第十九部「夜叉の囁き」第5話(第十九部最終話)

文字数 9,187文字

 それは、(しずく)が内閣府に誘われた夜。
 条件は確かに悪くない。
 警視庁から内閣府へ。キャリアアップとしても申し分ない。確かに将来は保証されたようなものだ。
 しかし、内閣府の総合統括事務次官について説明してもらえたことは神道(しんとう)に関わりがある部署であるということだけ。
 自分に何が求められているのかすら分からなかった。
 確かに幼少期から勘のいい子供と言われてきた。それが霊感というものであると意識したのは高校生の頃。この世ならざるものが見えるだけでなく、見えないはずの未来まで見えるようになると決して気持ちのいいものではない。一番自分の力に恐怖を感じたのは、他人をコントロール出来るようになった時。それはもはや霊感というより超能力のようなもの。
 それでも、それからは自分なりにその〝力〟と上手く付き合ってきたつもりだった。年齢と共に力を調整することも出来た。そして警視庁に入ってからは、事件解決に力を活用したことも何度か。
 他人に話したことはない。
 しかしなぜか内閣府の人間は知っていた。どこまで自分のことを調べられていたのかは分からなかったが、あまり気持ちのいいものではない。
 学生の時の同級生でも知っている人間はいない。友達と呼べる相手もいなかった。

 ──…………どうして知ってるの……………………?

 ──……私のことを……どこまで知ってるの…………?

 見知らぬ組織に自分のことを知られているというのは恐怖でしかない。
 相談の出来る人間はいなかった。
 自分の能力を活用出来る内閣府の部署とはどういう部署なのか、想像だけが膨らんでいく。
 その日の帰宅は決して遅くなかった。
 まだ夕方の六時前。
 マンションの前まで来ると、途端に娘の顔が頭に浮かぶ。その顔を思い浮かべるだけで癒された。
「ただいま」
 出来るだけ明るく声を上げながら玄関を開けた。
 リビングのドアから漏れる明かりにホッとする。
 いつも帰りが遅くなることでベビーシッターに無理を強いていた。それでも長く働いてくれていることには感謝している。世代的にも(しずく)よりずっと上。
 岡田三恵(おかだみえ)。四五才。二人の息子はどちらもすでに成人していた。
 まだ四才の(かえで)の保育園の迎えから夕食。土日に(しずく)が仕事の時にまで対応してくれた。もちろんそれなりの給料を支払ってはいたが、それでも三恵(みえ)(しずく)の要望を断ったことはない。
 (しずく)がドアを開けて最初に視界に入ってきたのは、その三恵(みえ)の姿。

 三恵(みえ)の背中。
 (しずく)の開けたドアに足を向け、フローリングに倒れた姿。

 視界の奥、三恵(みえ)の頭の向こうには(かえで)が立ち尽くしていた。
 唖然とその光景を見ながら動けなくなる(しずく)に向けて、(かえで)が静かに口を開く。
「〝…………私を殺そうとした…………〟」

 ──…………だれ………………?

 それは(かえで)の声ではない。
 四才の女の子の声でもない。
 大人の女性の声。
「〝…………清国会(しんこくかい)が私の存在に気が付いた…………この女を操ったのだろう…………〟」

 ──…………しんこくかい? 何を言ってるの………………?

「〝…………だから、殺した………………〟」

 ──……殺した…………?

 無意識に、(しずく)が口を開く。
「────誰だ…………」
 そう言った(しずく)は視線を足元に落とし、握った両手にいつの間にか力を込めていた。
 その(しずく)が再び低い声を絞り出す。
「……誰だ…………お前は誰だ………………」
 そしてそれに対して返ってきた(かえで)の言葉に、(しずく)は神経を刺激された。
「〝お前は清国会(しんこくかい)の一員になるだろう…………そして毘沙門天(びしゃもんてん)(まも)れ…………いずれお前の力が必要になる時が来る…………その時、お前は我らの一員となる────〟」
「────誰だっ!」
 まるで反射的に、(しずく)は叫んでいた。
 自然と体が震える。
 (かえで)の中に〝誰か〟がいた。
 間違いない。
「私の娘を返せ! 力ずくでも引きずり出すぞ!」
「〝自分の力も扱い切れていない者が何を言う…………恐ろしい程の力を持ち合わせながらも内に込めたままの愚か者が何を言うか!〟」

 ──……恐ろしい程の…………ちから………………?

「〝自分の力に気付け…………お前は…………その力で娘を守ることになる………………〟」

 (しずく)は無意識の内に、倒れたままの三恵(みえ)の横を歩いていた。
 (かえで)の正面で片膝をつく。
 そして、左の(てのひら)(かえで)の顔にかざした。
 途端に力が抜けて倒れかけた(かえで)の体を支え、そして強く抱きしめる。意識を失っている(かえで)の体に、(しずく)の震えが伝わっていた。
 いつの間にか、(しずく)の両目から大粒の涙が溢れる。
 怖かった。
 (かえで)を失うかもしれない恐怖が押し寄せた。

 ──……私には…………(かえで)しかいない………………

 ──…………絶対に奪わせない………………

 (しずく)はジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出すと、同時に取り出した名刺に視線を落とす。今日もらったばかりの内閣府の名刺。(しずく)はその名刺を見ながら電話をかけた。
「本日のお話ですが…………お受けします…………」
 そして(しずく)は倒れている三恵(みえ)の体に視線を移しながら続ける。
「……ただ……条件があります…………一つだけ…………内密に処理して頂きたい事案があるんです…………」
 (しずく)は、(かえで)を抱きしめる手に力を込めた。





 西沙(せいさ)(しずく)の手を離した。
 (しずく)の目は大きく見開かれたまま震え続ける。
 西沙(せいさ)の強い目から離れられずにいた。
「思い出した? 忘れてたでしょ? でもそれはあなたのせいじゃない」
 淡々と、しかしそう言葉をかける西沙(せいさ)の語尾には柔らかさが覗く。
 それに、(しずく)は言葉を漏らすかのように返した。
「…………どうして………………」
「あなたの記憶を消したのは恵麻(えま)…………ズルい女だよ…………」
 西沙(せいさ)はそう応えると小さく(しずく)の目から視線を落とした。
 そこに、本殿の中からの咲恵(さきえ)の声。
「ここの担当になったのは娘さんの力」

 ──…………(かえで)が………………どうして………………

「……娘は………………」
 (しずく)の呟くような小さなその声に、今度は萌江(もえ)の声が響いた。
「娘さんの中にいるのは…………水乃蛇(みずのへび)神社の藪沖音水(やぶおきねすい)…………彼女が娘さんを経由してこの神社を終わらせようとした…………」
 清国会(しんこくかい)が子供を誘拐することで〝仕来(しき)たり〟を繋げてきたという点に於いて、毘沙門天(びしゃもんてん)神社と水乃蛇(みずのへび)神社は同じ歴史を持っていた。
 呆然とする(しずく)の耳に、さらに萌江(もえ)の言葉が続く。
「……代々あの藪沖(やぶおき)家はこの神社を気にしてたみたいね…………ここと同じように間違った仕来(しき)たりで生きてきた…………今、彼女は私たちと共にいる…………だから分かった。少し人見知りだけどね」
 代々女系だけで血筋を繋ぎ、清国会(しんこくかい)の連れてきた〝男根(おとこね)〟で歴史を紡いできた水乃蛇(みずのへび)神社の歴史を終わらせたのは、神社を(まも)ってきた藪沖(やぶおき)家の音水(ねすい)。最後の継承者である自らの血を絶つことで神社そのものを終わらせた。
 しかし終わらせようと思ったきっかけは、形は違っても〝間違った仕来(しき)たり〟を継承していた毘沙門天(びしゃもんてん)神社の存在を知ってからだった。
 それは自らの婿(むこ)入りが数年遅くなるとの清国会(しんこくかい)からの報告を受けた時のこと。音水(ねすい)は使者の思考を読み取ることで事の真実を知ることが出来た。
 音水(ねすい)にとって、それは〝悪魔の所業〟でしかない。
 どんな人間にも、必ず血を繋いだ親がいる。家族があるはず。その家族の不幸を作り出してまで自分の命が存在することが許せなかった。
 そしてそれは藪沖(やぶおき)家だけではないことを知った。
 音水(ねすい)鬼郷(おにさと)家も救うべきだと考え、それを萌江(もえ)たちに託すことになる。
 (しずく)も総合統括事務次官として水乃蛇(みずのへび)神社の顛末(てんまつ)は聞いていた。しかし子供の誘拐のことまではもちろん聞いていない。
 そして今、両家の〝仕来(しき)たりの歴史〟が西沙(せいさ)を経由して自分の体に流れ込んできた。
 体が震えた。
 込み上げるのは怒りだけ。
 そして萌江(もえ)の言葉が続いた。
「……清国会(しんこくかい)の真実がこれで分かった? …………実際、地獄だよ…………なんとしても終わらせたかったんだろうね…………御世(みよ)音水(ねすい)も…………でも、あなたにそれを気付かれるのを清国会(しんこくかい)は恐れた…………恵麻(えま)はこの神社を(まも)ってきたのが第六天魔王じゃないことは分かってたはず。だから恵麻(えま)があなたの記憶まで操作した」
「……でも…………私の代わりなんて…………」
 (しずく)が低い声で返すと、すぐに萌江(もえ)が応える。
「あなたたち親子の能力の強さは恵麻(えま)でも捨てがたかったんじゃない?」
「…………強さ………………?」
「あなた自身が気付いてないだけ…………娘さんもね…………この神社を(まも)るには、その力が必要になる…………」
 すると、それに返す(しずく)の声が低く響いた。
「…………勝手すぎる…………好きでこんな人生を送ってきたわけじゃないのに…………私は娘と生きていきたいだけなの!」
 過去が()ぎる。
 両親や兄弟からも避けられ、幼い頃から友達を作ることも出来なかった。見たくもない他人の深層心理が頭に浮かび、表面上だけで人と関わることも出来ない。擦れ違う人間ですら自分に敵意を向けているように感じて生きてきた。
 ただ、子供の頃、一人だけ、すぐ隣に友達がいた。
 まだ幼い女の子だった。
 名前は、

 ──……………………かえで…………………………

 それは、記憶の奥底に置き去りにされた過去。
 ただ忘れていただけなのか、それでも溢れ始める。

 ──……(かえで)が産まれる前から……私は(かえで)に会ってた…………
 ──…………どうして忘れてたの…………?

 その記憶の真意も、理由も、理解の範囲を超えていた。
 耳に届くのは萌江(もえ)の声。
「会ってたでしょ? 物心がついた頃から…………〝娘〟さんと…………思い出してあげて……あなたを支えてくれたはずだよ…………」
 (しずく)の両目から無意識に涙が溢れる。
 萌江(もえ)の言葉が続いた。
「選択はあなたしだい…………強要はしたくない……でも、背中は向けないで…………あなたと娘さんの力は…………〝時を超えられる〟…………それには意味があるはず。私たちの中には何人もの人の〝想い〟が存在する。私たちは向き合ってきた…………絶対に逃げない」
 膝を落としかけた(しずく)の体を、西沙(せいさ)が抱えた。
 そして(しずく)の耳元で西沙(せいさ)(ささや)く。
「私たちは宗教じゃない…………むしろ宗教に楯突く者たち…………だから…………信じるのは自分たちだけ…………」
 そこに繋げられる萌江(もえ)の声。
清国会(しんこくかい)は私たちの力を利用しようとしてきた…………長い年月をかけてね…………しかもそれは、自分たちの権力をこの国で維持させるため…………利用されるつもりはないよ…………私たちも(しずく)さんと同じ…………普通に生きていきたいだけ…………ただ生きることを脅かされたくないだけ…………」
 西沙(せいさ)(しずく)をゆっくりと座らせた。
 (しずく)は参道の石に両手を付いて肩を震わせる。
 どうすればいいのか、結論を出すことが出来なかった。
 さらに萌江(もえ)の声。
「私は血を繋いでいくことが出来ない…………子供を作れない体だからね…………だから清国会(しんこくかい)は焦ってる…………私は最後の直系…………私が死ねば終わる…………清国会(しんこくかい)は次の〝神〟を探すだけ…………でも、仲間を残しては死ねない…………次の犠牲者も作らない…………私の望みはそれだけ」
 そして続くのは、本殿からの咲恵(さきえ)の声。
結妃(ゆいひ)さん…………あなたの記憶の修正も必要よね…………」
 咲恵(さきえ)は未だ結妃(ゆいひ)の頭の上に右の(てのひら)をかざしたまま。
 そこから結妃(ゆいひ)の中の記憶が暴かれていった。
 結妃(ゆいひ)は視線を落としたまま。
 そして咲恵(さきえ)の声が続く。
「あなたのお母さんが…………あなたが正しい記憶に辿り着かないように記憶を操作した…………でも完璧じゃなかった…………罪の意識かしら…………今、萌江(もえ)佐平治(さへいじ)さんの記憶も修正してる。総て分かったでしょ? もうどこにも代々の鬼郷(おにさと)家の血なんか存在しない…………あなたも誘拐されてきた…………総てはまやかし…………」





 利平治(りへいじ)禹妃(うひ)の間に長男が産まれた。
 後は、無事に五年後に長女が産まれれば〝仕来(しき)たり〟通り。
 しかし五年後。
 長女は産まれなかった。
 焦る二人の元に、清国会(しんこくかい)の使者が言った。
「長男はすでにいるではありませんか…………血筋はすでに繋がれております…………いずれ長男と交わる女系の血など…………」
 そして程なく、その使者は女の赤ん坊を連れてきた。
 禹妃(うひ)はこの時、初めて利平治(りへいじ)の記憶を操作する。
 これにより、無事に二人の間で〝仕来(しき)たり〟が守られた。
 しかし、長男は七才で病を患い、あっという間に命を落とした。
「どうすれば…………これでは代々紡がれてきた〝仕来(しき)たり〟が我らの代で途絶えてしまう…………」
 利平治(りへいじ)は長男の亡骸を見下ろしながらそう言って声を震わせた。
 しかし総てを知る禹妃(うひ)はこう思っていた。

 ──……我が子の命より…………〝仕来(しき)たり〟…………

 ──…………私たちは…………何の為に生きているの…………?

「長女はすでにいるではありませんか…………血筋はすでに繋がれております…………いずれ長女と交わる男系の血など…………」
 清国会(しんこくかい)の使者は、前回と同じように言うだけ。

 ──…………何かがおかしい…………何かが間違っている…………

 やがて男の子が連れてこられた。
 到着早々に、禹妃(うひ)は男の子の記憶を操作する。
 続けて利平治(りへいじ)の記憶を操作し、禹妃(うひ)は長女の記憶も操作した。長女はまだ幼かったが、何かのきっかけで深層心理を思い出しかねないと判断したからだ。
 受け入れるしかない現実。
 他に選択肢の無い現実。
 知らないままのほうが幸せだと、禹妃(うひ)は思った。
 そして、自分にも〝呪い〟をかけた。
 覚えていたくなどない。
 忘れてしまいたかった。

 ──……これ以上……苦しむのは…………いや………………

 しかし、どこかに、迷いがあったのかもしれない。

 ──…………誰か……………………

 ──……助けて…………終わらせて………………





「どうしようもなかったんだよね……だからお母さんを責めないであげて…………その想いに応えたのが御世(みよ)音水(ねすい)…………誰かが心配してくれてるなんて…………想像もしなかったでしょ?」
 萌江(もえ)のその声が空気に響くと、ゆっくりと周囲が明るくなった。
 そして萌江(もえ)の言葉が続く。
水乃蛇(みずのへび)神社もここも…………関係のない子供を誘拐してきてまで〝仕来(しき)たり〟を続けようとしてきた…………そのシステムを支えてきたのが清国会(しんこくかい)…………〝負の念〟が作り出す〝鬼〟が欲しかっただけ…………」
 いつの間にか、結妃(ゆいひ)の体が小刻みに震える。
 咲恵(さきえ)結妃(ゆいひ)の頭の上から右手を降ろすと、膝を落としながらその手を結妃(ゆいひ)の肩に添えて口を開いた。
「……あなたは鬼郷(おにさと)家に縛られなくていい…………何の責任もない…………あなたは何も悪くないの…………」
 結妃(ゆいひ)の涙が、巫女(みこ)服の膝を濡らしていった。
 参道では萌江(もえ)に真実を見せられた佐平治(さへいじ)が、座り込んだまま呆然と視線を落としていた。
 その前で、(しずく)に寄り添って片膝を落としていた西沙(せいさ)が立ち上がる。
 黙って立ち尽くしていた陽麻(ひま)と対峙する。
 陽麻(ひま)は視線を落としたまま、唇を噛み締めていた。その伏せた表情からは明らかに悔しさが見てとれる。
 西沙(せいさ)が口を開いた。
「元清国会(しんこくかい)の人間として…………私は絶対に清国会(しんこくかい)を許さない…………」
 そして鋭い目線を陽麻(ひま)に向ける。
 西沙(せいさ)の左足が一歩前へ。
 右足が動いた時、
 突如、西沙(せいさ)の視界が遮られた。

 白と朱色(しゅいろ)巫女(みこ)服────。

 節目がちの顔に、長い黒髪────。

 若い────。

 そして、最初に口を開いたのは西沙(せいさ)
「…………何よ…………邪魔する理由はないでしょ?」
 その西沙(せいさ)の後ろから気の抜けたような萌江(もえ)の声。
「あらあら…………珍しいじゃない…………人見知りの〝音水(ねすい)〟ちゃん」
 さらにその後ろの本殿から咲恵(さきえ)の明るい声。
「邪魔する理由があるみたいよ」
 しかし西沙(せいさ)の表情は硬いまま。
 その西沙(せいさ)の目の前の音水(ねすい)の顔が少しだけ上がる。
 西沙(せいさ)が口を開いた。
「……あなたの気持ちが間違ってるとは言わない…………でも…………」
 そして、音水(ねすい)の声が空気を震わせる。
「……貴女(あなた)様は自らの御家族をも敵に回しました…………それが如何程(いかほど)の御気持ちのものか、私たちにとっては真摯(しんし)に値するもの…………だからこそ、その貴女(あなた)様ならお分かりのはず…………嫌悪すべきは陽麻(ひま)殿ではありません。清国会(しんこくかい)そのもの…………その為ならば、私は総ての力を惜しむつもりは御座いません…………貴女(あなた)様は私たちを受け入れてくれました…………その御恩は必ず返さねばなりません」
 そう言った音水(ねすい)は表情をまるで変えなかった。
 そして、それは西沙(せいさ)も同じ。西沙(せいさ)にも音水(ねすい)の言うことは理解出来た。陽麻(ひま)に感情をぶつけたところで何も解決はしない。中に存在するはずの御世(みよ)は西沙を止めなかった。それはつまり、音水(ねすい)に任せたということ。西沙(せいさ)はそう思った。

 ──…………信じていいんだね………………

「まったく…………私を依代(よりしろ)にしておいてよく言うよね…………」
 西沙(せいさ)はそう言うと音水(ねすい)のすぐ目の前まで。
 音水(ねすい)はそれに応えるように顔を上げ、西沙(せいさ)の目を見ながら口を開く。
「……皆様が求めているのは…………清国会(しんこくかい)の崩壊ではないはず…………救いたいはず…………さすれば、貴女(あなた)様の望みも叶えられます…………」
 その音水(ねすい)の声に、西沙(せいさ)は何にも妨げられていない〝純粋な目〟を向け続けた。
 そして、小さく。

「任せた」

 途端に、音水(ねすい)西沙(せいさ)に背中を向ける。
 視界に入った陽麻(ひま)に右腕を伸ばし、(てのひら)を向けた。
 まるで弾かれたように体を浮かせた陽麻(ひま)は、突然のことに目を見開くが、次の瞬間にはその体は(きり)のように消えていく。

「あれ? 陽麻(ひま)って幻だった?」
 それは萌江(もえ)の声だった。
 それに応えるのは冷静な西沙(せいさ)の声。
「まさか……物理攻撃しか出来ない陽麻(ひま)に幻はないよ…………不思議なものを見せられただけ…………そんなこともあるよ」
 すると、まるでその西沙(せいさ)に応えるように音水(ねすい)が振り返る。

 柔らかい笑顔を向けた。
 そして、ゆっくりと消えていく。

 その向こうに、階段を登る足音。
 すぐに鳥居の下に姿を現したのは杏奈(あんな)だった。
「集めてきましたよ! やっぱり階段にありました!」
 そう声を上げた杏奈(あんな)が左手に持ったレジ袋を高く掲げる。
 陽麻(ひま)の動きを察知した時点で、あちこちに〝何か〟を仕掛ける可能性を全員が感じていた。杏奈(あんな)にその発見と回収が託されていた。
 本殿の中から、立ち上がった咲恵(さきえ)の声が飛ぶ。
「ありがとう杏奈(あんな)ちゃん。やっぱり火薬系?」
「たぶん」
「いいわ。その辺に置いといて」
 そして、未だ座り込んだままの(しずく)の前で、西沙(せいさ)が膝を落としていた。
(しずく)さん…………あなたにも協力してもらいたいの…………」
 それに、(しずく)は俯いたまま反射的に返す。
「……しかし…………」
 そこに聞こえるのは、咲恵(さきえ)の声。
「一度清国会(しんこくかい)を裏切れば内閣府にもいられない…………それでも、あなたたち親子の身は、私たち〝蛇の会〟が保証します」
 それに萌江(もえ)が続ける。
「私たちには、私たちなりの身の守り方があってね。あなたの仕事はこの神社を真っ当な神社に立て直すこと。そうすれば…………鬼郷(おにさと)家は私たちを守ってくれる存在になる。そして、あなたの娘さんの力は強すぎる…………あなた以上なのはもう気が付いてるんでしょ?」
 そして、(しずく)の耳元で西沙(せいさ)(ささや)いた。
「……普通の人生は歩めない…………」
 それは西沙(せいさ)もよく分かっていた。
 今から救えるなら、そのほうがいいと思った。

 ──……私みたいに苦しむ必要はない…………

 萌江(もえ)の声が続く。
「私たちは普通に暮らせなかった。だからって…………それは同じ人間を増やす理由にはならないよ…………(しいた)げられない人生を求めることは、罪じゃない」
 (しずく)(まぶた)を腫らした顔を上げた。
 再び萌江(もえ)の口が開く。
(しずく)さんもね。もう娘さんのことはさっきの音水(ねすい)ちゃんが守ってる。あの子は強力…………これから清国会(しんこくかい)だけじゃなくて内閣府からも娘さんは守られる。だから安心して」
 そこに再び足音。
 同時に荒い息遣い。
 そして姿を現したのは────肩で息をする満田(みつた)だった。
「年寄りにこの階段はキツいぜ」
 その満田(みつた)に返すのは明るい声の萌江(もえ)
「みっちゃんごめんね。大事な顔合わせだから勘弁してよ」
「……仕方ねえ…………俺はお前らを信じるしかねえよ。それこそ頼むぜ」
 満田(みつた)は昨夜の内に連絡を受け、その上で萌江(もえ)たちを信じた。疑う理由は何もない。
 その満田(みつた)は何かの覚悟を改めて確認するかのように続ける。
「…………これからなんだろ?」
「うん…………これから…………」
 そう返した萌江(もえ)の声は、どこか寂しげ。
 そこに咲恵(さきえ)(りん)とした声を上げた。
「みんな、本殿へ」
 しかし、次に声を上げたのは(しずく)だった。
「────私は……どうすれば…………」
 応えたのは冷静な咲恵(さきえ)の声。
「これから説明します。後は…………あなたが信じるだけ…………」
 その(しずく)西沙(せいさ)が立たせると、次に聞こえるのは萌江(もえ)の声。
「さて」
 萌江(もえ)項垂(うなだ)れたままの佐平治(さへいじ)の前に移動すると、膝を落として続ける。
「私は99.9%宗教なんて信じない。所詮は人が作ったものだから…………それでも、ここを立て直して。それがあなたと結妃(ゆいひ)さんの使命…………清国会(しんこくかい)に利用された分の人生を取り返すの…………お願い……協力して…………あなたを操っていた黒い影も、もういないよ」
「……協力…………?」
 佐平治(さへいじ)はまるで呟くようにそう言うと、僅かに顔を上げた。
 萌江(もえ)はゆっくりと返していく。
「ここを〝蛇の会〟の拠点にしたい。詳しくはこれから説明する」
 萌江(もえ)はそれだけ言うと、本殿へ。
 その本殿で、咲恵(さきえ)結妃(ゆいひ)(ささや)いていた。
「……もう自由…………あなたたちを(しいた)げる者はもういない…………」
 それに返す結妃(ゆいひ)の声が震える。
「……どうして…………私たちのためにこんな…………」
「私たちの中の……〝夜叉(やしゃ)〟がね…………(ささや)くの…………ただ、私たちが身の安全を保証する分、協力してほしいだけ」
 清国会(しんこくかい)に背を向けることがどういうことかは、結妃(ゆいひ)も分かっていた。
 今までの〝強気な態度〟は不安の表れでしかないことも自覚していた。
 ずっと〝仕来(しき)たり〟に縛られてきた。そうするしかないと思い込んできた。鎖を断ち切ることが出来ないままに、見えない何かに縋り続けてきた。
 西沙(せいさ)(しずく)を促しながら本殿へ。
 萌江(もえ)杏奈(あんな)満田(みつた)も続く。
 すると、その横を、突然立ち上がった結妃(ゆいひ)が擦り抜けていく。
 それを全員の視線が追いかけた。
 結妃(ゆいひ)は本殿から参道への数段の階段を駆け降りると、真っ直ぐ佐平治(さへいじ)の前へ。
 膝を落とし、その手を取った。
 顔を上げる佐平治(さへいじ)に、結妃(ゆいひ)ははにかんだような笑顔を向けながら、目には涙を浮かべる。
「…………信じましょう…………やり直せます…………」
 佐平治(さへいじ)は、ただ、大きく頷いた。




        「かなざくらの古屋敷」
      〜 第十九部「夜叉の囁き」終 〜
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