第八部「記憶の虚構」第2話

文字数 10,061文字

 西沙(せいさ)の街までは新幹線で一時間と少し。車で高速を使っても同じくらい。今回は西沙(せいさ)に案内をしてもらう関係もあって新幹線を選んだ。
 杏奈(あんな)から西沙(せいさ)に話を通し、その西沙(せいさ)から母親の(さき)に確認を取ってもらうと、意外にも次の日曜日の午後なら空いているという。迷うことなく萌江(もえ)は予約を取った。
 萌江(もえ)は早起きをしてバスに乗り込む。迎えに来てもらっても良かったが、萌江(もえ)としては咲恵(さきえ)の睡眠時間を削りたくなかった。昼過ぎに駅で咲恵(さきえ)と待ち合わせをすると、二人で新幹線に乗り込んだ。
「…………大丈夫?」
 窓側に座った咲恵(さきえ)が隣の萌江(もえ)に声をかける。
 思った以上に萌江(もえ)の返答は早い。
「大丈夫だよ。リビングのドアにも猫用のドアをDIYしたからね。空気の出入りを減らすために隙間に布を貼り付けてさ…………」
「どこでそんなこと調べるの?」
「ネットの動画。便利な時代になったよねえ。最近は工具にも詳しくなってきたよ」
「乗っておいてなんだけど、そうじゃなくて…………お母さんのこと…………」
 萌江(もえ)も分かっていたかのように視線を軽く落とすと、ホットタイプの背の低いペットボトルの蓋を開けた。少しだけぬるくなった甘いコーヒーを軽く口に含んでから応える。
「……どうしてだろうね…………知ったからどうなるわけじゃないんだけどさ…………」
「正直……今回のことは私も驚いた…………偶然で片付けるにはあまりにも出来過ぎ…………」
「なんだかよく分からないんだけどさ…………まだ〝あの人〟が…………どこかで生きてる気がするよ…………」
 僅かに隣の咲恵(さきえ)からは、そう言う萌江(もえ)の目が潤んで見えた。
 咲恵(さきえ)萌江(もえ)の膝の上の手に、自分の手を重ねる。まるで飛び付くかのように、萌江(もえ)はその手を握った。

 ──……離さないで…………

 新幹線が駅に到着した頃、細かな雪が駅の外にチラついていた。
 ホームの空気もピリピリと肌を刺す。
 この季節になると、咲恵(さきえ)はまるで口癖のように同じようなことを呟いていた。
「この歳になると肌の乾燥が嫌よねえ」
 そして萌江(もえ)がいつものように返すのがお決まり。
「また言ってる……そういえば保湿クリームが残り少なかったな…………」
「年々化粧品代が上がってる気がするのよね」
「物価じゃなくて私たちの年齢がね」
「いえ、そこには異論があるわ…………そもそも原油価格の高騰が────」
「お、若くてピチピチしたのがお出迎えだ」
 駅のタクシー乗り場の前で待っていたのは西沙(せいさ)だった。
 相変わらずの黒のゴスロリに、それに合わせた派手な白いコートの出立ちの西沙(せいさ)が口を開く。
「そういうおばさん臭いネタやめてよね」
「だっておばさんだもん」
 そう返す萌江(もえ)に、隣の咲恵(さきえ)は溜息を()いて呟いた。
「やめて……この季節が来る度に現実を叩き付けられてる気がするわ…………」
 そんな会話をしながらも、三人は西沙(せいさ)の車で、西沙(せいさ)の実家の神社へと向かった。
 決して街で一番の大きさを誇る神社ではない。全国的に有名なパワースポットというわけでもない。〝(はら)(ごと)専門〟で有名な神社だった。更には全国の霊能力者から助言を求められる等、その界隈では信頼が厚い。
 西沙(せいさ)はそんな神社を守り続ける家の三女として産まれた。三姉妹の末っ子である。二人の姉は母を継いで巫女となっていたが、西沙(せいさ)だけは家を出て霊能力者として独立していた。
 そしてそれにはそれなりの理由があった。
「一通りの話は杏奈(あんな)から聞いたけど…………」
 西沙(せいさ)が車を運転しながら続ける。
「最初は信じられなかったよ…………でもお母さんに聞いたら、確かに覚えてた」
 それに応えたのは萌江(もえ)
「……まあ、私も驚いたよ…………偶然にも程があるよね」
 萌江(もえ)が無理をして平静を保とうとしているのが、聞いていた西沙(せいさ)にも分かった。
 西沙(せいさ)も動揺を隠しながら返していく。
「ただの偶然なのかな…………」
「そう言いたくなる気も分かるけどさ…………なんでもそうだけど、無理矢理に都合よく結びつけじゃダメだよ。私たちの界隈って狭いからね…………その狭い業界内だから私たちは知り合ったようなものでしょ」
「そりゃ、まあ…………」
「それよりどうなのよ。〝あそこ〟の工事」
 それは萌江(もえ)たちと西沙(せいさ)の出会いの一件だった。しかもこの街の事件。その仕事の依頼がなければ、三人は出会っていない。
 西沙(せいさ)の声のトーンが少しだけ上がる。
「ああ……順調みたいだよ。本格的に電線の地中化工事が進んでるってさ。その工事が終わったら本格的に土地の再整地工事に入るみたい。春には電線の工事も終わるらしいから…………思ったより早かったね」
「行政にしちゃ早いね」
「会議でも〝今後の街の発展のため〟って連呼してやったからね」
「功労者だねえ…………その内街から表彰されるかもよ」
萌江(もえ)咲恵(さきえ)の功績でしょ…………私は何もしてない。姉妹にもあまりよく思われてないし…………」
「そうなの? 二人いるんだっけ?」
「元からあまり仲良くはなかったけどね…………だから家を出たようなものだし…………でもお母さんは評価してくれた」
 御陵院(ごりょういん)家の関係性が垣間見えるような西沙(せいさ)の口ぶり。
「……そっか…………」
 それを感じてか、返す萌江(もえ)の声はどこか優しい。
 やがて車は神社の駐車場に到着する。
 車五台分のスペースがあるだけの小ぶりな駐車場だった。
 不思議と西沙(せいさ)は運転席を降りてからもすぐには足を進めない。それでも、やがて何かを噛み締めるように進み始めた。
 鳥居を潜って参道に至ると、その雰囲気がそう感じさせるのか、空気の冷たさが僅かに和らいだようにも感じる。街一番ではないというだけで、決して小さな神社ではない。広い真っ直ぐな石畳の参道が大きな本殿へと向かっていた。
 西沙(せいさ)は本殿正面ではなく、横の通用口へと二人を案内した。
 やがて通されたのは本殿の奥と思われる一室。一室と言ってもかなり広い。神事用の祭壇があることから、祭壇が一つだけではないことが伺えた。
 中心に萌江(もえ)。その左手に咲恵(さきえ)。右手に西沙(せいさ)が並ぶ。いかにも神社らしく、厚めの立派な座布団。
 実家とはいっても、西沙(せいさ)萌江(もえ)咲恵(さきえ)と同じく正座を崩さないことに違和感を感じながらも、萌江(もえ)は高い天井を見上げた。祭事等で火を使うこともあるのだろう。高い天井は(すす)で僅かに黒い。
 とは言っても決して閉鎖的な空間ではない。扉も無い状態で奥の長い廊下と繋がっていた。やがてその廊下の奥から足袋(たび)()る音が聞こえ、目の前に現れたのは三人の巫女だった。
 先頭に立つ中心の巫女が距離を取って萌江(もえ)の前に膝を落とすと、(すそ)を両手で素早く整えながら深く頭を下げた。
「大変お待たせ致しました…………当家、御陵院(ごりょういん)神社当主、(さき)にございます」

 ──…………この人か…………

 そう思った萌江(もえ)は、隣の咲恵(さきえ)と共に頭を下げる。
 その横で二人よりも深く頭を下げる西沙(せいさ)の姿に、やはり萌江(もえ)は違和感を感じた。その三人が頭を上げると、(さき)が続ける。
「いつも娘の西沙(せいさ)がお世話になっております。後ろに居りますのは綾芽(あやめ)涼沙(りょうさ)…………西沙(せいさ)の姉に御座います。本日はどうしても同席したいと申しまして…………構いませんでしょうか?」
「構いません」
 萌江(もえ)はすぐにそう返しながら、軽く視線を落としたままの奥の二人に目を配る。
 改めて見ると、三人はいずれも冷たい板間にそのまま正座をしていた。しかも立ち振る舞いに隙は無い。

 ──……さすが西沙(せいさ)の家族だ…………

 萌江(もえ)はそんなことを思いながら口を開いた。
「私は恵元萌江(えもともえ)……と申します。隣にいるのはパートナーの黒井咲恵(くろいさきえ)です」
 咲恵(さきえ)が小さく頭を下げる。
 萌江(もえ)が続けた。
「…………もうお気付きかと思いますが、私も黒井(くろい)も…………普通の人間ではありません。とは言っても、私は娘さんをお二人もお付きにする程の猛獣ではありませんよ。まあ、能力者同士、腹を割ってお話が出来たらと思ってお伺いしました。お忙しいところ……無理を言いまして…………」
 すると、すぐに(さき)は返す。
「いえいえ、本日は日曜日だと言うのにどういうわけか手隙(てすき)でございまして……午前中にお(はら)い事が一件入っていたのですが…………何と言いますか…………必要がなくなりました」
 落ち着きを感じさせる声。
 それでいて、どこか〝壁〟を感じさせる。
「……というと?」
「ええ…………実はよくあることなのですが……〝()きもの〟と本人や周りが思っていても、実はただの思い込みということがよくありましてね…………」

 ──……へえ…………

「まあ強いて申しますと、自分で自分に呪いをかけているようなもの…………もちろん形だけでお(はら)いの真似事をすることは出来ますが…………どうも好きになれません。いつも仏事(ぶつじ)説法(せっぽう)のようなことをして終わります。祈祷(きとう)料も頂けませんので……いつも娘たちには笑われている始末ですよ」
 そう言って(さき)は口元にだけ笑みを浮かべた。
 それでもなぜか、萌江(もえ)と目を合わせようとはしない。
 その(さき)が続ける。
「……西沙(せいさ)から、本日の御用向きは伺っております。正直…………私も驚きました」
「……そうですよね…………私もです」
 あくまで萌江(もえ)は柔らかい口調で返した。
 しかし、(さき)はしだいに声色を変え始める。
「……あの時の……ことをお聞きになりたいと…………」
「ええ…………私を……救急車が来るまで抱いててくれたと聞きました」
「はい…………確かに私です…………」
 しだいにその声は震え始めていた。
「……私はその場におりました…………」
「ありがとうございます……おそらくその時の私は不安で仕方なかったでしょうから…………」
「…………違うんです」
「違う?」
「……はい」
「違うと、いうのは……?」
「…………守ろうと、思いました…………守らなければいけないと…………」
「……………………守る?」
 すると、(さき)は初めて萌江(もえ)の目を見た。
「お母様は自殺ではありません」

 ──……………………

「……お母様は……目の前の〝異形(いぎょう)のもの〟から…………あなた様を守るために命を捧げました」
「…………〝異形(いぎょう)のもの〟…………?」
 呟きながら、萌江(もえ)が視線を落とした。

 そして、空気が変わる。

 ──……()かれる────!

 そんな言葉が咲恵(さきえ)の頭に浮かぶ。
 直後、片膝を立てた咲恵(さきえ)萌江(もえ)の左肩を掴んだ時、(さき)の後ろから綾芽(あやめ)涼沙(りょうさ)が立ち上がる。
 そして(さき)の横まで身を乗り出す。
 膝を立ててそこに立ち塞がったのは西沙(せいさ)だった。
 右手を大きく広げて(てのひら)を二人に見せながら絞り出す声は低い。
「…………私に……勝てるの…………?」
 全員が瞬きすら出来ない空気に包まれた。
 それを破ったのは(さき)の低い声。
「……双方とも…………(ほこ)を収めなさい…………」
 綾芽(あやめ)涼沙(りょうさ)がゆっくりと(さき)の後ろに足を滑らせると、(さき)の声が続く。
「座りなさい────これ以上客人の前で醜態(しゅうたい)(さら)す気か」
 二人が両膝をつくと、西沙(せいさ)も右手を降ろした。しかしまだ片膝は立てたまま。
 そこに(さき)
西沙(せいさ)、失礼した…………それでもあなたも気が付いているはず…………その水晶が〝何者〟か…………」
 西沙(せいさ)が振り返ると、萌江(もえ)は俯いたまま、いつの間にか左手を前に突き出していた。手首を立てて見せる(てのひら)には、いつの間にか指にチェーンを巻いた水晶。
 その水晶に目を奪われたような(さき)が言葉を繋げた。
「その水晶は……どこで…………」
 俯いたままの萌江(もえ)が応える。
「……あの時…………私の体の上には水晶が二つ乗っていたはず…………」
 その萌江(もえ)の言葉に、(さき)は眉を細め、唇を僅かに震わした。
「────いえ……私はその時は…………何も…………」
「どうしてどう巡ったのか…………二〇年以上経ってから私の目の前に現れたのは〝火の玉〟だけ…………対になる〝水の玉〟を探しています。ご存じありませんか?」
「……残念ながら…………あの時に水晶の存在には気が付きませんでした…………」
「すでに…………消えていたのかもしれない…………」
「私には、水晶の在り所より…………その水晶に宿る者のほうが気になります…………」
「……よほど……恐れていらっしゃいますね……」
 萌江(もえ)の声に、(さき)は言葉を詰まらせる。
 仮にも〝()(もの)専門〟の歴史の長い神社を継ぐ巫女。それだけの人物を恐れさせるものが何かと萌江(もえ)は考えた。

 ──……それだけの〝誰か〟が……ここにいる…………

「娘の非礼はお詫びします…………」
「無理もありませんよ…………私にも少し見えました…………そして多分……この水晶を扱えるのは私か…………娘の西沙(せいさ)さんだけです」
 萌江(もえ)はそう言うと、ゆっくりと顔を上げ、水晶を持った(てのひら)を下げて続ける。
「あの時……母と対峙していた〝異形(いぎょう)のもの〟とは……………………〝何者〟ですか?」
 すると、ゆっくりと(さき)が応える。
「…………黒く…………大きな…………〝蛇〟でした…………」
 萌江(もえ)は目を細めて応えるように呟く。
「……蛇…………」
「ただの偶然とは思えません…………どうやら私も、関わってしまったようですね……」
 そう言う咲の口元には、なぜか微かに笑みが浮かぶ。
 その咲の表情に何かを感じたのか、萌江(もえ)はワザと声のトーンを上げた。
「……すいません……今後も……なにかとお願いすることになるかもしれません…………」
 そう言うと軽く頭を下げる。
 すると、(さき)は深々と頭を下げて返した。
「……とんでもございません…………私共(わたくしども)で良ければ…………」





 萌江(もえ)咲恵(さきえ)西沙(せいさ)から街に一泊するように進められるが、二人は帰ることを決断する。
 まだそれほど遅い時間でもなかった。
 あの神社で過ごした時間は、せいぜい三〇分程度。それでも萌江(もえ)にとってはよほどの疲労があったのだろう。新幹線では咲恵(さきえ)の肩に頭を預けて到着するまで目を覚ますことはなかった。
「ごめんね……私だけ寝ちゃってた? 咲恵(さきえ)も少しは寝れた?」
 咲恵(さきえ)の車の助手席で、萌江(もえ)はそう言って咲恵(さきえ)の横顔に顔を向けた。
 柔らかい笑顔を浮かべた咲恵(さきえ)が応える。
「んー……色々考えてた」
「…………そうだよね……」
 そう言って前に視線を戻した萌江(もえ)が続ける。
「分かったこともあったけど…………やっぱりよく分かんないね」
 その声に、ふと咲恵(さきえ)萌江(もえ)の首元の水晶に目がいった。その中に何が宿っているのか、咲恵(さきえ)でも見えたことはない。

 ──……誰にも、はっきりと姿は見せていない…………

 萌江(もえ)から咲恵(さきえ)に入ってきたイメージもぼんやりとしたものでしかなかった。しかし三人の巫女が揃って恐れるのも理解出来た。

 ──…………大きすぎる…………〝誰か〟がいる…………

 ゆっくり寝た割に元気の無い萌江(もえ)だったが、家に着いて猫と戯れるとやっと笑顔が浮かぶ。
 いつの間にか外はだいぶ暗い。
 エアコンを切って(まき)ストーブに火をつけると、猫も眠そうに萌江(もえ)咲恵(さきえ)に絡まってきた。猫は三匹とも萌江(もえ)だけではなく咲恵(さきえ)にもすっかり懐いていた。
「少し寝たらまた夜中に遊ぶんだもんねえ君たちは」
 猫にそんな言葉をかける萌江(もえ)の肩に、ソファーで隣に座る咲恵(さきえ)の頭が乗った。
「少しだけ…………」
「うん…………いいよ」
 いつも以上に、萌江(もえ)の声は優しかった。
 そしてその萌江(もえ)の中に、咲恵(さきえ)の意識が入り込む。

 ──……ふーん…………ビスクドールねえ…………

 翌日の朝食はワンプレート。メインは卵入りホットサンド。炒めた生ウインナーとザワークラウト。いつものコーヒー。
 萌江(もえ)は朝に猫と一緒に朝食をとる時間が最近は一番好きだった。しかも月曜日は咲恵(さきえ)もいる。

 ──贅沢だなあ…………

 そう思いながら萌江(もえ)がコーヒーを口に運んだ時、咲恵(さきえ)が口を開く。
「いつ気付いたの? 話すか話さないか悩んでたのに……」
 ニヤニヤとした萌江(もえ)が応えた。
「悩んでるからだよ。私に秘密がバレないとでも思った?」
「秘密にするわけじゃなかったんだけど…………断ったほうがいいかなあって思ってたからさ」
 咲恵(さきえ)はそう言いながら、ザワークラウトをフォークでクルクルと弄りつつ続ける。
「…………人形って……萌江(もえ)も苦手でしょ?」
 そう言いながら、咲恵(さきえ)は少し前の人形のことを再び思い出していた。
 萌江(もえ)も同じ気持ちなのか、少し歯切れ悪く応える。
「うーん…………まあ、ね…………みっちゃんからでしょ?」
「うん……無理しないで…………乗り気しないのに…………」
 そう返しながらも、咲恵(さきえ)の中には昨日のこともあった。あんなに萌江(もえ)が疲れるくらいのことがあったばかり。少し休ませるべきだと思っていた。
 しかし、萌江(もえ)からの返答は意外なもの。
「でもさ…………会ってみてもいいかな…………その人形…………」
「ちょっと…………」
「というより…………その子が会いたがってるよ…………」

 ──……まさか…………呼ばれてるの…………?





 平日。
 その日は朝から大粒の雪。
 萌江(もえ)が遅目の朝に目を覚ました時には、すでに外はうっすらと白い。
 エアコンでリビングが暖まった頃、ソファーの上で丸くなる三匹の猫に声をかけた萌江(もえ)は、いつものサッチェルバッグを持って外に出た。
 僅かに雪の積もり始めた道。
 まだ凍ってはいなかった。しかも思ったより気温は低くない。肌に刺さるような冷たさは感じなかった。
 それでも緩やかな坂を下りながら舗装された幹線道路まで歩くこと三〇分。やっと()びついたバス停が視界に入ってきた頃には、さすがに頬から耳までが冷たい。ニットタイプのキャスケットを深めに被り、イヤフォンを差し込んだ耳を半分程度隠していたがそれでも空気の冷たさを感じる。

 ──……今夜は泊まりになるかな…………

 まだ道路が凍結しているわけではないからか、それほどバスも遅れなかった。

 萌江(もえ)は駅前に着くと、近くのコンビニでホットの缶コーヒーを三本買って咲恵(さきえ)と合流する。ほどなく到着した満田(みつた)の黒いアウディに乗り込むと、三人でコーヒーを飲みながら満田(みつた)の説明が始まった。
「依頼主はあくまで着物ブランドの代表取締役の瑞浪裕子(みずなみゆうこ)。婿養子は同じ会社の副社長になってる。とは言っても財閥自体の四代目は裕子(ゆうこ)の弟の祐也(ゆうや)。その祐也(ゆうや)には妻はいるが子供はいない。戸籍上の息子二人はいずれも養子…………という複雑な状況なんだが、他に質問はあるかな?」
 運転をしながらそう説明する満田(みつた)に、後部座席の萌江(もえ)が返す。
「ノイローゼになってるっていうのは四代目で間違いないのね?」
「毎日のように夢に人形が出てきてうなされるそうだよ。今もこれから向かう本家に暮らしてるから会うことは出来るだろうけどね」

 やがて到着した瑞浪(みずなみ)家は本家というだけあって確かに豪邸だった。現在でも国内の経済に影響を与える財閥。しかし満田(みつた)が指定されていたのはその本家の裏口だった。
「あまりオープンにはしたくないようでね…………」
 そう言って満田(みつた)はエンジンを切った。
 裏口と言っても決して小さいわけではない。それなりの大きさの扉があり、そこから車ごと入ることが出来た。
「随分と小さな裏口だこと…………」
 そんなことを呟きながら咲恵(さきえ)が車を降りる。つい愚痴をこぼしたくもなる。本来は断ろうかと思っていた仕事だ。萌江(もえ)が話に乗らなければ自分のところで止めていた。しかし咲恵(さきえ)自身も不思議に思う。

 ──……嫌なら最初に私が断ればよかっただけなのに…………

 裏口の門を閉じた使用人が三人を屋敷の入り口に促した直後、そこに現れたのは着物を着た初老の女性だった。
 その女性にすぐに声をかけたのは満田(みつた)だった。
「お疲れですね社長…………お待たせしました」
 確かにその女性の顔は疲れていた。六〇を過ぎているとはいえ、顔のシワを別にしても目の下のクマが目立つ。
「すいません満田(みつた)さん…………お恥ずかしながら、最近は会社にも顔を出せていない状況でして…………」
 見ると、女性の背後には使用人が一人、体を支えるように控えている。
 それでも、その女性の立ち振る舞いはプライドを感じさせるものだった。決して見窄(みすぼ)らしい印象はない。
 女性は萌江(もえ)咲恵(さきえ)に視線を送りながら口を開く。
「満田さんにこんな素敵な女性のお知り合いがいるなんて…………身長もお高いのでウチの会社でモデルでもお願いしたいくらい…………」
「社長、まずは…………」
 そう言って話を遮ったのは満田(みつた)だった。
 女性は息苦しそうに軽く息を吐くと、続ける。
「…………失礼いたしました…………私は当家四代目の姉…………瑞浪裕子(みずなみゆうこ)と申します」





 本家の広い座敷で一通り話を聞く過程で、数人の使用人が一人ずつ呼ばれた。
「物音と言いますか…………パタパタと歩き回る音と言いますか…………その部屋は板間なんですが、何度もそんな音を聞いています」
「最初は一人の声でした…………笑い声のような感じで……聞き間違いかと思ったんですが…………少し前は何人もの話し声が聞こえて…………」
 そして誰もが口を揃えて言う。
 〝中を覗いても誰もいなかった〟と。
 そんな証言が広まり始めたのは、どこのお寺や神社でも断られ、やがて四代目の瑞浪祐也(みずなみゆうや)が悪夢にうなされるようになってからだった。
「どこでも引き取りを断られたということですけど」
 隣の咲恵(さきえ)とは違って座布団に胡座(あぐら)をかいて座っていた萌江(もえ)は、そう言って続けた。
「断られる理由は聞きましたか?」
 すると裕子(ゆうこ)が応える。どんなにやつれた表情でも、背筋を伸ばして正座する姿は(りん)としたまま。
「どこも〝手に負えないから〟…………というばかりで、それ以上は語っては下さいませんでした…………」
「なるほど…………」
 萌江(もえ)はそれだけ応えると、隣の咲恵(さきえ)に顔を向けた。
 すると咲恵(さきえ)もすぐに気が付いて萌江(もえ)を見ると小さく口を開く。
「……何かは分からないけど、恐れた…………?」
「そんな感じだね…………それじゃ────」
 萌江(もえ)はそれだけ言うと立ち上がった。
 裕子(ゆうこ)が顔を上げる。
 そして小さく(うなず)いて立ち上がった。
「……分かりました…………ご案内いたします」

 〝人形屋敷〟と呼ばれる離れは本家の建物と隣接して建てられていた。離れとは言っても立派な平家だった。簡素な柵で囲われてはいるが、その部分だけでも狭くはない。離れというより別邸と言っても差し支えない和風建築。庭もしっかりと整えられ、現在でも管理されているのが見た目だけでも分かった。
 事実、人が住んでいないにも関わらず定期的に使用人が清掃に入るほどだ。古くからそれがこの家での仕事の一つだったのだろう。
「以前はこの家中が人形で溢れていました…………使用人一〇人ほどで週に一度は清掃をしていたのですが、だいぶ大変だったようですよ」
 裕子(ゆうこ)が家の奥へ三人を案内しながら説明を続けた。
 数人の使用人が裕子(ゆうこ)に続くようにしながら雨戸を開け、廊下に陽が差し込む。
 萌江(もえ)咲恵(さきえ)はいつの間にか雪が止んで日が差し込んでいたことを改めて感じた。そんなことにも遅れて気が付くほどに集中していた。しかもそれは決して意識的ではない。屋敷で話を聞いていた頃から、頭に人形のイメージが浮かんで消えない。どうしてもそこに意識を集中せざるを得なかった。
 その部屋は外に面する廊下から更に奥に入った部屋。
 障子ではなく木の引き戸。
 その重そうな引き戸を開けると、その〝木箱〟はすぐ正面にあった。
 決して広い部屋ではなかった。部屋の壁の一つに古い箪笥(たんす)のような物があるだけで、中心に古い木製のテーブル。
 その上にその(きり)の箱はある。
 しかし不思議なほどにその箱は古さを感じさせなかった。いくら素材が(きり)とはいえ、ここまで真新しいままなのは異常に感じるほどだ。
 全員でその木箱を囲むように近付きながら、最初に口を開いたのは咲恵(さきえ)だった。
「この箱は最初からの物ですか? 何度か新しくされたことは……?」
 裕子(ゆうこ)はすぐに応える。
「いえ……最初の頃は分かりませんが、少なくとも私の記憶では、ありません」
 裕子(ゆうこ)(きり)の箱に手を添え、ゆっくりと蓋を開けた。
 古いビスクドールが姿を現す。
 しかしその歴史を感じさせるのは着ている青いドレスだけ。その色に鮮やかさはすでに無い。白かったであろうレース部分も僅かに茶色く変色していた。
 しかし顔だけは白いまま。
 陶磁器の上に塗料を塗っているとしても、長い間色()せないということがあるとは信じがたかった。塗料のヒビ割れも見られない。
 金色の髪も、まるで(くし)で溶いたばかりのように滑らかだ。
 輝いて見えるほど。
 (つや)のある唇。
 深みのある瞳。
 誰もが目を奪われていた。
 しかし、萌江(もえ)は両肩を掴まれて我に返る。
 咲恵(さきえ)だった。
 その咲恵(さきえ)の声が萌江(もえ)の背後から響く。
「…………気を付けて…………この子は生きてる…………」
 すると萌江(もえ)は右手を上げ、左肩に乗る咲恵(さきえ)の手に乗せた。咲恵(さきえ)がその手を握る。
 直後、萌江(もえ)咲恵(さきえ)の視界が一瞬だけ(ゆが)む。
 二人は同時に足に力を入れた。

 ──……入ってくる…………

 咲恵(さきえ)がそう感じた直後、萌江(もえ)は反射的に左手で首筋に下がる水晶を掴んでいた。

 ──…………会いにきたよ…………




             「かなざくらの古屋敷」
      〜 第八部「記憶の虚構」第3話(第八部最終話)へつづく 〜
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