第二五部「黒い点」第4話
文字数 10,685文字
滝川御世 は、雄滝神社を妹に任せると決めた。
嫁に行くことを決め、明日、嫁ぐ。
まだ時代は明治の初め。
その、深夜。
一人の使用人の女性が御世の居室に呼ばれた。
フキ────親の、さらに親の代から雄滝神社を護る滝川家に仕えてきた血筋。フキ自身はまだ若い。やっと二〇歳を迎えたばかり。それでも中学を卒業してからすぐに雄滝神社で働き始め、当主でもあった御世に心酔していた一人。
御世は雄滝神社のみならず、清国会のトップでもあった。
それが小さな組織でないことはフキも知っている。そして雄滝神社自体が、清国会の頂点。
そんな立場でありながら、御世は決して傲慢な人物ではなかった。まだ下働きの使用人にさえ人当たりがよく、誰にでも優しく接した。
当然、使用人の誰もがそれを知っていた。それ故、御世に心酔していた使用人はフキだけではない。
「……私は明日…………嫁ぎます…………」
分かっていたこととはいえ、御世から直接その言葉を聞くのはやはり寂しかった。
小さな燭台の上に蝋燭が一本。その小さな灯りが寂しさを助長していた。
それでも明日はやってくる。
寂しい表情を浮かべて視線を落とすフキに、御世の言葉が続いた。
「立派な家柄の所ですよ。明治政府に関わる重要なお仕事をされている方です。そこで私は…………子供を二人産むでしょう」
御世に未来を見る能力があったことは使用人の誰もが知っていること。それでも、続く御世の言葉は重かった。
「その家で……私は殺されます…………子供達は私が守る……絶対に死なせません…………」
「誰が…………そんなこと…………」
フキは反射的に口を開く。
御世の返答は早かった。
「……清国会です」
フキが予想もしていない答えだった。例え数年とはいえ、その清国会のトップだった御世をどうして清国会自体が殺そうとするのか。
驚くフキに向け、御世の言葉が続く。
「私は清国会を裏切りました。清国会の神は偽りの神…………金櫻の血筋を守るために、清国会の人々の記憶を書き換えました。まだ清国会の人間はそのことを知りません。しかしいずれ気付く。そして私は殺されます。それは変えられません…………」
「…………そんな…………」
フキは他に言葉を出せないまま。
「その後、あの子達を守って欲しいのです。あなたに…………あなたと……他の八人に…………」
フキを含めて計九名。
その使用人達は、御世が嫁いだ先の家が火事で焼け、家人が子供二人だけを残して死亡したとの報を受けてすぐに動いた。
焼け跡から見付かった唯一の生き残りは二人の幼い子供。男の子と女の子。
御世の、まだ幼い二人の子供。
すぐに孤児院に入れられたが、それを九人は影ながら守り続けた。
滝川家の使用人を辞め、その退職金を元手に財力を増やし、御世の血筋を守るためだけに生き続けていった。
そしてその九士族は、それぞれが、清国会と戦い続けた。
☆
川は深い。
大きな川だった。
流れもそれなりにある。
濁りも酷い。
高架線からの高さ。体が回転したことで上下左右の感覚が鈍った。何が起きたのかを理解することも難しいまま、靖子の喉に川の水が入り込む。さらに鼻から入ってきた水が思考を遠ざけていく。
さらには川の水の濁りは視界も失わせていた。
最後の意識は母、耶絵 の寂しげな顔。
しかしその表情は、どこか何かの覚悟も感じさせた。
そんな気がした。
遠くなる意識と、それに反する、圧力。
水の流れに反するような体の動き。
突然、体が水圧から解放された。
そして、自分の体が宙を舞う感覚から、背中を地面が打つ。
急激に入り込む空気が、気管から異物である川の水を吐き出させた。
咳き込む体に意識を集中せざるを得ない。
何も考えられなかった。
ある程度水を吐き出し、空を仰いだ時、その顔を覗き込む女の子。
しかし、その楓 の顔を、靖子 は知らない。
視界の端、近くで腰を落とし、川に手を伸ばす女性。
その姿は咲恵 。
その咲恵の腕を掴んで川から濡れた体を重そうに上がってきたのは、萌江 だった。
「大丈夫?」
咲恵の不安そうな声に、息を切らした萌江はすぐには応えられず、大きく息を飲み込む。濡れて重そうな体で、四つん這いのまま、靖子に顔を向けた。
溜息を吐いてから声を掛けるのは楓。
「靖子さんは大丈夫ですよ」
冷静な声。
──……まだ……生きてる…………
靖子がそう思った時、もう一人、川から上がってきた女性がいた。
靖子が落ちた直後、追いかけるように電車を飛び降りた士族の一人。
ずぶ濡れのまま、不安気に萌江達に近付いてきた。
最初にその女性に声を掛けたのは咲恵だった。
「さすがに素早い判断ですね。ありがとうございます。後はお願いしますよ」
咲恵がそう言いながら柔らかい笑顔を向ける。
それが少し気持ちをほぐしたのか、女性は小さく口を開いた。
「……あなたがたは…………」
応えるのは立ち上がった萌江。
「助けただけだよ。ここからはあなたたちの仕事。靖子さんを頼むね」
そして、その三人の姿が霧のように消える。
その信じられない光景に、女性はただ呆然とするだけ。例え清国会と戦っていたとしても、そんな体験などしたことがない。
やがて、倒れたままの靖子の姿に思考が戻った。
駆け寄ると、まだ息の荒い靖子を抱きしめ、耳元で囁く。
「……大丈夫……あなたは…………私たちが守る…………」
☆
すでに暗い時間。
祭壇前の大きな松明の灯りだけが揺れる。
時が戻ると、体に纏わり付いていた川の水はもう無かった。それなのに、どこか川の水の冷たさを感じる。
胸を撫で下ろす萌江に、祭壇前の背を向けたままの楓の声。
「……突然、動かないでください…………」
やはり冷静な声。
萌江はいつもの声色で応えた。
「ごめんね。さすがに……黙ってられなくてさ…………」
しだいに小さくなった萌江の声に、さらに楓が食いつく。
「何もしなくても、あの女性が助けたはずです。私たちはこれまで何も干渉してはいません。時は何も動いていないはず…………ならば靖子さんはあの場でも助かります」
「そうだけど…………」
弱々しい萌江の声に、楓もつい抑えていた何かが弾けた。
「ほんの些細な、小さなことがどんな大きな変化を生むか……それは誰にも分からないんです…………もう少し、冷静に行動してください」
萌江がそれを理解しているであろうことは分かっていた。しかし正直、楓は怖かった。特に今回の場合、些細なことが大きな問題に繋がりそうな気がしていたからだ。
──……この問題は……複雑すぎる…………
「分かった…………ごめん楓ちゃん……」
そう応える萌江に、隣の咲恵の声が投げられた。
「……萌江…………もしかしてあなた…………変えたいんじゃない?」
しかし萌江は応えない。
返す言葉を選んでいた。
それに気が付いた咲恵が続ける。
「返答に迷うなんて萌江らしくないね…………何をしたいのか言って……あなたがしたいことは何? スズがどうして御世の血を欲したのかを知りたいだけ? それなら干渉する必要はないはず…………違う?」
すると、萌江は床に視線を落とした。
まるで怒られた子供のように、逃げられる隙間を探しているかのよう。咲恵ですら萌江の真意を測り兼ねた。過去に遡って何かを確認するだけなら雫だけでいいはず。それなのに今回は萌江の判断で楓が中心となった。咲恵もそこに若干の疑問がない訳ではなかったが、萌江に考えがあるのだろうと思うしかない。
相談も無しの干渉に驚いたのもあり、ここで一度真意を確かめておく必要があると思った。
しかし萌江は語ろうとしない。
やがて出てきたのは想定外な言葉。
「もしかして……最初からさっきの干渉が決まってたとしたら…………」
しかし楓にとっては想定内の質問だった。
すぐに返していく。
「いつでも……未来を決めるのは〝今〟です。その今が過去を作ります」
「……〝今〟っていつよ」
「いつも……ここにあるものです…………」
「私が過去を変えたら、今は変わるの?」
「……未来も過去も今も…………常に変わっていますよ」
その会話に危険を感じたのは咲恵。
「楓ちゃん……それは多次元宇宙論みたいなもの?」
──……無意味だ……結論なんか出ない…………
咲恵の言葉に萌江が介入するのを防ぐかのように楓が即答した。
「いえ、そんなものは存在しません。時間は常に一つだけです。その中で私たちは時間を積み重ねてきました。未来も過去も、今も、同じ〝今〟の中にあるだけです。決めるのはいつも〝今〟だけです」
萌江が顔を上げる。
楓の背中を見ながら口を開いた。
「〝神様〟の言葉はいつも抽象的だね。だから宗教って合わない」
萌江らしい言葉でもあった。〝神〟や〝宗教〟を嫌う萌江の本音であることも事実。
それでも絶対に楓は振り返らないまま、その背筋を伸ばしたまま。
「……はっきりと言葉にしない方がいいこともあります。受け取り方は人それぞれですから」
その楓の言葉に萌江が何かを言いかけた時、咲恵が遮る。
「萌江、あなたが救うべきは誰?絵留 ? それとも絵留に殺された人たち? そういうことなんでしょ⁉︎」
──……本当の……萌江が望むものはなんだ…………
そして、応える萌江は、再び視線を下げた。
「…………絵留が産まれなければ…………犠牲者が減るね…………殺された人たちにも未来が生まれる…………」
──……萌江…………それは…………
そこに返す楓の言葉は、それまでよりは少し強い。
「どんなに願っても救われなかった人たちがいます。運命なんて安っぽい言葉で表現したくないですけど…………その人たちがどうしてこの世に産まれてきたのかなんて誰にも分からないんです…………だから私は……人の生き死にだけは干渉してきませんでした…………」
本殿を流れる黒い風が、冷たく感じられた。
それに反比例する松明の暖かさ。
その中、萌江の声が風に乗った。
「…………〝今〟って…………いつ、作られるの…………?」
☆
靖子はすぐに孤児院に預けられた。
その時点で、九士族の人間から幼い頭の中に多くの説明が詰め込まれたが、やはり清国会のことなどは理解出来るはずがない。どうして母親が死ななければいけなかったのか、小学校に入学する前の子供に分かるものではなかった。
理解出来たのは、自分が〝守られる存在〟だということ。
同時に、誰かが自分を殺そうとしていること。
ただ、怖かった。
想うのは母親のことだけ。
しかしその母親の最後の言葉は、まだ幼い靖子には重過ぎた。
〝…………生きて…………〟
どう受け取り、それをどう解釈するべきか、答えは出ない。
毎日を泣きながら過ごすしかなかった。
そのまま、月日が過ぎていく。
いつも孤独だった。
誰も信用することが出来ないまま、学校で友達を作ることも出来ず、そんなままでは新しい親も見付からない。
中学を卒業し、行政の援助で高校にも通うことが出来た。
時は九〇年代。しだいに世相が変わり始めていた時代。世界的にも不穏な空気が広がっていた。
高校は公立の商業系。大学への進学を目指す生徒も多かったが、靖子は迷わず就職することを選んだ。就職することで早く施設を出たかった。
あの時、誰かに命を狙われていることを教わったが、あれ以来、特別そんな経験をしたことはない。ただただ静かな日々だった。
自分の妄想だったのかと思うことが増えた。
怪し気な人間が接触してくるわけでもない。
──……だったら…………どうしてお母さんはいないの…………?
地元の小さな配送会社。
その配送管理の仕事。
高校卒業の直後、働き始める前に健康診断を受けてほしいとの指示。その会社ではいつも年度末に健康診断があるとのこと。そのため、新卒採用の場合は働き始める直前に受ける必要があった。
健康診断自体は簡易的なもの。もっと詳細な健康診断となると、その分お金もかかる。社員のそういったものも会社の経費。後にバブル景気と呼ばれる時代ではあったが、決して大きな会社ではなかった。
それでも施設を出てアパート住まいが出来るだけの充分な給料は保証されていた。それだけでも靖子にとってはありがたかった。仕事さえ形だけこなせれば、後は生活する上で誰かに気を遣うことはない。
今さら誰かと親密になりたいとも思わなかったし、一人でいることには慣れていた。
むしろ、そのほうが良かった。
健康診断の結果はすぐに出た。靖子が働き始めてすぐ。
まるで想像していなかった〝再検査〟の文字。
思えばそれまで、幼い頃の風邪くらいでしか病院に行ったことがない。
日々生活する中で、自分の体に関して不安というものを感じることは少なかった。若い頃のそれは特に顕著だろう。
しかし、そこに突然、不安が差し込まれる。
念のため、というものであることを職場の人間から聞かされた。初めての健康診断だったから知識がないだけ。そんなものなのだろう。
靖子自体もそれほど深くは考えないまま、再び病院を訪れた。
古い総合病院。低い天井のせいか妙に暗く、圧迫感を感じる所だ。それは最初に来た時も少し感じていた。
再検査の結果は最初よりも少し日数が掛かった。
そして、その結果を持って再び病院へ。
〝癌〟という言葉自体は、まだ若いなりに知っていた。
その頃のテレビや新聞、雑誌でもよく目にした。それは〝癌治療〟というものが急速に発展していた時代だからというのもあるのだろう。〝早期発見〟という言葉も病院内のポスターに氾濫してきた時代。
そして、靖子の場合も〝早期の発見〟になるのだという。
〝子宮癌〟────女性が女性であることを強く意識する機関が、どこかから発生した悪性の細胞によって侵された。
腫瘍はまだ極めて小さく、他への転移も見られない。
今の段階で子宮を摘出すれば命には問題ない。
命には問題ない。
命は助かる。
子宮を取り出せば。
女にしかない子宮。
女が子供を産むために必要な部分。
女が命を創り出すために、絶対に必要な所。
その子宮を取り出せば、命は助かる。
──…………私は…………子供を産めない…………
目の前で医者が語るのは、今後の入院と手術の段取り。
耳に残るのは、こんな言葉だけ。
〝早期発見で良かったですね〟
──…………よかった…………?
書類を受け取って一度帰宅することになった。
最低限の着替えなどを用意して、職場に連絡し、入院の準備をしなければならない。
どこにも体の異変は感じない。
痛みもない。
入院は翌日。
数日に分けて精密検査を繰り返し、手術。
何かが苦しいわけではない。
麻酔が切れ、意識が戻ると手術は終わっていた。
それから抜糸まで数日の入院。
大した痛みも無かった。
総てがなんとなく始まり、総てがいつの間にか終わった。
──……私は…………私の命を繋ぐことを選んだ…………
──…………私は…………未来に命を繋ぐことを諦めた…………
──……それだけ…………
自分ではどうすることも出来ないことがある。
靖子はそれを感じていた。
しばらくは通院が続く。
思えば、入院と同時に仕事も休んだまま。
靖子の退院を喜ぶ家族もいなければ、心配してくれる友達もいない。
誰にも、影響を及ぼさない人生。
──…………どうして…………生きるの………………?
──……どうして…………お母さんはこんな私のために…………
何度目かの通院の帰り、そこは小さな公園だった。
なぜか真っ直ぐアパートに帰る気にもなれず、穏やかな陽射しに誘われるように、昼前の静かな公園のベンチに腰を降ろしていた。
目の前には小さな噴水。
誰に見せるためでもなく、水が回り続けていた。
少しだけ気温が高くなってきた季節。
まだ夏というには早い頃。
〝…………生きて…………〟
母の最後の言葉が、聞こえた気がした。
──…………どうして…………?
温もりを感じるほどの陽射しの中で、零れる涙は冷たく感じられた。
抑えられない感情がある。
靖子がそれを感じた時。
その足音に気付くことはなかった。
それでも、視界にその姿を見た時、靖子は無意識に顔を上げていた。
「…………良かった…………」
──…………よかった…………?
「…………生きててくれて…………」
──……………………お母さん…………
一〇年以上。
その母の顔を見てはいない。
しかし、あの時の、最後の顔を忘れたことはなかった。
死んだと思っていた。
その母の耶絵が、今、目の前にいる。
どう考えればいいのか。
どうすればいいのか。
何も分からない。
ただ、自分を抱きしめるその母の温もりは、幻ではなかった。
溢れる感情を声にすることも出来ないまま。
様々な感情が涙と共に零れていく。
耶絵は生き延びていた。
九士族の一つの仲間となり、共に、影ながら靖子を守り続けてきた。
自分だけでは靖子を守れないことを知り、強くなろうとした。
九士族が自分のことも守るということには反対だった。自分ではなく、靖子だけを守って欲しかった。自分が靖子の側にいる限り、自分が強くなれないばかりでなく、自分という存在は必ず邪魔になる。足手纏いでしかないと思った。
だからこそ、守られる側ではなく、守る立場になることを選んだ。
そして、靖子を守るため、これまで何人かの命をも奪ってきた。
迷わなかった。
総ては娘のため。
靖子のため。
まるで子供のように泣きじゃくる靖子の横に腰を降ろし、耶絵はその体を抱きながら、優しく声を掛け続ける。
「……もう大丈夫……もう誰もあなたの命を欲しがったりしない。あなたは解放されたの。病気のことも……手術のことも……もう清国会は知ってる。だから、もう誰もあなたを傷付けたりしない…………」
その情報は、もちろん一族の人間が故意に清国会に流していた。
靖子は最後の血。
そして、次に繋がることは、もうない。
「……もう…………自由だよ…………だから……こうして会いに来れた…………」
その二人の姿を、離れた所から見ていた人物が三人。
「慰めの言葉なんて……必要なかったね…………」
そう呟くように言った萌江は、踏み出していた右足を下げて続けた。
「……どうして…………こうなったのかな…………」
すると、隣の楓が口を開く。
「私たちが何もしなくても……動いてきました。それが時の流れというものです」
しかし、その声は少しだけ落ち着きがない。
そして、二人の背後から咲恵の小さな声が挟まった。
「…………何か……干渉したの? これがバタフライエフェクト? ……だって……靖子さんが子供産めないって────」
それを楓が遮る。
「まだ……分かりません…………総てを、見てはいないので…………」
明らかに咲恵と楓には動揺が見えた。
靖子は絵留を産むはず。
そういう過去の積み重ねの上で、萌江も咲恵も絵留と対峙した。しかし靖子は子供を産むことが出来なくなった。過去に対して大きく何かが干渉して歴史を動かしてしまったとしか思えなかった。
養子ということはありえない。養子では二人目の胎児が存在し得ない。
体外受精の線もあり得ない。そもそも靖子には〝子宮〟が存在しない。
嫌な、そんな想像が頭を擡げた。
「ねえ、楓ちゃん…………」
耶絵と靖子の姿を見ながらの、萌江の声。
「……〝すべて〟って…………なに?」
☆
「杏奈 ちゃん、この間見付けてくれた病院……直接行ってもらってもいい?」
萌江は過去から戻るなりすぐに電話を掛けていた。
「大丈夫? 念のために西沙 でも連れてけば心配ないよ。どうしても見たいの……牧田絵留の出生記録…………」
電話を切ると、大きく溜息を吐く。
それから朝まで、報告が来るのを待つ間、誰も口を開こうとはしなかった。
この季節は朝が遅くなってきた頃。
だいぶ涼しさも感じる。
秋の終わり。
冬の始まり。
咲恵はずっと落ち着かなかった。不安な表情を隠せないまま。それでも、何も語ろうとしない萌江に言葉を掛けることすら出来ない。
咲恵は、そのことが怖かった。何かを確かめることが怖かった。
朝陽が本殿の中に入り込んできた頃、萌江は目の前の雫 の背中に向けて声をかけた。
「雫さんはどう思う? 見えてたでしょ? 靖子さんは子供を産めない。子宮を移植出来るようなとんでもない技術でもない限り。それか子宮そのものの再生か────」
「再生医療はここ最近の技術です」
堰を切ったように返し始めた雫が続ける。
「それでも、現在はまだ子宮の再生には至っていないはずです…………出来てたら…………」
「そうだよね。私みたいな妊娠の出来ない女はいなくなる」
「萌江」
反射的に強い言葉を上げたのは咲恵だった。
「萌江……例え自分のことでも…………そんな言い方しないで」
そう言って視線を落とす咲恵の目が震える。
萌江はその咲恵の横顔から再び雫の背中に顔を戻して口を開いた。
「で? どうかな…………私たちはいつの間にか未来を変えたと思う?」
「……私は…………」
小さく返る雫の声が、宙に浮く。
雫の中でもその可能性は感じる。それがどういうことか、初めてのことだけに、少しずつ恐怖が膨らんでいた。
挟まるのはやはり咲恵。
「仮に過去を改変したとしたら、人の生き死にに影響を及ぼしたことになる…………萌江…………あなたは何も感じないの⁉︎」
「今さらだよ。咲恵」
冷たくも感じるその萌江の言葉に、咲恵の神経が小さく縮まる。
その声が続いた。
「その可能性も覚悟したから楓ちゃんなんでしょ? 過去を見るだけなら咲恵だけでも良かったじゃん。どうして最初からそうしなかったのよ。咲恵だって欲しかったんでしょ……絵留が死なない未来が欲しかった…………違う?」
「……そんな────」
「元々は同じ御世から受け継いだ血…………その一つの分岐が絶える現場に立ち会った…………自分が子孫を残す気がないから…………代わりに絵留に繋いで欲しかった?」
「……やめて……」
「どうせ滝川家の血筋…………そんなに血筋なんかが大事なら…………自分で産みなさいよ! 私と違って子供が産める体なんだからっ‼︎」
そして、乾いた音が本殿に響く。
西沙の右の掌が、萌江の左頬で大きく立てた音。
そして、その西沙の低い声。
「……もう一度言ったら…………今度は私が率いた清国会が萌江を潰す…………情けない……冷静を欠いて、私と杏奈が本殿に上がってきたことにすら気が付かなかった」
そして、萌江の背後から杏奈の声。
「西沙……もう充分だよ…………」
杏奈は西沙の隣まで来ると、腰を落とし、萌江の前に分厚い封筒を置いて続けた。
「牧田絵留……その分だけファイルから取ってきました。出生の記録です。分かってますよ。この書類があったからと言って、過去が変わったかどうかの説明にはならない。過去が変わることで別の人から産まれたのかもしれない。もしくは同姓同名か…………だとすればスズにとっては関係のない血筋…………絵留は殺人者になる必要はなくなる…………」
「さすがオカルトライター」
西沙の声に、杏奈は笑顔で応える。
「まあね。でも……みんなもう分かってるんじゃないのかな? 咲恵さん……もうやめませんか? 何かを押し殺しながらの会話」
咲恵は下を向いて膝の上の自分の両手を見つめるだけ。
そして、聞こえたのは萌江の声。
「…………わかってる…………」
小さな、萌江の声。
「分かってるよ…………私が……靖子さんを妊娠させるんだ…………」
「────やめて……」
被さるような咲恵の声に、さらに萌江が重ねていく。
「私が靖子さんを妊娠させれば」
「やめて」
「絵留が産まれる」
「……やめて」
「きっと……最初からそういうことだったんだ…………私が絵留を作った────」
「────やめてっ‼︎」
その咲恵の言葉が紡がれる。
「……萌江の……萌江の命が削られる…………それはダメ…………」
咲恵は自分の両手に落ちる大粒の涙を拭おうともしなかった。
「私にだって……少しは見える未来はある…………過去だけじゃない…………だから…………一日でも長く……生きて…………隣にいさせて…………お願い…………」
すると、しばらく黙っていた結妃の声。
楓の隣で口を開いた。
「どんな命にも人生があります……例え短い人生でも……産まれた直後に死んだ命だとしても……その周りには必ず誰かの人生がある。それを忘れなければいいと、私は思っています。誰もが誰かの人生を背負って生きていくんです。だから……私はここにいます…………」
僅かに震えるその声に、隣の楓が繋ぐ。
「さすがはみなさん大人ですね。私はまだ子供なので人生の深みは分かりません……正直、萌江さんと咲恵さんの気持ちを察することなんて出来なかった…………ごめんなさい…………でも分かりました……正しいかどうかなんて、決断をした人間にも分からないことなんだと思います。だから私は……〝蛇の会〟のトップとして、お二人の決断を信じます」
すると、さらに隣の雫が娘の言葉を拾った。
「萌江さん…………〝蛇の会〟のトップが楓であっても……いえ、だからこそ、私たちの中心はあなたです……そして、全員があなたの人生を背負います」
「…………わたしは…………」
萌江のそんな小さな言葉の後、その目の前で、西沙が膝を曲げて視線を落としていた。
「萌江……〝記録を見て自分の決断を知る〟か……〝記録を見ずに自分で決断する〟か…………自分で決めて」
そして膝を伸ばして続ける。
「私はこれから恵麻に会ってくる。恵麻が〝カバネの社〟で得た情報を聞かなきゃならない…………それがなければ……この一件は終わらない…………」
その西沙が歩き始めると、すぐに萌江に声を掛けたのは杏奈だった。
「……大丈夫ですよ……みんな萌江さんを信じられるから、隣にいるんです」
そして西沙の後ろを追いかける。
再び、毘沙門天神社の本殿が静かになった。
早朝の涼しい風が流れる祭壇前。
萌江は、隣の咲恵の手に自分の手を重ねる。
そこから感じられる咲恵の気持ちを確認して、それから口を開いた。
「……楓ちゃん…………行ける?」
その言葉に、楓の口角が上がる。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二五部「黒い点」第5話へつづく 〜
嫁に行くことを決め、明日、嫁ぐ。
まだ時代は明治の初め。
その、深夜。
一人の使用人の女性が御世の居室に呼ばれた。
フキ────親の、さらに親の代から雄滝神社を護る滝川家に仕えてきた血筋。フキ自身はまだ若い。やっと二〇歳を迎えたばかり。それでも中学を卒業してからすぐに雄滝神社で働き始め、当主でもあった御世に心酔していた一人。
御世は雄滝神社のみならず、清国会のトップでもあった。
それが小さな組織でないことはフキも知っている。そして雄滝神社自体が、清国会の頂点。
そんな立場でありながら、御世は決して傲慢な人物ではなかった。まだ下働きの使用人にさえ人当たりがよく、誰にでも優しく接した。
当然、使用人の誰もがそれを知っていた。それ故、御世に心酔していた使用人はフキだけではない。
「……私は明日…………嫁ぎます…………」
分かっていたこととはいえ、御世から直接その言葉を聞くのはやはり寂しかった。
小さな燭台の上に蝋燭が一本。その小さな灯りが寂しさを助長していた。
それでも明日はやってくる。
寂しい表情を浮かべて視線を落とすフキに、御世の言葉が続いた。
「立派な家柄の所ですよ。明治政府に関わる重要なお仕事をされている方です。そこで私は…………子供を二人産むでしょう」
御世に未来を見る能力があったことは使用人の誰もが知っていること。それでも、続く御世の言葉は重かった。
「その家で……私は殺されます…………子供達は私が守る……絶対に死なせません…………」
「誰が…………そんなこと…………」
フキは反射的に口を開く。
御世の返答は早かった。
「……清国会です」
フキが予想もしていない答えだった。例え数年とはいえ、その清国会のトップだった御世をどうして清国会自体が殺そうとするのか。
驚くフキに向け、御世の言葉が続く。
「私は清国会を裏切りました。清国会の神は偽りの神…………金櫻の血筋を守るために、清国会の人々の記憶を書き換えました。まだ清国会の人間はそのことを知りません。しかしいずれ気付く。そして私は殺されます。それは変えられません…………」
「…………そんな…………」
フキは他に言葉を出せないまま。
「その後、あの子達を守って欲しいのです。あなたに…………あなたと……他の八人に…………」
フキを含めて計九名。
その使用人達は、御世が嫁いだ先の家が火事で焼け、家人が子供二人だけを残して死亡したとの報を受けてすぐに動いた。
焼け跡から見付かった唯一の生き残りは二人の幼い子供。男の子と女の子。
御世の、まだ幼い二人の子供。
すぐに孤児院に入れられたが、それを九人は影ながら守り続けた。
滝川家の使用人を辞め、その退職金を元手に財力を増やし、御世の血筋を守るためだけに生き続けていった。
そしてその九士族は、それぞれが、清国会と戦い続けた。
☆
川は深い。
大きな川だった。
流れもそれなりにある。
濁りも酷い。
高架線からの高さ。体が回転したことで上下左右の感覚が鈍った。何が起きたのかを理解することも難しいまま、靖子の喉に川の水が入り込む。さらに鼻から入ってきた水が思考を遠ざけていく。
さらには川の水の濁りは視界も失わせていた。
最後の意識は母、
しかしその表情は、どこか何かの覚悟も感じさせた。
そんな気がした。
遠くなる意識と、それに反する、圧力。
水の流れに反するような体の動き。
突然、体が水圧から解放された。
そして、自分の体が宙を舞う感覚から、背中を地面が打つ。
急激に入り込む空気が、気管から異物である川の水を吐き出させた。
咳き込む体に意識を集中せざるを得ない。
何も考えられなかった。
ある程度水を吐き出し、空を仰いだ時、その顔を覗き込む女の子。
しかし、その
視界の端、近くで腰を落とし、川に手を伸ばす女性。
その姿は
その咲恵の腕を掴んで川から濡れた体を重そうに上がってきたのは、
「大丈夫?」
咲恵の不安そうな声に、息を切らした萌江はすぐには応えられず、大きく息を飲み込む。濡れて重そうな体で、四つん這いのまま、靖子に顔を向けた。
溜息を吐いてから声を掛けるのは楓。
「靖子さんは大丈夫ですよ」
冷静な声。
──……まだ……生きてる…………
靖子がそう思った時、もう一人、川から上がってきた女性がいた。
靖子が落ちた直後、追いかけるように電車を飛び降りた士族の一人。
ずぶ濡れのまま、不安気に萌江達に近付いてきた。
最初にその女性に声を掛けたのは咲恵だった。
「さすがに素早い判断ですね。ありがとうございます。後はお願いしますよ」
咲恵がそう言いながら柔らかい笑顔を向ける。
それが少し気持ちをほぐしたのか、女性は小さく口を開いた。
「……あなたがたは…………」
応えるのは立ち上がった萌江。
「助けただけだよ。ここからはあなたたちの仕事。靖子さんを頼むね」
そして、その三人の姿が霧のように消える。
その信じられない光景に、女性はただ呆然とするだけ。例え清国会と戦っていたとしても、そんな体験などしたことがない。
やがて、倒れたままの靖子の姿に思考が戻った。
駆け寄ると、まだ息の荒い靖子を抱きしめ、耳元で囁く。
「……大丈夫……あなたは…………私たちが守る…………」
☆
すでに暗い時間。
祭壇前の大きな松明の灯りだけが揺れる。
時が戻ると、体に纏わり付いていた川の水はもう無かった。それなのに、どこか川の水の冷たさを感じる。
胸を撫で下ろす萌江に、祭壇前の背を向けたままの楓の声。
「……突然、動かないでください…………」
やはり冷静な声。
萌江はいつもの声色で応えた。
「ごめんね。さすがに……黙ってられなくてさ…………」
しだいに小さくなった萌江の声に、さらに楓が食いつく。
「何もしなくても、あの女性が助けたはずです。私たちはこれまで何も干渉してはいません。時は何も動いていないはず…………ならば靖子さんはあの場でも助かります」
「そうだけど…………」
弱々しい萌江の声に、楓もつい抑えていた何かが弾けた。
「ほんの些細な、小さなことがどんな大きな変化を生むか……それは誰にも分からないんです…………もう少し、冷静に行動してください」
萌江がそれを理解しているであろうことは分かっていた。しかし正直、楓は怖かった。特に今回の場合、些細なことが大きな問題に繋がりそうな気がしていたからだ。
──……この問題は……複雑すぎる…………
「分かった…………ごめん楓ちゃん……」
そう応える萌江に、隣の咲恵の声が投げられた。
「……萌江…………もしかしてあなた…………変えたいんじゃない?」
しかし萌江は応えない。
返す言葉を選んでいた。
それに気が付いた咲恵が続ける。
「返答に迷うなんて萌江らしくないね…………何をしたいのか言って……あなたがしたいことは何? スズがどうして御世の血を欲したのかを知りたいだけ? それなら干渉する必要はないはず…………違う?」
すると、萌江は床に視線を落とした。
まるで怒られた子供のように、逃げられる隙間を探しているかのよう。咲恵ですら萌江の真意を測り兼ねた。過去に遡って何かを確認するだけなら雫だけでいいはず。それなのに今回は萌江の判断で楓が中心となった。咲恵もそこに若干の疑問がない訳ではなかったが、萌江に考えがあるのだろうと思うしかない。
相談も無しの干渉に驚いたのもあり、ここで一度真意を確かめておく必要があると思った。
しかし萌江は語ろうとしない。
やがて出てきたのは想定外な言葉。
「もしかして……最初からさっきの干渉が決まってたとしたら…………」
しかし楓にとっては想定内の質問だった。
すぐに返していく。
「いつでも……未来を決めるのは〝今〟です。その今が過去を作ります」
「……〝今〟っていつよ」
「いつも……ここにあるものです…………」
「私が過去を変えたら、今は変わるの?」
「……未来も過去も今も…………常に変わっていますよ」
その会話に危険を感じたのは咲恵。
「楓ちゃん……それは多次元宇宙論みたいなもの?」
──……無意味だ……結論なんか出ない…………
咲恵の言葉に萌江が介入するのを防ぐかのように楓が即答した。
「いえ、そんなものは存在しません。時間は常に一つだけです。その中で私たちは時間を積み重ねてきました。未来も過去も、今も、同じ〝今〟の中にあるだけです。決めるのはいつも〝今〟だけです」
萌江が顔を上げる。
楓の背中を見ながら口を開いた。
「〝神様〟の言葉はいつも抽象的だね。だから宗教って合わない」
萌江らしい言葉でもあった。〝神〟や〝宗教〟を嫌う萌江の本音であることも事実。
それでも絶対に楓は振り返らないまま、その背筋を伸ばしたまま。
「……はっきりと言葉にしない方がいいこともあります。受け取り方は人それぞれですから」
その楓の言葉に萌江が何かを言いかけた時、咲恵が遮る。
「萌江、あなたが救うべきは誰?
──……本当の……萌江が望むものはなんだ…………
そして、応える萌江は、再び視線を下げた。
「…………絵留が産まれなければ…………犠牲者が減るね…………殺された人たちにも未来が生まれる…………」
──……萌江…………それは…………
そこに返す楓の言葉は、それまでよりは少し強い。
「どんなに願っても救われなかった人たちがいます。運命なんて安っぽい言葉で表現したくないですけど…………その人たちがどうしてこの世に産まれてきたのかなんて誰にも分からないんです…………だから私は……人の生き死にだけは干渉してきませんでした…………」
本殿を流れる黒い風が、冷たく感じられた。
それに反比例する松明の暖かさ。
その中、萌江の声が風に乗った。
「…………〝今〟って…………いつ、作られるの…………?」
☆
靖子はすぐに孤児院に預けられた。
その時点で、九士族の人間から幼い頭の中に多くの説明が詰め込まれたが、やはり清国会のことなどは理解出来るはずがない。どうして母親が死ななければいけなかったのか、小学校に入学する前の子供に分かるものではなかった。
理解出来たのは、自分が〝守られる存在〟だということ。
同時に、誰かが自分を殺そうとしていること。
ただ、怖かった。
想うのは母親のことだけ。
しかしその母親の最後の言葉は、まだ幼い靖子には重過ぎた。
〝…………生きて…………〟
どう受け取り、それをどう解釈するべきか、答えは出ない。
毎日を泣きながら過ごすしかなかった。
そのまま、月日が過ぎていく。
いつも孤独だった。
誰も信用することが出来ないまま、学校で友達を作ることも出来ず、そんなままでは新しい親も見付からない。
中学を卒業し、行政の援助で高校にも通うことが出来た。
時は九〇年代。しだいに世相が変わり始めていた時代。世界的にも不穏な空気が広がっていた。
高校は公立の商業系。大学への進学を目指す生徒も多かったが、靖子は迷わず就職することを選んだ。就職することで早く施設を出たかった。
あの時、誰かに命を狙われていることを教わったが、あれ以来、特別そんな経験をしたことはない。ただただ静かな日々だった。
自分の妄想だったのかと思うことが増えた。
怪し気な人間が接触してくるわけでもない。
──……だったら…………どうしてお母さんはいないの…………?
地元の小さな配送会社。
その配送管理の仕事。
高校卒業の直後、働き始める前に健康診断を受けてほしいとの指示。その会社ではいつも年度末に健康診断があるとのこと。そのため、新卒採用の場合は働き始める直前に受ける必要があった。
健康診断自体は簡易的なもの。もっと詳細な健康診断となると、その分お金もかかる。社員のそういったものも会社の経費。後にバブル景気と呼ばれる時代ではあったが、決して大きな会社ではなかった。
それでも施設を出てアパート住まいが出来るだけの充分な給料は保証されていた。それだけでも靖子にとってはありがたかった。仕事さえ形だけこなせれば、後は生活する上で誰かに気を遣うことはない。
今さら誰かと親密になりたいとも思わなかったし、一人でいることには慣れていた。
むしろ、そのほうが良かった。
健康診断の結果はすぐに出た。靖子が働き始めてすぐ。
まるで想像していなかった〝再検査〟の文字。
思えばそれまで、幼い頃の風邪くらいでしか病院に行ったことがない。
日々生活する中で、自分の体に関して不安というものを感じることは少なかった。若い頃のそれは特に顕著だろう。
しかし、そこに突然、不安が差し込まれる。
念のため、というものであることを職場の人間から聞かされた。初めての健康診断だったから知識がないだけ。そんなものなのだろう。
靖子自体もそれほど深くは考えないまま、再び病院を訪れた。
古い総合病院。低い天井のせいか妙に暗く、圧迫感を感じる所だ。それは最初に来た時も少し感じていた。
再検査の結果は最初よりも少し日数が掛かった。
そして、その結果を持って再び病院へ。
〝癌〟という言葉自体は、まだ若いなりに知っていた。
その頃のテレビや新聞、雑誌でもよく目にした。それは〝癌治療〟というものが急速に発展していた時代だからというのもあるのだろう。〝早期発見〟という言葉も病院内のポスターに氾濫してきた時代。
そして、靖子の場合も〝早期の発見〟になるのだという。
〝子宮癌〟────女性が女性であることを強く意識する機関が、どこかから発生した悪性の細胞によって侵された。
腫瘍はまだ極めて小さく、他への転移も見られない。
今の段階で子宮を摘出すれば命には問題ない。
命には問題ない。
命は助かる。
子宮を取り出せば。
女にしかない子宮。
女が子供を産むために必要な部分。
女が命を創り出すために、絶対に必要な所。
その子宮を取り出せば、命は助かる。
──…………私は…………子供を産めない…………
目の前で医者が語るのは、今後の入院と手術の段取り。
耳に残るのは、こんな言葉だけ。
〝早期発見で良かったですね〟
──…………よかった…………?
書類を受け取って一度帰宅することになった。
最低限の着替えなどを用意して、職場に連絡し、入院の準備をしなければならない。
どこにも体の異変は感じない。
痛みもない。
入院は翌日。
数日に分けて精密検査を繰り返し、手術。
何かが苦しいわけではない。
麻酔が切れ、意識が戻ると手術は終わっていた。
それから抜糸まで数日の入院。
大した痛みも無かった。
総てがなんとなく始まり、総てがいつの間にか終わった。
──……私は…………私の命を繋ぐことを選んだ…………
──…………私は…………未来に命を繋ぐことを諦めた…………
──……それだけ…………
自分ではどうすることも出来ないことがある。
靖子はそれを感じていた。
しばらくは通院が続く。
思えば、入院と同時に仕事も休んだまま。
靖子の退院を喜ぶ家族もいなければ、心配してくれる友達もいない。
誰にも、影響を及ぼさない人生。
──…………どうして…………生きるの………………?
──……どうして…………お母さんはこんな私のために…………
何度目かの通院の帰り、そこは小さな公園だった。
なぜか真っ直ぐアパートに帰る気にもなれず、穏やかな陽射しに誘われるように、昼前の静かな公園のベンチに腰を降ろしていた。
目の前には小さな噴水。
誰に見せるためでもなく、水が回り続けていた。
少しだけ気温が高くなってきた季節。
まだ夏というには早い頃。
〝…………生きて…………〟
母の最後の言葉が、聞こえた気がした。
──…………どうして…………?
温もりを感じるほどの陽射しの中で、零れる涙は冷たく感じられた。
抑えられない感情がある。
靖子がそれを感じた時。
その足音に気付くことはなかった。
それでも、視界にその姿を見た時、靖子は無意識に顔を上げていた。
「…………良かった…………」
──…………よかった…………?
「…………生きててくれて…………」
──……………………お母さん…………
一〇年以上。
その母の顔を見てはいない。
しかし、あの時の、最後の顔を忘れたことはなかった。
死んだと思っていた。
その母の耶絵が、今、目の前にいる。
どう考えればいいのか。
どうすればいいのか。
何も分からない。
ただ、自分を抱きしめるその母の温もりは、幻ではなかった。
溢れる感情を声にすることも出来ないまま。
様々な感情が涙と共に零れていく。
耶絵は生き延びていた。
九士族の一つの仲間となり、共に、影ながら靖子を守り続けてきた。
自分だけでは靖子を守れないことを知り、強くなろうとした。
九士族が自分のことも守るということには反対だった。自分ではなく、靖子だけを守って欲しかった。自分が靖子の側にいる限り、自分が強くなれないばかりでなく、自分という存在は必ず邪魔になる。足手纏いでしかないと思った。
だからこそ、守られる側ではなく、守る立場になることを選んだ。
そして、靖子を守るため、これまで何人かの命をも奪ってきた。
迷わなかった。
総ては娘のため。
靖子のため。
まるで子供のように泣きじゃくる靖子の横に腰を降ろし、耶絵はその体を抱きながら、優しく声を掛け続ける。
「……もう大丈夫……もう誰もあなたの命を欲しがったりしない。あなたは解放されたの。病気のことも……手術のことも……もう清国会は知ってる。だから、もう誰もあなたを傷付けたりしない…………」
その情報は、もちろん一族の人間が故意に清国会に流していた。
靖子は最後の血。
そして、次に繋がることは、もうない。
「……もう…………自由だよ…………だから……こうして会いに来れた…………」
その二人の姿を、離れた所から見ていた人物が三人。
「慰めの言葉なんて……必要なかったね…………」
そう呟くように言った萌江は、踏み出していた右足を下げて続けた。
「……どうして…………こうなったのかな…………」
すると、隣の楓が口を開く。
「私たちが何もしなくても……動いてきました。それが時の流れというものです」
しかし、その声は少しだけ落ち着きがない。
そして、二人の背後から咲恵の小さな声が挟まった。
「…………何か……干渉したの? これがバタフライエフェクト? ……だって……靖子さんが子供産めないって────」
それを楓が遮る。
「まだ……分かりません…………総てを、見てはいないので…………」
明らかに咲恵と楓には動揺が見えた。
靖子は絵留を産むはず。
そういう過去の積み重ねの上で、萌江も咲恵も絵留と対峙した。しかし靖子は子供を産むことが出来なくなった。過去に対して大きく何かが干渉して歴史を動かしてしまったとしか思えなかった。
養子ということはありえない。養子では二人目の胎児が存在し得ない。
体外受精の線もあり得ない。そもそも靖子には〝子宮〟が存在しない。
嫌な、そんな想像が頭を擡げた。
「ねえ、楓ちゃん…………」
耶絵と靖子の姿を見ながらの、萌江の声。
「……〝すべて〟って…………なに?」
☆
「
萌江は過去から戻るなりすぐに電話を掛けていた。
「大丈夫? 念のために
電話を切ると、大きく溜息を吐く。
それから朝まで、報告が来るのを待つ間、誰も口を開こうとはしなかった。
この季節は朝が遅くなってきた頃。
だいぶ涼しさも感じる。
秋の終わり。
冬の始まり。
咲恵はずっと落ち着かなかった。不安な表情を隠せないまま。それでも、何も語ろうとしない萌江に言葉を掛けることすら出来ない。
咲恵は、そのことが怖かった。何かを確かめることが怖かった。
朝陽が本殿の中に入り込んできた頃、萌江は目の前の
「雫さんはどう思う? 見えてたでしょ? 靖子さんは子供を産めない。子宮を移植出来るようなとんでもない技術でもない限り。それか子宮そのものの再生か────」
「再生医療はここ最近の技術です」
堰を切ったように返し始めた雫が続ける。
「それでも、現在はまだ子宮の再生には至っていないはずです…………出来てたら…………」
「そうだよね。私みたいな妊娠の出来ない女はいなくなる」
「萌江」
反射的に強い言葉を上げたのは咲恵だった。
「萌江……例え自分のことでも…………そんな言い方しないで」
そう言って視線を落とす咲恵の目が震える。
萌江はその咲恵の横顔から再び雫の背中に顔を戻して口を開いた。
「で? どうかな…………私たちはいつの間にか未来を変えたと思う?」
「……私は…………」
小さく返る雫の声が、宙に浮く。
雫の中でもその可能性は感じる。それがどういうことか、初めてのことだけに、少しずつ恐怖が膨らんでいた。
挟まるのはやはり咲恵。
「仮に過去を改変したとしたら、人の生き死にに影響を及ぼしたことになる…………萌江…………あなたは何も感じないの⁉︎」
「今さらだよ。咲恵」
冷たくも感じるその萌江の言葉に、咲恵の神経が小さく縮まる。
その声が続いた。
「その可能性も覚悟したから楓ちゃんなんでしょ? 過去を見るだけなら咲恵だけでも良かったじゃん。どうして最初からそうしなかったのよ。咲恵だって欲しかったんでしょ……絵留が死なない未来が欲しかった…………違う?」
「……そんな────」
「元々は同じ御世から受け継いだ血…………その一つの分岐が絶える現場に立ち会った…………自分が子孫を残す気がないから…………代わりに絵留に繋いで欲しかった?」
「……やめて……」
「どうせ滝川家の血筋…………そんなに血筋なんかが大事なら…………自分で産みなさいよ! 私と違って子供が産める体なんだからっ‼︎」
そして、乾いた音が本殿に響く。
西沙の右の掌が、萌江の左頬で大きく立てた音。
そして、その西沙の低い声。
「……もう一度言ったら…………今度は私が率いた清国会が萌江を潰す…………情けない……冷静を欠いて、私と杏奈が本殿に上がってきたことにすら気が付かなかった」
そして、萌江の背後から杏奈の声。
「西沙……もう充分だよ…………」
杏奈は西沙の隣まで来ると、腰を落とし、萌江の前に分厚い封筒を置いて続けた。
「牧田絵留……その分だけファイルから取ってきました。出生の記録です。分かってますよ。この書類があったからと言って、過去が変わったかどうかの説明にはならない。過去が変わることで別の人から産まれたのかもしれない。もしくは同姓同名か…………だとすればスズにとっては関係のない血筋…………絵留は殺人者になる必要はなくなる…………」
「さすがオカルトライター」
西沙の声に、杏奈は笑顔で応える。
「まあね。でも……みんなもう分かってるんじゃないのかな? 咲恵さん……もうやめませんか? 何かを押し殺しながらの会話」
咲恵は下を向いて膝の上の自分の両手を見つめるだけ。
そして、聞こえたのは萌江の声。
「…………わかってる…………」
小さな、萌江の声。
「分かってるよ…………私が……靖子さんを妊娠させるんだ…………」
「────やめて……」
被さるような咲恵の声に、さらに萌江が重ねていく。
「私が靖子さんを妊娠させれば」
「やめて」
「絵留が産まれる」
「……やめて」
「きっと……最初からそういうことだったんだ…………私が絵留を作った────」
「────やめてっ‼︎」
その咲恵の言葉が紡がれる。
「……萌江の……萌江の命が削られる…………それはダメ…………」
咲恵は自分の両手に落ちる大粒の涙を拭おうともしなかった。
「私にだって……少しは見える未来はある…………過去だけじゃない…………だから…………一日でも長く……生きて…………隣にいさせて…………お願い…………」
すると、しばらく黙っていた結妃の声。
楓の隣で口を開いた。
「どんな命にも人生があります……例え短い人生でも……産まれた直後に死んだ命だとしても……その周りには必ず誰かの人生がある。それを忘れなければいいと、私は思っています。誰もが誰かの人生を背負って生きていくんです。だから……私はここにいます…………」
僅かに震えるその声に、隣の楓が繋ぐ。
「さすがはみなさん大人ですね。私はまだ子供なので人生の深みは分かりません……正直、萌江さんと咲恵さんの気持ちを察することなんて出来なかった…………ごめんなさい…………でも分かりました……正しいかどうかなんて、決断をした人間にも分からないことなんだと思います。だから私は……〝蛇の会〟のトップとして、お二人の決断を信じます」
すると、さらに隣の雫が娘の言葉を拾った。
「萌江さん…………〝蛇の会〟のトップが楓であっても……いえ、だからこそ、私たちの中心はあなたです……そして、全員があなたの人生を背負います」
「…………わたしは…………」
萌江のそんな小さな言葉の後、その目の前で、西沙が膝を曲げて視線を落としていた。
「萌江……〝記録を見て自分の決断を知る〟か……〝記録を見ずに自分で決断する〟か…………自分で決めて」
そして膝を伸ばして続ける。
「私はこれから恵麻に会ってくる。恵麻が〝カバネの社〟で得た情報を聞かなきゃならない…………それがなければ……この一件は終わらない…………」
その西沙が歩き始めると、すぐに萌江に声を掛けたのは杏奈だった。
「……大丈夫ですよ……みんな萌江さんを信じられるから、隣にいるんです」
そして西沙の後ろを追いかける。
再び、毘沙門天神社の本殿が静かになった。
早朝の涼しい風が流れる祭壇前。
萌江は、隣の咲恵の手に自分の手を重ねる。
そこから感じられる咲恵の気持ちを確認して、それから口を開いた。
「……楓ちゃん…………行ける?」
その言葉に、楓の口角が上がる。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二五部「黒い点」第5話へつづく 〜