第八部「記憶の虚構」第3話(第八部最終話)
文字数 8,492文字
そのビスクドールが作られたのは第一次世界大戦中のオランダ。
戦後、ポーランドの資産家の元へ渡る。
第二次世界大戦中に、ユダヤ人だったその資産一家はナチスからの迫害を恐れてイギリスへと亡命する。
大戦中にその一家はアメリカへ移住。
ビスクドールはアメリカ国内を転々とする事になるが、やがてとある軍人の娘の元へ。
戦後に日本国内に作られた米軍駐屯地に配属になったその軍人は、家族を連れて日本へ。
軍人の娘と共に日本国内に持ち込まれたそのビスクドールは、娘の病死と同時に軍人家族の元を離れ、古美術商〝國安堂 〟の主人、國澤瑛一 の元へ。
やがてその人形は、瑞浪 財閥の当主の妻、サトの元へ辿り着く。
それまで人形に興味のなかったサトだが、まるで取り憑かれたように人形を溺愛した。
それからは様々な人形を買い集めるようになる。
それは家の家宝のように扱われていた。
なぜそれほどそのビスクドールに魅入られたのか、サト本人も分からないまま。
しかし人形が好きだから多くの人形を集めたのではない。
他の人形は、一つのビスクドールを〝守るため〟に集められた物だった。
☆
萌江 と咲恵 には、同時に人形の歴史が見えていた。
「………………その子の…………」
萌江 の両肩に手を置き、背後から萌江 に寄りかかる咲恵 がそう呟く。
──……病死した女の子の…………
すると、その咲恵 の様子に違和感を感じたのか、萌江 がすぐに返した。
「咲恵 ────しっかりして。その子はもうこの世にはいない。咲恵 も分かってるはずだよ。物に宿るのは幽霊なんかじゃない…………〝念〟だけ」
「……ごめん…………」
咲恵 は返しながらも、視線を落とし、萌江 の背中を見続ける。
そして続く萌江 の声。
「この子の念が大量の人形を集めさせた…………でもそんな力があるとは思えない……その念を利用してる〝バケモノ〟がいる…………」
重々しい感覚が萌江 の中に入り込む。
──…………黒い…………何者…………?
その形すらも分からない。
ただ〝何か〟の存在を感じた。
──…………異形 の………………
すぐ側 の裕子 は何が起きているのか分からずに動けないまま。
そして、突然萌江 が動いた。
身を乗り出して木箱の中の人形を覗き込むと、その体の下に手を差し入れる。
「……? …………萌江 ?」
背後から咲恵 の声が聞こえる中、萌江 は何かを取り出す。
それは、小さく折り畳まれた紙だった。
いつからそこにあったものか、色褪 せて硬くなった紙。
萌江 は人形の上でゆっくりとそれを開いた。
〝 october ht32 1989 / her to M 〟
横から覗き込んだ咲恵 が言葉を絞り出していた。
「…………やっぱり…………」
「……呼ばれたね…………どこでも手に負えないわけだ…………」
応える萌江 の意識に、ゆっくりと〝何か〟が染み込んでいく。
──……面倒なことを…………
萌江 は顔を上げずに続けた。
「……裕子 さん…………祐也 さんを…………本邸で…………咲恵 を入れて三人だけで話したい」
すると我に返った裕子 が返す。
「は、はい…………すぐに…………」
本邸の広い部屋が用意された。
そこには萌江 、咲恵 と、向かいに背中を丸めて胡座 を描く浴衣姿の四代目当主の祐也 。
直前まで布団にくるまっていたのは浴衣の乱れと折り目の雰囲気で分かった。何日入浴をしていないのか、髪は乱れ、無精髭の長さもバラバラ。
全体的に薄くなった白髪 は見窄 らしく、六〇を過ぎた財閥の当主とは思えない程にげっそりと痩せこけていた。使用人に肩を借りながらフラフラとした足取りで部屋に入ってくるなり、息苦しいのか常に肩で息をしていた。その度に荒い息伝いが部屋に響いた。
その姿をマジマジと眺めていた萌江 が正座をしたまま最初に口を開いた。
「お初にお目にかかります。私たちは裕子 さんに頼まれて、この家の…………というよりあの人形の問題を解決しに来た者です」
それが聞こえているのか聞こえていないのか、祐也 は顔を上げようともしない。
萌江 は人形の下で見付けた紙を、開いたまま祐也 の目の前に差し出した。
祐也 はその紙に視線を向けると、瞼 を大きく開いて見つめ続け、その体が僅かに震え始める。
萌江 が続けた。
「……これを…………あの人形の下に隠したのは、あなたですね」
祐也 は何も応えない。
ただ、その唇も大きく震えていた。
まるで何かを分かっているかのように、萌江 の言葉は続く。
「あなたは、ある人物にこの紙を人形の下に隠すように頼まれた…………私は恵元萌江 …………しかし…………本名は、金櫻 ……萌江 と言います」
するとその言葉に反応したのか、ゆっくりと、祐也 が顔を上げる。
その見開かれた目は、萌江 に向けられた。
弱々しく、小さく震える目。
そして、震える唇から言葉が零 れ落ちる。
「……………………京子 …………」
その目は潤んでいた。
萌江 は、その祐也 の目に確信を持つ。
「……あなたと不倫関係にあった…………金櫻京子 の、娘です」
すると、祐也 は荒い息を大きく吐いてから言葉を紡ぎ始めた。
「…………あいつは…………京子 は…………人間じゃなかった…………〝バケモノ〟だ…………俺を離してくれなかったんだ…………」
☆
昭和六二年。
祐也 は通っていたスナックの新人である京子 に惚れ込んでいた。
元々のお気に入りの女の子にまで嫉妬されるほど。
家庭はあったが未だ子供はいなかった。不妊治療の結果、祐也 が無精子症であることが分かってから、夫婦の間もギクシャクとしたまま祐也 は夜の街で飲み歩くようになる。
京子 と体の関係になるのはそれほど時間は掛からなかった。そしてそんな関係が三ヶ月ほどした頃、京子 の言動に祐也 は疑問を持ち始める。
「どうして…………そんなことを知ってるんだ?」
何気ない会話の中で、なぜか京子 は、知るはずのない財閥の裏事情を話し始めた。
「だって…………見えるんですもの」
ベッドの上で安アパートの蛍光灯を眺めながら、あっけらかんと京子 は言ってのけた。
それまでもやけに感が強い女だと感じる時はあった。まるで先に起きることを分かっているかのような行動も多く、それまではそれをミステリアスな魅力として祐也 も捉えていたが、その夜ばかりは恐怖を感じた。
意味が分からずに何も言い返せない祐也 に対して、京子 は続ける。
「あなたの家庭も総て見えてる…………最初からね…………お母様が次々と人形を購入するからって困ってるんでしょ? 離れの別邸が一つ人形で埋まるくらい…………その管理だけの使用人もいるくらい」
「────調べたのか⁉︎」
「別に…………いちいち他人の家庭を調べるほど暇じゃないから…………でも、全部見えてるの」
「…………ばかな」
「〝人形屋敷〟って呼ばれてるんでしょ? ……私も見てみたいな…………」
「やめてくれ!」
祐也 はベッドから飛び降りると服を着始めた。しかし指が震えてYシャツのボタンすらかけられずにいると、そこに背後から伸びる京子 の手。
「やめろ!」
祐也 は反射的にその手を振り解くと、言葉を荒げて続けた。
「……何が目的だ! 恐喝か…………金ならいくらでも────」
「いらない」
京子 は裸のまま祐也 に近付いた。
そしてゆっくりと祐也 のYシャツのボタンをかけながら続ける。
「……お母様が…………一番大事にしてる人形…………あるでしょ? 大きな桐 の箱の、その人形の下に…………これを入れて…………」
京子 はいつの間に取り出したのか、小さく折られた紙をYシャツのポケットに入れて続けた。
「青いドレスに金髪の…………アンティークドールって言うの? フランス人形? お母様に聞いたら分かるから…………」
祐也 がその紙を開くが、数字と英語だけが走り書きされただけの内容に意味が分からない。
笑みを浮かべた京子 の言葉が続く。
「あなたには意味が分かるはずもない…………もしも約束を守ってくれないと…………私とあなたの関係を世間にバラすだけ…………瑞浪 財閥が、四代目で終わるだけ…………」
☆
「……従うしか…………なかったんだ…………」
祐也 は涙をこぼしながら、震える声で絞り出すように続けた。
「人形を総て処分出来れば…………それで過去も消せると思ってたのに…………どうしてあの人形だけ…………夢に…………京子 が出てくるんだ…………毎晩のように俺の首を絞めて…………」
その言葉を聞きながら、萌江 の隣、咲恵 の呟きが聞こえる。
「……まだ…………呪いが続いてると…………」
萌江 が返す。
「うん…………思い込ませるのが〝呪い〟。それが催眠状態を作り出す…………でも……なんのために…………」
「事実として……確かにあの人形だけが残った…………」
「…………何を見せたいの…………」
「直接聞くしかないか…………」
そう言った咲恵 が腰を浮かして続ける。
「もう祐也 さんは充分ね…………誰か呼んでくる」
そう言って咲恵 は立ち上がると、部屋を出た。
萌江 は祐也 のすぐ目の前に移動すると、祐也 の目の前に水晶をぶら下げて口を開いた。
「これを見て…………もう呪いは終わり…………総て私が引き受ける」
言いながら、なぜか萌江 の目には涙が浮かんでいた。
──…………何を……何のために………………
駆けつけた使用人によって祐也 は自室へ。
咲恵 と二人だけになったところで最初に口を開いたのは萌江 だった。
「あのメモの意味、分かるでしょ?」
「……萌江 の……誕生日ね…………しかも〝her to M〟じゃなくて〝Mother〟」
「〝to〟だけ逆さまにして欲しいから〝23th〟が〝ht32〟」
「シャレたお母さんね」
「〝母より〟ってことか……さすが我が母だ…………って言いたいところだけど……」
萌江 は声のトーンを落として続ける。
「……他人の人生まで翻弄 するのは、何か違うよ」
「そういうところ…………萌江 らしくて好き」
そして二人は裕子 と満田 が待つ別室へ移動した。
落ち着かない様子の裕子 の肩に手を置いて笑顔を浮かべたのは咲恵 だった。
「……大丈夫ですよ。今日で終わります」
──……この人は純粋に家族のことを心配してる…………
──…………体調まで崩して…………
咲恵 は萌江 の隣に腰を降ろすと、その耳元で囁 いた。
「もう…………救ってあげて…………」
その言葉を受けて、萌江 が口を開いた、
「顛末 の説明をさせていただきます。お寺でも神社でも引き取りを断られる〝呪われた人形〟の存在と祐也 さんの悪夢の話のせいで、単純にみんな〝思い込んだ〟んです。思い込むところから〝呪い〟は始まります。丑 の刻 参りと同じですよ。昔の人たちは今より神社という場所は近い場所だった。つまり、そんな所に人の名前が書かれた藁 人形が五寸釘で木に打ち付けられていればすぐに見付かるんです。でも大事なのはそこ。名前の書かれた人が誰かに呪われていると村中に広げること、それが丑 の刻 参りの目的…………呪われている、と相手や周囲に思い込ませる…………思い込ませることが〝呪い〟そのもの……〝呪い〟は人が作るものなんです」
それを聞いた裕子 は、まるで力が抜けたように肩を落としていた。
萌江 が続ける。
「最初にどこでも引き取り手が無い人形が〝呪われている〟として認知され、次に祐也 さんの夢に人形が出てくるという話が広がる。さぞ使用人の皆さんには恐怖だったことでしょう。だからちょっとした家の壁や床の軋 みですら人形のせいだと思い込む。それを人の声だと思い込むほどにね……事実さっき伺わせてもらった時にも結構な家鳴 りが聞こえました。それなのにさっきは誰も気にしなかった。先入観があるかどうか……それだけなんです。どんなに立派な木造建築でも家鳴 りはあります。むしろ家鳴 りがあるということは木造建築がその使命を全うしている証拠でもあるんです」
裕子 の肩が小さく震え始めた。
「人形は私たちが引き取ります。今夜から祐也 さんが悪夢にうなされることはありませんよ」
その萌江 の言葉に、裕子 は泣き崩れた。
その背中に手を添えた咲恵 が声をかける。
「よくここまで耐えましたね…………」
萌江 はスマートフォンを取り出すと、素早く電話をかけた。
「あ……この間はどうも。ちょっと依頼したいことがあるんですけどね」
相手は西沙 の母────咲 。
萌江 が軽く説明すると、返答はシンプルだった。
『今夜中に持ってきてください。急いだほうがいい…………こちらも急いで準備します』
咲 も何かを感じているような反応。
萌江 は冷静なまま。
「助かります。では今夜」
萌江 は電話を切ると満田 に顔を向けた。
「みっちゃん、西沙 のいる街までって、これから駅に送ってもらって新幹線に乗るのと、高速使ってみっちゃんにかっ飛ばしてもらうのと、どっちが早いかな」
しかも口元には笑みが浮かぶ。
満田 も何かを理解したように返した。
「チケットを買う時間とちょうどいい時間の新幹線があるか分からない点を考えて…………しかもここからならインターが近い」
「頼める?」
「私のアウディを甘く見てもらっては困るよ」
そう言って満田 が口元に笑みを浮かべる。
☆
満田 がインターの料金所を抜けた辺りで、咲恵 は由紀 に電話をして店に遅刻する旨を伝えた。
「良かったの?」
萌江 のその言葉に、咲恵 はすぐに返す。
「……最後まで関わらせて。このままは帰れない…………」
「…………うん」
──……私も咲恵 の人生を翻弄 してる…………
──…………私だって…………母親の〝呪い〟に囚われているのかもしれない…………
移動の間に萌江 は咲 に再度電話で詳細を伝えた。
御陵院 神社に到着したのは午後七時頃。
この時期のこの時間はすでに深く暗い。
咲 はすでに神社の本殿で準備を整えていた。綾芽 と涼沙 も後ろに控える。燭台 の松明 の灯りが暗い本殿の祭壇前を照らしていた。
咲 は目の前に置かれた木箱の蓋を開けなかった。
それでも、そのまま眉間 にシワを寄せただけで口を開く。
「電話でも多少は感じていましたが…………大変な物を持ってきましたね…………」
それに萌江 は笑顔で応えていた。
「でも、あの家族はもう大丈夫です。あとはこの人形の〝念〟を解放してあげるだけですよ。そういうことは、こちらが専門でしょうから」
「それはそうですが…………京子 さんは…………どうしてこんな…………」
すると、さすがに萌江 も笑顔を消して返した。
「なんでしょうね…………それだけが私にも咲恵 にも分からなくて…………ただ…………」
そこに、けたたましい足音。
息を切らして本殿に入ってきたのは、いつものゴスロリファッションの西沙 だった。
連絡をしていたのは萌江 。その萌江 が軽く右手を上げて声を上げる。
「お疲れ」
「お疲れじゃないでしょ。一体どうしたっていうのよ」
するとそこに、祭壇の横から綾芽 の声が響いた。
「西沙 ! ここは本殿です! 走って入るとは何事ですか!」
しかし西沙 も声を張り上げて返す。
「何よ! その本殿から私を追い出したのは誰⁉︎」
「────西沙 」
静かな低い声で場の空気を制するように咲 が続ける。
「…………今は一刻を争います。恵元 様があなたを呼び出した理由を伺うことのほうが先のはず。綾芽 も控えなさい」
すると、すかさずそこに萌江 が挟まる。
「西沙 じゃなきゃダメなんだよね」
「私じゃなきゃダメって…………」
そしてそう返した西沙 は、そのまま体の力を失う。
まるで分かっていたかのようにその体を支えたのは咲恵 だった。
「早いなあ、敏感な体ですこと…………萌江 ────」
咲恵 がそう言いながら西沙 の体を床に寝かせると、そこに萌江 が近付く。
「こうなるだろうと思ったよ…………」
萌江 はそういうと首の後ろに手を回してネックレスを外す。そのまま左手の指に巻きつけると、水晶を西沙 の額に当てた。
すると、ゆっくりと西沙 が口を開く。
「〝…………どうしたの……?〟」
その声は、西沙 のものではなかった。
「……西沙 …………?」
思わず声を上げたのは咲 だった。
「初めてですか?」
そう言った咲恵 が咲 に顔を向けて続ける。
「……娘さんは憑依 体質です」
驚いた表情の咲 が小さく返した。
「……西沙 が…………そうでしたか…………」
そこに、再び西沙 の口から声が漏れる。
「〝……待っていますよ…………萌江 …………あなたに託しました…………〟」
すると、軽く息を吐いた萌江 が水晶を西沙 の額から離した。
西沙 の目が開く。
自分で上半身を起こすと、キョトンとした顔で周囲を見渡す。
萌江 が柔らかい声をかける。
「ありがとう西沙 …………」
「え?」
応えた西沙 には状況が理解出来ていない。
「……いつも、中途半端なんだね…………」
そう呟いた萌江 の背後から聞こえたのは、咲 の声。
「……あなたは…………何者ですか…………」
萌江 は立ち上がって咲 に顔を向けた。
そして口を開く。
「私は99.9%幽霊を信じていなければ呪いや祟 りも信じない能力者。皆さんとは対極にいる人間です。でも…………この世の中に説明の出来ない不思議なことがあるのは理解しています」
「とても、それだけとは…………」
「ただの変わり者ですよ。まあ私たちより、今回は人形をお願いします」
すると、咲 は深々と頭を下げて応えた。
「確かにお預かり致しました。お任せください」
その咲 の口元に、僅かに笑みが浮かぶ。
しかし、その表情は、萌江 と咲恵 からは見えなかった。
☆
帰り道、再び大粒の雪が降り始めた。
萌江 は咲恵 について店に入る。カウンターのいつもの席に座ると最近新しく入れたばかりのボトルを多めにロックグラスに注ぐ。
まだ他に客はいなかった。もっとも外は大雪。今夜が忙しくなるとも思えない降り方だ。
「あんまり飲み過ぎないでよ」
咲恵 はそう言うも、萌江 の感情的に飲みたい気分なのも分かってはいた。
萌江 も歯切れ悪く返す。
「うん…………今夜泊めてね…………」
「気にする仲じゃないでしょ。猫飼ってからウチに泊まってないんだから久しぶりにいいじゃない」
そこに混ざるのは、すでに店のNo.2となっている由紀 。
「え?萌江 さんって猫飼ったんですか?」
「うん、と言っても野良猫ね。住み着いちゃって」
そう言いながら萌江 はまだ氷の冷たさも広がらないブランデーを喉に流し込む。
「だから最近ここにも顔出さなくなっちゃったんですか? ママが寂しがって大変なんですよ」
そして当然のように咲恵 が挟まる。
「由紀 ちゃん、やめて」
「土曜日の仕事終わりなんかニコニコしちゃって……次の日に会えると思うとやっぱり嬉しいんでしょうねえ」
「やめなさい」
そこに応えるのは萌江 。
「咲恵 は寂しがり屋だからねえ」
そう言って萌江 は笑みを浮かべた。
そして、激しく店のドアが開く。
咲恵 と由紀 が顔を向けると、そこに立っていたのは杏奈 だった。
その顔は険しい。走って来たのか、肩で息をしていた。
最初に声をかけたのは咲恵 。
「どうしたの? そんな険しい顔して」
萌江 が目だけで杏奈 に視線を向けた。
やがて杏奈 はカウンターの奥のそんな萌江 の姿を見付けて驚いた表情に変わる。
「え? どうして萌江 さん…………」
「何よ。私がいちゃ悪いの?」
「いや……だって、最近来てなかったから今日もいないかと…………」
「私だって色々あるの。どうしたのよ? また何か困り事?」
「いえ…………今日はとりあえず咲恵 さんに相談しようかと思って来たんですけど…………」
「咲恵 に? まあ……座んなよ」
萌江 はそう言って隣の椅子に杏奈 を促した。
杏奈 が座ると、自然と咲恵 がコースターをその目の前に出して口を開く。
「ビール?」
「あ……はい…………お願いします…………」
杏奈 は咲恵 が目の前に置いたロングネックのハイネケンを一口喉に押し込んでから言葉を吐き出した。
「こうなったらもう言っちゃいますけど…………西沙 さんの実家って、もう行って来たんですよね?」
すると萌江 が応える。
「うん、この間の日曜日と…………実は今日も行ってきた。今はその帰り」
「そうですか…………」
杏奈 はそう返すと、大きく息を吐いてから続ける。
「……京子 さんの…………お母さん…………」
その言葉に、萌江 は自分のロックグラスに伸ばしていた手を止めた。
杏奈 の声が続く。
「萌江 さんにとっては…………お婆さんに当たる人ですが…………」
すると萌江 は無意識の内に、顔を窓に向けていた。
やっとその手がグラスを掴む。
そして聞こえる杏奈 の声。
「…………産まれが…………西沙 さんの実家でした…………あの神社です…………」
少し時間を置いて咲恵 がゆっくりと萌江 に視線を送る。
杏奈 の言葉を、なぜかまだ咲恵 は完全に理解出来ないまま。咲恵 の感情が何かを否定しようとしていた。
そこには鏡のようになったガラスに映る萌江 の姿。
口元に、笑みが浮かんでいた。
その向こうに、大粒の雪が降り続く。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第八部「記憶の虚構」終 〜
戦後、ポーランドの資産家の元へ渡る。
第二次世界大戦中に、ユダヤ人だったその資産一家はナチスからの迫害を恐れてイギリスへと亡命する。
大戦中にその一家はアメリカへ移住。
ビスクドールはアメリカ国内を転々とする事になるが、やがてとある軍人の娘の元へ。
戦後に日本国内に作られた米軍駐屯地に配属になったその軍人は、家族を連れて日本へ。
軍人の娘と共に日本国内に持ち込まれたそのビスクドールは、娘の病死と同時に軍人家族の元を離れ、古美術商〝
やがてその人形は、
それまで人形に興味のなかったサトだが、まるで取り憑かれたように人形を溺愛した。
それからは様々な人形を買い集めるようになる。
それは家の家宝のように扱われていた。
なぜそれほどそのビスクドールに魅入られたのか、サト本人も分からないまま。
しかし人形が好きだから多くの人形を集めたのではない。
他の人形は、一つのビスクドールを〝守るため〟に集められた物だった。
☆
「………………その子の…………」
──……病死した女の子の…………
すると、その
「
「……ごめん…………」
そして続く
「この子の念が大量の人形を集めさせた…………でもそんな力があるとは思えない……その念を利用してる〝バケモノ〟がいる…………」
重々しい感覚が
──…………黒い…………何者…………?
その形すらも分からない。
ただ〝何か〟の存在を感じた。
──…………
すぐ
そして、突然
身を乗り出して木箱の中の人形を覗き込むと、その体の下に手を差し入れる。
「……? …………
背後から
それは、小さく折り畳まれた紙だった。
いつからそこにあったものか、色
〝 october ht32 1989 / her to M 〟
横から覗き込んだ
「…………やっぱり…………」
「……呼ばれたね…………どこでも手に負えないわけだ…………」
応える
──……面倒なことを…………
「……
すると我に返った
「は、はい…………すぐに…………」
本邸の広い部屋が用意された。
そこには
直前まで布団にくるまっていたのは浴衣の乱れと折り目の雰囲気で分かった。何日入浴をしていないのか、髪は乱れ、無精髭の長さもバラバラ。
全体的に薄くなった
その姿をマジマジと眺めていた
「お初にお目にかかります。私たちは
それが聞こえているのか聞こえていないのか、
「……これを…………あの人形の下に隠したのは、あなたですね」
ただ、その唇も大きく震えていた。
まるで何かを分かっているかのように、
「あなたは、ある人物にこの紙を人形の下に隠すように頼まれた…………私は
するとその言葉に反応したのか、ゆっくりと、
その見開かれた目は、
弱々しく、小さく震える目。
そして、震える唇から言葉が
「……………………
その目は潤んでいた。
「……あなたと不倫関係にあった…………
すると、
「…………あいつは…………
☆
昭和六二年。
元々のお気に入りの女の子にまで嫉妬されるほど。
家庭はあったが未だ子供はいなかった。不妊治療の結果、
「どうして…………そんなことを知ってるんだ?」
何気ない会話の中で、なぜか
「だって…………見えるんですもの」
ベッドの上で安アパートの蛍光灯を眺めながら、あっけらかんと
それまでもやけに感が強い女だと感じる時はあった。まるで先に起きることを分かっているかのような行動も多く、それまではそれをミステリアスな魅力として
意味が分からずに何も言い返せない
「あなたの家庭も総て見えてる…………最初からね…………お母様が次々と人形を購入するからって困ってるんでしょ? 離れの別邸が一つ人形で埋まるくらい…………その管理だけの使用人もいるくらい」
「────調べたのか⁉︎」
「別に…………いちいち他人の家庭を調べるほど暇じゃないから…………でも、全部見えてるの」
「…………ばかな」
「〝人形屋敷〟って呼ばれてるんでしょ? ……私も見てみたいな…………」
「やめてくれ!」
「やめろ!」
「……何が目的だ! 恐喝か…………金ならいくらでも────」
「いらない」
そしてゆっくりと
「……お母様が…………一番大事にしてる人形…………あるでしょ? 大きな
「青いドレスに金髪の…………アンティークドールって言うの? フランス人形? お母様に聞いたら分かるから…………」
笑みを浮かべた
「あなたには意味が分かるはずもない…………もしも約束を守ってくれないと…………私とあなたの関係を世間にバラすだけ…………
☆
「……従うしか…………なかったんだ…………」
「人形を総て処分出来れば…………それで過去も消せると思ってたのに…………どうしてあの人形だけ…………夢に…………
その言葉を聞きながら、
「……まだ…………呪いが続いてると…………」
「うん…………思い込ませるのが〝呪い〟。それが催眠状態を作り出す…………でも……なんのために…………」
「事実として……確かにあの人形だけが残った…………」
「…………何を見せたいの…………」
「直接聞くしかないか…………」
そう言った
「もう
そう言って
「これを見て…………もう呪いは終わり…………総て私が引き受ける」
言いながら、なぜか
──…………何を……何のために………………
駆けつけた使用人によって
「あのメモの意味、分かるでしょ?」
「……
「〝to〟だけ逆さまにして欲しいから〝23th〟が〝ht32〟」
「シャレたお母さんね」
「〝母より〟ってことか……さすが我が母だ…………って言いたいところだけど……」
「……他人の人生まで
「そういうところ…………
そして二人は
落ち着かない様子の
「……大丈夫ですよ。今日で終わります」
──……この人は純粋に家族のことを心配してる…………
──…………体調まで崩して…………
「もう…………救ってあげて…………」
その言葉を受けて、
「
それを聞いた
「最初にどこでも引き取り手が無い人形が〝呪われている〟として認知され、次に
「人形は私たちが引き取ります。今夜から
その
その背中に手を添えた
「よくここまで耐えましたね…………」
「あ……この間はどうも。ちょっと依頼したいことがあるんですけどね」
相手は
『今夜中に持ってきてください。急いだほうがいい…………こちらも急いで準備します』
「助かります。では今夜」
「みっちゃん、
しかも口元には笑みが浮かぶ。
「チケットを買う時間とちょうどいい時間の新幹線があるか分からない点を考えて…………しかもここからならインターが近い」
「頼める?」
「私のアウディを甘く見てもらっては困るよ」
そう言って
☆
「良かったの?」
「……最後まで関わらせて。このままは帰れない…………」
「…………うん」
──……私も
──…………私だって…………母親の〝呪い〟に囚われているのかもしれない…………
移動の間に
この時期のこの時間はすでに深く暗い。
それでも、そのまま
「電話でも多少は感じていましたが…………大変な物を持ってきましたね…………」
それに
「でも、あの家族はもう大丈夫です。あとはこの人形の〝念〟を解放してあげるだけですよ。そういうことは、こちらが専門でしょうから」
「それはそうですが…………
すると、さすがに
「なんでしょうね…………それだけが私にも
そこに、けたたましい足音。
息を切らして本殿に入ってきたのは、いつものゴスロリファッションの
連絡をしていたのは
「お疲れ」
「お疲れじゃないでしょ。一体どうしたっていうのよ」
するとそこに、祭壇の横から
「
しかし
「何よ! その本殿から私を追い出したのは誰⁉︎」
「────
静かな低い声で場の空気を制するように
「…………今は一刻を争います。
すると、すかさずそこに
「
「私じゃなきゃダメって…………」
そしてそう返した
まるで分かっていたかのようにその体を支えたのは
「早いなあ、敏感な体ですこと…………
「こうなるだろうと思ったよ…………」
すると、ゆっくりと
「〝…………どうしたの……?〟」
その声は、
「……
思わず声を上げたのは
「初めてですか?」
そう言った
「……娘さんは
驚いた表情の
「……
そこに、再び
「〝……待っていますよ…………
すると、軽く息を吐いた
自分で上半身を起こすと、キョトンとした顔で周囲を見渡す。
「ありがとう
「え?」
応えた
「……いつも、中途半端なんだね…………」
そう呟いた
「……あなたは…………何者ですか…………」
そして口を開く。
「私は99.9%幽霊を信じていなければ呪いや
「とても、それだけとは…………」
「ただの変わり者ですよ。まあ私たちより、今回は人形をお願いします」
すると、
「確かにお預かり致しました。お任せください」
その
しかし、その表情は、
☆
帰り道、再び大粒の雪が降り始めた。
まだ他に客はいなかった。もっとも外は大雪。今夜が忙しくなるとも思えない降り方だ。
「あんまり飲み過ぎないでよ」
「うん…………今夜泊めてね…………」
「気にする仲じゃないでしょ。猫飼ってからウチに泊まってないんだから久しぶりにいいじゃない」
そこに混ざるのは、すでに店のNo.2となっている
「え?
「うん、と言っても野良猫ね。住み着いちゃって」
そう言いながら
「だから最近ここにも顔出さなくなっちゃったんですか? ママが寂しがって大変なんですよ」
そして当然のように
「
「土曜日の仕事終わりなんかニコニコしちゃって……次の日に会えると思うとやっぱり嬉しいんでしょうねえ」
「やめなさい」
そこに応えるのは
「
そう言って
そして、激しく店のドアが開く。
その顔は険しい。走って来たのか、肩で息をしていた。
最初に声をかけたのは
「どうしたの? そんな険しい顔して」
やがて
「え? どうして
「何よ。私がいちゃ悪いの?」
「いや……だって、最近来てなかったから今日もいないかと…………」
「私だって色々あるの。どうしたのよ? また何か困り事?」
「いえ…………今日はとりあえず
「
「ビール?」
「あ……はい…………お願いします…………」
「こうなったらもう言っちゃいますけど…………
すると
「うん、この間の日曜日と…………実は今日も行ってきた。今はその帰り」
「そうですか…………」
「……
その言葉に、
「
すると
やっとその手がグラスを掴む。
そして聞こえる
「…………産まれが…………
少し時間を置いて
そこには鏡のようになったガラスに映る
口元に、笑みが浮かんでいた。
その向こうに、大粒の雪が降り続く。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第八部「記憶の虚構」終 〜