第五部「望郷の鏡の中へ」第2話

文字数 10,241文字

 平日。
 麻美(まみ)はその日に決行した。
 偽物の父は仕事。偽物の弟は学校。
 偽物の母が一方的に会話を進めるいつものお昼の時間が終わり、その母は買い物に出かけた。
 家には自分だけ。
 財布には決してお金は多くない。
 片道分の旅費にしかならないかもしれない。往復出来たとしてもギリギリ。
 それでも良かった。

 ──……私は〝本当の家〟に帰りたい…………

 夢なら早く醒めてほしいと思いながらすでに半年近く。
 〝ニセモノ〟の世界で生き続けることに、麻美(まみ)は疲れていた。
 地図はスマートフォンで分かる。駅までは歩けない距離ではない。しかし駅から新幹線を使うほどのお金は無い。二つも隣の県に行くには在来線を何度か乗り換えるしかなかった。
 それでも帰りたかった。

 ──〝ホンモノ〟の家族に会いたい…………

 最初にアパートに向かう。
 僅かに陽が傾きかけていた。
 アパートの近くの駅。いつも使っていた懐かしい場所だった。何も変わってはいない。周囲のお店もそのまま。
 いつも歩いてアパートまで帰っていた時を思い出す。
 総てが懐かしかった。
 何も変わっていない。
 やはり麻美(まみ)の知っている世界は存在する。
 夢でもSFでもファンタジーでもない。
 懐かしい景色を抜けている間に、いつの間にか足を早めていた。
 そして、そのアパートは、あの時と何も変わらずにそこにあった。
 外の二階への階段を登る。
 一番奥の角部屋。
 表札はあるが、自分の名前は書いていない。若い女性の一人暮らしの多いこのアパートでは、ほとんどの部屋が表札は空欄のまま。
 しかし鍵は無い。

 ──……私がいるかどうか……せめて確かめられたら…………

 恐る恐る、扉のノブを回す。
 当然のように鍵がかかっていた。
 ドアの横には台所の曇りガラス。
 違和感があった。

 ──……見覚えのないカーテン…………

 途端にそこが、全く知らない場所のような気さえしてくる。
 麻美(まみ)は階段を駆け降りていた。
 一階に設置されていたドアとは別の集合ポスト。
 麻美(まみ)が何度も開けた〝203号室〟を開くと、そこにはいくつもの封筒とチラシ。

 ──私がいなかったから溜まってるの?

 しかし封筒に書かれていた宛名は、見知らぬ男性の名前。
 麻美(まみ)の名前はどこにもない。
 そして、そこから駅までの道のりはあまり覚えていない。
 実家近くの駅に到着するまで、様々な考えが頭をめぐる。

 ──……実家に帰ったんだ…………何かあったんだ…………
 ──…………病気でもしたの…………?

 その駅も懐かしい光景に埋め尽くされていた。
 しかし気持ちはザワついたまま。
 でも、確かに麻美(まみ)はその光景を知っていた。懐かしさもある。実家近くのバス停までの路線も覚えている。さらにはバスの駅からの運賃まで覚えていた。
 懐かしいバス停に降りた。
 やはり知っている景色がそこには広がっていた。
 だいぶ傾いてきた夕陽に背中を押されるように、まっすぐ、麻美(まみ)は実家を目指した。
 新興住宅地。麻美(まみ)が産まれてから両親が建てた新築の家。
 リビングの大きな窓から灯りが漏れていた。
 カーテンには人影。
 見間違うはずもない。

 ──……お母さん…………

 足が動きかけた時、玄関の方向から懐かしい声。
「ただいまー」
 妹の声。聞き間違うはずがない。
 その姿が一瞬視界に入った直後、その背後の父の姿に足が動く。

 ──…………みんな………………

 そして、その視界にカーブミラーが映った時、足が止まった。

 ──……そっか…………私は……麻美(まみ)じゃない…………
 ──…………私の体は沙耶香(さやか)…………どうせ分かってはもらえない…………
 ──……〝ホント〟の私はどこに行ったの…………?

 麻美(まみ)は実家に背を向けていた。
 直後に、涙が(こぼ)れた。

 ──……もし……私じゃない私がいるなら…………

 スマートフォンには大量の着信履歴。
 わざとバイブモードをオフにしてマナーモードにしていた。
 それは〝母親〟からの着信。

 ──…………〝麻美(まみ)〟は……………………幸せかな……………………

 駅で再びかかってきた電話に、麻美(まみ)は応答ボタンをタップする。
「……うん……大丈夫…………これから帰るから……少し遅くなるけど…………心配かけてごめんね…………

…………」
 麻美(まみ)は、駅前のベンチに崩れ落ちるように腰を降ろしていた。





「ごめんね。もちろんまだ話を受けたわけじゃないよ」
 そう言って咲恵(さきえ)はバスローブ姿のままソファーに深く体を沈める。そして手にしていたピルスナーグラスを二つ、目の前のテーブルに置いた。
 隣には咲恵(さきえ)と暮らすようなってから早番勤務に切り替えていた萌江(もえ)が、やはりバスローブ姿で言葉を返した。
「確かに面白い話だね…………」
 咲恵(さきえ)が缶ビールの栓を開け、グラスに注ぎながら応える。
萌江(もえ)はどう思うのかなって、興味があってさ…………お疲れ」
 咲恵(さきえ)が笑顔で萌江(もえ)にグラスを渡す。
「お疲れ」
 萌江(もえ)も笑顔で返した。
 咲恵(さきえ)はこの時、自分の指が萌江(もえ)の指に触れる瞬間が好きだった。指が触れるだけで体の中に何かが湧き上がる。そんな感覚を味合わせてくれたのは萌江(もえ)だけだった。
 この頃には、萌江(もえ)は手を繋ぐくらいでは感情が流れ込まないようにコントロールすることが出来ていた。もちろんそれがどういうものかまでは咲恵(さきえ)には分からなかったが、萌江(もえ)のその気持ちが嬉しかった。
 咲恵(さきえ)にとっては、萌江(もえ)

を結びつけてくれた初めての人。
 そのためか、咲恵(さきえ)萌江(もえ)と手を繋ぎたがった。その日もやはり左手でグラスを持ち、自分の右側に座る萌江(もえ)のために右手を空ける。萌江(もえ)もそれに気付いたのか、左手に持っていたグラスを右手に持ち直すと、さりげなくソファーに手を下ろす。そしてお互いにさりげなく手を繋いだ。
 例えこの後ベッドの上で肌を合わせても、そのまま眠ることは出来ない。お互いに必ずバスローブを着てから寝ていた。触れる肌の面積が多ければ多いほど、やはりまだ咲恵(さきえ)の能力が二人を邪魔する。
 それでも、せめて手を繋いでいられるようにしてくれた萌江(もえ)の気持ちが咲恵(さきえ)には嬉しかった。
「つまり、奥さんのお姉さんが自殺した直後から、奥さんがおかしくなったってこと?」
 そう言った萌江(もえ)咲恵(さきえ)が返していく。
「うん。つまりは取り憑かれたって思ってるみたい。自分でお姉さんの名前を名乗ってるらしいよ」
「今までお(はら)いとかは?」
「けっこうやったみたい…………しかもちゃんとした神社とお寺にお(はら)いしてもらっても効果無し。何も変わらなかったんだってさ…………何か引っかからない?」
 すると萌江(もえ)はグラスのビールを呑み干して応えた。
「色々と引っかかるね」
 そのグラスにビールを注ぎながら咲恵(さきえ)が続けた。
「……その社長さん…………なんだか裏がありそう…………」
「叩けば(ほこり)が舞い上がりそうだ」
「お金も払うってよ。さすがに幾らかまでは聞かなかったけど」
「乗った」
「分かった。アポ取る」
「最初はカラオケボックスで話を聞くことになるね。その社長さんの希望で。その後、二回…………その人のマンションに行くことになる」
「さすが…………やっぱり、幽霊じゃないんでしょ?」
「100%ね」





 その日、萌江(もえ)咲恵(さきえ)は休みを合わせた。
 午後の三時に満田(みつた)と駅前の喫茶店で待ち合わせる。
 そこは今回の依頼者である中牟田俊夫(なかむたとしお)の指定した駅だった。
 まだ萌江(もえ)満田(みつた)と会ったことがない。その顔合わせも含め、少し早い時間に三人で会うことを提案したのは満田(みつた)だった。
「みつだ……さん?」
 テーブルの上にコーヒーの香りが漂う中、渡された名刺を見ながら萌江(もえ)がそう口を開くと、満田(みつた)はすぐに返した。
「みつ……た、です。よく間違われるんですよ」
 そう言って笑顔を向ける満田(みつた)は決して印象の悪い男ではない。硬い職業の割には柔らかい物腰だった。
 しかし、その目の鋭さは萌江(もえ)を身構えさせた。
「失礼しました。で、お話はある程度伺ってはいたんですが…………」
 そう言う萌江(もえ)に、満田(みつた)は話を切り出す。
「最近よく聞くようになったIT系ベンチャー企業って言うんですかね。小さいとは言ってもウチの取引先の会社でして、そこの社長さんなんですよ。確かまだ年齢は三〇ちょっとだったと思いましたが」
「そこの奥さんが…………」
「呪われている────と言っても私もまだ見たわけではありませんが…………そもそも私はそういうことには詳しくありませんからね。ただ…………最近はその影響なのか……会社の業績もあまり芳しくありませんで…………まあ関係あるかどうかは分かりませんが、会社のこととなると私も相談役みたいな立ち回りもありますので…………」
「いえ、関係あると思いますよ」
 そう応えた萌江(もえ)は、コーヒーを一口飲んでから続ける。
「せっかくの取引先…………小さい会社と言っても、無くなっては満田(みつた)さんも困るでしょうし…………」
「……助かります」
「でも、私たちなりの解決の仕方になりますよ」
「というと…………」
 そこに中牟田俊夫(なかむたとしお)が駆けつけた。
満田(みつた)さん……お世話様です…………今日はわざわざ…………」
 シワだらけのYシャツ、落ち着きのない怯えた仕草。目の下のクマから、困っていることが事実なのはすぐに分かった。
 満田(みつた)は慌てて腰を上げる。
「そんなに疲れた顔して、どうしたんですか…………お仕事のほうは…………」
「最近は休んだままで…………」
 そう応えた俊夫(としお)萌江(もえ)咲恵(さきえ)に目をやりながらも、挨拶もそこそこに口を開く。
「近くにカラオケボックスがあります…………そこに移動してはダメでしょうか…………」
「それは構いませんが…………」
 困惑した表情で満田(みつた)萌江(もえ)咲恵(さきえ)に視線を送ると、二人は同時に立ち上がった。そしてその表情に余裕があるのが満田(みつた)にも感じられた。
 カラオケボックスに移動すると、形だけの挨拶の後、すぐに俊夫(としお)が言葉を吐き出した。
「妻の涼子(りょうこ)がおかしくなったのは、涼子(りょうこ)の姉が自殺をしてから一週間も経っていなかったと思います…………一ヶ月くらい前になりますか…………」
 注文したコーヒーが届くのも待たずに、俊夫(としお)は視線を落としたまま話し続ける。
「姉の名前は未来(みく)と言います。涼子(りょうこ)は突然、自分を未来(みく)だと言い始めて…………私に暴言を吐くようになりました…………人が変わったように態度が悪くなって…………奇声を上げたり物を投げたり…………神社とお寺に何度もお(はら)いを頼みました。来てくれた所もありますし、こっちから行った所もあります…………何も良くなりません…………お願いです……お金は払いますから…………なんとか…………」
 俊夫(としお)はそう言うと深々と頭を下げた。
「何か…………」
 そうゆっくりと口を開いた萌江(もえ)が続ける。
「奥さんが知らないはずのことを…………口にされていませんか?」
 すると、僅かに顔を上げた俊夫(としお)は、すぐにまた視線を落とす。
「……どうでしたかね…………そこまでは…………」
「例えば、あなたと、その未来さん

知らないこととか…………」

 ──……もう何か見えてるの…………?

 咲恵(さきえ)がそう思った時、次の俊夫(としお)の言葉はどこかぎこちない。
「いや…………まさかそんなことは────」
「お(はら)いをされたとおっしゃっていましたが、いかがでした? 本当にお(はら)いだけでした?」
「……えっと…………」
 目を伏せたままでも、明らかに俊夫(としお)は動揺していた。
「〝(はら)うだけじゃない〟と言われませんでしたか? お寺のお坊さんでも神社の宮司(ぐうじ)さんでも、ただお(はら)いだけをするってことはないんですよ。必ずその前後で〝人が正しく生きていくための道筋〟を説明するはずです。つまり、お(はら)いだけではダメだと言ってるんです。お(はら)いをすることで気持ちを新たに生きていく…………もしも何か後ろめたいことがあるなら、それを悔い改めなさいと言ってる。それが一番の〝お(はら)い〟だということを、あの人たちも分かってやってるんです」
 俊夫(としお)は未だ顔を上げようとしない。
 その雰囲気の中で、萌江(もえ)の言葉を一番真剣に聞いていたのは満田(みつた)だった。
 萌江(もえ)の言葉が続く。
「それが宗教なんです。人々に正しい道を示すために生まれたもの。そのために神や仏が必要だっただけ。天国も地獄も説法のため。人を導くためのもの…………その中身は何も間違ってはいない。本当に存在するかどうかではないんです。あなたはその言葉を真剣に聞いていなかった…………お(はら)いが終わればそれでいいと思っていた…………」
 萌江(もえ)は立ち上がって続けた。
「私は99.9%神も仏も幽霊も信じない能力者…………それでも宗教は人間にとって必要なものだったと信じてる…………奥さんの所に案内して…………」





 部屋の中は玄関からゴミが散乱している有様だった。
 もちろん玄関先の靴は揃えられてなどいない。窓もしばらく開けられていないのか、入ってすぐに(ほこり)っぽいのが感じられるほど。開け閉めをする玄関でこれでは部屋はもっと酷い状態であることが伺えた。
 寝室に行くと、カーテンも閉じられたままの薄暗い部屋。
 ベッドの脇にパジャマ姿でうずくまる涼子(りょうこ)の姿が痛々しい程だった。
 周囲には(ほこり)とゴミ。お弁当やお惣菜の食べかけのパックも無造作に転がる。おそらくはしばらく着替えもしていないのであろう。涼子(りょうこ)の髪の毛は明らかにシャワーすら浴びていないことが分かった。
 その涼子(りょうこ)の目は見開かれていた。
 床の一点を見つめ、絶えず小さく何かを呟いている。
 萌江(もえ)咲恵(さきえ)に視線を配った。
 すると咲恵(さきえ)が素早く動く。
 台所に行った咲恵(さきえ)は戸棚や引き出しを開け始めた。お洒落なキッチングッズが並ぶ。しかもよく整理されていた。

 ──……綺麗好きで料理好きな奥さんだったのに…………

俊夫(としお)さん。カーテン開けて」
 そう指示を飛ばしたのは萌江(もえ)だった。
 あたふたとする俊夫(としお)に、萌江(もえ)の声が飛ぶ。
「早く!」
 慌てて俊夫(としお)がカーテンを開けると、強い日差しが入り込んだ。同時に陽の光に照らされた(ほこり)が部屋全体に浮かび上がる。
「窓も開けて! 風の通りが良くなるように対角線上の窓も! この家は人を迎え入れるのに掃除もしないのか!」
 その気迫に押されたのか、いつの間にか満田(みつた)も動いていた。
 さらに萌江(もえ)の声は続いた。
「奥さんのパジャマ、替えはあるんでしょ。それと下着も出してあげて。布団のシーツと枕カバーも!」
 そして咲恵(さきえ)が戻る。
 手には透明なゴミ袋の束と小さな箱。
「いけるよ」
 その咲恵(さきえ)の声に、萌江(もえ)が声を落として返す。
「ごめん咲恵(さきえ)……こっちはなんとかするから…………その、奥さんをシャワーに…………」
「大丈夫」
 咲恵(さきえ)は手にしていた箱を見せて続けた。
「こんな物見つけたから任せて」
 それは料理用の半透明な手袋だった。これがあれば、完全にとは言わないが咲恵(さきえ)の能力を抑えることが出来るだろう。
「掃除にも使って。ここは萌江(もえ)が指示を出さなきゃダメ。私じゃ手に負えない」
「分かった。今着替えを…………」
 そこに、俊夫(としお)が無言でパジャマと下着を差し出す。
 僅かにその目は震え、(うる)んでいた。
 咲恵(さきえ)はそれを受け取ると、小さく頷き、素早く涼子(りょうこ)の元へ駆け寄って声をかける。
「さあ涼子(りょうこ)さん、シャワー浴びましょうか…………」
 咲恵(さきえ)が促すと、不思議な程に涼子(りょうこ)は素直に立ち上がる。その二人がお風呂場に入ったのを見届けると、萌江(もえ)が叫ぶ。
「さ、春の大掃除だよ! ゴミをまとめたら掃除機出して!」





 ベッドのシーツ、タオルケットから枕カバーまでを新しくし、マットとカバーには消臭スプレーをかけ、体を綺麗にした涼子(りょうこ)を寝かせた。
 シャワーを浴びたことで気持ちがいくらかでも楽になったのか、落ち着いて眠りに落ちていた。
 当然のようにあちこち服を濡らした咲恵(さきえ)満田(みつた)がすかさず声をかける。
咲恵(さきえ)ちゃんごめん…………後でクリーニング代は出すから」
 咲恵(さきえ)は満面の笑みで返した。
「大丈夫。涼しい風が通ってるからすぐに乾くよ」
 そして、咲恵(さきえ)萌江(もえ)に耳打ちをする。
 すると、呆然と床に座り込む俊夫(としお)に、萌江(もえ)が声をかけた。
俊夫(としお)さん…………涼子(りょうこ)さんのお財布はそこのハンドバックの中?」
「えっと…………多分…………」
「とってもらえる? お財布だけでいいよ」
 俊夫(としお)から長財布を受け取った萌江(もえ)は、すぐさま名刺ホルダーから何枚もの名刺やカード類を引っ張り出す。すぐに財布を俊夫(としお)に返すと、一枚の名刺を見付ける。
 それを見た咲恵(さきえ)が声を上げた。
「あ、それだ」
 萌江(もえ)はそれ以外のカード類を俊夫(としお)に返して言った。
「この名刺だけもらうよ。────満田(みつた)さん」
 そう言うと満田(みつた)(そば)に駆け寄って小声で口を開く。
「ここ…………連絡取れない? 情報流してもらえないかな」
 しかしその名刺を見た満田(みつた)はすぐに顔を曇らせて返した。
「でも……こういう所は守秘義務もあるでしょうし…………」
 そう言って煮え切らない満田(みつた)に、萌江(もえ)は口元に笑みを浮かべて応える。
「ウソも方便…………未来(みく)さんの自殺が〝ここ〟のせいじゃないかと疑われてるってことにしてさ。私たちより満田(みつた)さんのほうが怪しまれない…………報酬の一割は満田(みつた)さんで、どう?」
「……一割……ですか……」
「じゃ二割で。よろしく」
 その名刺は興信所の名刺だった。
 そしてその名刺が財布に入っていることに気が付いたのは咲恵(さきえ)
 萌江(もえ)咲恵(さきえ)にシャワーを担当させたのには意味があってのことだったし、咲恵(さきえ)もそれに気が付いていた。
 いつの間にか、それぞれが役割を振り分けられていた。





 そして二日後。
 三人は満田(みつた)の仕入れた情報を手に、再びそのマンションを訪れる。
 部屋はあれからそれほど散らかってはいなかった。
 また怒鳴られると思ったのか、窓もカーテンも開けられたまま。
 前回訪れたばかりとは見違えるような空気の変化。
 リビングとドア一枚隔てただけの寝室で涼子(りょうこ)が静かに寝ているのを確認した萌江(もえ)は、リビングのソファーに腰を下ろした。向かいのソファーには俊夫(としお)。すぐ近くのダイニングテーブルには咲恵(さきえ)満田(みつた)
 萌江(もえ)俊夫(としお)との間のテーブルに、静かに一枚の名刺を置いた。
 それは涼子(りょうこ)の財布に入っていた興信所の名刺だった。
 そしてゆっくり口を開く。
俊夫(としお)さんは知らなかったでしょうけど、奥さんはここに…………仕事を依頼してたの」
 俊夫(としお)は視線を落としたまま。決して萌江(もえ)と目を合わせようとはしない。
「そして、そこから出てきたのが────」
 萌江(もえ)は足元に置いた自分のサッチェルバッグから分厚い封筒を取り出すと、その中身をテーブルの上に置いて続けた。
「あなたと未来(みく)さんの浮気の記録」
 俊夫(としお)は何も応えないまま、身動き一つしない。
「あなたが結婚してから三年も続いてたのね…………でもその前からでしょ。それなのに突然未来(みく)さんから別れ話を切り出された。そして未来(みく)さんはすぐに結婚。遊びだったと思ったあなたは、その腹いせに妹の涼子(りょうこ)さんに近付いて結婚。それでも諦められずにズルズルと関係を続けた」
「…………なんでそんなことまで……」
 俊夫(としお)の小さな声が挟まる。
 萌江(もえ)はすぐに返した。
「だって、調べられてた側の未来(みく)さんが全部興信所に話しちゃったんだもん。自分の旦那(だんな)さんに浮気がバレた後でね。興信所としては失敗したって思ったみたいだけど、未来(みく)さんは積極的に話してくれたらしいの。旦那(だんな)さんにあなたのことを秘密にする条件でね……そして浮気の相手があなただと旦那(だんな)さんにバレる前に、未来(みく)さんは自殺した。だから、あなただとは、向こうにはバレていない。分かる? 未来(みく)さんは

んだよ…………会社を起こしたばかりのあなたを守ったの……未来(みく)さんは親の指示で結婚させられただけ……逆らえなかった…………だからあなたと別れたの…………」
 俊夫(としお)の肩が震え始めた。
 その俊夫(としお)嗚咽(おえつ)のような小さな声が聞こえ始める中、萌江(もえ)が続ける。
未来(みく)さんと涼子(りょうこ)さんの家って、それなりの家でしょ? あなただって会社の社長って肩書きが無ければ涼子(りょうこ)さんと結婚なんか出来なかった。未来(みく)さんの旦那(だんな)だってかなりの家…………知ってるでしょ? 

…………未来(みく)さんはそれを守った…………」
 空気が張り詰めた。
 俊夫(としお)嗚咽(おえつ)だけが周囲に溶け込んでいく中で、萌江(もえ)が続ける。
「興信所に妹の涼子(りょうこ)さんへのメッセージを託していたそうよ…………興信所もまさか自殺するとは思わなかったみたいだけど…………あなたは恨まれてなんかいない…………未来(みく)さんは死んでもあなたを愛し続けた……なんでそんな人が恨んで出てくるのよ」
 俊夫(としお)がテーブルに泣き崩れた。
 萌江(もえ)の言葉が続く。
涼子(りょうこ)さんの口から知らないはずのことが出てきたのは、興信所からの定期的な報告で涼子(りょうこ)さんがそれを知っていたから…………悔しかったんでしょうね。姉の未来(みく)さんのことも恨んでたはずだよ…………でも、未来(みく)さんの自殺騒ぎで、まだ涼子(りょうこ)さんに渡っていなかった報告書がある…………自殺の三日前、一泊の温泉旅行に行ったでしょ? 涼子(りょうこ)さんには出張だって言って…………だから、そのことは涼子(りょうこ)さんは知らない…………」
 その時、俊夫(としお)の背後────寝室のドアが開いた。
 呆然と立ち尽くす涼子(りょうこ)がそこにいた。
 涼子(りょうこ)はゆっくりと俊夫(としお)の後ろに歩み寄る。
 俊夫(としお)は震えながら振り返った。
「……涼子(りょうこ)…………」
 すると、すぐに涼子(りょうこ)が返す。
「やめてよ…………あなたが騙してる〝妹〟の名前なんて…………」
 その涼子(りょうこ)に声をかけたのは、萌江(もえ)だった。
「〝未来(みく)さん〟…………俊夫(としお)さんと一泊で温泉旅行に行ったのって、いつか覚えてますか?」
「……温泉旅行? いつ? そんな……一泊旅行なんてことしたら、涼子(りょうこ)にバレるかもしれないもの…………行ってみたいけど…………」
「そうですか…………かなりの覚悟がないと行けなかったですよね…………」
 萌江(もえ)は首の後ろに手を回した。ネックレスを外すと左手の中指にチェーンを絡めてぶら下がる水晶を握る。
 そして、立ち上がる。
 涼子(りょうこ)の隣に立つと、左の(てのひら)を広げて水晶を涼子(りょうこ)の額へ当てる。
未来(みく)さんからのメッセージを伝えます…………〝私の分も俊夫(としお)さんを愛してあげて…………二人なら必ず幸せになれる…………俊夫(としお)さんはもう二度と涼子(りょうこ)を裏切らない…………〟」
 すると突然、涼子(りょうこ)の体の力が抜けた。
涼子(りょうこ)!」
 俊夫(としお)が声を上げて駆け寄った。
 倒れかけたその体を支えた萌江(もえ)が口を開く。
俊夫(としお)さん、後は任せる」
 萌江(もえ)俊夫(としお)涼子(りょうこ)の体を預けてから続けた。
「目が覚めるとスッキリしてると思うよ。自己催眠は解けた。もう未来(みく)さんは姿を現さない…………でも忘れないで。たとえ未来(みく)さんへの気持ちが本物だったとしても、あなたの涼子(りょうこ)さんへの裏切りが消えるわけじゃない。でもそうなった理由はさっきの資料に総て書いてある。どんな理由があったとしても、あなたはその重荷を背負ったままこれから生きていくの。でも未来(みく)さんからのメッセージは…………涼子(りょうこ)さんの頭に刻んでおいた。これで涼子(りょうこ)さんはお姉さんを信じることが出来る…………だからもう大丈夫。あとは俊夫(としお)さんしだいだよ」
 そして俊夫(としお)は、顔を上げた。
 初めて萌江(もえ)の目を見た。
 それに萌江(もえ)は笑顔で応える。
「うん。いい目だ。その目を見たかった」





 すでに陽が傾きかけていた。
 満田(みつた)の運転する車の後部座席で、萌江(もえ)は黙って外を見続けた。所々の灯りが少しずつ点灯していく光景に、夜の空気の匂いを感じる時間。
 萌江(もえ)咲恵(さきえ)も、好きな時間だった。
 それでも萌江(もえ)の横顔からは疲れが見えた。咲恵(さきえ)は無意識の内に心配そうな目を向けていたが、不意に顔を回したその目に、咲恵(さきえ)はハッとする。
 やはり疲れた目。
「……大丈夫?」
 そう声をかける咲恵(さきえ)に、萌江(もえ)は笑顔を浮かべて手を伸ばす。咲恵(さきえ)の手を掴むと小さく(うなず)く。
 その姿に咲恵(さきえ)も笑顔を浮かべた。
 そこに車を運転しながらの満田(みつた)の声。
「お見事でした。二人には感服しましたよ。これからは気軽に〝咲恵(さきえ)ちゃん〟なんて呼べなくなるね」
 すると顔を前に向けた咲恵(さきえ)がすぐに返した。
「やめてよ。私はただのスナックのおばちゃんなんだから」
 そこに萌江(もえ)が挟まる。
「こんな可愛いおばちゃんなんか見たことないよ」
 すると、満田(みつた)が後部座席に分厚い封筒を差し出す。
「何?」
 そう言って受け取った咲恵(さきえ)が中を見て声を上げた。
「ちょっと!」
 覗き込んだ萌江(もえ)も声を上げた。
「いい仕事だねえ」
 そして満田(みつた)が応える。
「さっき玄関先で渡されましたよ。私は一割だけでいいので」
「みっちゃんは二割って言ったでしょ」
「みっちゃんはちょっと…………」
「だって間違って〝みつだ〟って言いそうになるんだもん」
「いや……しかし…………」
「じゃ、みっちゃんは二割ね」
「一割でいいですよ。その代わり、もう一つ仕事を受けてはもらえませんかねえ…………」
 直後の萌江(もえ)の目付きが変わったのを、咲恵(さきえ)は見逃さなかった。
 その萌江(もえ)が声のトーンを落とす。
「んー…………みっちゃんで良ければ」
善処(ぜんしょ)します」
 すると、すぐに萌江(もえ)の目付きが元に戻った。
「ちなみにさっきの社長さんのところの会社…………これから伸びるよ」
「……ほう…………」
「みっちゃんも忙しくなるねえ」
「結構ですな」
 その年、咲恵(さきえ)が自分の店を持つまではそれほど時間が掛からなかった。
 お金の流れは、もちろん満田(みつた)が手を回すことで、それなりに処理されていく。




           「かなざくらの古屋敷」
    〜 第五部「望郷の鏡の中へ」第3話(第五部最終話)へつづく 〜
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み