第十三部「水の中の女神」第3話

文字数 8,861文字

「…………御世(みよ)の血…………」
 萌江(もえ)が、無意識の内に呟いていた。
 いつの間にか、その場に柔らかい風を感じる。
 それでもそれは、湖面を削った冷たい風。
 しだいにその空気は五人の間を走り抜けていく。
 咲恵(さきえ)が話を続けた。
「地震の前に湖の温度が上がるのは伝説が作られる前からだったはずです。科学的な検証をされたわけではありませんが、おそらく地殻の影響でしょう……マグマとかの話になるでしょうし、私は専門外ですけどね。御世(みよ)がそこまで分かっていたかは分かりませんが…………後から付け加えられた話ではないですか?」
「なるほど…………」
 そう言った溜息混じりの(さき)が続ける。
雄滝(おだき)から流れる川が繋がる雄滝(おだき)湖と、そこを守る雄滝(おだき)神社ですか…………伝説の前の湖がどんな名前だったのか、確かに記録はありませんでした……雄滝(おだき)湖の名前を姫神(ひめかみ)湖に変えて……どういうわけか我々の意識まで変え…………つまり、御世(みよ)にはそこまでする〝理由〟があったということでしょうか…………?」
「あったんでしょうね」
 即答した咲恵(さきえ)が続ける。
「でも、そこまでは御世(みよ)も教えてくれない。というより、御世(みよ)の意識操作はまだ続いてるんです…………しかし完全ではありません…………とは言っても私でも総ては見えない…………」
 決して怯えてはいない咲恵(さきえ)の声。
 迷いの無いその口調に、誰も何も返せないままに、再び風が強まる。
 (さき)恵麻(えま)の長い髪が大きく揺れた。
 しかし、まるで何かに包まれたかのように、咲恵(さきえ)の長い髪は微動だにしない。
 その異様な雰囲気に気が付きながらも、萌江(もえ)咲恵(さきえ)の手を離さない。
 やがて、その場の空気を揺らしたのは、それまで話を黙って聞いていた杏奈(あんな)だった。
「……雄滝(おだき)神社って…………御陵院(ごりょういん)神社の分社ってことは…………親戚になるんですよね…………」
 誰も返さない。
 返す必要もない。
 杏奈(あんな)が続ける。
「……伝説の真実って…………咲恵(さきえ)さんだから見えたんですか…………血が繋がってるから…………」
 杏奈(あんな)が言葉で形にした。
 そこに(さき)が応えていく。
「……もう黒井(くろい)さんも恵元(えもと)さんもお分かりですね…………確かに我が御陵院(ごりょういん)家と雄滝(おだき)神社の滝川(たきがわ)家は親戚…………そしてその血は、恵元(えもと)さんの金櫻(かなざくら)家にも繋がっています…………黒井(くろい)さんも、〝他人〟ではありません。黒井(くろい)さんのお母様は、御世(みよ)の〝ひ孫〟に当たる方…………〝滝川(たきがわ)家の人間〟です」
 その(さき)を、咲恵(さきえ)は震えた目で見つめ続けていた。
 そして、萌江(もえ)はそんな咲恵(さきえ)から目を離せない。
 まるで走馬灯のように、萌江(もえ)の頭に思い出が浮かんでいた。
 運命などという安っぽい言葉で咲恵(さきえ)との関係を表すつもりはない。それでも萌江(もえ)咲恵(さきえ)と出会うべくして出会ったと感じていた。あまりにも多くのことを感じ、あまりにも多くのことを二人で経験した。最近になって咲恵(さきえ)とのことを考え直すようになってさらに気持ちが近付いていた。
 咲恵(さきえ)と出会えて、萌江(もえ)は幸せだった。
 それ以上の言葉は見付からない。
 しかし、今のこの感情が何なのか、萌江(もえ)にそれを理解することは難しい。
 萌江(もえ)からの視線を分かっていたのか、咲恵(さきえ)が小さく呟く。
「…………良かった…………」
「え?」
 反射的に返す萌江(もえ)に、そのままの口調で咲恵(さきえ)が続ける。
「……私は、萌江(もえ)と他人じゃなかった…………」
 そして、その目から涙が零れる。
 その涙の向こうに、柔らかい笑顔が浮かんでいた。
 新興宗教の家に産まれ、人生を両親によって翻弄され、現在でもその両親の生死すら分からない。過去の歴史のどんな部分に自分が繋がっているのか、何も見えていない人生。宙に浮いてしまったような生き方を、萌江(もえ)が唯一この世に繋ぎ止めてくれた。
 しかし、今は地面に足が着いたような感覚がある。
 涙が気持ちを揺さぶりながらも、なぜか気持ちは落ち着いていた。
 自分の中に、新しく誰かの存在を感じる。

 御世(みよ)の存在は暖かかった。

 ──……私は…………いるべくして、ここにいる………………

 そして、中にいるのは一人ではない。大勢の存在を感じた。それまで咲恵(さきえ)が自覚していたのは京子(きょうこ)だけ。
 しかし、咲恵(さきえ)はやっと気が付いた。

 ──……みんないる…………やっとその〝理由〟が分かった…………

 ──…………みんな…………萌江(もえ)を守ってる…………

 ──……その中心が…………御世(みよ)………………

 咲恵(さきえ)は、(さき)に顔を向けて口を開く。
「……(さき)さん。どうしてですか? どうして水晶のことを秘密にしてたんですか? 知っていたのに…………」
 強い風がその言葉を遮ろうとするかのように咲恵(さきえ)の目の前を通り過ぎた。
 すると、(さき)の隣の恵麻(えま)が一歩だけ後ろに下がる。その口が小さく動くのを咲恵(さきえ)萌江(もえ)も見逃さなかった。
 そして口を開いたのは(さき)
「……まだ……そのお話をするのは…………お早いかと…………」
 そこに挟まるのは萌江(もえ)
「────戯言だ」
 萌江(もえ)は首にかかる〝火の玉〟を掴む。
 それは、熱かった────。
「いずれ────」
 その(さき)の言葉が、萌江(もえ)の言葉を遮って続く。
「……お話することになりますよ…………」
 すると、動き始めたのは(さき)の隣の恵麻(えま)だった。
 すぐに(さき)が後に続き、二人が萌江(もえ)の隣を通り過ぎる。
 その瞬間、萌江(もえ)は背筋に冷たいものを感じていた。
 その隣で咲恵(さきえ)は動かない。
 やがて、(さき)恵麻(えま)の足音が聞こえなくなると、最初に口を開いたのは杏奈(あんな)
「……咲恵(さきえ)さん…………萌江(もえ)さん…………」
 しかし、次の言葉が見付からない。
 どんな時でも言葉を繰り出せなくては記者として失格。しかしこの時の杏奈(あんな)には無理だった。杏奈(あんな)から見ても、それはあまりにも予想外な現実。
 しかも、多くのことがまだ隠されている。
 大事なことは、誰を信じるかだけ。
 そして、それは杏奈(あんな)の中ですぐに決定付けられた。
「車へ行きましょう……西沙(せいさ)さんに話を聞くべきです」
 杏奈(あんな)にはそれしか考えられなかった。
 杏奈(あんな)のその言葉に、萌江(もえ)が顔を向ける。僅かに怯えた横顔が瞬時に引き締まる。
「そうだね…………」
 そう言って萌江(もえ)は続ける。
「……ごめん。私も冷静じゃなかった」
 そしてその言葉を、前を見たままの咲恵(さきえ)が拾う。
「……だめだよ萌江(もえ)…………あなたが一番しっかりしなきゃ…………でも…………〝私たち〟は絶対にあなたを守る…………」
 その咲恵(さきえ)の目からは、大粒の涙が(こぼ)れる。
 車に戻ると、萌江(もえ)はすぐにペットボトルの水を咲恵(さきえ)に飲ませるが、それでもまだ涙は止まらない。
 ルームミラーに心配そうに視線を送りながらも、杏奈(あんな)が車を走らせ始めた。
 萌江(もえ)咲恵(さきえ)の肩を抱きながらスマートフォンを取り出すと、電話をかけた相手は西沙(せいさ)。すぐに出た西沙(せいさ)の声は落ち着いていた。
『だからやめろって言ったでしょ』

 ──……やっぱり見えてた…………

西沙(せいさ)…………あなたの知ってることを教えて」
萌江(もえ)にも知らないほうがいいことはあるよ…………分かったでしょ……私も咲恵(さきえ)も、あなたと血が繋がってる』
「……そんなことを聞きたいんじゃない」
 その萌江(もえ)の低い声が車内に響く。
金櫻(かなざくら)家って何? 水晶って何なのよ⁉︎」
『よく聞いて萌江(もえ)……それを今私が話したら、あなたは耐えられない』
 そこまで聞くと、萌江(もえ)は一方的に通話を切った。
 そして言葉を続ける。
「ごめんね杏奈(あんな)ちゃん…………西沙(せいさ)の所まで急いでくれる?」
「……はい」
 杏奈(あんな)もそう応えるしかなかった。





 西沙(せいさ)の事務所に到着した時はすでに二二時を過ぎていた。一階のコンビニですら人影は少ない。
 しかし窓を見る限り事務所のある二階の明かりは点いている。
「まだいますよ。行きましょう」
 杏奈(あんな)はそう言ってビルの横に車を停めてドアを開けた。先に立って階段を登るが、萌江(もえ)咲恵(さきえ)の二人が気になる。振り返ると萌江(もえ)が先になって咲恵(さきえ)の手を引いていた。
 杏奈(あんな)が事務所のドアを開ける。
 そこで驚いた表情を見せたのは受付の美由紀(みゆき)だった。
西沙(せいさ)さんは⁉︎」
 杏奈(あんな)のその大きな声に、美由紀(みゆき)は少しだけ怯えたように応えた。
「……どうしたんですか杏奈(あんな)さん…………私は今夜は残ってて欲しいって頼まれて…………」
西沙(せいさ)さんはどこ⁉︎」
 さらに声を荒げる杏奈(あんな)
 受付の椅子に座ったまま、美由紀(みゆき)は言葉を濁らせる。
 というより、言葉が出なかった。
 相手が誰であれ、美由紀(みゆき)は大きな声が嫌いだった。幼少期の経験からだったが、それが威圧感を伴っていれば尚更だ。思考が萎縮してしまう。それを知っていたのは西沙(せいさ)だけ。
 すると、杏奈(あんな)の肩に手を乗せた萌江(もえ)が割って入った。
杏奈(あんな)ちゃん……怖がってるよ」
「え? あ……ごめん美由紀(みゆき)ちゃん…………」
 我に帰った杏奈(あんな)が乗り出していた体を後ろに下げると、萌江(もえ)美由紀(みゆき)に笑顔を向けて繋げた。
「急にごめん。初めましてだよね。西沙(せいさ)から話は聞いてた……美由紀(みゆき)ちゃんだよね」
 美由紀(みゆき)はゆっくりと怯えた目を上げる。
 そして、萌江(もえ)が続けた。
「私は恵元萌江(えもともえ)…………西沙(せいさ)とは仕事の関係でちょっとね」
萌江(もえ)……さん…………あ、西沙(せいさ)から聞いてました」
 美由紀(みゆき)は少しずつ顔を上げて、表情を取り戻していく。萌江(もえ)の後ろで手を繋いだままの咲恵(さきえ)に視線を送るも、咲恵(さきえ)美由紀(みゆき)とは目を合わせようとはしていない。(まぶた)が赤くなっているのを見て、美由紀(みゆき)も何かを察する。
 萌江(もえ)は柔らかい表情のまま返した。
「それなら良かった。私も西沙(せいさ)から美由紀(みゆき)ちゃんのこと聞いてたよ……いつも助けられてるって言ってた」
「そんな……私は西沙(せいさ)みたいな力はないし…………事務だけで…………」
西沙(せいさ)は私と一緒で数字とか苦手そうだもんなあ」
 その萌江(もえ)の明るい声に、美由紀(みゆき)の表情が(ほつ)れた。
 そして萌江(もえ)が続ける。
「こんな時間にいきなり押しかけちゃってごめんね。見た感じ西沙(せいさ)はいないみたいだけど…………もう帰っちゃったかな?」
 すると、美由紀(みゆき)は表情を僅かに曇らせて返した。
「いえ…………一週間くらい前から実家に行ってて……理由も教えてくれなかったし…………今夜は残っててくれって夕方に電話があって…………それで…………」
「一週間? そっか……相変わらず読まれてるなあ」

 ──……今夜押しかけることまで見えてたか…………

「何か…………あったんですか?」
 そう言った美由紀(みゆき)が不安気な目を萌江(もえ)に向けた。
 極度に他人との交流が苦手なタイプであることは萌江(もえ)にもすぐに分かった。西沙(せいさ)がしばらく顔を見せないことで不安が大きくなっていたのだろう。出張などでしばらくいない場合でも、今まで理由を言わないことがなかったのは美由紀(みゆき)の言葉からでも想像がついた。
 西沙(せいさ)がことあるごとに美由紀(みゆき)を気にかけていたことは萌江(もえ)も知っている。よほど大事な片腕なのだろう。
 しかし今回に関しては萌江(もえ)にも現状が掴めていない。
「私たちもよく分からないんだよねえ…………まあ実家に行ってるなら問題ないよ」

 ──……今回ばかりは例え実家でも不安だけど…………

 その時、いつの間にか外に出ていた杏奈(あんな)(せわ)しなく現れた。
美由紀(みゆき)ちゃんさっきはごめん。これで勘弁して」
 そう言うと美由紀(みゆき)にコンビニのレジ袋を差し出す。
 美由紀(みゆき)が満面の笑みを浮かべる。杏奈(あんな)のこういうところが憎めないことを美由紀(みゆき)も知っていた。
「もう…………許しますよ」
 その言葉に杏奈(あんな)もやっと笑顔になった。
 そして咲恵(さきえ)の声。
萌江(もえ)……行こう…………」
 咲恵(さきえ)萌江(もえ)の手を引いていた。





 それは風光会(ふうこうかい)の一件の直後。
 咲恵(さきえ)御陵院(ごりょういん)神社の祭壇の前に横になっていた。
 あの直後から意識は無い。
 (さき)が中心となって祈祷(きとう)を続けて三日目。
 (さき)の後ろでは常に西沙(せいさ)がサポートを続けていたが、咲恵(さきえ)が目を覚ます気配はない。
 そして呼ばれたのは西沙(せいさ)の姉────綾芽(あやめ)涼沙(りょうさ)
 西沙(せいさ)が姉二人と仲が悪いことはもちろん(さき)は知っていたが、(さき)としてはこれ以上は咲恵(さきえ)の肉体的に危険が及ぶと判断しての決断だった。
 久しぶりの姉達の姿に西沙(せいさ)も表情を強ばらせる。
 二人は(さき)のすぐ後ろ────西沙(せいさ)の目の前に座るなり、次女の涼沙(りょうさ)が毒づく。
「いつも威勢がいい割に、こんなトラブルを持ち込むなんて…………」
 気性の穏やかな長女の綾芽(あやめ)に比べ、涼沙(りょうさ)はこと西沙(せいさ)に関しては攻撃的な一面を見せる。やや気の短い所は(さき)もよく(いさ)める部分だった。
 (さき)西沙(せいさ)眉間(みけん)(しわ)を寄せているのを背中で感じたが、言葉を涼沙(りょうさ)に向けた。
涼沙(りょうさ)…………今回は御陵院(ごりょういん)家の問題でもあります…………言葉を慎みなさい」
「……失礼いたしました」
 涼沙(りょうさ)もすぐにそう返すと、深々と頭を下げた。
 そこに綾芽(あやめ)
「以前に……お会いした方ですね…………母上、何がありました…………?」
 祭壇の前に横たわり、胸の上で両手を合わせる咲恵(さきえ)の姿を肩越しに見ながら、綾芽(あやめ)が続けた。
「まさか母上…………あの石は〝水の玉〟では…………」
「さすがですね綾芽(あやめ)…………その通りです…………我が御陵院(ごりょういん)家の先祖が金櫻(かなざくら)家の為に手に入れて納めた物…………長らくその所在が不明でした…………」
 古くから伝わる水晶の伝承は、すでに二人には修行を終えた時点で伝えてあった。
 しかし西沙(せいさ)だけは家を出る時にすでに説明を受けてる。事の展開次第では西沙(せいさ)が中心になる可能性を考えての(さき)の判断。しかもそれは間違ってはいない。
 その水晶の一つ────〝水の玉〟が、目の前の咲恵(さきえ)の手に絡む。
 綾芽(あやめ)(さき)に質問を返した。
「どうしてこの方が…………御陵院(ごりょういん)家と繋がりが…………」
「それを知りたくてここに連れてきたのです。しかしなかなか見せてはくれぬ…………それでも〝理由〟は必ずあります」
 そして、四人での祈祷(きとう)が始まった。
 依代(よりしろ)西沙(せいさ)(さき)の判断だった。西沙(せいさ)は横になる咲恵(さきえ)の前に移り、背中を丸めたまま両手の指を絡める。その後ろには(さき)。更にその後ろに綾芽(あやめ)涼沙(りょうさ)
 しばらくして、最初に反応を見せたのは綾芽(あやめ)だった。
「……一人ではありません…………母上……多過ぎます…………」
 綾芽(あやめ)のその声に続いたのは涼沙(りょうさ)
「血筋が見えません…………いえ…………滝川(たきがわ)様の御血筋かと…………金櫻(かなざくら)様まで…………」
 涼沙(りょうさ)は恐怖を感じた。

 ──…………あり得ない…………

 その時、西沙(せいさ)の口から(こぼ)れた声は、西沙(せいさ)のものではない。

「…………私は……〝御世(みよ)〟…………私は…………〝清国会(しんこくかい)〟の意思を継ぐつもりはありません…………」

 (さき)が顔を上げた。
 目を見開き、片膝を上げたかと思うと体を(ひるがえ)す。
 横たわる咲恵(さきえ)の前に、西沙(せいさ)と向かい合うように移動したかと思うと、西沙(せいさ)の頭を右手で掴んだ。
 その光景に綾芽(あやめ)が声を荒げる。
「母上! 惑わされてはなりません!」
 その声を無視し、指に力を入れた(さき)は低い声を絞り出した。
「……〝清国会(しんこくかい)〟……だと…………?」
 再び綾芽(あやめ)が叫ぶ。
「母上!」
 しかし、次の(さき)の声が本殿の空気を揺らした。
「……母上から聞いていたぞ……〝御世(みよ)〟…………貴様の好きになどさせん!」
 直後、叫んでいたのは涼沙(りょうさ)だった。
「────母上! 黒井(くろい)様が────!」
 咲恵(さきえ)がゆっくりと首を上げていた。
 その姿に(さき)が体を引くと、咲恵(さきえ)はゆっくりと上半身を起こそうと肘を立てていた。
 そこに(さき)の声。
「……御世(みよ)か…………ここで(はら)ってくれるわ!」
 しかし、次の瞬間、咲恵(さきえ)の口から出た声は、あまりにも雰囲気から逸脱する響き。
「〝あなた如きじゃ…………私には勝てないよ〟」
 すると、(さき)が一歩だけ後ずさった。明らかにその表情が狼狽(うろた)える。
 咲恵(さきえ)がその(さき)を見上げた。
 そしてその口が動く。
「〝我らは〝萌江(もえ)様〟を守る者たち…………お前を守る者たちは、どこにいる?〟」
 咲恵(さきえ)は言いながら立ち上がると、目を見開いた。
 その姿に、(さき)と二人の娘は動けない。

 ──…………負ける……

 涼沙(りょうさ)がそう思った時、咲恵(さきえ)西沙(せいさ)の頭に手を添え、再び口を開いた。
「〝お前の大事な娘は……我らに与することになる…………産まれる前から決まっていたこと…………その為に命を与えた…………〟」
 そしてそれは突然。
 咲恵(さきえ)は、西沙(せいさ)の体に覆い被さるようにして倒れ込む。
 同時に西沙(せいさ)も床に倒れた。
 二人とも意識はない。
 そのまま、その夜の祈祷(きとう)を終えざるを得なかった。
 (さき)の中に一つの疑問を残したまま。

 ──…………まさか…………黒井(くろい)さんは……………… 

 二人が目を覚ましたのは翌日の朝。
 咲恵(さきえ)には昨夜の記憶は無かったが、西沙(せいさ)が覚えているかどうかは、(さき)でも分からないまま。
 そのまま、栄養が枯渇したような咲恵(さきえ)西沙(せいさ)が中心となって看病し、数日後に杏奈(あんな)に連絡をして迎えにきてもらうことになる。
 それまでの間、(さき)は一度も咲恵(さきえ)に顔を見せることはなかった。





 杏奈(あんな)の車が御陵院(ごりょういん)神社の駐車場に着いた時、時間はすでに深夜。
 もうすぐ日付が変わろうとする頃。
 先に後部座席から降りた萌江(もえ)が呟く。
「嫌な結界…………」
 続いて降りた咲恵(さきえ)も呟く。
「……(さき)さんの作った結界ね…………もう気付かれてる」
「だろうね」
 萌江(もえ)は小さく返した。
 その萌江(もえ)は運転席の杏奈(あんな)に声をかける。
「ごめん……こっから先は何があるか分からないから…………」
 すると、杏奈(あんな)はすぐに返した。
「──待ってます。西沙(せいさ)さんをお願いします。お二人にしか出来ないことですから」

 ──……私は、私の役目を果たせばいいんだ…………

 どこかから湧き上がる使命感が、杏奈(あんな)を支えていた。
 その目は、どこか力強い。何の迷いも無かった。
「……分かった」
 萌江(もえ)はそれだけ応えると、咲恵(さきえ)の手を取った。
 先に口を開いたのは咲恵(さきえ)
「行こう……西沙(せいさ)が待ってる…………」
 そして二人は歩き始める。
 大きな鳥居から、結界は始まっていた。
 しかし二人の足には迷いがない。
 まるで空間を歪ませるような威圧感が広がる中で、参道を歩きながら口を開いたのは咲恵。
「結界なんて気持ちしだい…………催眠術みたいなもの…………見えない壁なんて存在しない」
 その咲恵(さきえ)の声から、不思議なほどに萌江(もえ)は安心感を得られた。

 まるで誰かに守られているかのような、包まれる感覚。

 本殿の入口横には、深夜だと言うのに松明(たいまつ)が炎の中で音を立てる。
 二人が本殿前の階段を登ろうとした時、目の前の木戸が音を立てて開かれた。その両側に立っているのは巫女姿の綾芽(あやめ)涼沙(りょうさ)
 二人は鋭い目付きで萌江(もえ)咲恵(さきえ)を見下ろす。
 やがて、綾芽(あやめ)が声を上げた。
「母上、おいでになりました」
 そして板間に膝を着く。
 反対側で涼沙(りょうさ)も続いて膝を着き、二人同時に頭を下げた。
「好きな感じじゃないな」
 萌江(もえ)が呟く。
 そして二人が木の階段を登ると、広い本殿の奥の祭壇が視界の中へ。
 炎の作り出す影が激しく揺らめいていた。
 祭壇前の巫女(みこ)服の背中は(さき)に間違いない。
 萌江(もえ)咲恵(さきえ)は板間の上を進む。
 祭壇に近付くにつれ、少しずつ空気の濃さを感じた。
 そして、(さき)の向こうに横たわる人影。
 その人影は巫女(みこ)姿に見えた。
 萌江(もえ)が薄暗い中で目を凝らした時、(さき)の声が祭壇に響く。
「お待ちいたしておりました…………」
 その声に萌江(もえ)咲恵(さきえ)が足を止めた。
「総てを知る…………その御覚悟は御有りですか?」
 (さき)の言葉が続く。
 しかし、それに返した咲恵(さきえ)の言葉は萌江(もえ)を驚かせる。
「その前に、西沙(せいさ)を返しなさい」

 ──…………西沙(せいさ)…………

 萌江(もえ)はそう思いながら、やっと(さき)の向こうに横たわる人影の存在を理解した。
 間違いない。
 それは巫女(みこ)服を着て横たわる西沙(せいさ)の姿。
 反射的に萌江(もえ)が口を開く。
(さき)さん…………あなたは何をするつもりなの⁉︎」
 そして、ゆっくりと(さき)が体を回す。
 萌江(もえ)咲恵(さきえ)に正面を向けると、柔らかく、それでも存在感のある口調で応えた。
「もう一週間になりますか…………西沙(せいさ)はこうして眠らせてあります」
「一週間⁉︎ まさか…………私は何度も電話で────」
「さすがは我が娘…………この状態でも恵元(えもと)さんと繋がろうとは………………これは西沙(せいさ)を守る為です…………ですが、私よりずっと恐ろしい力を持っているようですよ…………」
「……そんなバカなことが…………」
恵元(えもと)さんの0.1%には入りませんか? どうやら西沙(せいさ)は私たちの計画には反対しているようです。しかも西沙(せいさ)は誰かに操られています…………それは阻止させていただきます…………」
 外からの強い風が本殿の中に入り込み、祭壇の炎を大きく揺らした。
 それに合わせるように火の粉が舞う。
 一粒一粒が辺りを照らした。
 その光に照らされた西沙(せいさ)の顔が萌江(もえ)の視界に入ると、萌江(もえ)の中に途端に込み上げるのは〝怒り〟だけ。それは(さき)に向けられたものであると同時に、自分自身にも向けられていた。

 ──……西沙(せいさ)は……最初から警告してくれていた…………

 そして萌江(もえ)は、言葉を絞り出していた。
「…………いい加減にしてよ…………だから宗教なんて嫌いなんだ…………よくも目に見えないものをそこまで信じられる…………」
 背後から、小さく板間を()る音。
 その音は萌江(もえ)咲恵(さきえ)の両側を通り、やがて、綾芽(あやめ)涼沙(りょうさ)の二人が(さき)の隣に腰を降ろした。
 次に声を上げたのは咲恵(さきえ)
「……どうしても、西沙(せいさ)を返さないつもりか…………」
 それに、(さき)が低い声で応える。
「…………西沙(せいさ)の存在は勝敗を左右する…………貴様も分かっておろうが…………〝御世(みよ)〟…………」
「だからこうして来たのだろう? 私に勝てるのか?」
 それはもはや咲恵(さきえ)の声とは思えなかった。
 その咲恵(さきえ)の言葉に(さき)が片膝を立てた直後、咲恵(さきえ)の手を萌江(もえ)が握る。

 ────────⁉︎

「…………萌江(もえ)…………?」
 まるで我に帰ったかのような咲恵(さきえ)のその声に、萌江(もえ)は真っ直ぐ咲恵(さきえ)の目を見ながら口を開く。
「……間違ったところを見ちゃダメだよ……〝御世(みよ)〟…………」
 その言葉に咲恵(さきえ)が驚いていると、萌江(もえ)は目の前の(さき)に視線を戻して続けた。
(さき)さん────私は咲恵(さきえ)の中に誰がいたって構わない。私が知りたいのは金櫻(かなざくら)家のことだけ…………金櫻(かなざくら)家って何? 分かってることを話して」
 そして、(さき)萌江(もえ)の目を見ながら。
「……いいでしょう…………お話しします…………」




          「かなざくらの古屋敷」
      〜 第十三部「水の中の女神」第4話へつづく 〜
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