第一部「妖艶の宴」第3話(第一部最終話)

文字数 12,731文字

 萌江(もえ)は養護施設で育った。
 物心がついた頃には、すでに両親はいない。
 しかも、誰もそのことを説明しようとはしないし、そもそも萌江(もえ)自身が覚えているはずもない。そこで生活することが当たり前。施設しか知らない。
 そして五才の萌江(もえ)を養子としたのは、恵元誠一(えもとせいいち)美幸(みゆき)の夫婦だった。二人は子宝に恵まれないまま三年間不妊治療を続けたが、経済的に厳しくなったことで諦めていた。養子を求めて調べ、やがて萌江(もえ)のいる養護施設に辿り着いた。
 二人は一目見て萌江(もえ)を気に入った。
 暗い過去を感じさせない明るさとその笑顔に、二人には萌江(もえ)しか見えなくなっていた。数回の面接を経て正式に手続きを済ませ、萌江(もえ)恵元(えもと)家の家族となる。
 二人が真剣に考えた結果だった。
 環境の変化に最初は戸惑いを見せていた萌江(もえ)も、自然と二人を受け入れていった。
 来年には小学校に通う歳。二人ともその準備が楽しくて仕方がない。
 萌江(もえ)のために時間を使った。
 萌江(もえ)のためにお金を使った。
 萌江(もえ)のために働いた。
 萌江(もえ)のために二人は生きていた。
 二人の間で、萌江(もえ)を中心に生活が回っていた。
 小学校に通い始めた萌江(もえ)は、成績も決して悪くはない。
 友達も出来た。
 萌江(もえ)の毎日の笑顔から、イジメとも無縁に見える。
 小学校二年の夏。
 夏休みがもうすぐ始まろうかという頃だった。
「ただいまー!」
 いつもの萌江(もえ)の元気な声に、美幸(みゆき)は台所で自然と笑顔になる。
 今日も無事に帰ってきてくれた安堵感で玄関に出てみると、すぐに萌江(もえ)が飛びついてきた。
「友達連れてきたよ、お母さん」
「友達?」
「うん。ゆずちゃん」
「ゆずちゃん?」

 ──……どこ?

「ドールハウス見せる約束したんだ。いい?」
「ん……うん。いいよ…………でも……」
「入っていいって、ゆずちゃん」
 萌江(もえ)が振り返った先で、玄関の扉がゆっくりと、静かに閉じた。

 ──…………え?

「じゃ、部屋に行くね」
 萌江(もえ)は階段を登りかけて続ける。
「お母さん、わたしオレンジジュース! ゆずちゃんは?」
 背後に語りかけている。
「ゆずちゃんもオレンジジュースでいいって! いこ!」
 萌江(もえ)は階段を駆け上がる。
 美幸(みゆき)は呆然とその姿を追っていた。
 二階からドアを開ける音。続く萌江(もえ)の声。
「どうぞ」

 ──…………なに……?

「イマジナリーフレンドってやつじゃないのかな?」
 萌江(もえ)が眠りについてから、夜とは言ってもまだ一〇時くらいだろうか。
 リビングのソファーで食後のウィスキーを飲んでいる誠一(せいいち)が、美幸(みゆき)からの話を聞いてそれに応えていた。
「最近聞くようになった言葉だから俺もそんなに詳しくないけど、子供は空想上の友達を作るらしいんだ」
「でも…………」
 隣で湯気の上がる紅茶のマグカップを口に運びながら、そう言った美幸(みゆき)が続けた。
萌江(もえ)は友達だってたくさんいるし……何もそんなもの必要ないでしょ」
「どういう理由で友達を想像するのか……そこまでは分からないからなあ」
「なんだか……幽霊でも見てるんじゃないかと思って…………」
「まさか」
 そう言って誠一(せいいち)は軽く笑った。
「ホントだってば……結構怖かったんだよ。子供の頃って見やすいって言うし……一応オレンジジュースは二つ持ってったけど…………」
「二つとも飲んでた?」
「うん…………だから益々怖くて」
萌江(もえ)がどっちも飲んだだけだよ。帰りはどうだった?」
「帰り?」
「うん。まさか幽霊が律儀にドア開けて帰ったとも思えないし」
「お見送りまではしなかったけど…………萌江(もえ)が〝またね〟って言って…………ドアの音がした…………」
「まさか」
「聞いた。私、聞いてる…………」
萌江(もえ)が開けたんじゃないのか?」
「ああ…………そっか」
「考えすぎちゃダメだよ。あんまり頻繁にその〝ゆずちゃん〟が来るなら、萌江(もえ)にどこの子なのか聞いてみたらいいよ」
「うん…………そうだね…………」
 翌日、萌江(もえ)は再び〝ゆずちゃん〟を連れてきた。
 その翌日も。
 そして美幸(みゆき)萌江(もえ)に質問する。
萌江(もえ)ちゃん、ゆずちゃんって……お家どこなのかな…………お母さんもご挨拶に行きたいから…………」
 すると萌江(もえ)はすぐに応えた。
「あ、そうだよね。ごめんなさい。聞いてみるね」
 萌江(もえ)はいつものように背後に振り返る。
「ゆずちゃんのお家ってどこなの? …………そうなんだ…………そっか…………」
 そして萌江(もえ)美幸(みゆき)に顔を戻して続ける。
「ゆずちゃんってね、お家に帰れなくなっちゃったんだって。今はちがうお家みたい」
「そ……そう…………あ、ごめんね……上がってもらって」

 ──……どういうこと?

 次の日曜日、三人は駅のホームにいた。
 夏休みに入って、ゆずちゃんも数日来ていない。
 今日はお盆休み三日目。誠一(せいいち)の実家に向かう新幹線に乗るため、まずはローカル線で大きな駅に向かうため。ローカル線の駅のホームと言っても季節柄、利用客は多い。
 誠一(せいいち)美幸(みゆき)も他の帰省客の例に漏れず、滅多に使うことのないボストンバッグを持ち、萌江(もえ)は体のサイズに不釣り合いな大き目のリュックを背負い、夏の暑さに立っているだけで疲労が溢れる。
 毎年の事と諦める誠一(せいいち)の前で、萌江(もえ)だけは元気だった。小さな手で大きなペットボトルを持ち、汗を首筋に滲ませながらジュースを飲む姿も、やはり二人には微笑ましい。
 その度に二人は、萌江(もえ)のいる幸せを感じていた。
 ホームにアナウンスが流れる。
 すると美幸(みゆき)は、膝を曲げて萌江(もえ)に顔を向けた。
「もうすぐ電車来るから前に出ちゃだめよ。危ないからね」
「うん!」
 そう応えた萌江(もえ)は、突然ホームの端に目をやっていた。
 そして口を開いた。
「だめだよ。前に出たらあぶないよ。…………──だめ‼︎」

 ──…………え?

 美幸(みゆき)がそう思って目を向けるが、誰も線をはみ出している人影は見えない。しかも帰省客でごった返すホーム。遠くなど見えるはずもない。
 誠一(せいいち)も、何気に首を伸ばして視線を配っていた。
 数十秒後、三人の目の前に電車がやってくる寸前。
 人影が線路に向けて浮かんでいた。
 反射的に美幸(みゆき)萌江(もえ)の体を包む。その二人の体を誠一(せいいち)が包む。
 同時に聞こえる悲鳴。
 パニックが起きた。

 ──……大丈夫…………萌江(もえ)には見えてない…………

 震えながらそう思った美幸(みゆき)の体を包む誠一(せいいち)も、同じことを思っていた。
 しかし、萌江(もえ)には見えていた。
 誰よりも早く。
 人影が浮くより早く。

 ──…………まさか…………見えてたの…………?

 美幸(みゆき)のその考えが頭から離れないまま、帰省は急遽キャンセルされた。
 体を震わせながら落ち着かない萌江(もえ)を落ち着かせるために、二人は同じ布団で萌江(もえ)の体をさすり続けた。美幸(みゆき)は恐怖で込み上げてくるものを懸命に抑えていた。
 それから数時間、二人にはかなり長く感じたが、疲れ果てたのか萌江(もえ)はやっと眠りにつく。
 リビングの時計を見ると夜の九時を回っていた。改めて誠一(せいいち)は実家に電話をして事情を説明する。
 急にやってきた疲れに、誠一(せいいち)はソファーに体を沈めていた。
 そこに美幸(みゆき)がやってくる。
「もう大丈夫だと思う…………寝息が聞こえたから…………」
「ごめん……疲れたよね。実家からも萌江(もえ)のことを心配されたよ…………何か飲む?」
 誠一(せいいち)は立ち上がると冷蔵庫に向かう。
 そこに美幸(みゆき)の声。
「神社でいいのかな…………」
「え?」
 冷蔵庫の取っ手に指をかけたまま、誠一(せいいち)美幸(みゆき)に顔を向ける。
 美幸(みゆき)が続けた。
「お寺? 分かんないよ…………どこに連れて行けばいいの⁉︎」
「落ち着こう美幸(みゆき)
 誠一(せいいち)美幸(みゆき)の肩に手を回し、その体を抱き寄せていた。その腕の中で、美幸(みゆき)の震える声が続いた。
「あの子…………おかしいよ…………普通じゃないよ……私たちより早くあの子は見てた…………」
「そんなことないよ……萌江(もえ)は────」
「最近変なこと言い出すの…………遠くを見るような目で…………

…………

…………

…………って…………怖いよ…………」
 翌日から、二人は神社やお寺でお祓いをしてくれる所を調べ始めた。幸いにもお盆休みはまだある。
 萌江(もえ)もまるで何事もなかったかのように元気になっていたが、駅の一件以来、なぜか深夜の夢遊病のような徘徊が続いた。もちろん家の施錠はしていたが、二人の睡眠時間は日に日にすり減っていった。
 やっと見付けた神社で説明をし、お(はら)いをお願いした。
 それでも何も変わらない。
 見えない友達と会話をし、不思議な言動を繰り返し、深夜に家中を徘徊する。玄関や窓の鍵を開けて外に出ようとし始めたため、二人は交代で見張るしかなかった。
 休日の度に神社やお寺を回る。
 遠くても足を運んだ。
 蛇が()いていると言われた。
 餓鬼(がき)()いていると言われた。
 落武者が()いていると言われた。
 お(はら)いと交通費と宿泊代。
 生活は困窮(こんきゅう)し始めた。
 平日の日中は家には美幸(みゆき)だけ。
 おかしな言動で学校で騒ぎになったこともあった。汚い言葉でクラスメートを(ののし)り始めたという。しかも一度ではない。その度に美幸(みゆき)が学校に呼び出される。
 とても萌江(もえ)の声には聞こえなかったと学校の先生から聞かされ、いつの間にか美幸(みゆき)萌江(もえ)に恐怖を感じ始めた。
 美幸(みゆき)が気が付いた時には、萌江(もえ)から笑顔が消えていた。
 目付きまでも鋭く見えた。
 学校でも孤立し、激しいイジメが始まる。
 それでも小学校を卒業したが、中学校に通うようになっても状況は変わらない。相変わらずの神社通い。
 そのまま三年。イジメが続く。
 高校は少し離れた所を選んだ。
 少しは落ち着いたかに見えた。
 萌江(もえ)も新しいクラスメートの中でイジメから解放され、少しずつ笑顔も戻る。
 そんな頃、買い物から帰った美幸(みゆき)の目に飛び込んできたのは、トイレの扉の前で立ち尽くす萌江(もえ)の姿だった。
「どうしたの? 萌江(もえ)ちゃ────」
 美幸(みゆき)は言葉を飲み込んでいた。
 萌江(もえ)はトイレの扉に向かってブツブツと何かを喋っている。
 震える足のまま近付いた美幸(みゆき)の耳に、しだいにその声が響いてきた。
「うん…………そう…………そうだよ…………ああ、そうなんだ…………大変だよね…………私が何かしてあげられたらいいんだけど…………ごめんね…………


 美幸(みゆき)は叫んでいた。
 萌江(もえ)の体を抱きしめる。いつの間にか声を上げて泣き叫んでいた。
 萌江(もえ)の体は冷たかった。
 それでも、なんとか無事に高校を卒業する。恐怖に震えることは何度かあったが、その頻度は確実に減っていた。
 決して多くはなかったが、萌江(もえ)にも友達はいた。少しずつ日常と呼べる日が増えていく。
 それでも神社通いは定期的に行われた。
 しかしその度に家計は擦り減っていく。
 それでも二人は萌江(もえ)に大学を勧めた。学費は大変だったが、萌江(もえ)に真っ当な学生生活を送って欲しかった。その時間を楽しんで欲しかった。
 唯一合格できたのは他県の大学。家から離れて一人暮らし。二人にも不安はあったが、環境の変化も必要かもしれないと判断する。
 もしかしたら、二人も少し解放されたかったのかもしれない。
 そして大学二年。
 無事に成人式を終え、萌江(もえ)も二〇才になっていた。
 そんなある日、誠一(せいいち)の実家から萌江(もえ)の携帯に連絡が入る。
 それは、誠一(せいいち)美幸(みゆき)の自殺を知らせる電話だった。





「それで、萌江(もえ)さんを置いて帰ってきたんですか?」
 開店前。
 カウンターに座った咲恵(さきえ)に、由紀(ゆき)はそう言って食いついていた。
 辿々しく咲恵(さきえ)が返す。
「う、うん…………まあ」
「店は私以外にもいます。今すぐ萌江(もえ)さんの所に戻ってください。水曜日です。それほど忙しくはなりません」
「いや…………でも由紀(ゆき)ちゃん」
咲恵(さきえ)さんが行かないなら私が行きます。住所を教えてください」
 そう言って(てのひら)を差し出す由紀(ゆき)を前に、立ち上がった咲恵(さきえ)が応える。
「分かった。ごめん。行ってくる」

 ──…………

…………
 ──……ごめん、萌江(もえ)…………もう逃げないって決めたのに…………





「お願いです…………その人形に触ることは…………固く止められています…………」
 山道を和服のまま走ってきたのか、息を切らせた裕子(ゆうこ)は畳に完全に座り込んでいた。
 その裕子(ゆうこ)に体を向けると、萌江(もえ)は口を開く。
「イトさんの指示?」
「…………はい」
「誰かが着けてきてるのは気付いてた。私の後でこの別邸に入ってきたこともね。使用人にやらせずにわざわざ裕子(ゆうこ)さんが来たってことは、よほどこの人形を見られたくなかったってこと?」
「〝呪われた人形〟です…………触ると気が触れて…………やがて死んでしまうと…………」
「笑わせないで。この人形は呪われてなんかいない。呪われてるのは…………」
 萌江(もえ)裕子(ゆうこ)に背中を向けると、仏壇の扉に手をかけ、続ける。
「…………

だ…………」
 そして小さく呟く。
「ごめんね」
 萌江(もえ)は仏壇の扉を閉め、両手で持ち上げた。
 決して大きな物ではない。小ぶりなサイズだ。それでも重さはそれなりにある。
「結構重いね」
「ま、待って下さい! なんてことを…………」
「この家の人に言われたくない…………でも……裕子(ゆうこ)さんの動揺はそれだけじゃなさそうね…………浩一(こういち)さんが

って……あなたもさっき知ったんでしょ? こっそり聞いてたみたいだけど、感じた…………」
 裕子(ゆうこ)は目を伏せる。
 その動揺は隠せていなかった。
「はっきりさせなきゃいけないことが……まだまだある…………さ、行くよ」
 萌江(もえ)は仏壇を両手で抱えた。すると、その裏にあったのか何かが落ちる。
 それは青いゴム手袋。しかも半分以上が裏返しにされたまま。
 それを見た裕子(ゆうこ)が驚いた表情になったのを、萌江(もえ)は見逃さなかった。

 ──……なるほどね…………

 萌江(もえ)裕子(ゆうこ)を無視し、そのまま部屋を出た。
 後ろをついてくるだけの裕子(ゆうこ)には構わず、萌江(もえ)は仏壇に語りかけていた。

…………

…………

…………」
 やがて、本邸に戻った萌江(もえ)は、仏壇を見て(おそ)(おのの)く使用人には構わず、昼間にイトから話を聞いていた和室へ。
 数名の使用人が萌江(もえ)の奇行に後を付けるしかなかった。
 萌江(もえ)が音を立てて(ふすま)を開ける。
 イトはまるで萌江(もえ)が戻ることを察していたかのように、未だそこに座っていた。
 あたふたと慌てる背後の使用人を無視し、萌江(もえ)はイトの目の前へ足音を響かせる。
 そしてイトの目の前に仏壇を立てて置くと、迷わず口を開いた。
華平太(かへいた)が買った人形ね。

ってどういうこと?」
 イトが小さく呟く。
「…………おやおや…………これはこれは…………」
 僅かに気持ちの揺らぎはあった。
 それは萌江(もえ)も感じた。
 しかし同時に、どこか諦めのような印象を感じたのも事実。

 ──…………崩す……繋げてみせる…………

 そう思った萌江(もえ)が叫んでいた。
「────〝ユズ〟はどこ⁉︎ どこなの⁉︎ 教えなさい‼︎」
 その声に、まるで時間が止まったような空気が流れた。
 張り詰める。
 それをイトが崩す。
「…………その名前…………どちらで…………」
「ここまで知られたくはなかった? 舐めないでよ。私は99.9%幽霊も呪いも信じてはいない────だからこそ辿り着ける答えがあるんだ!」
 そして、イトはゆっくりと語り出した。
「……この人形を買ったのは……確かに五代目の華平太(かへいた)…………そして、骨董屋(こっとうや)にお金を積んでまで売り付けたのは…………遊女(ゆうじょ)だったウタの姉…………カヤです」
「……姉…………」
「警察にも裏切られ、妹の恨みを晴らすためには呪い殺すしかないと思ったのでしょう…………」
「これを呪いの人形にしたのは、あんたたちでしょ…………」
 しだいに小さくなった萌江(もえ)の声に、応えるイトの言葉は、もはや力強い。
「いかにも…………この人形に込められたものは呪いではありません…………アヘンです」
「だからゴム手袋…………」
「あの時代、どんなに法律で禁止されていても、アヘンを手に入れることは難しくはなかったと聞いております…………そういう時代だったのでしょう…………人形の着物に染み込んだアヘンは華平太(かへいた)の気を狂わせて殺し────重蔵(じゅうぞう)の気を狂わせて殺し…………しかし多一郎(たいちろう)は当主を継いだ…………だから私が嫁いだのです…………

…………」
 凄みすら感じさせるイトの声が、少し間を空けて続く。
「……私は、カヤの孫…………」
 そのイトの背後から、鳴き声。
 (ふすま)に寄りかかる裕子(ゆうこ)が泣き崩れていた。
 イトの言葉が続く。
「アヘンと言えども風化いたします…………効力が弱まっていると判断した私は、人形の着物の端を小さく切って煎じました…………それを事あるごとに滋養に良いからとお茶に混ぜました。二人の娘を(あや)めたのも私です。呪いを作り出して、多一郎(たいちろう)(あざむ)いてやりました」
「……自分の…………娘まで…………」
 萌江(もえ)は左手の水晶を握りしめていた。水晶は依然熱いまま。火傷でもしそうな温度だ。
「着物を切る時に、私はあるものを見つけてしまったのですよ…………」
 イトはそう言うと、仏壇の扉を開けた。
 そして、そのまま手を伸ばす。
「お母様!」
 背後からの裕子(ゆうこ)の声も虚しく、イトは人形を取り出した。
 両腕で抱き締めると、まるで自分の子供を()でるかのように髪を撫でる。
 そして(そで)の所を小さく(まく)って見せた。
 そこには手書きの文字。

   『 明治四十四年七月三日 誕 ユズ  カヤ 』

「この人形の着物は…………私の祖母のカヤが、ユズの三才の誕生日に送ろうと思っていた着物…………」
「…………ユズって…………」

 ──……まさか…………

遊女(ゆうじょ)…………ウタの娘…………」
「…………娘…………」
 呟くように言葉を発した萌江(もえ)は、いつの間にか座り込んでいた。
「ウタと共に重蔵(じゅうぞう)に誘拐されました……定期的な病院への検診に行く時に誘拐されたと思われます……おそらくはすぐに亡くなったのでしょう…………確かではございませんが、その時期は三才の誕生日よりも前…………二才で亡くなったと思われます…………この着物には、カヤだけでなく、ウタとユズの恨みも込められていたのでしょうな」
「…………この家は…………腐ってる…………」
 萌江(もえ)のその声は、僅かに震えていた。

 ──…………ゆず………………

「確かに…………多一郎(たいちろう)が死んで、田上(たうえ)家の血筋は絶えました…………私たちの復讐は終わったのです。それなのに……どういうことか…………養子である浩一(こういち)さんの娘までも二才でなくなり、浩一(こういち)さんもあの通り…………この人形も、裕子(ゆうこ)さんに掃除してもらう時以外は封印していたのですけれど…………自分の娘まで(あや)めた、罰ですかな…………」
「お母様…………」
 裕子(ゆうこ)の静かな声が続いた。
「……私です…………私が浩一(こういち)さんと娘に…………着物を煎じて飲ませました…………浩一(こういち)さんは血が繋がっているとばかり…………」
 イトの妖艶(ようえん)な目が、ゆっくりと見開かれていく。
 何かを言いかけたのか、その小さな唇が僅かに動いた。
 しかし返すのは、呟くような萌江(もえ)の声。
「…………あなた…………誰なの?」
 その萌江(もえ)の問いに、裕子(ゆうこ)がゆっくりと返していく。
「…………重蔵(じゅうぞう)の妻に殺された…………(めかけ)の孫です…………」
 萌江(もえ)は何も返せなかった。
 震えた声の裕子(ゆうこ)が続ける。
「お母様が、呪いだからお(はら)いがしたいと申された時、私は適当にお(はら)いをするだけの人を見つけようと思っていました…………まさか…………こうなると分かっていたら…………」
 すると萌江(もえ)が立ち上がる。
 そして口を開いた。
裕子(ゆうこ)さん……使用人を何人か集めて。それとスコップも。この人形を仏壇ごと埋めに行く」
「埋めるって…………どちらに…………」
「別邸────イトさん、ユズはどこに埋まってるの?」
 萌江(もえ)がイトに顔を振ると、イトは動揺を隠せない表情のまま応える。
「……分かりません…………ウタは蔵の裏の(ほこら)の隣に…………おそらく、その近くかと…………あそこはこの家の敷地…………誰にも見付かりません…………」
「分かった…………私が探す」
 萌江(もえ)は仏壇を持ち上げた。





 萌江(もえ)は義理の両親の自殺をきっかけにして、大学を中退する。
 義理の両親は、山の中の高い橋から飛び降りていた。
 実家は義父と義母の実家がそれぞれ協力して売却していた。自殺は家の中ではなかったのでそれなりの金額で売れたようだった。そして養子である萌江(もえ)にもそれは少しだけだが振り分けられた。
 仕事を見付けるのに時間がかかっていた萌江(もえ)にとってはありがたいものではあったが、やはり気持ちは複雑だった。葬式に帰った時で、あの街に行くのは最後だろうとも思った。
 やっと見つけたのは居酒屋での厨房の仕事。時給は決して高くなかったが、ホールスタッフよりも働ける時間が長いことを理由に厨房を選んだ。元々サバサバとした男勝りな性格だったせいか、職人の世界は馬が合った。
 しかし多くの会社がそうであったように、当時のいわゆる客商売の世界の労働環境は長時間労働が当たり前の世界。一二時間程度働き続けるのは当たり前の毎日。アパートで過ごす時間は多くなかった。
 休日は固定されていなかったが、大体週に二日は取れていた。
 一日中家で過ごす日もあれば、逆に外を歩き回ることもある。
 中途半端に大学生活を終わらせてしまったせいか、友達はいなかった。それでもそれほど寂しいと思ったことはない。一人のほうが楽だと思うようになっていた。むしろ人と関わることを避けていたようなところがある。
 職場の従業員とも職場だけの付き合い。店の外で会うことはなかった。従業員同士での飲み会なども、いつも適当にはぐらかす。自然と誘われることも少なくなるが、萌江(もえ)にはそのほうが良かった。

 その日も特別目的を決めていたわけではなかったが、街中をブラブラとして時間を潰していた。
 やがて、最近通うようになったアクセサリーショップが目に入った。
 それほど萌江(もえ)はアクセサリーを身につけるほうではない。身に付けるとしてもシンプルなネックレスくらい。ピアスの穴を開けようとした頃に居酒屋のアルバイトが見付かったので、結局開けていない。厨房で禁止されている指輪も元々興味はなかった。
 そういう萌江(もえ)からしても、シンプルなデザインのアクセサリーを置いているそのショップは珍しくお気に入りだった。

 ──寄ってこうかな…………

 そんなことを思っていた時だった。
 ショップのガラスの向こう──店内に幼い女の子が見えた。
 しかも見覚えがある。

 ──……どこかで会った…………?

 しかもその女の子は、萌江(もえ)を見つめていた。

 ──……ゆず…………ちゃん…………?

 いつの間にか、萌江(もえ)はショップの扉を開いていた。
 そのまま店内に視線を配る。
 しかし誰もいない。小さな店内。全体はすぐに見渡せる。
 やがて、店の女店主が声をかけてきた。
「いらっしゃい…………お久しぶりね。どうしたの? 不思議そうな顔して」
 まだ二〇代とは思われたが、萌江(もえ)ほど若くはない。店主が一人で回している小さなショップだった。
「今、女の子いなかった?」
「やめてよ、事故物件じゃないんだから…………しばらく誰も来てないよ。暇だから何か買ってってよ」

 ──……やっぱり…………

…………?

「久しぶりに……そうだね…………」
 萌江(もえ)はそう言いながらも、さっき女の子が立っていた場所に目が行ってしまう。
 そして、一つのアクセサリーが目に入った。
 それは小さな水晶。透明ではあるが、僅かに黒い。暗い、という表現のほうが正しい印象だった。
 値札を見ると名前が書かれていた。
「〝火の玉〟?」
「ああ、それ? 珍しいでしょ? 純日本産。日本生まれの水晶なんだって」
 すると萌江(もえ)が声を張り上げる。
「五千五百円⁉︎ そんなにするの⁉︎」
「アクセサリーで出回るのは珍しい石なんだよ。しかも天然物でその値段は安いほうだよ。チェーンが千五百円で合わせて七千円でどう? 税込で」
「高い」
「まけないよ。気に入ったんでしょ」
「んー……ちょっとね」
「なんかそういうのってあるよね…………真面目な話、呼ばれたのかもよ」
「そんなものかねえ」
 その水晶を購入した翌週、そのショップはなぜか無くなっていた。





 別邸の裏、蔵の更に裏、そこは背の高い雑草に囲まれ、手入れがされていないのがすぐに分かった。
 萌江(もえ)は自ら草を掻き分けていく。随行してきた使用人も後に続く。
 そして(ほこら)はすぐに見付かった。小さな(ほこら)だった。長い間の雨風で、見るからに傷んでいた。板の表面はくすみ、歪み、今にも崩れそうなくらいだ。
 中には何も入っていなかった。
 途端に左手に電気が走った。

 ──水晶が反応してる…………ここなの…………?

「隣って…………」
 声を漏らし、萌江(もえ)は右を向く。
 そこには、大き目の石があった。周りの草を掻き分けると、僅かに土が盛り上がり、その上にいくつかの石。墓石の代わりだったのだろうか、どことなく立てていた石が倒れてしまったようにも見える。そのためか、石には(こけ)も付着し、年月を感じさせた。
 萌江(もえ)は何も言わなかったが、周りの使用人たちも理解したのだろう。無言で手を合わせ始めた。
 そして裕子(ゆうこ)の声。
「……ここが…………」
 萌江(もえ)が静かに応えていく。
「……うん…………ウタさんはここに眠ってる……総ての始まり…………でも殺された使用人はここじゃない…………もっと山の奥……近くには埋めたくなかったのね…………」
 すると裕子(ゆうこ)も手を合わせた。その体が震えているのが、萌江(もえ)には分かる。
 その萌江(もえ)が続けた。
「どうして墓石みたいにして置いたんだろうね…………分からないようにもっと山奥に埋めてもいいのに…………」
 そして、また水晶が反応する。
「そこ…………」
 萌江(もえ)は無意識のまま、ウタの墓の後ろを指差していた。
 そこには、まるで流木のような曲がりくねった古木が地面に突き立てられていた。
「最初に…………重蔵(じゅうぞう)がその木の下に…………

…………」
 そう語る萌江(もえ)の背後から、裕子(ゆうこ)嗚咽(おえつ)が聞こえた。
 萌江(もえ)の声が続く。
「ユズを埋めた重蔵(じゅうぞう)も…………分かるように目印みたいな木を立てて…………その隣にウタを埋めた華平太(かへいた)とヨシも…………墓石を置いて…………それも(ほこら)の隣…………」
 背後の裕子(ゆうこ)の声が、泣き叫ぶような声に変わっていた。
 構わずに続く萌江(もえ)の声。
「例え僅かでも…………仏心はあった…………どんなに許されないような人間でもね…………それだけは覚えておいて…………」
 周りの使用人たちが、なんの指示もないまま、スーツのまま、地面に膝をついて雑草を抜き始めた。そして、一人がスコップを持って萌江(もえ)に声をかける。
「こちらで……よろしいですか?」
 使用人は、古木の隣を指差していた。
 萌江(もえ)はゆっくりと頷いてから応えた。
「……お願いします……仏壇を…………横にして…………埋めてあげてください…………」
「かしこまりました」
 すると、今度は蔵のほうから別の使用人の声が響く。
「────奥様! 旦那(だんな)様が…………!」
 使用人が全員振り返る。
 裕子(ゆうこ)は座り込んだまま項垂(うなだ)れ、体は動かない。
 救急を呼べば、アヘンがバレるだろう。多一郎(たいちろう)の死までは家の権力で揉み消していたのかもしれないが、現在はその力は田上(たうえ)家にはない。
 萌江(もえ)(ほこら)に背を向けて歩き始める。
 座り込む裕子(ゆうこ)の前で膝を落とし、口を開きかけた時、先に聞こえたのは裕子(ゆうこ)の震えた声。
「…………ありがとうございました…………大変……お世話になりました…………」

 ──……そう…………そういうことね…………

 裕子(ゆうこ)は顔を上げなかった。
 萌江(もえ)は黙って立ち上がり、少し歩いたところで足を止めた。
 そして振り返り、小さく呟く。

「……遅くなっちゃったね…………お待たせ…………ゆず…………」

 本邸まで降りる。
 見慣れた車が見えた。
 そしてその横には見慣れた咲恵(さきえ)の姿。
 そして声。
萌江(もえ)!」
 途端に萌江(もえ)は笑顔で返していた。
「どうしたの? お店潰れちゃった?」
「心配して迎えに来たんでしょ⁉︎ どうなったの? さっき聞いたら裏山に行ったって聞いて…………これから追いかけるとこだったんだけど…………」
「うん…………もう解決したよ…………呪いは終わり」
「終わりって…………」
「車で説明するよ。帰ろ」
 すると、二人に一人の使用人が近付いてきた。
 そして、大きなジェラルミンケースを渡す。
 その使用人からは一言だけ。
「大奥様から……〝お気持ち〟……ということでした…………」
 萌江(もえ)は黙って受け取ると、助手席に乗り込んだ。
 咲恵(さきえ)も何も言わないまま車を走らせる。
 サイドミラーに、深々と頭を下げる使用人の姿が映っていた。





「その物語は……私も想像してなかったよ…………」
 運転しながらの咲恵(さきえ)の言葉に、助手席で膝の上にジェラルミンケースを乗せたままの萌江(もえ)がゆっくりと応えていた。
「うん。呪いじゃなかった…………言うならば、恨みの連鎖かな…………」
 萌江(もえ)はそう応えながら、窓の外に目をやる。まだ外には転々とした灯りしか見えていない。古くからの田舎の集落を抜けていない。

 ──……歴史は終わらない…………続いていくだけ…………ここにはまだ残ってる…………

 そんなことを思った萌江(もえ)に、咲恵(さきえ)が言葉を向ける。
「どうなるんだろうね…………あの家…………」
「……私たちの仕事はここまで…………あの人たちの人生は…………後は、あの人たちが決めるだけ…………」
「…………うん…………そうだね」
 不思議と、寂しさが募った。
 自分たちが立ち入ることの出来る限界を感じる。
 しかし、田上(たうえ)家が萌江(もえ)咲恵(さきえ)を守ったのも事実。
「一つだけ解決しなかったのは…………」
 そう言った萌江(もえ)が続ける。
「……事の発端になった重蔵(じゅうぞう)の娘も二才で死んでること…………華平太(かへいた)が人形を買う前…………そこだけ分からなかったのが、ちょっとね」
「ただの偶然かもしれないけど…………萌江(もえ)がいつも言ってるじゃない。不思議なことって────」
「────あるんだよ…………」
 はっきりと応えた萌江(もえ)が、声のトーンを落として続ける。
「…………やっぱり呪いなのかも」
「……不思議な経験だったね」
「…………うん…………そうだね」
 萌江(もえ)も本心でそう感じていた。なぜ、ユズが子供の頃の萌江(もえ)に会いに来たのか。しかも萌江(もえ)ですらそうとしか思えない経験だった。もちろんユズの幽霊が、とは思っていない。未来の自分が見せていたのかもしれないと萌江(もえ)は考えていた。
 リアルに考えたら、そのほうがしっくりとくる。
 それなのに、なぜか、ユズに導かれたような気がしてならない自分がいる。
 答えは出ないだろうとも萌江(もえ)は感じていた。もうあの屋敷に行くことは出来ないだろうと思えたからだ。
 そしてその萌江(もえ)が口を開く。
「ところで、今夜はどこに帰るの?」
「そんな物持って私の部屋はやだよ。山の家に帰るからね」
「そうだね。これってどうやって開け────あ、開いた」
 そしてすぐに萌江(もえ)は目を丸くしてケースを閉じた。
 横から咲恵(さきえ)の声。
「マジで?」
(まき)ストーブって幾らするかな?」
「あなたの好きなネット通販で見たらいいでしょ。って言うより家でしょ家」
「家もネットで買えるの?」
「だからネット通販で調べなさいよ」
「一緒に選んでよ」
「お店があるし」
「今日はもう間に合わないから泊まりね」
「へいへい」

 ──……萌江(もえ)を見失わずに済んで、良かった…………

 咲恵(さきえ)はそう思いながらスピードを落とす。
 それでも咲恵(さきえ)は、右のウインカーを点けながら、そこはかとない不安が押し寄せてくるのを感じていた。




             「かなざくらの古屋敷」
            〜 第一部「妖艶の宴」終 〜
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