第十部「鬼と悪魔の爪」第１話
文字数 9,145文字
お前は誰だ
お前は誰だ
お前が見たものは、なんだ
☆
なぜだろう。
寂しいなら街中に暮らせばいい。
しかし不特定多数の人間と関わるのは嫌だった。
山の中に暮らし、基本的には一人。
それでも野良猫が住み着いてからは賑やかになった。
しかし月曜日の午後、いつものように日曜日に泊まりに来ていた咲恵 が帰る時。
毎週のこととは言え、この時はやはり寂しい。
また次の日曜日には来てくれる。
会いたくなれば萌江 自身がバスで街中まで行けばいい。
それなのに、どうして咲恵 の車を見送る時がこんなに寂しいのか。
咲恵 に寄りかかり過ぎなのかもしれない。お互いに他人と付き合うことの出来ない特殊体質。しかしそれすらも最近は怪しく思えてきた。
本当だろうか。
もしかしたら、それすらも自己暗示なのかもしれない。
お互いに、お互いを縛っているのかもしれない。
そう思うことが最近増えてきた。
あまり良くないことだ。
感情が安定していない証拠だ。
少なくとも萌江 はそう感じていた。
〝……お前は誰だ…………〟
夢の中でそう問いかける者は誰だったのか。
ただ、気持ちの悪い夢だった。
それは不安の塊。
具現化された恐怖。
どんな不安なのか。
どんな姿の恐怖なのか。
目を覚ました直後、意識が現実を吸収するまでの短い間で感じたことはそれだけ。
過去に何度か予知夢を見たことはある。夢でなくても度々未来を見てしまうこともある萌江 とは言っても、総てをそこに結びつけてしまうのは早計だ。本来の夢というのは、紐解いてみればシンプルなものでしかない。したがって、未来を見てしまう理由は萌江 の能力によるものなのだろう。しかし今回の夢は何かが違う印象だった。
いつも隣には咲恵 がいた。
怖くはない。
望んでいた現実が、今、目の前にある。
咲恵 は自分を守るだろう。
総てを捨てても、自分を守るだろう。しかし萌江 にとっては、そう思う自分が怖かった。咲恵 にとって、自分は負担でしかないのかもしれない。
──……私がいなくなったら…………咲恵 はどうするの…………
──…………違う…………逆だ……………………
「今週は？ どっかで来る？」
車のエンジンをかけながら、いつも咲恵 は萌江 にそう声をかける。
「…………んー、寂しくなったら…………」
何となく照れ臭そうに応える萌江 に、咲恵 が優しく返すのが慣例だ。
「電話くれたら迎えに来るのに…………」
「疲れてるでしょ。バスで行くから大丈夫」
そう思うのは事実だった。
夜の客商売の世界は萌江 も知っている。例え片道一時間とは言っても、緊急事態でもない限りは無理をさせたくなかった。
咲恵 が車を走らせると、バックミラーには小さく手を振り続ける萌江 の姿。
その姿が見えなくなっても、咲恵 はいつもとは違う感覚のまま車を走らせていた。
確実なのは、咲恵 も何かおかしな夢を見たことだけ。
明確なイメージが定まらない。
──……気持ちの悪い夢だった…………
──…………大きくて……黒い……………………
──…………まるで…………悪魔のような……………………
無意識の内に、咲恵 は車を停めていた。
舗装された幹線道路まではもうすぐ。
──……気にしすぎだよね…………過保護すぎる…………
咲恵 は再び車のアクセルを踏み込んでいた。
☆
それは、遥か昔のこと。
ある時、その村に鬼が現れた。
鬼は毎夜毎夜のように村にやってきては、食べ物を盗み、畑を荒らし、家に火をつけ、家の者を殺した。
村人は鬼を退治しようとするが、その力の前に成す術もない。
やがて、一人の巫女が現れる。
〝御寧 〟と名乗ったその若い巫女は、瞬く間に鬼を八つ裂きにした。
そして山の頂上にその鬼の亡骸を埋めると、その上に祠 と鳥居を建て、山を〝鬼神山 〟と名付け、村を去った。
そしていつの頃からか、その村は〝鬼神村 〟と呼ばれた。
☆
春まではもう少し。
夕方から僅かに粉雪が舞っていた。それでも積もるほどの寒さではない。
雪は軽い。上空の寒気との温度差はかなりのものだろう。
──……もう降らないかと思ったのにねえ…………
咲恵 は店の準備を終えると、いつも萌江 が座っているカウンターの席に座り、そんなことを思いながら軽く溜息を吐いていた。
いつもの萌江 のお気に入りの席に座ることで、萌江 と気持ちを共有しているような、そんな気持ちを楽しむ。
──……こんなこと、しなくたって…………
カウンターの中でコーヒーメーカーの音が静かになると、咲恵 も静かに立ち上がった。カウンターに入るとすぐにお気に入りのコーヒーの香りが鼻先をくすぐる。マグカップに注ぐと、その流れに合わせてゆっくりと香りが広がった。
一口目の嗜好は何物にも変えられない。
──これでまた一週間頑張れそうね
しかしその理想は、次の瞬間には砕け落ちる。
ドアの鈴を鳴らして入ってきたのは満田 。しかもあまり明るい表情には見えない。こういう表情の時は決まって仕事の依頼。咲恵 も瞬時にそれを感じた。
「あら……みっちゃん…………」
今朝の夢が、なぜか咲恵 の中に顔を出す。
「仕事？ そんな顔してるよ」
軽く笑みを浮かべた咲恵 のその言葉に、満田 は溜息を吐 きながらカウンターの真ん中の席に座り、そして口を開いた。
「まあ……そんなところだが…………なんだか今回は気持ちの悪い話でね…………」
「今更？ いつものことじゃない。それをスッキリさせたくて来たんでしょ？」
あっさりとそう応える咲恵 に、尚も満田 は歯切れが悪い。
「まだ正式な依頼というわけじゃないんだが、どうもいつものようにはいかない気がしてね」
その時、再びドアの鈴が鳴る。
咲恵 が顔を向けると、そこで眉間 にシワを寄せているのは萌江 だった。
「いらっしゃい…………いいタイミングだこと」
そう言いながら、咲恵 はまるで付き合い初めの頃のように胸が高鳴るのを感じた。自然と笑顔も浮かぶ。
その咲恵 の感情を知ってか知らずか、萌江 はまっすぐカウンターの一番奥────いつもの席に座って声を上げる。
「今夜は仕事はしないよ。だめだよ。咲恵 に会いに来たんだから」
すかさず返すのは満田 。
「明日からでいいんだけどね」
「どうせいつもの呪いだとか祟りだとかそんな話でしょ？ どっかの物理学者にでも頼んだらいいのに」
「冷たいことを言うねえ…………それで解決するくらいならここには来てないよ」
そこに咲恵 が挟まる。
「まあね…………話すだけ話してみたら？」
そう言いながら、咲恵 は萌江 と満田 のボトル用のセットをカウンターに並べた。
最初だけはすぐにお酒を注げるように、いつもロックグラスにはすでに氷が入っている。そこに多めにブランデーを注いだ萌江 が繋ぐ。
「聞くだけは聞いてやる」
冗談混じりなこんな会話はいつものこと。
しかし咲恵 には、少し今夜の萌江 は違って見えていた。
──……少しイライラしてる？
そして満田 の説明が始まった。
「〝鬼神 の呪い〟って聞いたことあるかい？」
すると萌江 が大きく溜息を吐 いて返す。
「やっぱり今回も呪いかあ…………」
「伝説というか、伝承って感じなのかな」
満田 は負けずに話し続けた。
「悪さをした鬼がいて、それを退治した巫女が山の頂上に鬼を埋めて祠 と鳥居を建てた…………そしてその村はいつしか〝鬼神村 〟と呼ばれたって流れなんなんだが、昭和四〇年頃に隣の町に吸収合併されるまでは実際にその村の名前は残っていた。事実そこの山は今でも〝鬼神山 〟と呼ばれてる。祠 というより、山そのものが信仰の対象となってるみたいだな。面白いのは、その鬼を退治した巫女の名前だ」
「名前？」
「大谷城 ……御寧 」
満田 はそれを書いた自分の手帳を開いて萌江 に見せながら続ける。
「この大谷城 家は、実在する。しかもその地域には一つしかない。旧鬼神村 の大地主。名字があるってことはそれなりの家だったんだろうが、神社ではない」
「でも、その……〝おね〟？ って人は巫女だったんでしょ？ 巫女は代々血筋で繋がるはずだけど…………」
なんだかんだ言っても興味はあるのか、萌江 も満田 の会話に食い込んでいた。
「そこがどうにも謎でね」
満田 はウィスキーの水割りを飲みながら続ける。
「元々伝承なんてどこかで何かが都合よくねじ曲げられて伝わってるものだよ。しかし不思議なことが重なってるのも事実だ…………その大谷城 家…………男が産まれても必ず一才の誕生日を迎える前に死んでる…………女だけで血筋が繋がれてきた。現在家にいる男たちは全員が婿養子だけ。血筋を存続させるために家に入った者だけだ…………」
「それが、呪い？」
そう言って萌江 はグラスのブランデーを喉に押し込んだ。飲み初めにしては少しペースが早い。
「そうらしい……〝鬼神 の呪い〟って呼んでるそうだ…………男が産まれても死に絶える呪いなんて、物理学者で答えが出るとは思えなくてね」
「へえ…………」
そう呟いて目を細めた萌江 が続ける。
「それで、その家の人がその呪いをなんとかしてほしいって？」
「それだったら適当な霊能力者に頼むよ。今回の依頼者はその地域出身の人物だが大谷城 家とは関係がない…………取引先の社長さんでね、ここ一ヶ月くらいかな…………鬼に殺される夢を見るんだそうだ…………」
「呪われる理由もないのに？ それこそ同郷だから心理的な面が考えられると思うけど…………」
「その人だけならね…………」
満田 は新しくグラスに氷を追加しながら続ける。
「その人と同じ同郷の人で、一緒に仕事をしていた人なんだが…………その人も同じくらいから同じ夢を見てるのが分かったそうなんだ…………しかも最近になってね。お互いにその地を離れて長い…………他にもそういう人たちがいるかどうかは分からない…………でも夢を見始めたのはネットやメディアで〝鬼神 の呪い〟の噂が再燃した頃とも一致する。でも二人は〝呪い〟の詳細までは知らなかった。知ってるのは伝承と祠 の存在だけ。大谷城 家で呪いが続いていたことなんか誰も知らない。呪いをリアルなものと考えるほうが不自然だ。自分たちには関係がないしね」
「確かに複雑ね」
そう言って挟まった咲恵 が続ける。
「その大谷城 家の呪いの事実は依頼者の社長さんが？」
「同じ夢を見てる人間が自分にもいるって分かってから調べたんだそうだ。そうしたら大谷城 家に辿り着いて怖くなったそうだよ。毎晩夢にうなされるからノイローゼみたいな感じなのかな…………久しぶりに会った時にあまりに痩せてて私も驚いたよ…………病気かと思って聞いたら話してくれた…………ローカルとは言ってもそれなりの規模の土木会社だ。私の家もその人の紹介の建築会社で建ててる。その時の大工の棟梁 が…………今は引退してるが、二人目の夢を見てる同郷の人だ…………だから、今回は私からの依頼と思ってもらって構わない…………いくらでも出すよ」
「大きく出たね」
返したのは萌江 だった。
その萌江 が小さく続ける。
「みっちゃんからの依頼とは、世も末だ…………この店のボトル一〇本でいいよ」
「いつの間に値下げしたんだ？」
満田 は口元に笑みを浮かべながら返した。
「たまにはサービス料金もいいかなって…………簡単に終わりそうな仕事だし…………動きやすい所で宿の手配をお願い。明日行くよ」
「分かった…………宿代はウチの事務所で持つよ」
「さすがみっちゃん」
そして再びのドアの鈴の音に全員が振り返った。
そこに立つのは由紀 。その由紀 が声を張り上げた。
「ああ！ みっちゃん！ まあた出張の仕事⁉︎ ママにもファンがいるんだからあまり遠くはダメだって言ってるでしょ⁉︎」
すると笑顔になった満田 が返す。
「ごめんよ由紀 ちゃん。今回もボトル三本で許してよ」
「まぁたそうやってボトルで誤魔化して────」
「今夜は恵元 さんのボトルも一〇本追加するからさ」
「ま、まあ……それなら…………」
「明日からね」
「明日⁉︎」
☆
お前は誰だ
お前は誰だ
お前が見たものは、なんだ
☆
新幹線の発着する駅から、その地域まではかなりの距離があった。
五十年以上前に吸収合併されたとはいえ、今でもいくつかの小さな山に囲まれた閉鎖的な土地柄であることに変わりはない。もちろん今はトンネルから道路までインフラに於いて問題はなく、車さえあれば行くことが難しい場所ではない。
しかし現在の産業といえば温泉くらいで、それ以外に観光客を呼べるだけの観光施設もなかった。
それでも満田 が用意してくれた温泉旅館は立派な所だった。古めかしさがありつつも、敢えてその雰囲気を求めてくる宿泊客も多い。
駅には旅館が用意してくれたタクシーが待っていた。
旅館に着くなり待遇の厚さの違いを感じる。
「満田 様から、移動の時はすぐにタクシーを用意するようにと伺っておりますので、いつでも仰って下さい」
受付の段階でそう言われた時、さすがの萌江 も咲恵 の耳元で囁いた。
「みっちゃんって何者？」
咲恵 も宿の従業員にはにかんだ笑顔を見せるしかなかった。
時間はすでに夕方。
部屋は二人で泊まるには広すぎるくらいの立派な和室。しかも窓の外には豪華な温泉付き。
「一番いい部屋なんじゃない？」
咲恵 も思わず笑顔で言葉を漏らす。
「とりあえず今夜は、ゆっくり体休めようか…………もうこんな時間だし」
咲恵 のその言葉に、窓の外を眺めながら萌江 が返した。
「そうだね。明日から忙しそうだ…………」
初めて来た場所だからだろうか、少し気持ちも紛れているのか、萌江 の表情も幾分落ち着いて見えた。咲恵 もそんな萌江 の変化に気持ちが楽になる。
言葉を返す咲恵 の声も少しだけトーンが上がっていた。
「明日はとりあえず市役所だね。それから午後の四時頃には、みっちゃんが例の二人を連れてここに来るから…………」
「よく来る気になったね」
「協力したいみたいだって、みっちゃんは電話で言ってたけど…………」
「そこまで苦しんでるってことでもあるのか…………」
そう言いながらも、萌江 は外を眺めたまま。
咲恵 はその隣に立って萌江 の視線を追った。そこに見えるのは連なる山々だけ。
すると、萌江 が口を開く。
「地図で確認しておいたけど…………あそこの山だね」
萌江 が指差したのは、決して高い山ではない。周囲の高い山々に囲まれたような小さな山。
萌江 の声が続く。
「あそこに…………鬼がいるのか…………」
☆
翌日、朝食をとるとすぐに二人は動いた。
旅館に用意してもらったタクシーで市役所の支所へと向かう。鬼神村 だった頃の村役場がそのまま支所として使われていた古い建物だ。
目的は大谷城 家の戸籍。
市役所にアポを取ったのは満田 だった。萌江 と咲恵 は会計事務所の所員という肩書きで、いつの間にか名刺まで用意されていた。
咲恵 曰く〝何かの時のために用意していたのだろう〟という結論に落ち着く。
元村役場というだけあってかなり古さが伺えた。鉄筋コンクリートではあるが外壁の修復部分が目立つほど。中もどことなく薄暗い。最近の建物とは違って天井も低かった。旧鬼神村 のエリアの現在の住民は一万人程度。人口から考えれば最低限の行政施設なのだろう。職員の数もそれほど多くは見えない。
二人が通された部屋は小ぶりな会議室。
対応してくれた職員は若い男性だった。
「戸籍に関する資料は以上ですね」
重そうな書類の束を机に置いた職員が続ける。
「この近辺では一番の大地主の家ですが…………何かあったんですか？」
「いえ……」
あっさりと応える咲恵 が書類を開きながら続ける。
「直接こちらの家の方から依頼がありまして…………家系図を新しくしたいとかで…………」
「そうなんですか…………」
「持ち出しはダメなんでしょ？」
「そう……ですね……」
「うん…………分かりました」
「…………じゃあ、終わったらまた受付で声かけてください」
職員はそれだけ言うと部屋を出た。その仕事は最低限で無駄が無い。
すでに書類を凝視していた萌江 がすぐに声を上げた。
「持ち出しが出来なくても……撮影は出来るよねえ」
スマートフォンを取り出した萌江 に咲恵 が返す。
「まあね。暗黙の了解なのかな…………だから同席しないんでしょうね。興味が無いのもあるんでしょうけど」
「役人だなあ」
そう言って写真を撮り始める萌江 に、咲恵 も小さく溜息。
「まあね」
「一番の大地主のことは知ってても、男がすぐに死んでるってことは有名じゃないんだね」
「まあ、一歳になる前にみんな死んでるんでしょ？ それじゃ仕方ないのかもね。実際どうなの？」
咲恵 もそう言いながら資料を覗きこんで続けた。
「一番最近だと平成八年…………1996年か。死因までは分からないけど確かに死んでるね。その二年前に長女が産まれてるけど」
「それが今の跡取りか…………」
そこから少しずつ遡るが、確かに例外なく男は一歳を迎える前に死んでいた。記録が残っているのは明治まで。戦争での空爆等の被害がない場所でもあるため、思っていたよりも古い記録が残っていた。
とは言っても明治や大正の記録となると、そもそも書式が違う。現代のスタイルに慣れている人間に取ってはやはり見にくい。読み解くだけでも時間がかかる。
午前一〇時から初めて一番古い記録に辿り着いた時は午後の一時を過ぎていた。
「さすがに疲れたね…………」
最初にそう声を漏らしたのは咲恵 だった。
「そうだね…………」
萌江 はそう応えながら小さく息を吐く。そして指で目頭を押さえた。
そして続ける。
「でも成果はあったかな……聞いてたことはホントだった…………まさか本当のことだったとはね…………」
萌江 はそう応えて大きく息を吐く。
その姿に、咲恵 が萌江 の顔を覗き込んで返した。
「そんなに疲れた顔見せるなんて、珍しいね…………」
よほどでない限り、萌江 は周りに対して弱い部分を見せようとはしない。それは咲恵 に対しても同じだった。たまに無理をし過ぎて咲恵 に怒られることがあるくらいだ。
その咲恵 の強めの声が、萌江 にゆっくりと近付いた。
「今週…………あまり寝てないでしょ」
そう言いながら、咲恵 は萌江 の背後から首筋に両手を回して続ける。
「……嫌な夢見てるんでしょ？ 私も少し感じてた…………でもぼやけててよく見えない…………萌江 も同じ？」
暖かい手に包まれ、萌江 の気持ちが緩む。
「…………なんか…………怖い夢…………私に向かって〝お前は誰だ〟って…………でも顔が見えない…………怖い相手だってことは分かるんだけど…………」
「もしかして…………最近、毎日？」
そう聞く咲恵 の腕の中で、萌江 は小さく頷いた。
そして微かに震える声で応える。
「……ただの夢だよ…………ただの潜在意識…………」
そう言われればそれまで。しかし咲恵 には〝ただの夢〟とは思えていない。
「怖かったね…………私がなんとかする」
そして顔を上げて続けた。
「ご飯食べて栄養を摂取してからタクシー拾おっか。まだ間に合うね」
☆
「少し休んだら？」
旅館に到着するなり撮影してきた写真をタブレットで見る萌江 に、咲恵 が声をかけた。
「んー、何か見落としがないのかなあって思ってさ」
咲恵 が入れたほうじ茶を飲みながら、萌江 はそう応える。
しかし、咲恵 は敢えて萌江 の横に腰を下ろして返した。
「栄養の摂取って言ってもいきなりトンカツ定食大盛りとは思わなかったわ」
「いい油使ってたよ。ごま油の割合も多いからカラッと揚がってたし。職人の店って感じだね。あれだからローカルな店は侮れないんだよねえ」
「とりあえず地元の人のリアルな話は聞けたけどね」
昭和の香りのする古い定食屋。
駅前のお洒落なカフェとは対極にあるような存在だが、当然のように客層も違う。大体はそういう店は常連客で商売が成立していた。それだけに、リアルな地元の声を聞くには最適だ。
お昼時を少し過ぎてはいたが、それでもそれなりに癖の強そうな年配の常連客が時間を潰していた。会話の流れから近所の農家の人たちが多いようだ。まだ春までは少し時間がある。着々と農作業の準備を進め始めているようだが、そのための情報交換にもこういう場所はちょうどいいのだろう。
特に農家の人たちは基本的にその地に長く暮らしていることがほとんど。この場所の情報や歴史にも詳しい。そういう人たちに伝わる伝承は、時として世間に広がる昔話とは異なることも多い。
「で、その鬼を退治した坊さんってのが────」
「坊さんじゃ男じゃねえか。巫女さんじゃなかったか？」
「どっちにしたって大谷城 家の先祖だって話なんだろ？」
「ホントかどうか知らねえけどな。あの家の人間なんて見たこともねえや。殿様みたいなお屋敷の大地主様だしよ」
「男がみんなすぐに死んじまうって話じゃなかったか？」
「そんなことがあったらホントに怪奇現象ってヤツじゃねえか」
ある意味リアルな情報だった。
伝承や祟りとは言っても真剣に信じている人間など誰もいない。どこかに幽霊が出るという話でもない。心霊スポットとしても盛り上がりにかける程度のものでしかない。事実としてオカルトブームに乗って伝説が掘り起こされたとは言っても、それはやはり御伽噺 みたいなものだ。
しかし萌江 と咲恵 にとっては、そういうリアルな情報こそがありがたい。意外な部分で解決の糸口になることもあるからだ。
それでもやはり萌江 の疲労の具合が咲恵 には気になる。
その咲恵 の口調は僅かに強くもあった。
「……この後のお客さんから話を聞いたら、温泉に浸かって今夜はゆっくり休むよ」
「この旅館の料理も美味しいしね」
そう明るく返す萌江 に、咲恵 が両腕を回して包み込む。
──……見えない…………
──…………何かに…………邪魔されてる…………？
「…………見えないでしょ？」
萌江 だった。
「ただの夢じゃないのかも…………」
その萌江 の声に、咲恵 が反射的に口を開く。
「────私が…………」
「……悪魔が見えた…………悪魔がいる…………悪魔が……………………」
咄嗟に、咲恵 は萌江 の首に下がる水晶を掴んでいた。
同時に萌江 の体が震え始める。
──……どうすれば…………
咲恵 がそう思った直後、萌江 の声。
「……離さないで…………」
──……私じゃ…………壁を壊せない…………
そう思った咲恵 は、慌ててハンドバッグからスマートフォンを取り出していた。
「……ごめん……私じゃ崩せない…………お願い…………西沙 ちゃん…………」
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十部「鬼と悪魔の爪」第２話へつづく 〜
お前は誰だ
お前が見たものは、なんだ
☆
なぜだろう。
寂しいなら街中に暮らせばいい。
しかし不特定多数の人間と関わるのは嫌だった。
山の中に暮らし、基本的には一人。
それでも野良猫が住み着いてからは賑やかになった。
しかし月曜日の午後、いつものように日曜日に泊まりに来ていた
毎週のこととは言え、この時はやはり寂しい。
また次の日曜日には来てくれる。
会いたくなれば
それなのに、どうして
本当だろうか。
もしかしたら、それすらも自己暗示なのかもしれない。
お互いに、お互いを縛っているのかもしれない。
そう思うことが最近増えてきた。
あまり良くないことだ。
感情が安定していない証拠だ。
少なくとも
〝……お前は誰だ…………〟
夢の中でそう問いかける者は誰だったのか。
ただ、気持ちの悪い夢だった。
それは不安の塊。
具現化された恐怖。
どんな不安なのか。
どんな姿の恐怖なのか。
目を覚ました直後、意識が現実を吸収するまでの短い間で感じたことはそれだけ。
過去に何度か予知夢を見たことはある。夢でなくても度々未来を見てしまうこともある
いつも隣には
怖くはない。
望んでいた現実が、今、目の前にある。
総てを捨てても、自分を守るだろう。しかし
──……私がいなくなったら…………
──…………違う…………逆だ……………………
「今週は？ どっかで来る？」
車のエンジンをかけながら、いつも
「…………んー、寂しくなったら…………」
何となく照れ臭そうに応える
「電話くれたら迎えに来るのに…………」
「疲れてるでしょ。バスで行くから大丈夫」
そう思うのは事実だった。
夜の客商売の世界は
その姿が見えなくなっても、
確実なのは、
明確なイメージが定まらない。
──……気持ちの悪い夢だった…………
──…………大きくて……黒い……………………
──…………まるで…………悪魔のような……………………
無意識の内に、
舗装された幹線道路まではもうすぐ。
──……気にしすぎだよね…………過保護すぎる…………
☆
それは、遥か昔のこと。
ある時、その村に鬼が現れた。
鬼は毎夜毎夜のように村にやってきては、食べ物を盗み、畑を荒らし、家に火をつけ、家の者を殺した。
村人は鬼を退治しようとするが、その力の前に成す術もない。
やがて、一人の巫女が現れる。
〝
そして山の頂上にその鬼の亡骸を埋めると、その上に
そしていつの頃からか、その村は〝
☆
春まではもう少し。
夕方から僅かに粉雪が舞っていた。それでも積もるほどの寒さではない。
雪は軽い。上空の寒気との温度差はかなりのものだろう。
──……もう降らないかと思ったのにねえ…………
いつもの
──……こんなこと、しなくたって…………
カウンターの中でコーヒーメーカーの音が静かになると、
一口目の嗜好は何物にも変えられない。
──これでまた一週間頑張れそうね
しかしその理想は、次の瞬間には砕け落ちる。
ドアの鈴を鳴らして入ってきたのは
「あら……みっちゃん…………」
今朝の夢が、なぜか
「仕事？ そんな顔してるよ」
軽く笑みを浮かべた
「まあ……そんなところだが…………なんだか今回は気持ちの悪い話でね…………」
「今更？ いつものことじゃない。それをスッキリさせたくて来たんでしょ？」
あっさりとそう応える
「まだ正式な依頼というわけじゃないんだが、どうもいつものようにはいかない気がしてね」
その時、再びドアの鈴が鳴る。
「いらっしゃい…………いいタイミングだこと」
そう言いながら、
その
「今夜は仕事はしないよ。だめだよ。
すかさず返すのは
「明日からでいいんだけどね」
「どうせいつもの呪いだとか祟りだとかそんな話でしょ？ どっかの物理学者にでも頼んだらいいのに」
「冷たいことを言うねえ…………それで解決するくらいならここには来てないよ」
そこに
「まあね…………話すだけ話してみたら？」
そう言いながら、
最初だけはすぐにお酒を注げるように、いつもロックグラスにはすでに氷が入っている。そこに多めにブランデーを注いだ
「聞くだけは聞いてやる」
冗談混じりなこんな会話はいつものこと。
しかし
──……少しイライラしてる？
そして
「〝
すると
「やっぱり今回も呪いかあ…………」
「伝説というか、伝承って感じなのかな」
「悪さをした鬼がいて、それを退治した巫女が山の頂上に鬼を埋めて
「名前？」
「
「この
「でも、その……〝おね〟？ って人は巫女だったんでしょ？ 巫女は代々血筋で繋がるはずだけど…………」
なんだかんだ言っても興味はあるのか、
「そこがどうにも謎でね」
「元々伝承なんてどこかで何かが都合よくねじ曲げられて伝わってるものだよ。しかし不思議なことが重なってるのも事実だ…………その
「それが、呪い？」
そう言って
「そうらしい……〝
「へえ…………」
そう呟いて目を細めた
「それで、その家の人がその呪いをなんとかしてほしいって？」
「それだったら適当な霊能力者に頼むよ。今回の依頼者はその地域出身の人物だが
「呪われる理由もないのに？ それこそ同郷だから心理的な面が考えられると思うけど…………」
「その人だけならね…………」
「その人と同じ同郷の人で、一緒に仕事をしていた人なんだが…………その人も同じくらいから同じ夢を見てるのが分かったそうなんだ…………しかも最近になってね。お互いにその地を離れて長い…………他にもそういう人たちがいるかどうかは分からない…………でも夢を見始めたのはネットやメディアで〝
「確かに複雑ね」
そう言って挟まった
「その
「同じ夢を見てる人間が自分にもいるって分かってから調べたんだそうだ。そうしたら
「大きく出たね」
返したのは
その
「みっちゃんからの依頼とは、世も末だ…………この店のボトル一〇本でいいよ」
「いつの間に値下げしたんだ？」
「たまにはサービス料金もいいかなって…………簡単に終わりそうな仕事だし…………動きやすい所で宿の手配をお願い。明日行くよ」
「分かった…………宿代はウチの事務所で持つよ」
「さすがみっちゃん」
そして再びのドアの鈴の音に全員が振り返った。
そこに立つのは
「ああ！ みっちゃん！ まあた出張の仕事⁉︎ ママにもファンがいるんだからあまり遠くはダメだって言ってるでしょ⁉︎」
すると笑顔になった
「ごめんよ
「まぁたそうやってボトルで誤魔化して────」
「今夜は
「ま、まあ……それなら…………」
「明日からね」
「明日⁉︎」
☆
お前は誰だ
お前は誰だ
お前が見たものは、なんだ
☆
新幹線の発着する駅から、その地域まではかなりの距離があった。
五十年以上前に吸収合併されたとはいえ、今でもいくつかの小さな山に囲まれた閉鎖的な土地柄であることに変わりはない。もちろん今はトンネルから道路までインフラに於いて問題はなく、車さえあれば行くことが難しい場所ではない。
しかし現在の産業といえば温泉くらいで、それ以外に観光客を呼べるだけの観光施設もなかった。
それでも
駅には旅館が用意してくれたタクシーが待っていた。
旅館に着くなり待遇の厚さの違いを感じる。
「
受付の段階でそう言われた時、さすがの
「みっちゃんって何者？」
時間はすでに夕方。
部屋は二人で泊まるには広すぎるくらいの立派な和室。しかも窓の外には豪華な温泉付き。
「一番いい部屋なんじゃない？」
「とりあえず今夜は、ゆっくり体休めようか…………もうこんな時間だし」
「そうだね。明日から忙しそうだ…………」
初めて来た場所だからだろうか、少し気持ちも紛れているのか、
言葉を返す
「明日はとりあえず市役所だね。それから午後の四時頃には、みっちゃんが例の二人を連れてここに来るから…………」
「よく来る気になったね」
「協力したいみたいだって、みっちゃんは電話で言ってたけど…………」
「そこまで苦しんでるってことでもあるのか…………」
そう言いながらも、
すると、
「地図で確認しておいたけど…………あそこの山だね」
「あそこに…………鬼がいるのか…………」
☆
翌日、朝食をとるとすぐに二人は動いた。
旅館に用意してもらったタクシーで市役所の支所へと向かう。
目的は
市役所にアポを取ったのは
元村役場というだけあってかなり古さが伺えた。鉄筋コンクリートではあるが外壁の修復部分が目立つほど。中もどことなく薄暗い。最近の建物とは違って天井も低かった。旧
二人が通された部屋は小ぶりな会議室。
対応してくれた職員は若い男性だった。
「戸籍に関する資料は以上ですね」
重そうな書類の束を机に置いた職員が続ける。
「この近辺では一番の大地主の家ですが…………何かあったんですか？」
「いえ……」
あっさりと応える
「直接こちらの家の方から依頼がありまして…………家系図を新しくしたいとかで…………」
「そうなんですか…………」
「持ち出しはダメなんでしょ？」
「そう……ですね……」
「うん…………分かりました」
「…………じゃあ、終わったらまた受付で声かけてください」
職員はそれだけ言うと部屋を出た。その仕事は最低限で無駄が無い。
すでに書類を凝視していた
「持ち出しが出来なくても……撮影は出来るよねえ」
スマートフォンを取り出した
「まあね。暗黙の了解なのかな…………だから同席しないんでしょうね。興味が無いのもあるんでしょうけど」
「役人だなあ」
そう言って写真を撮り始める
「まあね」
「一番の大地主のことは知ってても、男がすぐに死んでるってことは有名じゃないんだね」
「まあ、一歳になる前にみんな死んでるんでしょ？ それじゃ仕方ないのかもね。実際どうなの？」
「一番最近だと平成八年…………1996年か。死因までは分からないけど確かに死んでるね。その二年前に長女が産まれてるけど」
「それが今の跡取りか…………」
そこから少しずつ遡るが、確かに例外なく男は一歳を迎える前に死んでいた。記録が残っているのは明治まで。戦争での空爆等の被害がない場所でもあるため、思っていたよりも古い記録が残っていた。
とは言っても明治や大正の記録となると、そもそも書式が違う。現代のスタイルに慣れている人間に取ってはやはり見にくい。読み解くだけでも時間がかかる。
午前一〇時から初めて一番古い記録に辿り着いた時は午後の一時を過ぎていた。
「さすがに疲れたね…………」
最初にそう声を漏らしたのは
「そうだね…………」
そして続ける。
「でも成果はあったかな……聞いてたことはホントだった…………まさか本当のことだったとはね…………」
その姿に、
「そんなに疲れた顔見せるなんて、珍しいね…………」
よほどでない限り、
その
「今週…………あまり寝てないでしょ」
そう言いながら、
「……嫌な夢見てるんでしょ？ 私も少し感じてた…………でもぼやけててよく見えない…………
暖かい手に包まれ、
「…………なんか…………怖い夢…………私に向かって〝お前は誰だ〟って…………でも顔が見えない…………怖い相手だってことは分かるんだけど…………」
「もしかして…………最近、毎日？」
そう聞く
そして微かに震える声で応える。
「……ただの夢だよ…………ただの潜在意識…………」
そう言われればそれまで。しかし
「怖かったね…………私がなんとかする」
そして顔を上げて続けた。
「ご飯食べて栄養を摂取してからタクシー拾おっか。まだ間に合うね」
☆
「少し休んだら？」
旅館に到着するなり撮影してきた写真をタブレットで見る
「んー、何か見落としがないのかなあって思ってさ」
しかし、
「栄養の摂取って言ってもいきなりトンカツ定食大盛りとは思わなかったわ」
「いい油使ってたよ。ごま油の割合も多いからカラッと揚がってたし。職人の店って感じだね。あれだからローカルな店は侮れないんだよねえ」
「とりあえず地元の人のリアルな話は聞けたけどね」
昭和の香りのする古い定食屋。
駅前のお洒落なカフェとは対極にあるような存在だが、当然のように客層も違う。大体はそういう店は常連客で商売が成立していた。それだけに、リアルな地元の声を聞くには最適だ。
お昼時を少し過ぎてはいたが、それでもそれなりに癖の強そうな年配の常連客が時間を潰していた。会話の流れから近所の農家の人たちが多いようだ。まだ春までは少し時間がある。着々と農作業の準備を進め始めているようだが、そのための情報交換にもこういう場所はちょうどいいのだろう。
特に農家の人たちは基本的にその地に長く暮らしていることがほとんど。この場所の情報や歴史にも詳しい。そういう人たちに伝わる伝承は、時として世間に広がる昔話とは異なることも多い。
「で、その鬼を退治した坊さんってのが────」
「坊さんじゃ男じゃねえか。巫女さんじゃなかったか？」
「どっちにしたって
「ホントかどうか知らねえけどな。あの家の人間なんて見たこともねえや。殿様みたいなお屋敷の大地主様だしよ」
「男がみんなすぐに死んじまうって話じゃなかったか？」
「そんなことがあったらホントに怪奇現象ってヤツじゃねえか」
ある意味リアルな情報だった。
伝承や祟りとは言っても真剣に信じている人間など誰もいない。どこかに幽霊が出るという話でもない。心霊スポットとしても盛り上がりにかける程度のものでしかない。事実としてオカルトブームに乗って伝説が掘り起こされたとは言っても、それはやはり
しかし
それでもやはり
その
「……この後のお客さんから話を聞いたら、温泉に浸かって今夜はゆっくり休むよ」
「この旅館の料理も美味しいしね」
そう明るく返す
──……見えない…………
──…………何かに…………邪魔されてる…………？
「…………見えないでしょ？」
「ただの夢じゃないのかも…………」
その
「────私が…………」
「……悪魔が見えた…………悪魔がいる…………悪魔が……………………」
咄嗟に、
同時に
──……どうすれば…………
「……離さないで…………」
──……私じゃ…………壁を壊せない…………
そう思った
「……ごめん……私じゃ崩せない…………お願い…………
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十部「鬼と悪魔の爪」第２話へつづく 〜
