝自分〟という存在が誰かの夢だったら、と考えることの恐怖。それは〝自分〟という存在の価値すらも貶めていく。
「…………大丈夫だよね……」
 空気を震わせる優しい声。
 萌江だった。
 視線を僅かに落としながら、その声が続く。
「二人の力が無かったら……私たちは真実に辿り着くことは出来ない」
 事実だった。
 過去を遡るだけなら楓だけでも出来る。しかし第三者も引き連れて、となると簡単ではない。それには毘沙門天神社という〝聖域〟の特異性と鬼郷夫婦二人の能力も必要だった。
 それを改めて言葉にした萌江を遮ろうとする咲恵の言葉は、少しだけ強い。
「萌江……今は────」
「────二人の出生がどうであろうと、二人はここにいる。それが答えだよ」
「……萌江……そんな────」
「二人とも私の過去は知ってるでしょ? 私の出生だって怪しいもんだよ。お母さんも私と同じで子供を産めない体だったしね。スズの血筋って言ったって、私たちが見たのは誰かの記憶の連なり…………どこまでが真実なのか、なんて誰にも分からない…………」
 咲恵が何も返せなくなる中で、萌江の声が少しトーンを下げる。
「だから知りたいの」
 その言葉に、隣の咲恵の目付きが変わる。

 ──…………私も……この現実の理由を知りたい…………

 そして祭壇前の空気に流れたのは、結妃の夫、佐平治の声。
「……結妃…………いけるね……」
 柔らかくも力強い声。
 祭壇前。
 燭台の上の松明が音を立てて崩れ、火の粉が大きく舞う。
 薄暗くなった本殿の中が明るく照らされた。
 その中、少し間を空け、結妃の柔らかい声。
「…………幻でも…………いい…………」
 反応するように萌江が顔を上げる。
 結妃が続けた。
「……例え幻でも…………私は〝生きること〟を選びました…………幻が消える前に…………行きましょう…………」
 そして、咲恵が声を上げる。
「楓ちゃん、〝幻〟に連れてって」
 その後ろからの声に、楓は顔を上げ、ゆっくりと目を閉じた。




         「かなざくらの古屋敷」
      〜 第二五部「黒い点」第3話へつづく 〜
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