第二部「冬桜のうたかた」第1話
文字数 11,416文字
あなたたちは誰?
どうして、
いつも、
そこにいるの?
☆
昭和四〇年。
戦争の終わりから二〇年。
歴史的に見れば、戦後の復興が終わり、高度経済成長が始まる時代。
しかし、歴史というものは教科書のように単純ではなかった。
敗戦と共に、日本は多くのものを失い、捨てた。戦争に負ける現実に総ての国民が翻弄された時代。誰もが綺麗事だけでは生きていけない。その日を生きることだけで命があることに感謝する。明日の補償のない世界から、誰もが抜け出せずにいた。
当然のように、いつも歴史には表と裏がある。
裏の時代。
法の整備など形だけ。
そんな世界から、少しずつ何かが変わり始めた時代でもある。
しかし、経由してきた歴史は簡単なものではない。
裏の世界と一般の人々との壁は薄い。
中岡安江 はそんな時代に産まれた。
多くの人々と同じように貧しい家だった。田舎の小さな街。田舎気質が残る閉鎖的な地域。
それでも小学校を経て無事に中学校を卒業することが出来た。
卒業式の翌日。
朝。
玄関を激しく叩く音。
すぐに安江 の鼓動が激しくなる。理由は分からない。理由は分からないが、不安に包まれた。
スーツ姿の大人の男たちが数名。
玄関先で両親が紙を見せられている。
「話はしてあるのか?」
男の声。
何かがおかしいことだけは分かった。
そして、母の声がする。
「安江 、おいで」
──……いやだ…………
母に腕を掴まれた。
その痛さが、全身の恐怖を刺激する。
「いや!」
もう片方の腕を男に掴まれた直後、自然と涙が溢れた。
「いや! お母さん!」
母が手を離す。
父は目を逸らした。
そして、それが両親との別れ。
両親の借金の形 。その時の安江 に意味を理解することは難しい。最後の両親の顔を、安江 はその先も忘れることが出来なかった。
無意識なのか意識的なのか、気が付いた時には、安江 は泣き叫んでいた。
泣き止んだのは、見知らぬ車の後部座席で頬を叩かれた時。
怖かった。
この時点で安江 は死んだことにされて戸籍からも抹消されていたことを、後で知ることになる。
大人に連れて行かれた所は街の繁華街の裏路地。
お腹が空いていた。
そう言えば、朝ご飯をまだ食べていなかった。
──……両親は…………どんな顔で朝ご飯を食べたのだろう…………
引きずられるように連れて行かれた。
髪の毛が痛い。
そこは、看板も無い、小さな店。
世の中の現実は、まだ暗かった。
☆
一二月も半ば。
火曜日の夜。
その夜は、夕方からの突然の大雪だった。
二時間程で、街は一面の雪景色。
交通機関は軒並み混乱し、そのことでニュースは埋め尽くされていた。
毎冬、雪の降り始めの頃は飲食店にとっては打撃が大きい。ある程度雪に慣れてしまえば人も再び動き始めるのだが、それまでは客商売も我慢の期間。まして夜の店の影響は顕著だった。
当然のように、マンションを出る時の咲恵 も今夜の閑散具合は覚悟していた。
──……ま、平日で良かったかな…………
そんなことを考えながら、真新しく積もったばかりの新雪を踏みしめた。あいにく、冬の到来を実感しても胸をときめかせる歳でもないと改めて感じていた。
──……萌江 の家も雪に埋まってそうだなあ…………
マンションから店までは歩いて五分程度。
雪のせいか、それほど昨日までと気温は変わらないにも関わらず、やはり寒く感じる。
店を始めて一年くらいになるが、思えば開店したのは去年の冬前。客が入り始めた頃にはすでに雪が積もり始めていた。
──……どうして…………
店の鍵を開けて入り口を開けると、途端に咲恵 の中に懐かしさが込み上げた。
小さな店とは言ってもテナントフロアの角。大きなガラスが二面の壁をL字に覆い、夜の街灯りが望めた。
雪はさっきから降り続いている。雪景色を見ながら歩いてきたのに、この店の入り口から見えるガラス越しの雪景色がなぜか郷愁 を感じさせた。
──……まだ二度目の冬なのにね…………
店内のエアコンのスイッチを入れると、三〇分もすると暖かくなる。狭い店内の強みだろう。
大まかな清掃は何か理由がない限りは閉店後に済ませるのがいつもの流れだった。店に来てからは細かい部分の清掃と在庫、スケジュール、シフトのチェック。必要であれば業者に連絡。
──……今日はこの雪だしねえ…………
あとは開店の一九時までカウンターの中でコーヒーを飲みながら他の従業員が来るのを待つだけ。
の、はずだった。
「来たぜ!」
その声と共に入り口を開けたのは萌江 。というよりも、そんなことをするのは萌江 くらいだとも言える。最近買ったばかりの真っ赤なロングコートに使い古したダークブラウンのサッチェルバッグを背負った萌江 がそこに立っていた。
「あら、こんな雪なのにどうやって────」
咲恵 のその声の最中、萌江 は珍しくカウンターの中に入り込む。そして咲恵 の体を壁に押し付けると、その唇をいきなり塞いだ。
──……やばい…………
そう思った咲恵 は、口の中に萌江 の舌が入り込んできたところで、やっと萌江 の体を少しだけ押し返していた。
──……店で舌はヤバいでしょ…………
そして萌江 が口を開く。
「どうして日曜日来てくれなかったの⁉︎」
「で……電話で理由は話したでしょ」
「怪しい」
「由紀 ちゃんが風邪で────」
「彼女と暮らしてるって言ってたじゃん」
「彼女が出張だって聞いたから…………」
「せっかくリビングと寝室をフローリングにして薪 ストーブまで設置して待ってたのに…………年明けには壁と水回りもリフォームする予定なのに…………どうして毎日通ってくれないの⁉︎」
「それは無理でしょ。コントのためにわざわざこんな大雪の日に…………」
「だって一週間以上も会えないと寂しいじゃん」
──……ま、可愛いから許すけど…………
「バスの暖房が効き過ぎでさあ」
萌江 はそう続けながらカウンターのいつもの定位置に回って続けた。
「山奥なんて遅れてくるのが当たり前だけど、さすがに今日はだいぶ遅れたねえ…………しかもこっちに来たら動かないし」
「無理もないよ。ついに積もったって感じだからね」
応えながら咲恵 は萌江 の前にコーヒーの入ったマグカップを出した。いつの間にか萌江 の専用マグカップが当たり前に常備されている。
よほど外が寒かったのか、コーヒーを口に運んで大きく息を吐いた萌江 が返した。
「温度や湿度が快適なバスって無理なのかなあ」
「私の軽自動車とは違って広いし、しかも前後のドアが長時間開いたり…………かなり難しいと思うよ。調整したってすぐに温度が変わるわけじゃないだろうし、温度控えめにすれば今度は寒いってクレームくるだろうし…………萌江 も車買ったらいいのに。好きでしょ?」
「やだ。咲恵 が来てくれなくなるじゃん」
「今度高級車のパンフレット持ってってあげる」
「いらない」
直後、入口ドアの鈴が鳴った。
懐かしい顔があった。
思わず咲恵 が声をあげる。
「みっちゃん!」
「その呼び方はやめてくれと言っただろ」
満田達夫 。年齢不明────おそらく六〇才前後。仕事は会計士をしていた。
咲恵 も萌江 も、この男のことはそのくらいしか知らない。以前、咲恵 がスナックで働いていた頃のその店の常連だった。
そして、初めて咲恵 と萌江 に〝仕事〟を持ち込んだ人物でもある。
二人に興味を抱き、二人を信頼して仕事を斡旋してきた。
しかし会計士という表の顔を持ちながら〝裏の仕事〟を世話する謎の人物であることは未だに変わらない。それでも会計士という仕事だからこその横の繋がりというものもあるのだろう。二人がこなした大口の客のほとんどは満田 の紹介だった。二人が満田 の恩恵に授っていたのは事実でもある。
咲恵 個人としても店の開店手続きの時にはだいぶ助けてもらっていた。
その満田 に咲恵 が笑顔で返していく。
「一年以上……じゃない? この店のオープン当初以来だよ。元気?」
「まあね…………もう少し早い時間のほうが私の場合は迷惑にならないだろうと思ったんだが…………道路が混んでいてね…………」
満田 はそう応え、萌江 の顔を見ながら続ける。
「…………恵元 さんも元気そうだ……」
「その呼び方嫌い────萌江 にして」
萌江 はそう応えると視線を外した。
「黒井 さんが嫉妬するから遠慮しておくよ」
満田 はそう返すと、カウンターの椅子に腰を降ろした。わざと萌江 との間に一つだけ椅子を開ける。
そして言葉を続けた。
「久しぶりに仕事を持ってきた。まだ廃業してないだろうね」
「出来るものなら廃業もやぶさかでない…………」
萌江 はガラス越しの降り続く雪を見ながら呟いていた。
満田 の言葉が続く。
「〝表〟のほうで付き合いのある人でね…………人気の下着メーカーの社長からだ…………いつも通り〝訳あり〟。だからここに来た。話を聞いた上で受けるなら…………前金で一〇〇…………私がすでに受け取ってる…………解決したなら、残りは言い値で構わないそうだ。二人が断るとは思っていないがね」
満田 は着たままのコートの内ポケットから分厚い封筒を取り出すと、萌江 との間のカウンターに置いた。
「私の取り分の一〇はすでに抜いた。話を聞くなら明日の一〇時にその会社の本社ビルにこの名刺を持って、来て欲しいと」
満田 がカウンターに置いた二枚の名刺を手に取り、それを眺めながら萌江 が返す。
「随分な根回しね…………こんな手の込んだことをしてまで?」
名刺には聞いたことのある雑誌社の名前。誰かの物だとは思われるが、つまりはその人物のフリをして来てほしいとのこと。名前は二枚とも女性の名前。
「依頼主の名前は橋田真梨子 ────五五才。令和元年だから……二年くらい前に会社を設立してから急成長した下着メーカー〝トレス・ベル〟の社長だ。去年には自社ビルまで建てた。最大の功労者は夫の隆三 ────六一才。広告代理店業界の中堅企業を経営してる。そして一人息子の圭一 ────二五才。去年の春に大学を卒業してから母親の立ち上げた会社で専務をやってる」
それに返したのは萌江 。
「順風満帆だね…………そんな素敵な家族の奥さんが言い値で心霊相談って?咲恵 ────今夜はブランデー」
萌江 はマグカップを差し出す。
それを受け取りながら咲恵 が小さく返した。
「はーい」
満田 の言葉が続く。
「問題はその息子だ。母親が言うには…………〝呪われている〟と言うことらしい。高熱や目眩で体調不良を起こしたのが一年以上前。病院に行っても原因は不明。お決まりの精神論だったそうだ。詳しくは教えてくれなかったが、母親が言うには〝おかしなこと〟を口走ることも多いと…………それを心霊現象と結び付けてるってことは、何か理由があるってことだ。そして、旦那にはくれぐれも秘密にしたいと…………」
萌江 の口元に軽く笑みが浮かんだ時、その目の前にブランデーのロックグラスが置かれた。振動で大きな氷が軽い音を響かせる。
「明日の一〇時?」
萌江 は柔らかいブランデーの香りを喉に押し込んで続けた。
「私たちにはちょっと早いけど…………たまたま今夜はここに来たし…………」
そして、咲恵 がそれに続けた。
「どうせ今夜は静かだよ。最後の掃除もすぐに終わるだろうし…………」
すると、萌江 はカウンターに置かれたままになっていた封筒を取り、自分の革製のサッチェルバッグにしまった。
そして満田 が立ち上がる。
「本社ビルの場所は調べればすぐに分かるよ。それじゃ…………何かあったらいつもの番号に…………」
そして満田 は店を出ていく。
それから最初に口を開いたのは咲恵 だった。
「今夜、ホテルとかとってないんでしょ?」
視線を外したままそう言う咲恵 に、ニヤニヤとしながら萌江 が返していく。
「どうしよっかなあ」
「…………泊まってきなさいよ」
「珍しいねえ、咲恵 ちゃん」
「萌江 が……舌なんか入れるから…………」
そう応えながら、咲恵 の顔が少し紅潮しているのが、薄暗い店内でも分かった。
☆
大学を中退し、アルバイトで生計を立てながら、萌江 は二二才になっていた。
そんな生活の間に一人の男性と付き合ったが、三ヶ月も経たずに男の目的は萌江 の体だけだったことが分かった。一度の浮気であっさりと萌江 は見限っていた。
──…………やっぱり…………一人の方が楽でいい…………
それほど失恋がキツいとは感じない。
もっと落ち込むものと想像していたのに、この不思議な感覚はなんだろう。その男には悪いが、一度も体を重ねることで満足したことはなかった。なぜか一人でもしたいと思わない。自分には性欲というものがないのかもしれないと思ったが、それで困ることもない。むしろ楽だった。
他人と関わることは相変わらず得意ではない。
いつも仕事から帰ると、一人で慣れないお酒を飲んで寝るだけ。
それでも、少しは何かを変えたい気持ちがあったのだろうか、仕事帰りにショットバーに通うようになる。様々な店に行って、自分に合う店を見つけようと思った。
萌江 にとってはちょっとした冒険心もあったのだろう。
どうせ趣味と呼べるものもない。
大抵の店で、何人もの男が声をかけてきた。
いつも素っ気なく躱 した。
バーのカウンターで一人で呑んでる若い女に声をかける男は体だけが目当て。それは萌江 の中で変わることはなかった。
〝面白くもないこと〟に時間を割く気にはなれない。
その夜も、萌江 は行ったことのない店を探していた。その頃手に入れたばかりのスマートフォンの便利さを実感しながらお店探しをすることが最近の楽しみになっていた。
やがて、レズビアンバーに辿り着く。
──……ここなら…………男が声をかけてくることはない…………
その店は、レズビアンでなくても女性なら入ることが出来た。
萌江 は迷わずその店のドアを開けた。
従業員も客も、どこを見ても女性ばかり。
──……みんな…………あれなのかな…………
「初めてですか?」
カウンターに座って最初に声をかけてきたのは若いバーテンダーだった。
「え? あ……はい」
「大丈夫ですよ。別に怖いお店じゃないですから」
そして急に顔を近付けたかと思うと、小声で続けた。
「ノーマルの女性もよく来ますから…………お客様は?」
──……いい匂い…………
冷静を保たせながら、萌江 が返す。
「私は…………そっちはまだ…………」
──そっちってなんだ?
するとバーテンダーは体を起こして続ける。
「普通のバーだと思ってゆっくりしてってください。素敵なお客様は大歓迎ですから」
そのバーテンダーの名前を聞いたのは、萌江 がその店に通うようになって五回目。
夏芽 。萌江 より三つ年上の二五才。
綺麗なストレートの明るい髪。少し赤みがかった髪質が、夏芽 のキレのある涼しげな目によく似合っていた。
仕事柄、萌江 が店の扉を開けるのはいつも深夜の二時を回っていた。萌江 のような夜型の人間には朝まで営業しているようなお店はありがたい。閉店時間は四時。
「お客さん、みんな帰っちゃいましたね」
夏芽 はカウンターの中でグラスを拭きながらそんなことを呟いた。
店内は静かだった。
萌江 もそれには気が付いていた。
夏芽 の声が、なぜかその夜は萌江 の気持ちに絡みつく。
「バイトもみんな帰っちゃった…………二人きりですね」
なぜか、萌江 の鼓動が早くなる。
──……私…………ドキドキしてる…………なんで?
「今日は早目に閉めちゃおっかなあ…………」
「じゃ…………私も…………」
萌江 が椅子から腰を浮かしかけ、それを夏芽 の声が止める。
「…………だめ」
──え?
夏芽 はカウンターの中から出ると、萌江 の横に立ち、萌江 の手に自分の手を重ねると、その耳元で囁 いた。
「…………なんでそんなこと言うの?」
夏芽 の手が離れた。
夏芽 はドアまで歩くと、二つある鍵を二箇所とも回す。
その背後からの音が、萌江 の中の何かを刺激した。
少しずつ近付いてくる夏芽 の足音が、まるで耳元でなっているような錯覚を覚える。
背後から這うような夏芽 の指が、首筋からでも萌江 の全身を刺激した。
夏芽 が萌江 の手に指を絡めると、萌江 は自分が抵抗する力を失っていることに気付いた。
──……気持ちいい…………
他人と唇を重ねることが、こんなに幸せを感じられることだと、その時初めて萌江 は知った。
全身が疼 いた。
どうなってもいいと思えた。
総てを預けたいとさえ思えた。
気付いた時には、萌江 は夏芽 の部屋のベッドの上。
体の総てで、夏芽 を感じていた。
──……やっと…………分かった…………
自然と、全身の感情が涙になって零 れ落ちていく。
☆
「初めてだった?」
隣の夏芽 の声は優しい。
「……うん…………女性と、は…………?」
少し気持ちが落ち着いたことで急に恥ずかしさが蘇ったのか、シーツからはみ出している夏芽 の首筋を見ただけで目を逸らした。
──……女同士で……あんなこと……したんだ…………
それに気が付いたのか、夏芽 が萌江 の首筋に両腕を絡め、萌江 の耳に舌を絡めた。
そして囁 く。
「…………可愛かったよ…………」
萌江 の力が抜けていく。それでも懸命に夏芽 の体を抱き寄せ、唇を重ねる。
嬉しかった。
──……このまま……ずっとこうしていたい…………
それからも店には定期的には通ったが、プライベートで会うことのほうが増えていた。出来るだけ休みも合わせた。いつの間にか萌江 も夏芽 の部屋にいる時間のほうが増えていた。
「前から聞こうと思ってたんだけど…………いい?」
夏芽 が萌江 の首筋に舌を這わせながら、そんなことを聞いてきた。
全身が痺 れたまま、萌江 が声を漏らす。
「……ん…………うん…………な、に?」
「いつも首にぶら下げてるのって何?」
そう言った夏芽 の舌が萌江 の耳をなぞった。
懸命に声を我慢する萌江 は何も応えられないまま。
そして夏芽 の囁 きが全身に溶ける。
「……我慢しないで…………声出してよ…………」
それから数分後、やっと萌江 は質問に応えた。
完全に力が抜けたようになっているのに、なぜかまだ夏芽 を求めていた。
──……夏芽 に溺れちゃうな…………
「……水晶だよ…………」
その萌江 の声に、寄り添いながら優しく萌江 の髪を触る夏芽 が返した。
「……そうなんだ。萌江 ってあんまりアクセサリー身に付けないから…………珍しいよね。大切な物なの?」
「大切?」
「だって、いつも首に下げてるから…………ベッドの上では外してくれるから助かるけど…………」
「うん…………首…………舐められるの好きだから…………」
そう応えて、萌江 は顔を隠すように横に向けた。その頬に夏芽 が自分の頬を寄せる。
──……どうして……私はいつもあの水晶を持ち歩いてるんだろう…………
自分でも分からなかった。
それでも、そうしなければいけないような、そんな気がいつもしていた。
夏芽 の声が聞こえた。
「萌江 って、もしかして、霊感とかある人?」
「え? まさか……ないよそんなの」
「霊感ある人って、よく水晶持ってたりするみたいだから…………お店のお客さんでもいるし」
「そうなんだ…………」
あまり考えたことはなかった。
両親からも聞いたことはない。
──…………あれ?
萌江 の中に、イメージが湧き出た。
──……よく、神社に連れて行かれた…………
──……どうして…………?
全身に鳥肌が立った。
──……忘れてた…………
無意識に上半身を起こしていた。
「どうしたの?」
夏芽 が萌江 の腕に触れる。
電気が走ったように、萌江 は夏芽 の手を振り解いていた。
驚きながら、夏芽 は萌江 の背中を見つめる。
振り返った萌江 の目は、いつもの目ではなかった。
夏芽 の驚愕の表情に、萌江 は咄嗟にベッドを降りると、ベッド脇の水晶を掴む。
──……熱い…………これは…………なに?
「ごめん……今日は…………帰るね」
慌てて服を着る萌江 。
その萌江 を見る夏芽 の目が怖かった。
せっかく合わせた休日。いつもなら一緒に朝を迎えるはずなのに、萌江 は慌てたように夏芽 の部屋を出る。
夏芽 の、自分を恐れたような目が怖かった。
──……私は…………
──……だから…………
見たことのない両親。
──……どうして?
──……どうして私の首を絞めてるの?
──…………どうして…………駅のホームで…………
うだるような、熱い夏の夜だった。
☆
翌日、夏芽 のいるバーに立ち寄ると、夏芽 はいつもと変わらずに迎え入れてくれた。
それにホッとしながらも、萌江 はどこかそれが悲しかった。
やがて閉店時間が近付き、店内は二人だけ。
いつものことなのに、萌江 の気持ちは落ち着かない。
最初に静寂を破ったのは夏芽 だった。
「昨日はどうしちゃったの? ごめん……何か気に障ったなら────」
「違うの。ごめん。私が悪いの…………ねえ夏芽 、ちょっと掌 出してもらえる?」
その萌江 の言葉に、不思議そうに夏芽 は右手を差し出す。
萌江 の好きだった夏芽 の手。
柔く、しなやかな夏芽 の指。
夏芽 の指に自分の指を絡めただけで、総てを任せようとさえ思えた。
萌江 は首の後ろに両手を回し、ネックレスを外すと、そのままぶら下げた水晶を夏芽 の掌 に近付ける。
「────痛っ!」
夏芽 が手を引っ込める。
「何よ⁉︎ 電気⁉︎」
夏芽 の目が、昨夜と同じ目になっていた。
──……やっぱり…………
萌江 の目から、涙が流れていた。
それに驚く夏芽 に、萌江 は語り始めた。
「ごめん…………私は
「普通じゃないって……何言ってるのよ⁉︎」
「……いつか…………
「だから何を────」
「産みの親も……育ての親も…………もう五人死んでる…………みんな……自殺…………」
「……そんな…………」
「ごめんね…………もう来れない…………」
萌江 は立ち上がると、夏芽 に背を向けた。
左手に握った水晶が熱い。
背中に夏芽 の声が刺さる。
「やめてよ……なに言ってるの…………やだよ…………やだよ!萌江 !」
「…………お願い…………いい人見つけてね…………」
震える声で、そう言うのが精一杯だった。
──知らなければよかった…………
──……でも……知ったから…………
そして、萌江 は水晶を封印した。
☆
それからはアルバイトを点々とする日々。
二四才の時、同じ飲食店で働いていた男性と結婚する。
夫の実家との付き合いも、人付き合いの苦手な萌江 にしては上手くこなしていた。
結婚して二年で家を新築で建てる。街中からは少し郊外。決して広い敷地でもないし、取り立てて大きな家でもない。それでも未来は明るく見えた。
一階は広いリビングに広いキッチン、客間とお風呂場。二階は夫婦の寝室と子供部屋を二つ。
お互いに子供が二人欲しいと話していたからだ。
夫は優しかった。
家の支払いのために真剣に働いてくれていたのが萌江 にも分かった。
いつかは二人でお店を開きたいと話し合っていた。
萌江 も定食屋でパートをしながら、更に二年が過ぎた。
萌江 に妊娠の兆候は全く見られない。夫の実家に促されるように夫婦で総合病院の産婦人科へ。検査は決して楽しいものではなかったが、子供のためと思いながら耐えるしかなかった。
夫と二人分の検査のためか、結果が出るまで数日かかるという。
病院から自宅までは車で三〇分ほど。
ちょうど大きな幹線道路に繋がる交差点だった。
夫の運転する車。萌江 は助手席。
片側一車線の道路から幹線道路に右折しようと赤信号で右折用の車線に。
すると左側には直進車か左折車だけ。
赤信号。
横断歩道の手前で車は停まっていた。
ちょうど萌江 の助手席から、左側に泊まっている車の後部座席が見えた。
古いタイプのステーションワゴン。社用車などで使われている型。だいぶ停止線から前に出ていることが萌江 からでも分かった。
荷台部分には段ボールが押し込められているが、後部座席のシートには男の子。何才くらいだろうか。
──一〇才くらい?
萌江 がそう思いながら何気なく男の子を見ていると、その子も萌江 に気が付いて窓まで近付いてきた。
──……可愛い…………こんな男の子が欲しいなあ…………
男の子は、萌江 に手を振る。
萌江 も反射的に手を振り返す。
──……表情がない…………
そう思った直後、信号が青に変わった。
こっちは右折車線。対向車線の直進車がいるために交差点の中央付近で一時停止。
左の車は直進だった。
「誰か乗ってたの? 手なんか振って」
夫の言葉に、冷静を装いながら萌江 は応えていた。
「…………うん…………ちっちゃい男の子…………」
──……あの子…………生きてない…………
数日後の検査結果は萌江 の〝排卵障害〟。
卵巣機能が極端に低下したことによる早発卵巣不全。
排卵がされていなかった。
先天的な可能性もあるが、長期間の過度なストレスも原因として挙げられた。
そして、再び萌江 は過去を思い出す。
無理をして笑顔を作ろうとしても、やはりそれは簡単なことではなかった。
治療をすることで改善の可能性はゼロではない。しかしそれには膨大なお金が必要だった。体外受精も含め、様々な説明を受けたが、少なくとも現在の萌江 に妊娠の可能性はない。
二階の子供用の部屋を見るたびに、虚しさしか浮かばない。
──……そっか…………だから…………
あの男の子の顔を思い出す。
込み上げる涙を抑えることが出来なかった。
──……どうしたらいいの…………
やがて、夫の実家の態度が変化してきたことに気が付いた。
あんなに上手くこなしていたと感じていたのに、今はそう感じられない。自分の思い過ごしだと思いたかったが、夫から離婚を申し出された時点でそれは確定的だった。
家は夫名義だったが、売却するとのことだった。
これから、この家で別の家族が暮らしていく…………子供部屋もあるから家族にはちょうどいいだろう。
萌江 は二九才。それまで正社員で働いたこともない。安いアパートを見付けるしかなかった。
経験を生かして居酒屋のバイトをしながら三〇才。言い寄ってくる男はいたが、もう誰とも付き合う気はなかった。
一人で生きようと決めた。
──……私は自分の遺伝子を残せないまま、一人で死ぬんだ…………
新しく見付けたのはショットバーでの仕事だった。
決して堅い店ではないが、若者が騒ぐような店でもない。居酒屋よりも萌江 にはちょうど良かったのかもしれない。
営業は朝の五時まで。深夜を過ぎると夜の仕事を終えた女性たちが来店するような店だった。そんな女性たちの人生相談を受けながらの仕事は楽しかった。不思議と客からの受けもいい。サバサバとしたところがいいと言われたが、萌江 自身は自覚がなかった。
──……他人からは、そう見えるんだ…………
おかしなものだと思った。
萌江 自身としてはただ割り切っていただけ。一人で生きていくことを覚悟し、しかも守るものは何もない。世界にいるのは自分だけ。好きに生きればいい。正直、他人に興味は無かった。
その夜、深夜二時を回った頃に来店したのはスナックのお姉さんらしい感じの二人。大体雰囲気で分かる。若い女の子数人だとキャバクラの可能性も高いが、言葉で説明の出来ない雰囲気のようなものとしか言いようがない。
一人はだいぶ酔った印象だった。そこそこの年齢に見えるのでたぶん店のママさんだろう。もう一人は困ったようにママさんの愚痴を聞かされている店の女の子、といった感じだろうか。
女の子と言っても、おそらくは萌江 と同じくらい。
背中までの僅かにカールした髪が美しい。
──……大人っぽい人だな…………きれいな顔…………
萌江 の首に下げた水晶が暖かい。
熱くはない。
〝暖かかった〟。
これが、黒井咲恵 との出会いだった。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二部「冬桜のうたかた」第2話へつづく 〜
どうして、
いつも、
そこにいるの?
☆
昭和四〇年。
戦争の終わりから二〇年。
歴史的に見れば、戦後の復興が終わり、高度経済成長が始まる時代。
しかし、歴史というものは教科書のように単純ではなかった。
敗戦と共に、日本は多くのものを失い、捨てた。戦争に負ける現実に総ての国民が翻弄された時代。誰もが綺麗事だけでは生きていけない。その日を生きることだけで命があることに感謝する。明日の補償のない世界から、誰もが抜け出せずにいた。
当然のように、いつも歴史には表と裏がある。
裏の時代。
法の整備など形だけ。
そんな世界から、少しずつ何かが変わり始めた時代でもある。
しかし、経由してきた歴史は簡単なものではない。
裏の世界と一般の人々との壁は薄い。
多くの人々と同じように貧しい家だった。田舎の小さな街。田舎気質が残る閉鎖的な地域。
それでも小学校を経て無事に中学校を卒業することが出来た。
卒業式の翌日。
朝。
玄関を激しく叩く音。
すぐに
スーツ姿の大人の男たちが数名。
玄関先で両親が紙を見せられている。
「話はしてあるのか?」
男の声。
何かがおかしいことだけは分かった。
そして、母の声がする。
「
──……いやだ…………
母に腕を掴まれた。
その痛さが、全身の恐怖を刺激する。
「いや!」
もう片方の腕を男に掴まれた直後、自然と涙が溢れた。
「いや! お母さん!」
母が手を離す。
父は目を逸らした。
そして、それが両親との別れ。
両親の借金の
無意識なのか意識的なのか、気が付いた時には、
泣き止んだのは、見知らぬ車の後部座席で頬を叩かれた時。
怖かった。
この時点で
大人に連れて行かれた所は街の繁華街の裏路地。
お腹が空いていた。
そう言えば、朝ご飯をまだ食べていなかった。
──……両親は…………どんな顔で朝ご飯を食べたのだろう…………
引きずられるように連れて行かれた。
髪の毛が痛い。
そこは、看板も無い、小さな店。
世の中の現実は、まだ暗かった。
☆
一二月も半ば。
火曜日の夜。
その夜は、夕方からの突然の大雪だった。
二時間程で、街は一面の雪景色。
交通機関は軒並み混乱し、そのことでニュースは埋め尽くされていた。
毎冬、雪の降り始めの頃は飲食店にとっては打撃が大きい。ある程度雪に慣れてしまえば人も再び動き始めるのだが、それまでは客商売も我慢の期間。まして夜の店の影響は顕著だった。
当然のように、マンションを出る時の
──……ま、平日で良かったかな…………
そんなことを考えながら、真新しく積もったばかりの新雪を踏みしめた。あいにく、冬の到来を実感しても胸をときめかせる歳でもないと改めて感じていた。
──……
マンションから店までは歩いて五分程度。
雪のせいか、それほど昨日までと気温は変わらないにも関わらず、やはり寒く感じる。
店を始めて一年くらいになるが、思えば開店したのは去年の冬前。客が入り始めた頃にはすでに雪が積もり始めていた。
──……どうして…………
私はいつも冬なのかな
…………店の鍵を開けて入り口を開けると、途端に
小さな店とは言ってもテナントフロアの角。大きなガラスが二面の壁をL字に覆い、夜の街灯りが望めた。
雪はさっきから降り続いている。雪景色を見ながら歩いてきたのに、この店の入り口から見えるガラス越しの雪景色がなぜか
──……まだ二度目の冬なのにね…………
店内のエアコンのスイッチを入れると、三〇分もすると暖かくなる。狭い店内の強みだろう。
大まかな清掃は何か理由がない限りは閉店後に済ませるのがいつもの流れだった。店に来てからは細かい部分の清掃と在庫、スケジュール、シフトのチェック。必要であれば業者に連絡。
──……今日はこの雪だしねえ…………
あとは開店の一九時までカウンターの中でコーヒーを飲みながら他の従業員が来るのを待つだけ。
の、はずだった。
「来たぜ!」
その声と共に入り口を開けたのは
「あら、こんな雪なのにどうやって────」
──……やばい…………
そう思った
──……店で舌はヤバいでしょ…………
そして
「どうして日曜日来てくれなかったの⁉︎」
「で……電話で理由は話したでしょ」
「怪しい」
「
「彼女と暮らしてるって言ってたじゃん」
「彼女が出張だって聞いたから…………」
「せっかくリビングと寝室をフローリングにして
「それは無理でしょ。コントのためにわざわざこんな大雪の日に…………」
「だって一週間以上も会えないと寂しいじゃん」
──……ま、可愛いから許すけど…………
「バスの暖房が効き過ぎでさあ」
「山奥なんて遅れてくるのが当たり前だけど、さすがに今日はだいぶ遅れたねえ…………しかもこっちに来たら動かないし」
「無理もないよ。ついに積もったって感じだからね」
応えながら
よほど外が寒かったのか、コーヒーを口に運んで大きく息を吐いた
「温度や湿度が快適なバスって無理なのかなあ」
「私の軽自動車とは違って広いし、しかも前後のドアが長時間開いたり…………かなり難しいと思うよ。調整したってすぐに温度が変わるわけじゃないだろうし、温度控えめにすれば今度は寒いってクレームくるだろうし…………
「やだ。
「今度高級車のパンフレット持ってってあげる」
「いらない」
直後、入口ドアの鈴が鳴った。
懐かしい顔があった。
思わず
「みっちゃん!」
「その呼び方はやめてくれと言っただろ」
そして、初めて
二人に興味を抱き、二人を信頼して仕事を斡旋してきた。
しかし会計士という表の顔を持ちながら〝裏の仕事〟を世話する謎の人物であることは未だに変わらない。それでも会計士という仕事だからこその横の繋がりというものもあるのだろう。二人がこなした大口の客のほとんどは
その
「一年以上……じゃない? この店のオープン当初以来だよ。元気?」
「まあね…………もう少し早い時間のほうが私の場合は迷惑にならないだろうと思ったんだが…………道路が混んでいてね…………」
「…………
「その呼び方嫌い────
「
そして言葉を続けた。
「久しぶりに仕事を持ってきた。まだ廃業してないだろうね」
「出来るものなら廃業もやぶさかでない…………」
「〝表〟のほうで付き合いのある人でね…………人気の下着メーカーの社長からだ…………いつも通り〝訳あり〟。だからここに来た。話を聞いた上で受けるなら…………前金で一〇〇…………私がすでに受け取ってる…………解決したなら、残りは言い値で構わないそうだ。二人が断るとは思っていないがね」
「私の取り分の一〇はすでに抜いた。話を聞くなら明日の一〇時にその会社の本社ビルにこの名刺を持って、来て欲しいと」
「随分な根回しね…………こんな手の込んだことをしてまで?」
名刺には聞いたことのある雑誌社の名前。誰かの物だとは思われるが、つまりはその人物のフリをして来てほしいとのこと。名前は二枚とも女性の名前。
「依頼主の名前は
それに返したのは
「順風満帆だね…………そんな素敵な家族の奥さんが言い値で心霊相談って?
それを受け取りながら
「はーい」
「問題はその息子だ。母親が言うには…………〝呪われている〟と言うことらしい。高熱や目眩で体調不良を起こしたのが一年以上前。病院に行っても原因は不明。お決まりの精神論だったそうだ。詳しくは教えてくれなかったが、母親が言うには〝おかしなこと〟を口走ることも多いと…………それを心霊現象と結び付けてるってことは、何か理由があるってことだ。そして、旦那にはくれぐれも秘密にしたいと…………」
「明日の一〇時?」
「私たちにはちょっと早いけど…………たまたま今夜はここに来たし…………」
そして、
「どうせ今夜は静かだよ。最後の掃除もすぐに終わるだろうし…………」
すると、
そして
「本社ビルの場所は調べればすぐに分かるよ。それじゃ…………何かあったらいつもの番号に…………」
そして
それから最初に口を開いたのは
「今夜、ホテルとかとってないんでしょ?」
視線を外したままそう言う
「どうしよっかなあ」
「…………泊まってきなさいよ」
「珍しいねえ、
「
そう応えながら、
☆
大学を中退し、アルバイトで生計を立てながら、
そんな生活の間に一人の男性と付き合ったが、三ヶ月も経たずに男の目的は
──…………やっぱり…………一人の方が楽でいい…………
それほど失恋がキツいとは感じない。
もっと落ち込むものと想像していたのに、この不思議な感覚はなんだろう。その男には悪いが、一度も体を重ねることで満足したことはなかった。なぜか一人でもしたいと思わない。自分には性欲というものがないのかもしれないと思ったが、それで困ることもない。むしろ楽だった。
他人と関わることは相変わらず得意ではない。
いつも仕事から帰ると、一人で慣れないお酒を飲んで寝るだけ。
それでも、少しは何かを変えたい気持ちがあったのだろうか、仕事帰りにショットバーに通うようになる。様々な店に行って、自分に合う店を見つけようと思った。
どうせ趣味と呼べるものもない。
大抵の店で、何人もの男が声をかけてきた。
いつも素っ気なく
バーのカウンターで一人で呑んでる若い女に声をかける男は体だけが目当て。それは
〝面白くもないこと〟に時間を割く気にはなれない。
その夜も、
やがて、レズビアンバーに辿り着く。
──……ここなら…………男が声をかけてくることはない…………
その店は、レズビアンでなくても女性なら入ることが出来た。
従業員も客も、どこを見ても女性ばかり。
──……みんな…………あれなのかな…………
「初めてですか?」
カウンターに座って最初に声をかけてきたのは若いバーテンダーだった。
「え? あ……はい」
「大丈夫ですよ。別に怖いお店じゃないですから」
そして急に顔を近付けたかと思うと、小声で続けた。
「ノーマルの女性もよく来ますから…………お客様は?」
──……いい匂い…………
冷静を保たせながら、
「私は…………そっちはまだ…………」
──そっちってなんだ?
するとバーテンダーは体を起こして続ける。
「普通のバーだと思ってゆっくりしてってください。素敵なお客様は大歓迎ですから」
そのバーテンダーの名前を聞いたのは、
綺麗なストレートの明るい髪。少し赤みがかった髪質が、
仕事柄、
「お客さん、みんな帰っちゃいましたね」
店内は静かだった。
「バイトもみんな帰っちゃった…………二人きりですね」
なぜか、
──……私…………ドキドキしてる…………なんで?
「今日は早目に閉めちゃおっかなあ…………」
「じゃ…………私も…………」
「…………だめ」
──え?
「…………なんでそんなこと言うの?」
その背後からの音が、
少しずつ近付いてくる
背後から這うような
──……気持ちいい…………
他人と唇を重ねることが、こんなに幸せを感じられることだと、その時初めて
全身が
どうなってもいいと思えた。
総てを預けたいとさえ思えた。
気付いた時には、
体の総てで、
──……やっと…………分かった…………
自然と、全身の感情が涙になって
☆
「初めてだった?」
隣の
「……うん…………女性と、は…………?」
少し気持ちが落ち着いたことで急に恥ずかしさが蘇ったのか、シーツからはみ出している
──……女同士で……あんなこと……したんだ…………
それに気が付いたのか、
そして
「…………可愛かったよ…………」
嬉しかった。
──……このまま……ずっとこうしていたい…………
それからも店には定期的には通ったが、プライベートで会うことのほうが増えていた。出来るだけ休みも合わせた。いつの間にか
「前から聞こうと思ってたんだけど…………いい?」
全身が
「……ん…………うん…………な、に?」
「いつも首にぶら下げてるのって何?」
そう言った
懸命に声を我慢する
そして
「……我慢しないで…………声出してよ…………」
それから数分後、やっと
完全に力が抜けたようになっているのに、なぜかまだ
──……
「……水晶だよ…………」
その
「……そうなんだ。
「大切?」
「だって、いつも首に下げてるから…………ベッドの上では外してくれるから助かるけど…………」
「うん…………首…………舐められるの好きだから…………」
そう応えて、
──……どうして……私はいつもあの水晶を持ち歩いてるんだろう…………
自分でも分からなかった。
それでも、そうしなければいけないような、そんな気がいつもしていた。
「
「え? まさか……ないよそんなの」
「霊感ある人って、よく水晶持ってたりするみたいだから…………お店のお客さんでもいるし」
「そうなんだ…………」
あまり考えたことはなかった。
両親からも聞いたことはない。
──…………あれ?
──……よく、神社に連れて行かれた…………
──……どうして…………?
全身に鳥肌が立った。
──……忘れてた…………
無意識に上半身を起こしていた。
「どうしたの?」
電気が走ったように、
驚きながら、
振り返った
──……熱い…………これは…………なに?
「ごめん……今日は…………帰るね」
慌てて服を着る
その
せっかく合わせた休日。いつもなら一緒に朝を迎えるはずなのに、
──……私は…………
普通じゃない
…………──……だから…………
みんな死んだんだ
…………見たことのない両親。
──……どうして?
──……どうして私の首を絞めてるの?
──…………どうして…………駅のホームで…………
うだるような、熱い夏の夜だった。
☆
翌日、
それにホッとしながらも、
やがて閉店時間が近付き、店内は二人だけ。
いつものことなのに、
最初に静寂を破ったのは
「昨日はどうしちゃったの? ごめん……何か気に障ったなら────」
「違うの。ごめん。私が悪いの…………ねえ
その
柔く、しなやかな
「────痛っ!」
「何よ⁉︎ 電気⁉︎」
──……やっぱり…………
それに驚く
「ごめん…………私は
普通の人間じゃなかった
…………忘れてたの…………思い出さなきゃよかった…………」「普通じゃないって……何言ってるのよ⁉︎」
「……いつか…………
必ずあなたを傷付ける
…………」「だから何を────」
「産みの親も……育ての親も…………もう五人死んでる…………みんな……自殺…………」
「……そんな…………」
「ごめんね…………もう来れない…………」
左手に握った水晶が熱い。
背中に
「やめてよ……なに言ってるの…………やだよ…………やだよ!
「…………お願い…………いい人見つけてね…………」
震える声で、そう言うのが精一杯だった。
──知らなければよかった…………
──……でも……知ったから…………
夏芽の命は守られた
…………そして、
☆
それからはアルバイトを点々とする日々。
二四才の時、同じ飲食店で働いていた男性と結婚する。
夫の実家との付き合いも、人付き合いの苦手な
結婚して二年で家を新築で建てる。街中からは少し郊外。決して広い敷地でもないし、取り立てて大きな家でもない。それでも未来は明るく見えた。
一階は広いリビングに広いキッチン、客間とお風呂場。二階は夫婦の寝室と子供部屋を二つ。
お互いに子供が二人欲しいと話していたからだ。
夫は優しかった。
家の支払いのために真剣に働いてくれていたのが
いつかは二人でお店を開きたいと話し合っていた。
夫と二人分の検査のためか、結果が出るまで数日かかるという。
病院から自宅までは車で三〇分ほど。
ちょうど大きな幹線道路に繋がる交差点だった。
夫の運転する車。
片側一車線の道路から幹線道路に右折しようと赤信号で右折用の車線に。
すると左側には直進車か左折車だけ。
赤信号。
横断歩道の手前で車は停まっていた。
ちょうど
古いタイプのステーションワゴン。社用車などで使われている型。だいぶ停止線から前に出ていることが
荷台部分には段ボールが押し込められているが、後部座席のシートには男の子。何才くらいだろうか。
──一〇才くらい?
──……可愛い…………こんな男の子が欲しいなあ…………
男の子は、
──……表情がない…………
そう思った直後、信号が青に変わった。
こっちは右折車線。対向車線の直進車がいるために交差点の中央付近で一時停止。
左の車は直進だった。
「誰か乗ってたの? 手なんか振って」
夫の言葉に、冷静を装いながら
「…………うん…………ちっちゃい男の子…………」
──……あの子…………生きてない…………
数日後の検査結果は
卵巣機能が極端に低下したことによる早発卵巣不全。
排卵がされていなかった。
先天的な可能性もあるが、長期間の過度なストレスも原因として挙げられた。
そして、再び
無理をして笑顔を作ろうとしても、やはりそれは簡単なことではなかった。
治療をすることで改善の可能性はゼロではない。しかしそれには膨大なお金が必要だった。体外受精も含め、様々な説明を受けたが、少なくとも現在の
二階の子供用の部屋を見るたびに、虚しさしか浮かばない。
──……そっか…………だから…………
最後に顔を見せてくれたの
…………?あの男の子の顔を思い出す。
込み上げる涙を抑えることが出来なかった。
──……どうしたらいいの…………
やがて、夫の実家の態度が変化してきたことに気が付いた。
あんなに上手くこなしていたと感じていたのに、今はそう感じられない。自分の思い過ごしだと思いたかったが、夫から離婚を申し出された時点でそれは確定的だった。
家は夫名義だったが、売却するとのことだった。
これから、この家で別の家族が暮らしていく…………子供部屋もあるから家族にはちょうどいいだろう。
経験を生かして居酒屋のバイトをしながら三〇才。言い寄ってくる男はいたが、もう誰とも付き合う気はなかった。
一人で生きようと決めた。
──……私は自分の遺伝子を残せないまま、一人で死ぬんだ…………
新しく見付けたのはショットバーでの仕事だった。
決して堅い店ではないが、若者が騒ぐような店でもない。居酒屋よりも
営業は朝の五時まで。深夜を過ぎると夜の仕事を終えた女性たちが来店するような店だった。そんな女性たちの人生相談を受けながらの仕事は楽しかった。不思議と客からの受けもいい。サバサバとしたところがいいと言われたが、
──……他人からは、そう見えるんだ…………
おかしなものだと思った。
その夜、深夜二時を回った頃に来店したのはスナックのお姉さんらしい感じの二人。大体雰囲気で分かる。若い女の子数人だとキャバクラの可能性も高いが、言葉で説明の出来ない雰囲気のようなものとしか言いようがない。
一人はだいぶ酔った印象だった。そこそこの年齢に見えるのでたぶん店のママさんだろう。もう一人は困ったようにママさんの愚痴を聞かされている店の女の子、といった感じだろうか。
女の子と言っても、おそらくは
背中までの僅かにカールした髪が美しい。
──……大人っぽい人だな…………きれいな顔…………
熱くはない。
〝暖かかった〟。
これが、
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二部「冬桜のうたかた」第2話へつづく 〜