第十部「鬼と悪魔の爪」第2話
文字数 8,966文字
春が近付くと同時に、少しずつ日が長くなるのを感じる。
夕方の四時といえば真冬であればすでに薄暗い。
しかしこの時期になるとまだ旅館の窓から差し込む陽はそれほど傾いてはいない。
時々雪がパラつく程度の季節。
今夜の天気予報も短時間だけではあったが雪マーク。
萌江 が二人をわざわざこの地に呼び出した理由は単純だった。本来ならばここに来る前に話を聞いてきても良かったはず。しかし、萌江 の見た未来にその選択肢はない。
──……これには……必ず意味がある…………
萌江 はそう思っていた。
温泉旅館では別室が用意された。
通常の客室とはいえ、それなりの広さがある。
そして、満田 と共にやってきた二人には年齢だけではない疲労が見えた。
源田重三郎 ──七八才。元大工。
渡辺優次 ──五三才。土木会社社長。
最初に切り出したのは咲恵 だった。
「お二人は、この村にいた時には面識は無かったと聞いていますが…………」
現在ここは吸収合併されたことで〝市〟となっている。しかし古くからここにいる人たちは未だにこの地のことを〝村〟と呼ぶ慣例があるようだ。田舎ではよくあること。地元の人たちとの会話でそれが分かっていた咲恵 も、あえて分かりやすいように〝村〟と表現した。
そしてそれにゆっくりと応えたのは優次 。満田 に最初に今回の話を持ち込んだ人物だ。
「……はい…………私は大学の入学と同時に引っ越して、それ以来、生活の拠点はここではありません。三つ上の兄がいましてね。実家には今もその兄が…………」
「俺も同じだ」
そう言って続けるのは隣の重三郎 。
元大工という割には痩せて見える。肩や首の筋肉が未だに残っているところから分かるのは、その痩せ方は加齢だけではないということ。
「一つ上の兄貴がここの実家にいる。孫もいるよ…………俺は中学を出てすぐに大工になった…………優次 に会ったのはだいぶ経ってからだったが、街に出てからだな」
「同郷だったので仲良くなりましてね…………源田 さんが引退してからもよく一緒に呑みに行ってました」
そう言って話を繋げたのは優次 だった。
それに咲恵 が返す。
「……夢に〝鬼〟が出始めたのは三ヶ月ほど前と聞きましたが…………」
返すのは優次 。
「そうですね…………そのくらいです」
「源田 さんもですか?」
すると重三郎 もすぐに返した。
「そうだな…………そのくらいだと思う。二ヶ月くらいした頃に優次 が来て、その時に聞いたが…………まさか同じ夢を見てるとはな…………確かに昔話というか〝鬼神 の呪い〟のことは子供の頃から知ってはいたよ。でも祠 があるって言ったって、鬼がリアルなものと思ったことはさすがに無い」
「まあ、そうでしょうね」
そう咲恵 が返した時、それに繋げたのは萌江 だった。
「最近……インターネットのせいだと思うんですけど、変にオカルトブームみたいになってましてね…………よくある心霊スポットみたいな場所も人気みたいですけど、ここのような伝説系も一定の人気はあるみたいです。鬼神山 の祠 の話がネットで言われるようになったのは三ヶ月くらい前…………」
「はい…………」
そう応えた優次 が続ける。
「最初は、単純に懐かしいと思いました……故郷の話ですから…………でもそれだけで、どうして二人が〝鬼に殺される夢〟を見るのか…………」
「確かに、ただの潜在意識的な物である可能性は事実としてあります。ですが…………」
すると萌江 は、少し間を開けてから続けた。
「……お二人が、ここに来た理由にも、意味があると思っています…………私自身、伝承が真実だとは思っていません。妖怪としての鬼がいたとも思っていません。しかし、伝承から続く〝祟り〟は…………事実でした」
すると、優次 が返す。
「そんな……鬼なんて────」
「いえ、鬼ではありません…………〝祟 り〟の部分です。鬼を退治した大谷城御寧 の末裔 に対する祟 りです。確かに…………大谷城 家の男は全員……一才を迎える前に死んでいます」
「本当のことなんですか……?」
さすがに優次 もそう言って目を丸くした。
「今日、市役所に行って裏は取りました。遡 れるのは明治まででしたが」
その萌江 の言葉を聞いた優次 も、隣の重三郎 も言葉を失う。
萌江 が更に続ける。
「オカルト好きでもそこまで調べる人はいないでしょうし、普通に考えて事実とは思わない。何代にも渡ってですからね…………私たちとしては祠 を見るよりも、まずそれが事実かどうかを調べたかったんです。そこが崩れてしまっては呪いも祟 りもありませんからね。ただの伝承で終わります。祠 には明日行ってきますよ。お二人にはお伝えしていたように、あと少しだけこの温泉旅館でゆっくりなさってください。いい温泉ですよ。何か進展があったらお伝えします」
「私たちは何をすれば…………」
不安気に言葉を返す優次 に、萌江 は笑顔で返した。
「お二人には必ず協力して頂く時が来ます。それまでは、少し体を休めて下さい」
そこに挟まったのは、やりとりを見守っていた満田 だった。
「任せて問題ありませんよ。いずれ分かりますから」
もちろん満田 にも先のことは分からない。信頼から来る言葉だ。
二人は満田 と三人で旅館に部屋をとった。
そして、部屋に戻った萌江 と咲恵 は、意外な人物からロビーに呼び出される。
温泉旅館と言っても和風のリゾートホテルのような所だ。ロビーも狭くはない。
そのロビーの喫茶スペースで手を振るのは杏奈 だった。
「どうしてここにいるのよ」
そう声を上げる萌江 に杏奈 は笑顔で返す。
「だって咲恵 さんのお店に行ったらここだって聞いたんですもん」
咲恵 は当然店に宿泊先の情報は伝えてあった。緊急用としてだが、最近口うるさくなってきた由紀 用でもある。
萌江 と咲恵 が向かいの席に座ると、杏奈 の隣には女性が一人。グレーのワンピースを着た落ち着いた印象の女性だった。年齢は杏奈 と同じくらい。三〇前後に見える。その女性は節目がちにテーブルに視線を落としている。
萌江 はコーヒーを注文するとすぐに返した。
「緊急? ちょっと大きな仕事抱えてるんだけど」
「〝鬼神 の呪い〟ですか?」
「さすがオカルトライター」
「場所聞いただけですぐに分かりましたよ。でもどんな繋がりですか?」
「ちょっとね」
「私もその繋がりなんですけど…………興味あります?」
「へえー」
萌江 も咲恵 も当然のように杏奈 の隣の女性が気になった。
そして萌江 が続ける。
「話しだいかなあ」
「伝承の話はもうご存知ですよね」
意気揚々と話す杏奈 に、萌江 はあくまで冷静なまま。
「色々と調べさせてもらったよ」
「じゃあ…………大谷城 家については…………」
「まあ、色々とね」
「では、これから大谷城 家を継ぐことになる女性をご紹介します」
杏奈 は隣の女性に手を向けて続けた。
「……大谷城 ……恵那 さんです」
萌江 と咲恵 が女性に目をやると、やっとその女性が顔を上げる。
その目からは負の感情が見て取れた。決して笑顔ではない。僅かに怯えた唇が開きかける。
その時、萌江 と咲恵 の前にコーヒーが届けられた。テーブルの上にコーヒーの香りが広がる。マグカップも旅館のコンセプトに合わせてか和風なデザイン。
その湯気の向こうの女性────恵那 は、小さく頭を下げた。
そこに萌江 が口を開く。
「杏奈 ちゃん……相変わらずいい仕事するねえ。本職なんだっけ」
杏奈 が即答する。
「写真家です」
そこに咲恵 。
「じゃオカルトライターの杏奈 ちゃん、説明してくれる?」
咲恵 はそう言うと、ゆっくりとコーヒーを口に入れる。
杏奈 は咲恵 の言葉を全く気にする様子もなく返した。
「まあブームに乗って取材してたんですけどね…………取材してたら逆に相談されまして……」
「ふーん」
そう挟まった萌江 が続ける。
「実は今日、戸籍とか調べさせてもらったんだけど…………相談するってことは、やっぱり〝大谷城 家に伝わる祟 り〟のこと?」
その萌江 の口元に笑みが浮かぶ。
すると、恵那 の震える唇が小さく動いた。
「…………はい…………あの話は……本当です…………」
か細い声だった。
ロビーを囲う大きなガラスから入るのはすでに月明かり。不思議と空気ですら静かに感じる時間。
──……あの女の人か…………
萌江 は市役所で見た資料を思い出していた。
「……私は今……二九ですが…………二つ下の弟は数ヶ月で亡くなったそうです…………母にも兄が二人いました…………どちらも一年もせずに亡くなっています…………祖母の兄も同じだそうです…………ですので、祖父も父も婿養子です…………私にも婚約者がいます…………婿養子として家に入ってもらうことは、なんとか承諾してもらいましたが…………祟 りと言いますか…………呪いの話をした途端に向こうの家とも……こう……なんと言いますか色々とゴタゴタし始めまして…………」
結婚となると、両家が絡むこと。言いにくいこともあるのだろう。そこまでの大きな家とは違うとは言っても萌江 も結婚と離婚を経験した身。僅かでも理解は出来る。
口籠 もり始めた恵那 の言葉を、萌江 が拾った。
「その呪いを…………何とかしてほしいと?」
「…………はい…………私が子供を産んでも同じになるかもしれません…………そう思うと……正直怖いんです…………」
「今までにお祓 いとかは…………」
「いえ、一度も無いそうです…………そういったことをすると、さらに呪いが強まると言われているそうでして…………」
──……根が深いねえ…………
「分かった────杏奈 ちゃん、この話は私たちが受けるよ」
「さすが」
途端に明るくなった表情の杏奈 の横で、恵那 が顔を上げる。瞼 が大きく上がった。
そして萌江 が続ける。
「その代わり…………恵那 さん…………大谷城 家に入らせてもらえる? お母さんとおばあさんから直接話を聞きたい」
すると、少しだけ力の籠 った恵那 の声。
「分かりました……時間は作ります」
「実は明日の昼前に祠 を見に行くんだけど…………その後はどう? 午後一時くらいとかで」
「何とかします」
「決まったら杏奈 ちゃんに伝えて。確か大谷城 家はあの山の麓 のお屋敷でしょ? で、杏奈 ちゃんの今夜の宿は?」
すると、杏奈 がニヤニヤとしながら小さく応えた。
「どこが……いいですかねえ。温泉旅館とかいいなあって…………」
「明日、祠 まで付き合うならもう一部屋取るよ」
「喜んでお付き合いします」
そして、そのやりとりを聞いていた咲恵 が呟く。
「いい客よねえ」
☆
標高は決して高くはない。
その小さな山は、それ自体が信仰の対象となっていた。
鬼の遺体を埋めた頂上に祠 を建てた〝鬼神山 〟。
山を少し登ると、すぐに山全体を囲む木の杭が現れる。高さはおよそ二メートル。幅は五〇センチほどになる大きな杭が二メートルから三メートルの間隔を空けて並んでいた。
そして山の入り口には大きな鳥居が建ち、人に管理されていない深い森に覆われた山の唯一の入り口となっている。
角度の緩やかな内は草木の生えていない道がそのまま続いていたが、角度の増す中腹くらいからは木で作られた階段となる。その総ての物理的な管理は古くから大谷城 家が行っていた。しかし決して管理が行き届いているとも言い難い。鳥居から階段に至るまで、老朽化は否めなかった。
それでも山に立ち入る者は大谷城 家の人間くらいなものだ。簡単な清掃とお供物の交換に入る程度らしい。
そのくらいに〝鬼神 の呪い〟の伝承は、ただの昔話となっていた。
もっとも二一世紀のこの時代に真剣に信じるほうが難しいだろう。
それでも、大谷城 家の人間だけは真剣だったのかもしれない。
その日も小さな雪の粒が舞う。
僅かな肌寒さを感じながら、萌江 と咲恵 、その後ろに杏奈 が続いて階段を登っていた。
角度を緩和するためか、道は真っ直ぐに頂上へと向かっているわけではない。何度も湾曲しながら続いていた。結果的に距離は長くなる。マップで確認したおおよその距離は三キロ。当然の登り坂であることを考慮に入れると決して楽な距離ではなかった。
「…………まだ寒いこの時期に…………体がこんなに熱くなるなんて…………スニーカーにして良かったけど…………」
大き目の吐息混じりに咲恵 がそう言いながら足を止める。これを想定して昨日の市役所の帰りにスニーカーは買っておいた。いくら小さいとは言っても山登りには違いない。
そのすぐ後ろでやはり肩で息をしながら萌江 が返した。
「……飲み物持ってきて…………良かったね…………」
しかし同じく足を止めた萌江 のペットボトルの水はすでに半分を切っている。
後ろの杏奈 も足を止めて階段に座り込んだ。
それを見た萌江 が、同じように座り込んで続けた。
「……さすがに若くないねえ…………」
「まあ…………少し休憩してからね…………」
返した咲恵 も座り込む。
そして続けた。
「観光地じゃないからね…………こりゃ地元の人だって来ないはずだわ…………」
それに返したのは杏奈 だった。
「……昔と違って…………信仰を続けてたのは大谷城 家だけだったみたいですよ…………」
「それなのに…………」
そう呟くように言った萌江 がゆっくり続ける。
「…………どうしてまた騒がれ出したのかな…………幽霊騒ぎでもないのに…………」
すると、その背後からの咲恵 の声。
「……確かに…………あまりいい雰囲気の場所じゃないけど…………」
「何か見える…………?」
そう返した萌江 に、咲恵 もすぐに応える。
「……うん……ぼんやりとね…………」
「じゃ、やっぱり登るしかないね」
萌江 は立ち上がるとペットボトルの水を喉に押し込んだ。
やがて、そこから更に二〇分程階段を登った頃、やっと目の前に祠 が現れる。
周囲は砂利が敷き詰められているが、もちろんそれが真新しい物でないことはすぐに分かった。所々雑草が顔を出している程度から、定期的に整備されていることが伺える。
車では登っては来れない山。徒歩で三キロの山道を登らなければならない。
大谷城 家はそれだけの苦労をしてまで長年に渡って祠 を守り続けてきた。それだけの足枷 とは一体何だろうかと、萌江 はそれが気になった。その上で、この山の頂上に実際に足を運ぶ必要があると判断した。
──……ここには……必ず何かがある…………
小さな祠 だった。
古くには防水用の漆 が塗られていたであろうことは見てとれたが、そのほとんどは剥がれたままだ。
萌江 は格子状になった観音開きの扉を開けた。
鍵は無い。
扉自体も重くはない。
中には水だと思われるラベルの無い小さなペットボトル、日本酒の一合瓶。
そしてその奥には木彫りの像。更にその奥には色褪せたお札が二枚。
覗き込む萌江 の後ろから声をかけたのは杏奈 だった。
「お地蔵様ですか?」
「…………違う…………」
そう応える萌江 の声は低い。
その声が続いた。
「……鬼だ…………」
そこにあるのは、明らかに手彫りと思われる鬼の像だった。
作りは荒い。素人作りにも見える。長い時間の空気の流れに削られたのか表情も分からない。
それでも頭の上の二本のツノは、それが鬼を模した物であることを表していた。
萌江 が口を開く。
「杏奈 ちゃん……写真お願いね。記事のためにも必要でしょ」
「お任せを」
杏奈 は首にぶら下げた重そうな一眼レフを構えた。そこはさすがにプロ。手の動きは早い。
萌江 はその横で立ち上がると、振り返って声を上げた。
「咲恵 ────どう?」
咲恵 は二人の後ろで立ち尽くしていた。目を瞑 って空を仰いだまま。
すでに咲恵 には見えていた。
「…………嫌だな…………これ…………」
咲恵 が小さく呟く。
そして続けた。
「……ホントに埋まってる…………でも鬼じゃない…………〝人間〟…………」
反射的に返したのは振り返った杏奈 。
「────人間⁉︎」
すぐに萌江 が返す。
「伝承ってそういうものだよ…………やっぱりって感じかな……裏を取りたいね…………」
そして萌江 は、咲恵 の手を握る。
まるで実体を伴っているかのように、そのイメージが萌江 の中に流れ込んだ。
一瞬だけ、萌江 は立ちくらみのような感覚に体を震わせる。
直後、崩れ落ちるように萌江 に体を預ける咲恵 。その体を支えながら、萌江 が咲恵 の耳元で口を開いた。
「昔の話だけじゃないね…………」
そして、帰ってくるのは、咲恵 の小さな声。
「…………うん…………今も……………………」
その時、二人の耳に届いた小さな音が、なぜか神経を突いた。
足音。
萌江 が階段のほうに目をやると、そこに立っていたのは若い男性だった。
線の細い印象を感じる。
それほど身長は高くなかった。
目元は柔らかい。
半ば呆然と三人のことを見ながら、その目は少し驚いているようにも見えた。
その男性の口がゆっくりと動く。
「……すいません…………誰もいないと思ってまして…………」
それに素早く返したのは、萌江 と咲恵 を隠すように男性の前に駆け出した杏奈 だった。
「あ、やっぱり珍しいんですかね……取材で初めて来たので…………」
そう言いながら杏奈 は笑顔を向けた。
それにホッとしたのか、男性も軽く口元を緩めながら応える。
「……あの……そうでしたか…………私も初めて来たので…………」
「地元の方ですか?」
杏奈 は素早く返しながら、男性の意識を自分に集中させる。フリーのジャーナリストならではの勘と判断の速さなのだろうか、経験から、咲恵 の状態に不信感を抱かれたくないと感じていた。
男性も杏奈 の気さくさに気持ちを緩めながら返す。
「産まれはここですけど…………少し前に街から帰ってきたばかりでして…………」
「ってことは、ここのことは…………」
「もちろん知ってはいました」
男性は軽く腰を曲げて祠 を覗き込みながら続けた。
「…………ただの昔話だと思っていたんですけどね…………」
「………違うんですか?」
「……いや…………昔話でしょうね……有り得ない…………」
──…………?
杏奈 はさらに踏み込む。
「地元の人に色々と地元の伝承とかのお話を伺ってたんですが…………何か地元の人じゃないと知らないことでもあれば…………」
「私……ですか…………?」
男性が顔を上げてそう応えると、杏奈 は畳みかけた。
「ここに帰ってきたのは────」
「三ヶ月くらい前ですかね…………大学病院で医者をしていたんですが、こっちに開業予定でして…………」
「お医者さんなんですか⁉︎」
「はい…………父も医者でしたので、科は違いますが…………父は産婦人科で、私は内科です」
男性の口が回り始める。
「ご結婚は?」
「はい……それもあって帰ってきました」
その時、萌江 の声が飛んできた。
「杏奈 ちゃん」
手招きをする萌江 に杏奈 が近付くと、その耳元で萌江 が囁 く。
「……先に大谷城 家に行ってる…………そこの人…………〝核〟になるかもしれない…………連絡取れるようにしておいて…………」
「お任せを」
そう言って杏奈 はカメラからSDカードを取り出すと、萌江 に手渡した。
☆
男の家は代々医者として繋がれてきた家だった。
千田雄一 ────二七才。
産婦人科の開業医として地元で長く信頼を集めてきた父を慕い、同じく医師の道を目指した。
父とは違う内科での開業医として共に地元を支えていくのが夢だったが、父は二年前、まだ若くしてこの世を去った。
それでも雄一 は母の安江 を一人残すのは忍びないと、婚約者を連れて地元に帰ってきた。春には開業できる予定で、その前には正式に籍も入れる予定となっていた。
雄一 は千田 家の一人息子だった。
すでに実家での母と三人の生活が始まっていたが、雄一 は一つのことに悩まされていた。
地元に帰ってきた頃から、嫌な夢を見るようになっていた。
毎日というわけではないが、うなされることもある。
ほとんど影のような印象しかないが、それは間違いなく〝鬼〟。
その鬼に殺される夢だ。
鬼といえば、確かに地元には古くから伝わる伝承がある。しかし鬼にまつわる昔話を真剣に信じたこともなく、そもそもが詳しく考えたこともなかった。
その日、初めて祠 を見るまで、そこに何があるのかさえ知らなかった。
しかし、その祠 の中にあった物は、間違いなく夢に出てきた〝鬼〟そのもの。
もしかしたら、以前に写真で見たことがあるのかもしれないと雄一 は考えた。大して意識していないままに脳内に刷り込まれ、それが環境が変わったストレスで形として再現されているに違いないと考えていた。
人間の心理とは、時に複雑で、同時に単純なものだ。
雄一 も仕事柄そういったことには何度も触れてきた。
生活が落ち着けば、やがて夢を見ることもなくなるのだろうと、あまり深くは考えなかった。
それなのに、以前から雄一 は祠 を訪ねてみたくて仕方がなかった。そして、事実として夢の中の鬼がそこにいた。
今週、婚約者は実家に里帰りをしていた。同じ医療従事者でもある。開業後にゆっくり帰れることも少なくなるだろうからとの判断だった。
雄一 はそのタイミングで祠 を訪ねてみることを決めていた。
そして、タイミングを見計らっていたのは、雄一 の母も同じだった。
「もう式場の準備も問題ないわね…………何か忘れてることはないの?」
夕食時のそんな母の言葉に、雄一 は笑顔で返していた。
「大丈夫だよ母さん。後は当日を迎えるだけだ。病院ももう完成するしね。母さんには色々とバックアップしてもらって……ありがたいと思ってるよ」
「一人息子ですもの…………」
そう応えた母の安江 は、箸 を揃え、箸 置きに横たわらせると、ゆっくりと視線を落とした。
「今日はね…………お前に言っておかなければいけないことがあるの…………」
その声のトーンからか、雄一 も何かを感じ取り、手にしていた小鉢を置いた。
「どうしたの? 母さん…………」
その声に、安江 は顔を上げて口を開いた。
「あなたは…………養子です。血の繋がりはないの…………生後半年くらいだったあなたは、タオルに包まれ、紙袋に入れられて、手紙と共にお父さんの病院の前に置かれていたの…………」
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十部「鬼と悪魔の爪」第3話へつづく 〜
夕方の四時といえば真冬であればすでに薄暗い。
しかしこの時期になるとまだ旅館の窓から差し込む陽はそれほど傾いてはいない。
時々雪がパラつく程度の季節。
今夜の天気予報も短時間だけではあったが雪マーク。
──……これには……必ず意味がある…………
温泉旅館では別室が用意された。
通常の客室とはいえ、それなりの広さがある。
そして、
最初に切り出したのは
「お二人は、この村にいた時には面識は無かったと聞いていますが…………」
現在ここは吸収合併されたことで〝市〟となっている。しかし古くからここにいる人たちは未だにこの地のことを〝村〟と呼ぶ慣例があるようだ。田舎ではよくあること。地元の人たちとの会話でそれが分かっていた
そしてそれにゆっくりと応えたのは
「……はい…………私は大学の入学と同時に引っ越して、それ以来、生活の拠点はここではありません。三つ上の兄がいましてね。実家には今もその兄が…………」
「俺も同じだ」
そう言って続けるのは隣の
元大工という割には痩せて見える。肩や首の筋肉が未だに残っているところから分かるのは、その痩せ方は加齢だけではないということ。
「一つ上の兄貴がここの実家にいる。孫もいるよ…………俺は中学を出てすぐに大工になった…………
「同郷だったので仲良くなりましてね…………
そう言って話を繋げたのは
それに
「……夢に〝鬼〟が出始めたのは三ヶ月ほど前と聞きましたが…………」
返すのは
「そうですね…………そのくらいです」
「
すると
「そうだな…………そのくらいだと思う。二ヶ月くらいした頃に
「まあ、そうでしょうね」
そう
「最近……インターネットのせいだと思うんですけど、変にオカルトブームみたいになってましてね…………よくある心霊スポットみたいな場所も人気みたいですけど、ここのような伝説系も一定の人気はあるみたいです。
「はい…………」
そう応えた
「最初は、単純に懐かしいと思いました……故郷の話ですから…………でもそれだけで、どうして二人が〝鬼に殺される夢〟を見るのか…………」
「確かに、ただの潜在意識的な物である可能性は事実としてあります。ですが…………」
すると
「……お二人が、ここに来た理由にも、意味があると思っています…………私自身、伝承が真実だとは思っていません。妖怪としての鬼がいたとも思っていません。しかし、伝承から続く〝祟り〟は…………事実でした」
すると、
「そんな……鬼なんて────」
「いえ、鬼ではありません…………〝
「本当のことなんですか……?」
さすがに
「今日、市役所に行って裏は取りました。
その
「オカルト好きでもそこまで調べる人はいないでしょうし、普通に考えて事実とは思わない。何代にも渡ってですからね…………私たちとしては
「私たちは何をすれば…………」
不安気に言葉を返す
「お二人には必ず協力して頂く時が来ます。それまでは、少し体を休めて下さい」
そこに挟まったのは、やりとりを見守っていた
「任せて問題ありませんよ。いずれ分かりますから」
もちろん
二人は
そして、部屋に戻った
温泉旅館と言っても和風のリゾートホテルのような所だ。ロビーも狭くはない。
そのロビーの喫茶スペースで手を振るのは
「どうしてここにいるのよ」
そう声を上げる
「だって
「緊急? ちょっと大きな仕事抱えてるんだけど」
「〝
「さすがオカルトライター」
「場所聞いただけですぐに分かりましたよ。でもどんな繋がりですか?」
「ちょっとね」
「私もその繋がりなんですけど…………興味あります?」
「へえー」
そして
「話しだいかなあ」
「伝承の話はもうご存知ですよね」
意気揚々と話す
「色々と調べさせてもらったよ」
「じゃあ…………
「まあ、色々とね」
「では、これから
「……
その目からは負の感情が見て取れた。決して笑顔ではない。僅かに怯えた唇が開きかける。
その時、
その湯気の向こうの女性────
そこに
「
「写真家です」
そこに
「じゃオカルトライターの
「まあブームに乗って取材してたんですけどね…………取材してたら逆に相談されまして……」
「ふーん」
そう挟まった
「実は今日、戸籍とか調べさせてもらったんだけど…………相談するってことは、やっぱり〝
その
すると、
「…………はい…………あの話は……本当です…………」
か細い声だった。
ロビーを囲う大きなガラスから入るのはすでに月明かり。不思議と空気ですら静かに感じる時間。
──……あの女の人か…………
「……私は今……二九ですが…………二つ下の弟は数ヶ月で亡くなったそうです…………母にも兄が二人いました…………どちらも一年もせずに亡くなっています…………祖母の兄も同じだそうです…………ですので、祖父も父も婿養子です…………私にも婚約者がいます…………婿養子として家に入ってもらうことは、なんとか承諾してもらいましたが…………
結婚となると、両家が絡むこと。言いにくいこともあるのだろう。そこまでの大きな家とは違うとは言っても
「その呪いを…………何とかしてほしいと?」
「…………はい…………私が子供を産んでも同じになるかもしれません…………そう思うと……正直怖いんです…………」
「今までにお
「いえ、一度も無いそうです…………そういったことをすると、さらに呪いが強まると言われているそうでして…………」
──……根が深いねえ…………
「分かった────
「さすが」
途端に明るくなった表情の
そして
「その代わり…………
すると、少しだけ力の
「分かりました……時間は作ります」
「実は明日の昼前に
「何とかします」
「決まったら
すると、
「どこが……いいですかねえ。温泉旅館とかいいなあって…………」
「明日、
「喜んでお付き合いします」
そして、そのやりとりを聞いていた
「いい客よねえ」
☆
標高は決して高くはない。
その小さな山は、それ自体が信仰の対象となっていた。
鬼の遺体を埋めた頂上に
山を少し登ると、すぐに山全体を囲む木の杭が現れる。高さはおよそ二メートル。幅は五〇センチほどになる大きな杭が二メートルから三メートルの間隔を空けて並んでいた。
そして山の入り口には大きな鳥居が建ち、人に管理されていない深い森に覆われた山の唯一の入り口となっている。
角度の緩やかな内は草木の生えていない道がそのまま続いていたが、角度の増す中腹くらいからは木で作られた階段となる。その総ての物理的な管理は古くから
それでも山に立ち入る者は
そのくらいに〝
もっとも二一世紀のこの時代に真剣に信じるほうが難しいだろう。
それでも、
その日も小さな雪の粒が舞う。
僅かな肌寒さを感じながら、
角度を緩和するためか、道は真っ直ぐに頂上へと向かっているわけではない。何度も湾曲しながら続いていた。結果的に距離は長くなる。マップで確認したおおよその距離は三キロ。当然の登り坂であることを考慮に入れると決して楽な距離ではなかった。
「…………まだ寒いこの時期に…………体がこんなに熱くなるなんて…………スニーカーにして良かったけど…………」
大き目の吐息混じりに
そのすぐ後ろでやはり肩で息をしながら
「……飲み物持ってきて…………良かったね…………」
しかし同じく足を止めた
後ろの
それを見た
「……さすがに若くないねえ…………」
「まあ…………少し休憩してからね…………」
返した
そして続けた。
「観光地じゃないからね…………こりゃ地元の人だって来ないはずだわ…………」
それに返したのは
「……昔と違って…………信仰を続けてたのは
「それなのに…………」
そう呟くように言った
「…………どうしてまた騒がれ出したのかな…………幽霊騒ぎでもないのに…………」
すると、その背後からの
「……確かに…………あまりいい雰囲気の場所じゃないけど…………」
「何か見える…………?」
そう返した
「……うん……ぼんやりとね…………」
「じゃ、やっぱり登るしかないね」
やがて、そこから更に二〇分程階段を登った頃、やっと目の前に
周囲は砂利が敷き詰められているが、もちろんそれが真新しい物でないことはすぐに分かった。所々雑草が顔を出している程度から、定期的に整備されていることが伺える。
車では登っては来れない山。徒歩で三キロの山道を登らなければならない。
──……ここには……必ず何かがある…………
小さな
古くには防水用の
鍵は無い。
扉自体も重くはない。
中には水だと思われるラベルの無い小さなペットボトル、日本酒の一合瓶。
そしてその奥には木彫りの像。更にその奥には色褪せたお札が二枚。
覗き込む
「お地蔵様ですか?」
「…………違う…………」
そう応える
その声が続いた。
「……鬼だ…………」
そこにあるのは、明らかに手彫りと思われる鬼の像だった。
作りは荒い。素人作りにも見える。長い時間の空気の流れに削られたのか表情も分からない。
それでも頭の上の二本のツノは、それが鬼を模した物であることを表していた。
「
「お任せを」
「
すでに
「…………嫌だな…………これ…………」
そして続けた。
「……ホントに埋まってる…………でも鬼じゃない…………〝人間〟…………」
反射的に返したのは振り返った
「────人間⁉︎」
すぐに
「伝承ってそういうものだよ…………やっぱりって感じかな……裏を取りたいね…………」
そして
まるで実体を伴っているかのように、そのイメージが
一瞬だけ、
直後、崩れ落ちるように
「昔の話だけじゃないね…………」
そして、帰ってくるのは、
「…………うん…………今も……………………」
その時、二人の耳に届いた小さな音が、なぜか神経を突いた。
足音。
線の細い印象を感じる。
それほど身長は高くなかった。
目元は柔らかい。
半ば呆然と三人のことを見ながら、その目は少し驚いているようにも見えた。
その男性の口がゆっくりと動く。
「……すいません…………誰もいないと思ってまして…………」
それに素早く返したのは、
「あ、やっぱり珍しいんですかね……取材で初めて来たので…………」
そう言いながら
それにホッとしたのか、男性も軽く口元を緩めながら応える。
「……あの……そうでしたか…………私も初めて来たので…………」
「地元の方ですか?」
男性も
「産まれはここですけど…………少し前に街から帰ってきたばかりでして…………」
「ってことは、ここのことは…………」
「もちろん知ってはいました」
男性は軽く腰を曲げて
「…………ただの昔話だと思っていたんですけどね…………」
「………違うんですか?」
「……いや…………昔話でしょうね……有り得ない…………」
──…………?
「地元の人に色々と地元の伝承とかのお話を伺ってたんですが…………何か地元の人じゃないと知らないことでもあれば…………」
「私……ですか…………?」
男性が顔を上げてそう応えると、
「ここに帰ってきたのは────」
「三ヶ月くらい前ですかね…………大学病院で医者をしていたんですが、こっちに開業予定でして…………」
「お医者さんなんですか⁉︎」
「はい…………父も医者でしたので、科は違いますが…………父は産婦人科で、私は内科です」
男性の口が回り始める。
「ご結婚は?」
「はい……それもあって帰ってきました」
その時、
「
手招きをする
「……先に
「お任せを」
そう言って
☆
男の家は代々医者として繋がれてきた家だった。
産婦人科の開業医として地元で長く信頼を集めてきた父を慕い、同じく医師の道を目指した。
父とは違う内科での開業医として共に地元を支えていくのが夢だったが、父は二年前、まだ若くしてこの世を去った。
それでも
すでに実家での母と三人の生活が始まっていたが、
地元に帰ってきた頃から、嫌な夢を見るようになっていた。
毎日というわけではないが、うなされることもある。
ほとんど影のような印象しかないが、それは間違いなく〝鬼〟。
その鬼に殺される夢だ。
鬼といえば、確かに地元には古くから伝わる伝承がある。しかし鬼にまつわる昔話を真剣に信じたこともなく、そもそもが詳しく考えたこともなかった。
その日、初めて
しかし、その
もしかしたら、以前に写真で見たことがあるのかもしれないと
人間の心理とは、時に複雑で、同時に単純なものだ。
生活が落ち着けば、やがて夢を見ることもなくなるのだろうと、あまり深くは考えなかった。
それなのに、以前から
今週、婚約者は実家に里帰りをしていた。同じ医療従事者でもある。開業後にゆっくり帰れることも少なくなるだろうからとの判断だった。
そして、タイミングを見計らっていたのは、
「もう式場の準備も問題ないわね…………何か忘れてることはないの?」
夕食時のそんな母の言葉に、
「大丈夫だよ母さん。後は当日を迎えるだけだ。病院ももう完成するしね。母さんには色々とバックアップしてもらって……ありがたいと思ってるよ」
「一人息子ですもの…………」
そう応えた母の
「今日はね…………お前に言っておかなければいけないことがあるの…………」
その声のトーンからか、
「どうしたの? 母さん…………」
その声に、
「あなたは…………養子です。血の繋がりはないの…………生後半年くらいだったあなたは、タオルに包まれ、紙袋に入れられて、手紙と共にお父さんの病院の前に置かれていたの…………」
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十部「鬼と悪魔の爪」第3話へつづく 〜