第二二部「冷たい命」第1話

文字数 11,195文字

 御陵院(ごりょういん)神社。
 そこは()き物専門の神社であると同時に、古くから清国会(しんこくかい)のナンバー2としての立場を堅持してきた。
 清国会(しんこくかい)の設立当初から頂点に君臨する雄滝(おだき)神社から最も信頼を置かれている神社でもある。三番手に位置する蛭子(ひるこ)神社とは〝(くらい)〟の点で大きな開きすら有する。蛭子(ひるこ)神社のような派閥も存在しない。他の(やしろ)からすれば、いわば別格の存在。清国会(しんこくかい)にとっても唯一雄滝(おだき)神社を支えることの出来る(やしろ)としての立場。
 しかしそこに、いや、だからと言うべきか、大きな問題が存在した。病巣に巣食う腫瘍(しゅよう)のように、やがてそれは清国会(しんこくかい)を悩ます。

 御陵院(ごりょういん)神社の現在の当主は(さき)
 夫の祐也(ゆうや)は婿養子。元々神職の血筋ではなく、地元の財閥の産まれで会計士をしていた過去を持つ。現在も経営の分野で御陵院(ごりょういん)神社を支えていた。もちろんその繋がりを作ったのは清国会(しんこくかい)
 代々女宮司だけで繋がれてきた神社。なぜか必ず三姉妹が産まれ、誰かが病気などで命を落とすようなことがあっても替えがいた。
 (さき)は比較的若い内に当主となったが、その能力の高さは雄滝(おだき)神社からも重宝されていた。その(さき)にも娘が三人。

 長女────綾芽(あやめ)
 次女────涼沙(りょうさ)
 三女────西沙(せいさ)

 その中でも三女の西沙(せいさ)雄滝(おだき)神社の現当主である滝川恵麻(たきがわえま)と同じ日に産まれ、その能力は幼い頃から二人の姉を(しの)いだ。
 そして日本神話に登場する〝ヒルコ〟の産まれ代わりとされた。
 イザナギとイザナミの間に産まれた最初の子。

 最初の〝神〟────。

 しかしヒルコは海に流される。
 古事記(こじき)には〝産める子()()らず〟としかその理由は記されていない。
 誰にもその訳が伝えられることのないまま歴史に埋もれた神。

 それでも、清国会(しんこくかい)はそこに〝負の念〟を見出した。
 〝(けが)れ〟の存在を感じた。
 ()(もと)を統治する天照大神(あまてらすおおみかみ)の血筋を支えられるのは、同じ血を持つヒルコしかいないと考えた。
 その〝(けが)れた血〟が欲しかった。
 その産まれ代わりが西沙(せいさ)であると最初に気が付いたのは雄滝(おだき)神社の滝川恵麻(たきがわえま)
 まだ恵麻(えま)が当主になる前。幼い頃。
 しかし清国会(しんこくかい)にとっての腫瘍(しゅよう)は、まさにそこにいた。
 西沙(せいさ)清国会(しんこくかい)に対抗する組織として〝蛇の会〟を立ち上げ、母や姉、強いては清国会(しんこくかい)に弓を引いてきた。
 親姉妹(おやきょうだい)を捨ててでも、西沙(せいさ)は自らの道理(どうり)を通したかった。
 それは、自分を恐れ、自分を受け入れてくれず、自分を突き放そうとした家族への反抗でもあった。





     真実を知ること
     それは
     恐怖を受け入れること





 すでに夕暮れで空が赤く染まり始めていた。
 空気までもが色を帯びる。
 税理士の立坂修二(たてさかしゅうじ)が顧客である御陵院(ごりょういん)神社に呼ばれることは滅多にあることではない。もちろん仕事の関係で月に数回出入りしてはいたが、(さき)から直接呼び出されるなど、西沙(せいさ)が神社を出た時以来だろう。
 立坂(たてさか)御陵院(ごりょういん)神社を顧客にしてから、すでに長い年月が経っていた。まだ西沙(せいさ)が高校生の頃だ。立坂(たてさか)は仕事上で神社の裏帳簿に疑問を持って調べ始め、やがて清国会(しんこくかい)の存在に辿り着く。そして同じく清国会(しんこくかい)に疑問を持っていた西沙(せいさ)と共に〝蛇の会〟を立ち上げて清国会(しんこくかい)を調べた。
 西沙(せいさ)の能力に驚異を感じていた(さき)に対して、立坂(たてさか)は自らが身元引受人になることを提案し、やっと西沙(せいさ)御陵院(ごりょういん)神社から物理的に解放された。
 その前後に何度か(さき)から西沙(せいさ)のことで呼び出されることはあったが、それからしばらくは仕事上の付き合いだけ。西沙(せいさ)の事務所が閉鎖されてからは電話もほとんどなかった。とは言っても清国会(しんこくかい)自体は蛇の会の存在そのものは認知している。当然のように立坂(たてさか)の存在も調べはついているはず。そう立坂(たてさか)は思っていたが、泳がされているのか、御陵院(ごりょういん)神社の側から直接の動きは無い。立坂(たてさか)御陵院(ごりょういん)神社とは少しずつ距離を置き始め、最近では事務所の別の職員に任せることが多くなっていた。
 御陵院(ごりょういん)神社の本殿とは別の(やしろ)。別邸のような建物に、神社の事務所があった。いつも立坂(たてさか)が出入りするとしたらその事務所くらいのもの。
 立坂(たてさか)が夕方に到着すると、そこには(さき)と夫の祐也(ゆうや)だけ。
 以前にも立坂(たてさか)の税理士事務所に調査と称して内閣府の人間が訪れたことがある。それはいわば脅しのようなものだったが、内閣府を直接動かせるとしたら清国会(しんこくかい)でも雄滝(おだき)神社か御陵院(ごりょういん)神社だけ。そうやって物理的に動いてきた過去があるだけに、立坂(たてさか)も少々身構えていたのは事実。
 駐車場には御陵院(ごりょういん)家の所有する車が二台あっただけ。しかし立坂(たてさか)の後に内閣府が来れば簡単なこと。車の有無だけでは安心出来なかった。
 事務所は決して狭くはない。事務机が二つと書類用の棚が壁一面を埋めていたが、一番存在感があるのは応接室のような役割でも(まかな)えそうな向かい合った大きなソファー。その間にある小さなテーブル。
 そのテーブルを挟んで、立坂(たてさか)の前には(さき)祐也(ゆうや)が座っていた。
 窓からの夕焼けが二人の顔を照らす中、(さき)がゆっくりと口を開く。
「本日は、どうしても立坂(たてさか)さんにお伝えしなくてはならないことがございまして……」
 すると立坂(たてさか)は仕事上の慣例なのか、あくまで冷静に返した。
「改まってどうされました? 何か帳簿上で問題でも?」
「……その帳簿のことなんですが…………」
 その(さき)の言葉に、本能的に立坂(たてさか)の中に嫌なものが走り抜ける。
 (さき)の言葉が続いた。
立坂(たてさか)さんが作った裏帳簿の件で……ちょっと…………」
「────なかなか面白いことをおっしゃいますね」

 ──……冷静になれ…………

「あれは前任の税理士から引き継いだ物です……それは(さき)様もご存知のはず……」
 しかし(さき)は表情も変えずに、微かな笑顔を浮かべるだけ。

 ──……さすがは清国会(しんこくかい)屋台骨(やたいぼね)…………まともな人間じゃない…………

 それに応えたのは(さき)の横の祐也(ゆうや)
「警察の方々が見えられています」
 その言葉を(さき)が拾う。
「お分かりですね?」

 ──…………なるほど……

 (さき)の言葉が続く。
立坂(たてさか)さんが未だ娘と関わっていらっしゃることは調べがついております……まあ、普通に考えるならば感謝こそすれ…………〝蛇の会〟は、ちょっと…………」

 ──……何を言っても無駄か…………

「では、警察と内閣府の方々をお招きさせていただきますね」
 その(さき)の言葉を受け、祐也(ゆうや)が立ち上がる。無言で部屋を出て行った。廊下の足音がいつもより大きく聞こえる。

 ──…………内閣府……そういうことか…………

 立坂(たてさか)は、人間とは思えない、冷静で冷たい、(さき)のその笑顔を見続けていた。





 室町時代。
 大永(たいえい)二年。
 西暦一五二二年。
 そこは小さな村だった。決して歴史に名を残すような土地柄でもない。どこにでもあるような山間部に挟まれた小さな集落。
 戌亥村(いぬいむら)
 そんな小さな村でも、やはり古くからの信仰は存在した。遥か昔から人々の中に浸透してきた神道(しんとう)。それはもはや生活の一部でもあった。
 その中心にいたのは小さな神社────戌亥(いぬい)神社。
 村人の心の拠り所となっていたような場所。その神社を中心に村の総てが動いていたと言ってもいい。それが土着信仰であり、当時はそれに疑問を持つ者など誰もいなかった。だからこそ平穏が保たれた。
 戌亥(いぬい)神社を(まも)ってきたのは加藤(かとう)家。元々戌亥村(いぬいむら)を集落として定着させた最初の血筋だったと文献には残っていた。
 現在の当主は四代目の加藤砂宮(かとうさきゅう)────三五才。
 妻は村の家から嫁いできたばかりのオユキ────二五才。
 跡取りはまだいない。
 そして、二人とも外の世界を知らなかった。
 村の中だけが、二人と村人達の世界。そして、村人の誰もがそれ以上を求めてはいない。
 砂宮(さきゅう)の村人達からの信頼は厚かった。村人達からの相談にも真摯に耳を傾けて的確な答えを導き出していく砂宮(さきゅう)に、村人達もその人柄を支えていった。そして砂宮(さきゅう)もそれに応え続け、やがては先代以上に村の中心となっていく。それは砂宮(さきゅう)の持つ〝先を見る力〟に村全体が信頼を寄せていたからに他ならない。
 砂宮(さきゅう)はまだ先代が生きていた若い頃から自分の能力を明確に認識していた。すぐ先の小さなことから後々に起こるであろう大きな出来事までを言い当てた。しかも砂宮(さきゅう)自身、自らのその力に決して臆することはなく、村の人々の為に役立てようと邁進してきた。

 その日は、時期も然る事ながら寒い夜だった。
 ()(こく)
 月明かりも無いような暗い夜。
 砂宮(さきゅう)は、小さく、小さな(やしろ)を揺らす振動に目を覚ました。
 暗い夜であることは障子から入る月明かりの弱さで分かった。
 しだいに大きくなる振動に、砂宮(さきゅう)はオユキを揺り起こす。
 お互いに顔を見合わせた直後、本殿の板戸が叩かれた。音の方角的に裏口ではない。
 二人は本殿に向かう。何度も繰り返し叩かれる正面の板戸を開けた。
 そこには狩衣姿(かりぎぬすがた)の神職の人間と思われる若者。その背後には(くらい)の上であろう狩衣姿(かりぎぬすがた)の男。狩衣(かりぎぬ)の色からそれは予想出来た。
 さらにその後ろの参道には大きな(かご)と数十名の従者(じゅうしゃ)の姿。どこかの大きな神社からの使者であることが推測された。
 板戸を開けた若い神職の男が最初に口を開く。
「かような夜更けに(かたじけな)き事。戌亥(いぬい)神社御当主、加藤砂宮(かとうさきゅう)殿とお見受けいたしまするが、相違(そうい)はござらぬか」
 小さい神社とは言っても砂宮(さきゅう)も神職に関わる者。決して臆することなく応えた。
「いかにも。(われ)加藤砂宮(かとうさきゅう)である。今宵(こよい)は御急ぎの御用件でございまするか」
 すると、若い男の後ろにいた男が一歩踏み出す。
 そして砂宮(さきゅう)に言葉を向けた。
(われ)雄滝(おだき)神社が当主、滝川氏綱(たきがわうじつな)と申す者。清国会(しんこくかい)の頂点に()しておる」
 氏綱(うじつな)(よわい)四二。
 雄滝(おだき)神社の当主になったのは三年程前。それは同時に清国会(しんこくかい)の頂点に立つということでもある。その肩に掛かる重責(じゅうせき)は決して軽いものではない。
 そして、氏綱(うじつな)は大きな問題を抱えていた。それは今に始まったものではない。長い年月の中で清国会(しんこくかい)を悩ませてきた問題だった。
 しかし砂宮(さきゅう)がそんなことを知るはずもない。
清国会(しんこくかい)……失礼ながら初めてお聞きする御名前……何せ我等(われら)は御覧の通りの貧しき神社ゆえ……」
清国会(しんこくかい)は朝廷をも動かす神道(しんとう)の中核」
 そんな組織が存在することなど知るはずがない。しかも朝廷をも動かすと聞かされてもすぐに信じられるものではなかった。

 ──……信じてよいものかどうか…………

「そのような(おそ)れ多い方々が何故(なぜ)にかような所へ────」
 そう言う砂宮(さきゅう)の不安を感じ取ったのか、氏綱(うじつな)は畳み掛ける。
「では、恵比寿(えびす)神社は御存知であるか」
 恵比寿(えびす)神社の存在は砂宮(さきゅう)でも聞き知っていた。しかも神社自体の大きさだけに留まらず、その派閥とも言える勢力の大きさは戌亥村(いぬいむら)のような小さな集落にまで響いていたほど。
 砂宮(さきゅう)は言葉を選びながらも返していく。
「……確かに聞き存じてはおりますが…………」
「かの神社は他国の(やしろ)をも束ねる影響力の強き所。そこを御主(おぬし)に任せたくて()(さん)じた次第(しだい)
「……任せるとは…………いや……そのような大それた事…………」
 反射的にそう返した砂宮(さきゅう)に対し、氏綱(うじつな)は顔色一つ変えずに応えた。
「程なくして現当主の遠藤(えんどう)家が失脚する〝予見(よけん)〟がある。御主(おぬし)にも先が見えると聞いておる」
 氏綱(うじつな)清国会(しんこくかい)の人脈を利用して加藤(かとう)家のことを調べ上げていた。その上で加藤砂宮(かとうさきゅう)に目を付ける。清国会(しんこくかい)内部ではなく外部の人間を求めたのは、その素性や人間関係からの派閥を恐れたから。田舎の小さな神社の名も無き宮司なら、言わば無垢(むく)のようなもの。清国会(しんこくかい)としては扱いやすいと考えた。
 しかし砂宮(さきゅう)は毅然と応えた。
「有難き御言葉なれど、(われ)は代々戌亥(いぬい)神社を(まも)る立場……村人達を見捨てる訳には参りませぬ」
 その直後、(かご)の遥か後ろの空が明るくなる。
 砂宮(さきゅう)は胸騒ぎを覚えた。

 ──……あの空…………いつぞやの夢で…………

 その明るさは、大きく揺らぎ、そして広がっていく。
 そして氏綱(うじつな)の言葉が砂宮(さきゅう)の不安を増幅させる。
「……始まったようだ…………」
「────一体何が起こったと────」
「…………恵比寿(えびす)遠藤重富(えんどうしげとみ)だ……村を焼き払って御主(おぬし)の力を奪いに来たのだ……御主(おぬし)の力は強大にて野放しには出来ぬ……かような小さな村で終わる器ではない」
 しかし、村に火を放ったのは実は氏綱(うじつな)だった。
 この夜の事は砂宮(さきゅう)の〝怨みの念〟を作り出す為の自作自演に過ぎない。
 それを企てた氏綱(うじつな)は、小さく呟くかのように口を開いた。
御主(おぬし)にもこの光景は見えていたはず…………かような狼藉(ろうぜき)……決して許されぬ…………」
 恵比寿(えびす)神社当主、遠藤重富(えんどうしげとみ)清国会(しんこくかい)にとってはいわば暴れ馬。しかもその派閥の影響力は大きい。しかも清国会(しんこくかい)の内紛の元となっていた。このままでは内乱は大きくなるばかり。
 氏綱(うじつな)遠藤(えんどう)家ではなく、その勢力を取り込もうとした。
 そしてその圧倒的な情報量は、砂宮(さきゅう)の冷静な判断力を失わせていく。





 電話番号は変えた。
 何も言わずに引っ越した。
 しかも引っ越し先は山の中の萌江(もえ)の家。
 杏奈(あんな)の仕事上の取引先など、もちろん母の果穂(かほ)は知らない。
 警察に捜索願いを出さない限り、杏奈(あんな)が見付かるはずがない。
 しかも母の家と杏奈(あんな)の生活圏はまるで違う。仕事の関係で移動の多い杏奈(あんな)と違い、看護士をしている果穂(かほ)が暮らしている街を出ることは(まれ)だった。
 咲恵(さきえ)を街まで送った夕方。
 どうしてその街に母がいるのか、杏奈(あんな)は最初全く理解が出来ないまま。

 ──……帰る前に買い物しようなんて……なんで思ったんだろう…………

 最近通い始めた古着屋の帰り。
 最近たまにそんなことがある。杏奈(あんな)が街まで買い物に行くタイミングで咲恵(さきえ)を街まで送る。そして咲恵(さきえ)が休みの前日の夜に迎えに行く。
 杏奈(あんな)に時間が出来たことも理由だった。しばらくは岡崎(おかざき)の出版社にも出入り出来ずにいた頃。事実、岡崎(おかざき)からの依頼も八頭鴉島(やずがらすじま)の一件以来止まっていた。

 ──……こんなに長く休んだことないな…………

 決して大きな通りではない。裏通りの細い道。大きな通りほど人も歩いてはいない。
 そんな中で、例え久しぶりとはいえ、母親の顔を見間違えるわけがなかった。どうしてそこにいるのかなど考える余裕もない。
 しかしそれは母の果穂(かほ)にとっても同じ。
 忘れるわけがない一人娘。
 お互いに目を合わせたまま、何も言葉が出てこない。
 何の音も聞こえない。
 もう会えないかもしれない────合うことはない…………そう杏奈(あんな)は思っていた。

 ──……でも…………お母さんは…………?

 その母に無言で促されるまま、杏奈(あんな)は近くの喫茶店に足を向ける。
 目の前で母がドアを引き開け、そのドアが杏奈(あんな)の視界の中で、ゆっくりと閉まりかける。

 ──……このまま閉まれば……総て無かったことに出来るの…………?

 ──…………このまま逃げ出せば………………

 杏奈(あんな)は、目の前の閉まりかけたドアを手で止めていた。
 そして開く。
 時は止まらない。
 どんなに願っても、未来はしだいに押し寄せる。

 昔ながらの歴史を感じさせる店内。
 まだ外は明るいが、それでも間接照明が僅かに灯る店内は薄暗い。
 パチパチとBGMのレコードからの埃の音が微かに空気を揺らす。古いアコースティックなジャズが流れるが、ゆっくりとした曲調が店の雰囲気を演出していた。
 経営者のセンスを感じる。元々杏奈(あんあ)もこういった個人経営のこじんまりとした店が好きだった。そしてそれは、なにより母の影響でもある。
 元々は父の好み。その父が遠くの戦場で消息を経ったのは杏奈(あんな)がまだ学生の頃だった。杏奈(あんな)が社会人になってから、母と二人でよくこんな店に通っていた。そして、母がそんな小さな店を好きになったのが父の影響であることは聞いていた。

 ──……お父さんも……この店なら気に入ってくれるかな………………

 不思議と杏奈(あんな)は父のことを思い出していた。
 ほとんど家にはいなかった記憶しかない。たまに日本に帰ってきても、いつも疲れた顔の思い出ばかり。それでも杏奈(あんな)には出来るだけ笑顔を向けてくれていることは分かっていた。
 いつも何かに疲れ、そして優しい父。
 父がもう帰らないと母から聞かされた夜、初めて杏奈(あんな)は父親の仕事を知った。
 戦場で〝人の死〟を写真に収める仕事。
 しかし杏奈(あんな)は父親の仕事をこう理解した。
 父は人間の〝極限の生き(ざま)〟を見たかった────もちろん真意は分からない。どうして父親がそれほどまでに〝生き(ざま)〟というものに興味があったのか。杏奈(あんな)の印象では、それほど他人に興味がある人には見えなかった。そんな父がなぜ危険な戦場に自ら飛び込んでいったのか、想像するしかない。
 だから杏奈(あんな)もジャーナリストの道を選んだ。
 父の求めたものを、見てみたかった。
 〝死〟を〝エンターテイメント〟と考える人々がいる。
 父親もそうだったのかもしれないと考えたことがあった。しかし、それならあんなに寂しい表情を浮かべるとも思えない。
 〝死〟を〝生〟と捉える人々がいる。
 杏奈(あんな)には想像もしていない世界だった。真逆の存在だと思い込んでいた。しかしそれが〝生き(ざま)〟に繋がるものであると杏奈(あんな)は無意識に感じていた。
 それを気付かせてくれた西沙(せいさ)と出会っていなかったら、自分も戦場に行っていただろうと常々思っている。
 そして未だ何かが(きり)に包まれたまま、今でも戦場への夢を諦めてはいない。
「……いつも……あなたは一人で決めるのね…………」
 母の果穂(かほ)が冷めかけたコーヒーを見つめながらまるで呟くようにそう言うが、杏奈(あんな)は空になりかけたコーヒーカップを両手で抱えたまま何も返せないまま。
 杏奈(あんな)が答えにくい投げ掛けであることは果穂(かほ)も分かっていた。だからこそ答えを待たずに続ける。
「お父さんと同じ…………突然……勝手にいなくなって…………」

 ──…………そうだよね…………

「勝手かもしれないけど……あの人にはあの人なりの信念があったんだと思う…………もちろん夫婦だって相手のことを総て理解なんか出来ないから……私の願望なのかもしれないけど…………決して、あなたやお母さんを(ないがし)ろにしていたわけじゃない」

 ──……今は……私にもそれは分かる…………

「……あなたの行動にも…………意味があるのよね………………」
 その果穂(かほ)の言葉に、杏奈(あんな)は懸命に言葉を選んでいた。

 ──……お母さんに危険が及ぶのが怖かった…………でも説明出来ない…………
 ──……誰も知らない清国会(しんこくかい)も蛇の会も……どう説明したらいいの…………
 ──…………命の危険なんて…………心配をかけるだけだ…………

「あなたの選択は、間違ってないのね?」
 真っ直ぐな果穂(かほ)の目が、杏奈(あんな)の気持ちを揺さぶる。

 ──……私が選んだことは…………ホントに正しかったのかな…………
 ──…………私があそこにいる意味って何だろう…………
 ──……どうして私はみんなと一緒にいるんだろう…………
 ──…………私には何の力も無いのに………………

 そして杏奈(あんな)は、やっと口を開いていた。
「…………段々と…………分からなくなってきて…………私ってもしかしたら…………」
 いつの間にか、杏奈(あんな)の目に涙が浮かぶ。
 無意識に感情が揺れていた。
 そして、果穂(かほ)が溢れそうになる一人娘の気持ちを受け止める。
「……どんなことでも、とは言わない……でもきっとチャンスはある……それを見付けることが出来れば、やり直せるものよ…………私がそうだったから…………もしも気持ちに迷いがあるなら、いつでも戻ってきなさい」
 果穂(かほ)はそう言ってコーヒーカップを両手で持ち上げた。





 咲恵(さきえ)が買い出しを終えて店の鍵を開けた頃、すでに空は夕陽から夜の色へ。
 レジ袋を持ったままカウンターの中を通りバックヤードへ。
 壁のスイッチを押して電気を点けた時、満田(みつた)からの電話に咲恵(さきえ)は軽く溜息を()いた。
「どうしたの? こんな時間に……今週ならお店に出てるから────」
 いつの間にかプライベートとは違う少し気怠(けだる)い口調へと変わっていることには咲恵(さきえ)も気が付いていた。どこかで無意識の内に切り替えている。客商売の長さが伺えた。
 しかし満田(みつた)の口調が咲恵(さきえ)をプライベートに引き戻す。
立坂(たてさか)が拘束された』
「どういうことよ」
 咲恵(さきえ)は反射的に返していた。
 それに応える満田(みつた)の声は重い。
『まだ逮捕令状は出てない。捜査令状付きの任意同行だ……それでも二四時間以上警察庁に拘束されたまま……こんなバカな話があるか……しかも内閣府も絡んでる』
「ってことは…………(さき)さん?」
 その咲恵(さきえ)の声が僅かに弱まる。
『拘束された場所は御陵院(ごりょういん)神社だから間違いないだろうな。あからさまに攻めてきやがった…………』
 満田(みつた)が唇を噛み締めている様が咲恵(さきえ)の頭に浮かんだ。
 その満田(みつた)が続ける。
『あの神社の税務処理をしていたのは立坂(たてさか)だ。例の裏帳簿の存在がある限りはいくらでも罪状なんてでっち上げられるさ。最も、アレが無かったら今の蛇の会も無いけどな』
「みっちゃんは大丈夫なの⁉︎」
『俺はしばらく裏の連中の所に身を隠すよ。あいつらの情報提供のお陰で早く動けたしな。俺の事務所と家にも捜査員と称する奴らは来たらしい』
 たまに満田(みつた)から聞いたことはあったが、満田(みつた)と付き合いの長い咲恵(さきえ)でも満田(みつた)の裏の人間関係までは知らない。満田(みつた)も教えようとはしなかった。しかしそれが情報収集に役立ってきたのは事実。
「それじゃ時間の問題じゃないの…………」
 咲恵(さきえ)はそう応えながら自分の心臓の音が早くなっているのを感じていた。満田(みつた)とは自分の店を始める前、前の店からの長い付き合い。そして、萌江(もえ)咲恵(さきえ)に裏の仕事を最初に持ち込んだのも満田(みつた)だった。しかも現在は蛇の会を大きくした立役者でもある。

 ──……外堀から物理的に攻めてきてるって言うの…………?

『そうなる前に何とか頼むよ。俺も立坂(たてさか)もこうなりゃ無力だ…………みんなも気を付けてくれ…………』
 満田(みつた)はそう言うしかなかった。
 そんな珍しい満田(みつた)の弱気な発言に、咲恵(さきえ)も精一杯の虚勢を張るしかないまま。
「……何とかする…………任せて…………」

 その咲恵(さきえ)からの報告を山の中の家で受けたのは萌江(もえ)西沙(せいさ)だった。
「何か裏があるね…………」
 そう言ってコーヒーを口に運んだ萌江(もえ)(そば)で、西沙(せいさ)も不安そうな表情を浮かべたまま。
 (まき)ストーブの中で炭化(たんか)した(まき)が崩れる音。その音が僅かに空気を揺らした。
 スマートフォンのスピーカーから咲恵(さきえ)の声が続く。
『物理的に動いてきたね……今までは西沙(せいさ)ちゃんの力で押さえ込めてたけど、そこを崩してきた誰かがいる…………』
「……まさか……」
 思わずそう呟いた西沙(せいさ)にすぐに返したのは萌江(もえ)だった。
「完璧というものは存在しないよ。しかも私たちより優れた人間はいくらでもいる…………咲恵(さきえ)(しずく)さんにも連絡をしておいてもらえる? こっちでも動きがありそうだ。また連絡するよ」
 萌江が含みを持たせた言葉遣いをした時点で、電話の向こうの咲恵(さきえ)は何かを感じ取った。
『……分かった。そっちは頼むわね』
 咲恵(さきえ)はそれだけ応えると通話を切る。
「相変わらず二人だけで会話しないでよ」
 すぐにそう言った西沙(せいさ)が続ける。西沙(せいさ)も二人のやり取りに何かを勘づいていた。
「何があるっていうのよ⁉︎」
 明らかに西沙(せいさ)は苛立っていた。それは自らの〝幻惑(げんわく)〟の能力が破られたからに他ならない。今までは毘沙門天(びしゃもんてん)神社のみならず蛇の会のメンバー全員を西沙(せいさ)の能力が守ってきた。今回のような物理的な攻撃を防いできた────はずだった。
 しかしそれが今回〝誰か〟によって崩された。

 ──……完璧なはず…………綾芽(あやめ)にも涼沙(りょうさ)にも破れなかった……恵麻(えま)にだって…………

 西沙(せいさ)の中で不安だけが膨らんでいく。
 実際、雄滝(おだき)神社の恵麻(えま)のみならず、直接の西沙(せいさ)の姉妹である綾芽(あやめ)涼沙(りょうさ)、ましてや母の(さき)ですら西沙(せいさ)の居場所さえ特定することが出来ていなかった。

 ──……力が弱まってる…………?
 ──…………私の責任なの…………?

 八頭鴉(やずがらす)の一件以来、西沙(せいさ)は確かに気持ちの中にわだかまりのようなものを抱えていた。それこそが〝(けが)れ〟というものであることは西沙(せいさ)自身も理解はしている。
 御世(みよ)を長い歴史から解放することが出来た。そのこと自体は間違ってはいない。
 しかし何かが気持ちの中心で(うず)いている。
 西沙(せいさ)は〝自分〟と向き合っていた。
 しばらく無言でいた萌江(もえ)が立ち上がり、(まき)ストーブへと向かうと膝を落として扉を開く。室内はすでに充分過ぎるほど暖まっていた。ストーブ内部の火はだいぶ小さく落ち着いている。萌江はそこに小ぶりな(まき)を一本だけ差し込むように入れると、ゆっくりと扉を閉じた。
 西沙(せいさ)は落ち着かないままその萌江の背中を見つめていた。懸命に気持ちを抑える。取り乱しそうになる自分がいる。何かは分からないが、気持ちのどこかが不安を押し上げる。

 ──……私の悪い(くせ)だ…………落ち着かなきゃ………………

 その時、外からの車の音。
 二人には聞き慣れた杏奈(あんな)の車の音。
 西沙(せいさ)が縁側のガラス戸へと顔を向けた。
 西沙(せいさ)の中の何かがザワつく。
 時間はすでに夜。厚手のカーテンがその大きなガラスを塞いでいる。
 そこに聞こえるのは背中越しの萌江(もえ)の声。
「……何があっても……冷静にいなきゃダメだよ……」

 ──………………え?

 西沙(せいさ)萌江(もえ)に顔を向けるが、未だ萌江(もえ)は背中を向けたまま。
 そのまま呟く。
「…………嫌だね…………こういうの…………」
 萌江(もえ)のその声が、まるで宙に浮いたように室内に漂った。
 そして萌江(もえ)の感じ取った〝未来〟が、西沙(せいさ)に届く。

 ──…………そんな………………

 外から聞こえる小さな足音が縁側の前で止まる。
 その足音の主────杏奈(あんな)はカーテンの隙間から僅かに漏れる灯りを眺めていた。

 ──……私の気持ちなんて…………すぐに分かっちゃうんだろうな…………

 ──……私はいつも自分の存在価値を求めてた……だから頼られると嬉しかった…………

 カーテンが大きく揺れたかと思うと、ガラスと一緒に開く。
 室内の灯りが瞬時に漏れ出し、不安気な杏奈(あんな)の顔を照らした。その目に映るのは、いつもの黒いゴスロリ姿の西沙(せいさ)。その唇が小さく揺れる。
 直後、杏奈(あんな)は目を逸らすように顔を伏せていた。

 ──……きっと今の私は酷い顔だ…………西沙(せいさ)さんに見られたくない…………

 冷たい外の空気が室内に飛び入り、西沙(せいさ)の周りの温度を急激に下げていく。
 その西沙(せいさ)が縁側の板を歩く音が杏奈(あんな)の耳に届いた。
 やがてその音は縁側の下へ。
 冷たい土を黒いソックスで踏みしめた西沙(せいさ)が、杏奈(あんな)の胸元に顔を埋める。両腕を杏奈(あんな)の背中に回していた。元々身長の低い西沙(せいさ)だったが、底の厚いブーツを履いた杏奈(あんな)とで、さらにそれは際立った。
 杏奈(あんな)に全身が震えるような感覚が走る。
 それは、まるで地面が揺れるような鈍い痛み。
 杏奈(あんな)の耳に届く西沙(せいさ)の声は、小さかった。
「……ずっと……一緒にいられるような…………そんな未来が見えてた…………」
 その言葉に、杏奈(あんな)の感情が涙となって溢れる。

 ──……私が求めていたのはなに? 何をしたかったの…………?

 その杏奈(あんな)に、西沙(せいさ)の言葉が刺さる。
「いつも我儘(わがまま)を言った…………いつも杏奈(あんな)に甘えてた…………」
 その声は僅かに震えていた。

 ──……我儘(わがまま)なのは私…………ただの自己満足で…………

「…………苦しめた…………ごめん…………」

 ──……違う……みんなは悪くない…………
 ──……私が勝手に居場所を見付けた気になってただけ…………

「でも……違う未来なんか見たくない……見えても見ない……例え萌江(もえ)咲恵(さきえ)に捨てられたって……杏奈(あんな)にだけは捨てられたくない…………私の見た未来を…………信じさせて…………」

 ──……どうして…………?
 ──…………私には何の力も無いのに………………

 ──……私には…………自分の居場所が分からない…………

 ──…………西沙(せいさ)さん…………ごめんなさい………………




           「かなざくらの古屋敷」
      〜 第二二部「冷たい命」第2話へつづく 〜
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