第六部「鐘の鳴った日」第3話(第六部最終話)

文字数 7,985文字

 神父は顔色一つ変えずに、黙って理津子(りつこ)の話を聞き続けた。
 まるで壊れた蛇口のように、止めどなく出てくる理津子(りつこ)のこれまでの人生は、決して緩やかな生き方ではない。
 思えば、しばらく、生きることを楽しいと感じたことがなかった。
 ただただ何かに突き動かされるように、闇医療の世界で生きてきた。
「……気が付いたら…………ここに来ていました…………」
 理津子(りつこ)が最後にそう呟くようにいうと、神父がやっと口を開く。
「そうでしたか…………お話を伺えて良かった…………」
 その神父の言葉に、理津子(りつこ)は少し驚いた。
「…………こんな私の話なんか…………」
 理津子(りつこ)が呟く。
 神父の言葉が続いた。
「意味は必ずあります……あなたが今日、ここに来たことにも…………こうして私に話をしてくださったことにも…………あなたが、これまで生きてきたということにも…………」
 理津子(りつこ)は何も返せない。
 ただ、体の中で何かが動いた。
「キリスト教には仏教で言うところの水子(みずこ)という考えはありません。中絶は罪であると考えられてきました」
 神父は膝の上の聖書を横に置くと、言葉を繋ぐ。
「しかし、世の中には、望まれて産まれてくる人間もいれば、望まれずに産まれてくる者もいる。産まれてこれない者もいる。自ら産まれる前に死んでしまう者。産まれたかったのにその前に命を奪われてしまう者。一度生を受けたら、それはもう命です。あなたは多くの人間を殺してきた。あなたは間違いなく罪を背負っている」
 それでも、不思議と神父の言葉は優しかった。
「しかし、もしかしたら…………あなたは多くの母親を救ったとも言えます。運命というものがあるのなら、あなたはそれに従っただけなのでしょう。誰があなたを責められると言うのです…………私には到底出来ません。法的にどうとか、そんなことは私には分からない。それでもあなたは同じ女性として、苦しんでいる女性たちを救った。それは変わりません。事実です。そうは言っても、どんな言葉を並べてもあなたの罪が消えることはないでしょう。でも、あなたは罪を背負うことを分かった上で人々を救った。それは覚悟がなければ出来ない。神はその覚悟を見ている。あなたの罪と覚悟と、背負った多くのものを、神は背負ってくださるでしょう」
 いつ以来だろう。
 理津子(りつこ)は久しぶりに声を上げて泣いていた。
 大人になってから、ずっと何かが張り詰めていたのかもしれない。
 神父は理津子(りつこ)が墓地に埋めた〝子供たち〟のことも毎日祈り続けてくれるという。
「もしあなたが、まだ今の生活を続けると言うのなら…………私はいつでも〝子供たち〟をお預かりしますよ。連れてきてください。そして私と一緒に祈りましょう」
 教会を出ると、屋根の上の鐘が鳴り響いた。
 その音を、理津子(りつこ)はそれから先の人生で忘れたことがない。
 そしてそれからの理津子(りつこ)は、神父の優しさに甘え続けた。
 どうするのが正しいのか、ではなかった。
 神父は理津子(りつこ)の生き様を否定しなかった。
 生き方を変えるように(さと)すのは簡単だ。しかしその選択を強制したりはしない。
 それは理津子(りつこ)自身が決めることだからだろう。理津子(りつこ)としても答えを出すことが出来ないまま、同じ生活を続けていった。
 週に一度は教会に通う。
 それで自分の罪が許されるとは思っていない。せめて、名も与えてもらえなかった子供たちを天国に旅出させて上げたかった。

 ──……子供たちには……罪は無い…………

 ある日、神父から入院するということを告げられる。
「教会と墓地の管理は近くの教会で管理してもらえることになりましたが…………私がお手伝い出来るのはここまででしょう…………」
 理津子(りつこ)は泣きながら、深々と頭を下げた。
 そしてその時が、神父との別れの日となった。





「今から七年か八年…………そのくらい前になります…………その時で、私はその仕事を辞めました。それからは行政の施しで生きてますよ…………」
 理津子(りつこ)はあの時と同じように長椅子に腰掛け、通路を挟んだ向かいの長椅子に座る萌江(もえ)に話し続けていた。
 萌江(もえ)は黙って聞き続けた。
 総ての光景が見えた。
 その時の女性たちの〝気持ち〟も、理津子の〝想い〟も。
 そして、ゆっくりと口を開く。
「それから……毎日ここに?」
「ええ…………朝早くだと、まだ人も多くて…………午後になるとまた人が動き出す……目立たないように午前中に…………」
 理津子(りつこ)は自分がやけに落ち着いているのをおかしく感じていた。ついさっき初めて会った相手に、犯罪者としての自分の過去を語る。
 何かから解放されたい気持ちがあったのだろうか。話したところで何も変わらない。だったらこの時間は無駄なはず。しかし、なぜかそう思えない自分もいる。

 ──……総てのことに意味があるなら…………この時間は…………

 そして、なぜか萌江(もえ)の声は優しく理津子(りつこ)の中に入り込む。
「……そうでしたか…………」
「それであなたは…………こんな犯罪者の話を聞きにこんな所まで…………もう五〇を過ぎたおばちゃんの話なんか…………毎日子供たちに首を絞められる夢を見てるおばちゃんの話なんか…………どうしてですか?」
 言いながら、何かが理津子(りつこ)の胸を締め付けた。
 そして、再び聞こえる萌江(もえ)の声はやはり暖かい。
「子供たち?」
「仏教では……水子(みずこ)の霊は成長すると聞きました。その子供たちを毎日見ますよ…………」
「なんとなく……分かった気がします…………」

 ──……だから…………あの子たち…………

 そう思った萌江(もえ)は、膝の上の聖書を横に置くと、続けた。
水子(みずこ)は成長なんかしませんよ。胎児って普通の人は想像するの難しいですよね。イメージは浮かんでも普通の空間に胎児がいる光景って想像出来ない……だから人間に都合よく成長するってことにしてるだけ。あなたは胎児の形にすらなっていない子供たちだって見たきたでしょ。でもそんな子供たちじゃ、首なんか絞められないですもんね…………そういうことです。あなたの罪の意識が生んだ想像に過ぎない……」
「……だとしても……」
「そうです…………どんな言葉を並べてもあなたの罪が消えることはない。でも、あなたは罪を背負うことを分かった上で女性たちを救った。それは覚悟がなければ出来ない。あなたの罪と覚悟と、背負った多くのものを、もし神様がいるならば…………背負ってくれるんじゃないですか? それが神様の役目でしょ」
「…………え……」
 理津子(りつこ)の中に、あの神父の顔が浮かんだ。
 萌江(もえ)の声が、一瞬あの神父の声に聞こえていた。
 無意識に涙が(こぼ)れ落ちる。
「…………白髪(はくはつ)の神父さんですよね…………」
 その萌江(もえ)の言葉に、理津子(りつこ)は驚いて顔を上げた。
 萌江(もえ)が続ける。
「目が優しいんですよねえ…………最近の夢で何度も見ましたよ」
「……それって…………」
「あ、来たかな?」
「え?」
 扉が開く音がした。
 理津子(りつこ)が振り返ると、そこには以前、杏奈(あんな)と共に会った神父が立っていた。ここの教会と墓地を管理しているあの神父だった。
 横には杏奈(あんな)の姿。
 その杏奈(あんな)が先に声を上げる。
「話をしたら、神父さんが話聞きたいって言って…………」
 萌江(もえ)の指示だった。
 すると、神父は足早に長椅子の理津子(りつこ)に歩み寄る。
 (ほこり)だらけの床に膝をついて、驚く理津子(りつこ)の手を取って口を開いた。
「父から……あなたのことを聞いていました…………今までお力になれずに申し訳ありませんでした」
「……父…………?」
 そこに挟まったのは萌江(もえ)だった。
「あの目の優しい神父さんの、息子さん」
 すると神父が繋げる。
「父は五年前に病院で息を引き取りました…………その時にあなたのことを私に託して、せめて墓地だけは残してほしいと…………」
 理津子(りつこ)は声を上げて泣き崩れていた。
「何年もあなたに会えないまま…………私もあなたの存在を失念していました…………父はあなたのことを気に病みながらも、詳しくは話しませんでした…………ですので……神に(つか)える者としてお恥ずかしい限りです…………あなたが毎日ここに来ていたことに何年も気付かず…………これは、私の〝罪〟です…………」
「さて」
 そう言った萌江(もえ)が立ち上がる。
「あとは任せるよ神父さん。こっからはあなたの仕事」
「あなたはどうしてこのことが…………」
 そう言って見上げる神父に、萌江(もえ)は背中を向けたまま応える。
「私はねえ…………99.9%神も仏も信じない能力者。ここには似合わないからもう帰るね。でも…………この教会…………綺麗にしたらまた人が集まるよ」
 萌江(もえ)は扉に向かって歩く。
 外に出た所で、杏奈(あんな)が扉を閉めた。

 ──……そういうことか…………

 そんな風に感じながらも、萌江(もえ)にはやはり分からない。
 自分の行動が正しかったのかどうか、そこに確信はない。

 ──……こんなことで…………ホントにあの人は救われるの…………?

 そう思う萌江(もえ)の後ろを歩きながら、杏奈(あんな)はなぜか笑顔になる自分を感じ、胸を熱くした。目の前の萌江(もえ)の背中を大きく感じる。

 ──……やっぱり、頼んで良かった…………

 二人で駐車場まで歩くと、杏奈(あんな)の車の隣に見慣れた車が一台。
 その隣に立っているのは咲恵(さきえ)だった。

 ──……しまった…………

 萌江(もえ)はそう思った直後、杏奈(あんな)に噛み付く。
杏奈(あんな)! あんたまさか!」
「知りませんよ! 私は何も────」
 直後、乾いた音。
 咲恵(さきえ)の掌が、萌江(もえ)の頬で音を立てていた。
 響くような痛みと共に、咲恵(さきえ)の低い声が耳に届く。
「一人で抱え込まないでよ…………また私を一人にする気なの…………?」
 咲恵(さきえ)萌江(もえ)に一度別れ話を切り出された時を思い出していた。あの時の寂しさは忘れたことがない。
 肩を震わせた咲恵(さきえ)の言葉が続いた。
「……あの時は私も逃げた…………でも……もう嫌だ…………」
 その声には涙も混ざる。
「……夢を見た…………あの二人に…………萌江(もえ)がどこかに連れて行かれる夢…………怖くて仕方がなくて…………」
 それに応える萌江(もえ)の声は、柔らかかった。
「……あの子たちに…………関わらせたくなかった…………」
「もう何度も見てる…………」
 咲恵(さきえ)は事あるごとに萌江(もえ)からイメージを得ていた。
 萌江(もえ)が会ったことのある〝産まれるはずのなかった子供たち〟。
 もはや萌江(もえ)の想像というだけで済ませられる存在ではなくなっていた。
「あなたは…………私は…………もうあなたとは他人でなんかいたくない…………お願い……あなたが悩んでるのに…………私が黙っていられるわけないじゃない…………」
 咲恵(さきえ)はその声を震わせながら萌江(もえ)を抱きしめていた。
 萌江(もえ)が思わず声を漏らす。
「…………ごめん……」
「……全部話して……何でも聞くから…………シャットアウトなんかしなくていい」
「……あの子たち…………もしかしたら私の想像なんかじゃないかもしれない…………それがどういう意味か分かる? ……分かるよね」
 咲恵(さきえ)は少し間を空けた。
 考えているのが萌江(もえ)に伝わる。
 だからこそ、萌江(もえ)は返答を急がなかった。
 そして同時に、そこには咲恵(さきえ)にそれを強要し、巻き込んでしまっている自分がいる。

 ──…………私の選択は…………

「いいよ…………」
 その咲恵(さきえ)の小さな声が、続く。
「…………最後まで付き合ってあげる…………これは私が選んだことだから…………」

 ──……私はまだ……咲恵(さきえ)のことを分かってなんかいなかった…………

 その時、背後から、鐘の音が聞こえた。
 その教会の鐘の音が、萌江(もえ)の気持ちを揺らす。





 萌江(もえ)咲恵(さきえ)は山の中に戻っていた。
 自分の家に、と咲恵(さきえ)は考えていたが、どうしても萌江(もえ)が戻らなければならないと意地をはったために仕方なく山の中へ。
 咲恵(さきえ)萌江(もえ)を自宅まで送った後、ソファーで萌江(もえ)の足を枕に爆睡していた。
 萌江(もえ)(いと)おしそうに咲恵(さきえ)の髪を指でなぞっている。自分を心配してあんな早い時間に駆けつけてくれたのが嬉しかった。

 ──……ごめんね……無理させて…………怖かったよね…………

 もしかしたら咲恵(さきえ)を見失うことになったかもしれないと思うと、さすがに萌江(もえ)も怖かったのが本音だった。すでに離れられない。咲恵(さきえ)のいない人生など考えられなくなっていた。
 それはお互いの能力のことだけではない。
 誰もが変わっていく。それは萌江(もえ)咲恵(さきえ)も同じ。そんなことは萌江(もえ)も分かっている。それでも変えたくないことがあった。

 ──……私は……咲恵(さきえ)を守ってみせる…………
 ──…………それだけは……間違ってなんかいない…………

 そこに少し遅れてやってきたのは杏奈(あんな)だった。
「ごめんね。またこんな山の中まで……それ────」
 萌江(もえ)はそう言って縁側に置いた大きなボストンバッグを指差した。
 杏奈(あんな)はそれを持ち上げて声を上げる。
「この重い荷物なんですか⁉︎」
「それをあの神父さんの所の教会に持ってって。中に手紙入ってるけど見ちゃダメだよ」
「はあ…………」
 それでもなんとなく杏奈(あんな)には中身が想像出来た。
 萌江(もえ)がどうしてもここに帰りたかった理由。

 ──……すごい……さすがに私とは稼いでる額が違う…………

「私からってことは秘密でね」
「…………はい」
 中を見てみたい衝動にかられながらも、杏奈(あんな)は白い箱をテーブルに乗せて口を開く。
「今回はこれで…………」
「何よ」
「いえ、記事には出来なくても……その…………あの女の人を助けてくれたお礼というか…………そんな感じです」
 正座をして頭を下げる杏奈(あんな)に、萌江(もえ)が返す。
「嬉しいこと言うじゃん」
 その顔には優しい笑み。
 お土産に対して、だけの笑顔ではなかった
「でも私に相談なんかすると商売上がったりでしょ。これ、アレを運んでもらうお駄賃ね」
 萌江(もえ)はそう言って杏奈(あんな)に封筒を差し出す。
「え⁉︎ マジですか⁉︎ やった」
「で? このいい香りのする白い箱は?」
「これは駅前の有名なチーズケーキ専門店でも長年不動の人気を誇るチーズケーキ…………」
 杏奈(あんな)はテーブルの上のホールケーキ用の真っ白い箱を指で軽く滑らせる。
 震える声で返したのは萌江(もえ)
「まさか…………焼き上げるのに低温で二時間もかかる上に…………一度に二つずつしか作れないと噂の…………」
「……微妙な生地の加減を見ながら作るために機械では再現できないと謳われた…………まさに職人の作る逸品のチーズケーキ…………」
「おお!」
「…………今回はこれで…………次回もよしなに…………」
「最初に報酬をチラつかせるとは……なかなかやるな…………」
「なにとぞ…………」
「じゃ、逆に私から依頼してもいい?」
「え?」
 杏奈(あんな)が驚いて顔を上げると、目の前の萌江(もえ)の瞳は真剣だった。
 その萌江(もえ)が口を開く。
「水晶について……調べてほしいの…………〝水の玉〟っていう水晶…………ネットで分かる程度の情報じゃなくて……もっと深いところ…………」
「〝水の玉〟っていうのが水晶の名前なんですか? 聞いた事ないですね。あ…………」
「そう」
 萌江(もえ)は首の後ろに両手を回すとネックレスを外した。
 そこには僅かに黒味がかった〝火の玉〟。
 それをテーブルに置きながら続ける。
「私の持ってるのが〝火の玉〟……これには必ず(つい)になる透明な水晶がある…………それが〝水の玉〟…………でも私が持ってるのは一つだけ…………」
「そうだったんですね……」
 杏奈(あんな)萌江(もえ)が水晶を持ってることは分かっていた。しかも大事な場面ではその水晶を左手に持っていたことも知っている。何か〝力〟のある物なのだろうと想像しながら正直興味はあったが、まだ詳しく聞いたことはなかった。
 萌江(もえ)の説明が続く。
「純日本産の水晶なんだって。私にはそれしか分からない…………マイナーなんだけど……お願い出来るかな」
「分かりました。萌江(もえ)さんからの頼みじゃ断れませんよ」
「教会もよろしく…………綺麗に作り直してもらわないとね…………」
 すると、笑顔になった杏奈(あんな)が返した。
「……はい…………じゃ、これから教会に行ってきます」
「頼むぜ」
 萌江(もえ)が立ち上がれないままに杏奈(あんな)を見送った。感情は足音にも現れる。縁側から車まで向かう杏奈(あんな)の足音は日曜日とはまるで違った。
 そんなことだけでも、萌江(もえ)は嬉しかった。

 ──……頼むよ……これからもね…………

 直後、今度はスマートフォンが鳴る。
「忙しい日だなあ…………」
 画面には〝西沙(せいさ)〟の文字。
 萌江(もえ)は溜息を()いてタップすると(まく)し立てた。
「あんたでしょ咲恵(さきえ)に教えたの────っていうかなんであんたが知ってんのよ。お陰で朝から咲恵(さきえ)に引っ(ぱた)かれてほっぺたがヒリヒリするんですけど」
 返ってくるのは対照的に落ち着いた西沙(せいさ)の声。
『やっぱり咲恵(さきえ)に電話して良かった』
「よくないって言ってるでしょ」
萌江(もえ)が飲み込まれそうになってるから咲恵(さきえ)に連絡したんでしょ。感謝しなさいよ』
「飲み込まれるだと? この私を誰だと────」
『あの子供二人って、誰よ』
 もちろん西沙(せいさ)には話していない。
 咲恵(さきえ)とすら満足に話したことがない。
 しばらく続く沈黙を破ったのは西沙(せいさ)だった。
『私も感じてた。でも誰なのか分からない…………萌江(もえ)も分かってないんでしょ? 振り回されないようにして。あの時のメモに書いた男の子と女の子でしょ。あの時は夢で見たメッセージだったけど…………敵なのか味方なのかも分からない。分かるのは萌江(もえ)に関係があるってことだけ』
「分かってから電話するように。じゃあね」
『ちょっ────』
 萌江(もえ)は容赦無く通話を切った。

 ──……言われなくたって…………

 すると、膝の上の咲恵(さきえ)が上を向いて目を開いた。
 その口が開く。
「お、目の前に美人がいる」
「起きたらキスしてあげる」
「考えとく」
「おい」
 そんな二人らしいやり取りの後、咲恵(さきえ)は頭を横にしてテーブルに視線を移した。そして再び口を開く。
「なんかいい匂いするよ」
「うん、杏奈(あんな)がチーズケーキを────」
「なんですって!」
 体を起こした咲恵(さきえ)が箱に手をかけて続けた。
「これは駅前の有名なチーズケーキ専門店でも長年不動の人気を誇るチーズケーキ…………」
「その下りは終わった」
「やるわねあの子……」
「これを食べる人は今夜泊まっていかなければならないことになってるんですけど…………」
「んー…………お店が…………」
「まだ私のせいで寝不足でしょ。事故起こされたくないから泊まっていきな。平日だし…………体調悪いことにしてさ…………」
「ズル休みなんて…………」
「前に一回したじゃん。私が咲恵(さきえ)を離さなかった時」
「ま、まあ…………たまにはね…………」

 ──……そういえば、あったな…………

 まだ付き合いたての頃。一緒に暮らしていた頃。お互いがお互いの過去に引っ張られていた頃。
 咲恵(さきえ)の頭に懐かしい感覚と同時に、それはなぜか胸をくすぐる。
 萌江(もえ)が会話を繋げた。
「チーズケーキもあるしね」
「そ…………そうね…………」
「事故起こされたくないもん」
「元はと言えば萌江(もえ)が────」
 その咲恵(さきえ)の唇を奪った萌江(もえ)が、咲恵(さきえ)の首筋に顔を埋めて返した。
「……ごめん…………〝あの二人〟のことだけじゃなくて……風俗の話も絡んでたから…………ちょっとさ…………」
 すると咲恵(さきえ)は、萌江(もえ)の背中に手を回して応える。
「……そっか……ありがと…………」
 自分の過去を知っている萌江(もえ)の気遣いが嬉しかった。確かに、その言葉を聞いただけで胸のどこかが痛む。

 ──……そうだよね…………ごめん…………

 それは決して消えることのない過去。
「もう解決したの?」
 そう質問する咲恵(さきえ)に、萌江(もえ)がゆっくりと応える。
「……うん……バッチリ」
「さすが」
「でも…………これからは……やっぱり助けてもらうかも…………」
 その萌江(もえ)の言葉に応えるように、咲恵(さきえ)はその体を強く抱きしめた。

 ──……あなたは…………私が守ってみせる………………




         「かなざくらの古屋敷」
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