第十一部「粉雪」第5話(第十一部最終話)
文字数 9,458文字
聖堂の祭壇の前を何度も往復し、絵留 は何人もの信者の前で落ち着きの無さを露呈させていた。
信者の誰もが聖堂の長椅子に腰掛けながらも、その日も落ち着かなかった。
冷静な顔のまま祭壇の段差に腰掛けているのは波瑠 だけ。すでに波瑠 は団体の実質的なナンバー2になっていた。卒業後は予定していた高校へは通わず、常に絵留 の側 に寄り添う。すでに母親である栄子 の意見を聞こうともしなかった。
栄子 自身、団体への執着心はありながらも、いつの間にか娘の波瑠 に恐怖心を抱いていたことは事実だ。それまでの娘とは思えないような言動ばかりの日々に、精神的にも追い詰められていく。それがカリスマ性の怖さだということにも気が付けないまま。
事実、その絵留 のカリスマ性で信者は増えていた。
もはや団体は聖書の勉強会という側面を失い、従来のキリスト教への矛盾を暴き出そうとする教義へと変化していた。そしてそれまでの概念とは違う絵留 の言葉は、不思議なほどの求心力を発揮するが、もちろんそれは絵留 自身の特殊な能力にもあるのだろう。しかし当然ながら、誰もそれには気が付けないまま。
誰も増え続けるお布施の金額に疑問を持たないままに、ただただ絵留 の指示通りに動くだけ。
信者は〝恵元萌江 と黒井咲恵 〟を探し続けた。
しかし分かっているのは名前だけ。
しかも無意識にバリアを張っている二人を簡単に見付けられるはずはない。
そして、日に日に絵留 のストレスが溜まっていった。
それを癒すのが波瑠 の表向きの仕事だった。しかし波瑠 にはもう一つの顔がある。それは萌江 と咲恵 を探す信者たちの統括。当然総ての信者に捜索が指示されていたが、その中でも動きやすい信者たちを集めて組織が作られていた。多くても五人程度のチームが三つ。それをまとめ、絵留 からの指令を伝えるのが仕事だった。
そして力を保持するための殺人。
しかもそれは他の信者の目の前で行われた。
波瑠 は〝絵留 のため〟に、恐怖で信者を押さえ付けていた。
しかしそれでも情報を収集出来ないまま、絵留 は深夜に総ての信者を教会に集めた。
「お前たちは仕事をしていない…………」
その低い絵留 の声が教会の冷たい空気を揺らす。
「この数ヶ月…………何の情報も得られていない…………あの二人は我々の脅威なんだぞ!」
祭壇の段差に座ったままそう叫ぶ絵留 の横には、いつものように波瑠 が寄り添うように立っていた。その手はいつものように絵留 の肩から首筋へと滑る。
すると、突然、絵留 が立ち上がった。
首筋の波瑠 の手を掴む。
そして、力任せにその体を床に叩きつけた。
うつ伏せになった波瑠 は声も出せないまま、その全身を痛みが包み込む。
そして、なぜか忘れていた感覚が記憶をつつく。
それは、初めて絵留 に声を掛けられたあの時の記憶。
周囲からのザワつきを無視するように、絵留 は波瑠 の体に馬乗りになると、叫んでいた。
「早く見付けないとどうなるか────よく見ておけ!」
聖堂の奥で、栄子 が立ち上がっていた。
絵留 は腰の後ろから鞘 の付いた果物ナイフを取り出すと、鞘 を外し、波瑠 の背中へ。
栄子 の詰まらせた小さな悲鳴が空気を伝わる。
しかしその声は、何度も背中に突き立てられる刃物に呼応するような、そんな波瑠 の呻き声に掻き消された。
──…………どうして…………助けて…………お母さん……………………
翌日、絵留 が向かったのは、西沙 の事務所。
それは、前日に波瑠 からもたらされた情報だった。
☆
周囲はすでに闇。
沈みながら空を赤く染めた太陽の姿はもうない。
そして静かだった。
月明かりもわずか。
萌江 は軽く黒い空を見上げていた。幾重にも重なる雲が鈍く夜空に浮かぶ。それでもその光は萌江 の足元を照らしている。
錆びついた門から教会の建物に向かうであろう石畳は、その大部分が土に埋まっていた。スニーカーの裏に荒目の土が絡むのを感じながら、萌江 はゆっくりと進む。
石畳は周囲の雑草に大きく隠されているものも多かったが、萌江は決して足音を消そうとはしていなかった。
すでに〝中〟の者たちには気付かれている。
萌江 は逆にそれに気付いていた。
──……待ち焦がれてたみたいだねえ…………
──…………嫌な感じだけど……………………
建物の横には雑草の少ないエリアがあった。そこには大小様々な葉っぱが並ぶ。小さな畑のように見えた。
そして教会の入り口前には五段程度の階段。幅は広くはない。大人二人が並んでちょうどいい程度。
階段を登った萌江 は、ゆっくりと色の霞 んだ木の扉に手をかけた。
──…………子供にしては……大胆…………
扉から感じるのは木の感触ではない。
視覚から当たり前に予想された手触りは、萌江 の中でおかしな混乱を生む。
外の空気は冷たい。
それなりの距離を歩いてきた萌江 の体は幾分温もりを持っていた。
扉は冷たいはず。
しかし、それは暖かい。
生暖かい。
〝木〟とは違う〝木の感触〟。
──……騙されるな…………
萌江 は扉に手を掛けたまま目を閉じると、ゆっくりと、大きく息を吐いた。
そして指に力を入れる。
途端に手に感じるのは、視覚情報が脳に作り出した感触そのもの。
──……なめられたものね…………
両開きの扉を小さく引くと、中から吹き出すのは冷たい空気。
教会の聖堂。
薄暗い。
間接照明がそれを際出させていた。
その幾つかは蝋燭 の炎だろうか。
小刻みに、大胆にオレンジ色の淡い色を揺らす。
萌江 の目は、最初から聖堂の奥に向けられていた。
そこに足を広げて座る小さな人影。
その鋭い二つの目だけが距離を感じさせない。
まるで目の前にあるかのように、怪しく揺れる闇の中に浮いていた。
萌江 は開けた扉から体を半分だけ中に入れたまま、ゆっくりと、
「────…………今夜は冷えるよ…………」
しかし〝二つの目〟は何も応えない。
直接会ったことはない。
しかし祭壇に座るその少女は、杏奈 からもらった資料の写真とはまるで別人のようだ。
それでも、それが〝牧田絵留 〟本人であることは間違いない。
そして、その〝目〟に、萌江 は見覚えがあった。
「……ここ…………外より冷えてる…………」
萌江 のその声に、絵留 は微動だにせずに鋭い目付きを向けるだけ。
その周囲に誰かがいるようには見えない。
萌江 が後ろ手で扉を閉めると、重いその音の直後、それまでの外からの緩い風の音が消えた。
萌江 はゆっくりと足を前へ。
スニーカーとは思えないほどに、なぜか聖堂の硬い床でその足音は響いた。
そこに、やっと絵留 の声。
「…………お前が、萌江 か…………」
しかし萌江 はそれを分かっていたかのように、驚きもせずに足を進める。
そして続く絵留 の声。
「……もう一人はどうした……?」
その声の圧力は強い。
まるで空気で作られた壁のようなその重厚さは、不思議と萌江 の周囲でだけ軽く崩れていく。
「もう一人?」
雰囲気に似つかわしくない萌江 のその声に、絵留 は少し苛立った。
「──お前の〝連れ〟だ」
「…………ああ……あんたには会いたくないってさ」
萌江 はそれだけ応えると、足を止める。
絵留 との距離は五メートルくらいだろうか。目線は萌江 の方が少しだけ高い。
萌江 は絵留 と目を合わせたまま、手にしたペットボトルのキャップを回す。その水を軽く口に含むと、萌江 は再びキャップを戻した。
そのまま降りていくペットボトルの向こうの萌江の首筋に、水で光を反射した水晶が光る。
それに反射的に声を上げたのは絵留 だった。
「やはり〝それ〟はお前の所にあったか…………対の〝もの〟はどこだ…………」
すると、萌江 は軽く口角を上げて応える。
「…………さて……どこかしらね…………」
「どうして〝あいつ〟がいない…………〝あいつ〟を呼べ」
しだいに絵留 の声が高くなっていく。
「お前だけじゃダメだ……二人同時でなければ────」
「一人ずつのほうが相手しやすいでしょ?」
応える萌江 は声のトーンを変えない。
「〝あいつ〟を呼べ! あの〝石〟がなければ────!」
その絵留 の声に重なる鈍い音。
萌江 の背後。
扉の開く音。
そして、すぐに聞こえる声。
「…………相変わらず…………落ち着きを失うとは…………」
後ろから近付くその声に、萌江 は聞き覚えがあった。
「お久しぶりです……恵元 さん」
周囲の空気を暖めるかのような妖しくも柔らかいその声は、咲 のものだった。
「咲 さん……どうして…………?」
軽く振り返りながら思わず萌江 がそう言葉を投げると、咲 はいつもの凛 とした立ち振る舞いのまま、萌江 の隣まで歩みを進めると絵留 を睨みつけていた。
萌江 の見慣れた巫女服ではない。まるで喪服のような黒で埋め尽くされた服。
その咲 が静かに応える。
「まあ……私も関係してましてね…………詳しくは後でお話ししますよ…………」
絵留 はその咲 に目を向けていた。
そして、その口元が大きく、ニヤリと笑みを浮かべる。
それに咲 が応えた。
「……はじめまして…………じゃ、ないわね……」
「お前が出てくるとは…………」
絵留 が小さくそう応えると、咲 は片足を軽く一歩前へ。ヒールが床で立てた音が聖堂に広がった。
「おかしな縁ね…………でも本命は来ないわ…………あなた如 きに会わせるわけにはいかないもの…………」
「────お前如 きがそれを決める立場にはない」
「……あの時……私はあなたに見事に騙された…………あなたは私に〝嘘〟を見せた…………」
「やっと気付いたのか…………」
応える絵留 の声は、それまでより低い。
そして目を伏せた。
言葉を繋げるのは咲 。
「あの時…………靖子 さんのお腹の中にいたのは〝あなた〟じゃなかった…………〝京子 〟さんね…………」
──…………お母さん……?
そう思った萌江 の意識に、さらに咲 の声が重なる。
「だからあなたはそれを排除したかった…………私に形だけの祈祷 をさせて…………」
「────屈辱的だったろ? だから私を探したのか? 仕返しがしたかったのか? ご苦労なことだ…………」
すると、唇を噛み締める咲 の横顔に、萌江 が顔を向ける。
咲 は視線を絵留 に向けたままで萌江 に言葉を向けた。
「…………恵元 さん…………私はあなたのお母さんを守れなかった…………あなたを守るために……もう一度、この世に産まれようとしていた京子 さんを…………」
「……産まれ変わり…………?」
応えた萌江 の声は呟くように小さい。
顔を絵留 に戻し、そして続く。
「…………ありえない…………」
咲 と絵留 が同時に萌江 に顔を向けた。
反射的に声を上げたのは咲 。
「でも…………恵元 さん…………」
「…………輪廻転生は宗教の中で作られたもの…………人々に進むべき道を伝えるための〝教え〟の一つ…………そして……その宗教を作り出したのは人間…………人間如 きがこの世の真理を知っているはずがない…………」
それに最初に応えたのは意外にも絵留 だった。
「京子 の娘にしては…………面白いことを言う…………」
「あなたがそう思いたかっただけ…………その〝思い込みからくる感情〟が咲 さんまで騙すことになった…………そんなに…………私のお母さんを思い通りに出来なかったのが悔しかったの? その程度の〝想い〟だけで…………何人も犠牲にしてきたの?」
「…………京子 は────!」
「覚えてるの? あなたは〝あいつ〟の意思を継いだだけ…………〝あいつ〟そのものではない…………そう思いたいだけ…………」
萌江 の言葉に、絵留 は何も応えない。
その萌江 の言葉が続く。
「京子 と対峙した時の知識はあるんだろうけど…………だから私と咲恵 を探してた…………その子を犠牲にしてまで…………私に会ってどうする気だったの? 私に勝てると思うの? あの時も勝てなかったのに…………」
「…………もう一人いた…………」
絵留 はそう呟くように言いながら、咲 を見上げた。
そして続ける。
「……あの時、邪魔をしたのはお前か…………お前を〝利用〟しようと思ったのに邪魔が入った…………」
咲 も強い視線を絵留 に向けたまま応える。
「……あなたは一度……京子 さんに負けた…………悔しいけど……私はその場に居ただけ…………」
「…………わたし…………」
そう口を開いたのは萌江 。
「あの時、咲 さんを守ったのは…………わたし…………」
絵留 が咄嗟に返す。
「……まだ幼い貴様に────」
「咲 さんを巻き込んだ…………お母さんが守ったのは私だけじゃない…………私の力を使って咲 さんも守った…………」
そして、咲 が声を上げる。
「────お前に問う…………お前は誰だ! どうしてそこにいる! あの関係のない夫婦を犠牲にしてまで…………お前が取り憑いてるその少女だって────!」
「取り憑いてる? 笑わせるな! 私は最初からこの姿だ!靖子 を殺すために産まれてきた! だからあの胎児を殺した…………あの胎児に取り憑いてると思わせた! あんたが細工したところでなんの意味も無い!」
叫ぶ絵留 に、咲 は少し間を開け、そして返していた。
「…………どうして…………靖子 さんを…………」
「────京子 と繋がる人間だからだ‼︎」
その絵留 の声が、聖堂の空気を震わせた。
天井から降り注ぐようなその声は、萌江 と咲 を黙らせる。
やがて、ゆっくりと口を開いたのは咲 だった。
「…………どういう…………こと……………………」
その声に被さる音。
低めのヒール。
重い音。
重なる音は高いヒールの音。
萌江 が振り返った。
短い髪の先が視界を邪魔する。
──…………咲恵 ……………………
咲恵 の姿が近付く。
次の瞬間、声を上げたのは咲 だった。
「西沙 ‼︎ どうして────!」
「黙っててお母さん!」
咲恵 の背後から叫ぶ西沙 の声が続く。
「お願い! 後で説明するから!」
そして咲恵 の前に出ようとする西沙 の体が止まる。
動けなかった。
──……なに…………?
咄嗟に咲 に視線を送るが、咲 も体が硬直したまま動けずにいた。
その咲 は西沙 に視線だけを送る。
──…………落ち着いて…………
萌江 の横まできた咲恵 が、足を止める直前にその目を軽く向けた。
まるで吸い込まれるようなその瞳に、萌江 は声を出すことが出来ない。
そしてゆっくりと、流れるように、その咲恵 の目が絵留 へ。
足が止まると同時に、ロングスカートの裾 が動きを追いかける。
その絵留 は、体を小刻みに震わせていた。
そのまま、咲恵 と目を合わせたまま、立ち上がる。
震えた声を絞り出した。
「…………どうして…………お前が…………」
しかし咲恵 は何も応えない。
黙ったまま、しかしその妖艶 な瞳を少しずつ鋭く変えていく。
直後、声を上げたのは咲 だった。
体が動かないままで、まるでその声は唸り声のよう。
「…………何が見えてるの…………靖子 さんが京子 さんと繋がってるって…………どういうこと…………」
しかしその声は、今の絵留 の耳には届いていなかった。
西沙 も見えない壁を破ることに神経を集中していた。まるで透明な壁の中に閉じ込められたかのように息苦しい。
──…………崩せるはずだ…………
──……………………? これって…………咲恵 が…………?
やがて、聖堂の空気に伝わって広がる咲恵 の声。
「あなたが父親を使って殺した胎児は…………〝私〟ではない。あなたのただの思い込みだ。あなたは一人の人間に過ぎない。あなたが操られていると思い込んでるだけだ」
そして、絵留 の掠 れた声が響く。
「────どうして〝お前〟がそこにいるんだ‼︎」
すると、咲恵 は左手をまっすぐ前に伸ばした。
そこには、チェーンを指に絡めた小さな〝水晶〟。
横の萌江 は、その透明な水晶が吸い込む幾多の光に魅入られた。
その光が、揺れる。
──……………………〝水の玉〟……………………
そして響く咲恵 の声。
「私は……命をかけても萌江 を守る…………何が正しいかどうかではない…………あなたに命をかけてまで守りたい相手はいるの? あなたの中には〝怒りと憎しみ〟しか感じない。しかもそれはあなたのものじゃない。何人殺したって何もあなたのものにはならない…………」
「貴様がそれを言うか‼︎」
「すぐに〝その子〟を解放しなさい…………そうしなければ────」
「京子 を許す気などない‼︎」
「────私の〝娘〟に手を出すな‼︎」
小さな足音。
瞬時に絵留 の背後へ。
そして、絵留 の体が揺れる。
一瞬時が止まったかのようなその光景に、誰もが目を見開いていた。
絵留 の背後に、人影。
その絵留 の上半身が、ゆっくりと後ろにのけぞる。
──…………黒い蛇…………怖い…………
☆
その日は暖かかった。
小学二年の夏休み。
絵留 の一家は決してお盆や年末年始に実家に帰るという慣習はない。
学校の友達のいう〝おじいちゃんの家〟〝おばあちゃんの家〟という感覚が絵留 には分からない。だから、夏休みや冬休みに必ず行くような所があるわけでもない。
寂しくないと言えば嘘だった。
お盆が近くなると、遊ぶ友達もいなくなる。
遠くにお墓参りに行ったことはある。しかし、なぜか牧田 家はお盆には行かない。夏休みが終わる頃に、父の休みに合わせて日曜日に行くだけ。
どうして自分の家だけ他と違うのか、その頃の絵留 に理由は分からなかったし、聞いても適当にはぐらかされる。理由は分からなくても〝誤魔化されている〟感覚だけは幼い絵留 にも感じ取れた。
テレビをつければお盆の話題ばかり。
しかし父がお盆休みを取ることはなく、その日も絵留 は母と二人だけ。
その母が近くのスーパーの買い物から帰ってくると、絵留 はお気に入りの帽子を手にして外に飛び出した。
いつもの団地の中の小さな公園。
午後の日差しが暑い。
そこには、数日前まではいつもの友達がいた。
行けばいつも誰かがいる場所だった。
しかし、その日は静か。
誰の声もしない。
──……これから誰かが来るかもしれない…………
絵留 がそう思って砂場にしゃがみ込む。
ほんの数分でも、まだ幼い絵留 には長く感じられた。
まるで、世界が自分一人だけになってしまったかと思うような寂しさに包まれる。
どうして自分には〝おじいちゃん〟も〝おばあちゃん〟もいないのか…………みんなのように遠くまで会いに行きたかった。
そして足元の砂をいじる指が止まった時、絵留 は視線を感じる。
強い視線だった。
顔を上げる。
無意識の内に立ち上がっていた。
その視線の先には、一匹の〝蛇〟。
真っ黒で大きなその〝蛇〟は、微動だにしないまま、ただ、絵留 を見つめていた。
☆
さらに、絵留 の左右から、その体を別の人影が覆う。
小さく呻き声を上げた絵留 は、天井を見上げたまま膝を落としていく。
やがて三人の人影の手に見えるのは、間接照明の中で鈍い光を放つ刃物。
そこから、影で黒く染まった液体が滴る。
膝を落とした絵留 を囲うその人影は、三人の女性。
「西沙 ‼︎」
咲 の声に、西沙 が動いた。
小さな体で咲恵 を抱えるようにその場から引き離す。
咲恵 が伸ばした手が、同じく反射的に手を伸ばした萌江 の指先に触れる。
次の瞬間、萌江 の体を覆ったのは咲 だった。
「まだ駄目です!」
床に倒れた絵留 の、背後の人影が、萌江 に向かって叫んでいた。
「早く逃げて!」
震えたその声は、涙を含む。
「ここにはもう関わったらダメ!」
萌江 の視線の中でその光景は小さくなり、やがて扉が閉まりかけた時、最後の声が微かに聞こえた。
「────〝娘〟を返して‼︎」
その姿は、絵留 に馬乗りになって刃物を振り下ろした。
外の門まで強引に連れて行かれた萌江 は、何が起こっているのかも理解出来ないままに放心状態だった。そのまま地面に膝を付いた萌江 に、横で立ち尽くす咲 が言葉を投げかけていた。
「…………今回の検証は……少し落ち着いてからで…………」
「……咲恵 は…………」
「大丈夫です…………西沙 が連れて行きました…………もうここから離脱しています」
軽く息を切らした咲 の声に、萌江 は項垂 れたまま言葉を返す。
「…………咲恵 を……返して…………」
しかし、咲 は言葉を返せない。
──……今はまだ…………もう少しだけ…………
咲 が心の中でそんな言葉を絞り出した直後、急速に近付くエンジンの音。二人の前でRV車が急ブレーキを掛けて停まる。
「二人とも早く乗って!」
その声は運転席の杏奈 の声。
萌江 と咲 を後ろに乗せると、車を急発進させた杏奈 が声を上げる。
「やっぱり公安の奴らが張ってた。車も見られた────」
「それじゃあ…………」
後部座席で心配そうに身を乗り出す咲 に杏奈 は笑顔で返していた。
「大丈夫。ナンバープレートは偽物貼り付けてあるから」
しかし、直後のルームミラーに映る光景に再び声を張り上げる。
「────萌江 さん⁉︎」
萌江 は咲 の首に手を掛け、シートに咲 の体を押し付けていた。
「咲恵 を返せ‼︎」
「…………まだ…………駄目です…………」
咲 は抵抗もせずに続ける。
「……黒井 さんは…………影響を受け過ぎました…………今のままでは本気で恵元 さんのために命を捨てる…………見過ごすことは出来ません…………」
「…………どうして…………咲恵 が〝あの石〟を…………」
「……それも含めて………………私の所で数日預かります…………」
「────返せ‼︎」
「出来ません‼︎」
その咲 の張り上げた声に、少しだけ萌江 の体が引く。
そのまま咲 が続けた。
「……恵元 さんと黒井 さんの考えは私も理解しています…………しかし…………それだけでは答えが出せないことがあるのも分かっているはずです…………今回だけは……私を信じてください…………知ってるんですよね…………私と西沙 に、あなたと同じ血が流れていること…………京子 さんと同じ血です…………」
萌江 は表情を変え、咲 の隣でシートに体を沈めた。
そして、小さく返す。
「……私は99.9%…………信じない…………」
「では0.1%で結構です…………私を信じて下さい」
そして、咲 は小さく溜息を吐 いた。
☆
粉雪が舞っていた。
縁側の古い板に落ちた小さなその粒は、まるで吸い込まれるように消えていく。
不思議と寒くは感じなかった。
むしろ春特有の柔らかい日差しが暖かい。
萌江 は縁側下の踏石に足を伸ばすと、その上にあるサンダルに靴下も履いていない足を滑らせる。
少しだけ冷たかった。
手にしていたコーヒーのマグカップを縁側に置き、立ち上がる。
近くで戯れあっていた二匹の子猫が不思議そうに萌江 を見上げていた。
縁側に振り返ると、そこには母猫の姿。
「…………幸せだね…………お母さん…………」
なぜかそんな言葉が口から零 れ落ちる。
萌江 は子猫たちに視線を戻すと、しゃがみこんで二匹の顔を覗き込むように口を開いた。
「……君たちも…………幸せそうで良かった…………」
涙が溢れた。
頬を流れ落ちていく。
視界が滲む。
──…………なんだろう…………
──……………やっと泣けた………………
顔には、笑顔が浮かぶ。
嬉しかった。
そして、その音に気付く。
無意識に立ち上がっていた。
懐かしい色の車。
運転席から降りてくる、懐かしい姿。
その咲恵 の姿は、粉雪の中で光る。
萌江 は考えるよりも早く、足を前に進めていた。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十一部「粉雪」終 〜
信者の誰もが聖堂の長椅子に腰掛けながらも、その日も落ち着かなかった。
冷静な顔のまま祭壇の段差に腰掛けているのは
事実、その
もはや団体は聖書の勉強会という側面を失い、従来のキリスト教への矛盾を暴き出そうとする教義へと変化していた。そしてそれまでの概念とは違う
誰も増え続けるお布施の金額に疑問を持たないままに、ただただ
信者は〝
しかし分かっているのは名前だけ。
しかも無意識にバリアを張っている二人を簡単に見付けられるはずはない。
そして、日に日に
それを癒すのが
そして力を保持するための殺人。
しかもそれは他の信者の目の前で行われた。
しかしそれでも情報を収集出来ないまま、
「お前たちは仕事をしていない…………」
その低い
「この数ヶ月…………何の情報も得られていない…………あの二人は我々の脅威なんだぞ!」
祭壇の段差に座ったままそう叫ぶ
すると、突然、
首筋の
そして、力任せにその体を床に叩きつけた。
うつ伏せになった
そして、なぜか忘れていた感覚が記憶をつつく。
それは、初めて
周囲からのザワつきを無視するように、
「早く見付けないとどうなるか────よく見ておけ!」
聖堂の奥で、
しかしその声は、何度も背中に突き立てられる刃物に呼応するような、そんな
──…………どうして…………助けて…………お母さん……………………
翌日、
それは、前日に
☆
周囲はすでに闇。
沈みながら空を赤く染めた太陽の姿はもうない。
そして静かだった。
月明かりもわずか。
錆びついた門から教会の建物に向かうであろう石畳は、その大部分が土に埋まっていた。スニーカーの裏に荒目の土が絡むのを感じながら、
石畳は周囲の雑草に大きく隠されているものも多かったが、萌江は決して足音を消そうとはしていなかった。
すでに〝中〟の者たちには気付かれている。
──……待ち焦がれてたみたいだねえ…………
──…………嫌な感じだけど……………………
建物の横には雑草の少ないエリアがあった。そこには大小様々な葉っぱが並ぶ。小さな畑のように見えた。
そして教会の入り口前には五段程度の階段。幅は広くはない。大人二人が並んでちょうどいい程度。
階段を登った
──…………子供にしては……大胆…………
扉から感じるのは木の感触ではない。
視覚から当たり前に予想された手触りは、
外の空気は冷たい。
それなりの距離を歩いてきた
扉は冷たいはず。
しかし、それは暖かい。
生暖かい。
〝木〟とは違う〝木の感触〟。
──……騙されるな…………
そして指に力を入れる。
途端に手に感じるのは、視覚情報が脳に作り出した感触そのもの。
──……なめられたものね…………
両開きの扉を小さく引くと、中から吹き出すのは冷たい空気。
教会の聖堂。
薄暗い。
間接照明がそれを際出させていた。
その幾つかは
小刻みに、大胆にオレンジ色の淡い色を揺らす。
そこに足を広げて座る小さな人影。
その鋭い二つの目だけが距離を感じさせない。
まるで目の前にあるかのように、怪しく揺れる闇の中に浮いていた。
「────…………今夜は冷えるよ…………」
しかし〝二つの目〟は何も応えない。
直接会ったことはない。
しかし祭壇に座るその少女は、
それでも、それが〝
そして、その〝目〟に、
「……ここ…………外より冷えてる…………」
その周囲に誰かがいるようには見えない。
スニーカーとは思えないほどに、なぜか聖堂の硬い床でその足音は響いた。
そこに、やっと
「…………お前が、
しかし
そして続く
「……もう一人はどうした……?」
その声の圧力は強い。
まるで空気で作られた壁のようなその重厚さは、不思議と
「もう一人?」
雰囲気に似つかわしくない
「──お前の〝連れ〟だ」
「…………ああ……あんたには会いたくないってさ」
そのまま降りていくペットボトルの向こうの萌江の首筋に、水で光を反射した水晶が光る。
それに反射的に声を上げたのは
「やはり〝それ〟はお前の所にあったか…………対の〝もの〟はどこだ…………」
すると、
「…………さて……どこかしらね…………」
「どうして〝あいつ〟がいない…………〝あいつ〟を呼べ」
しだいに
「お前だけじゃダメだ……二人同時でなければ────」
「一人ずつのほうが相手しやすいでしょ?」
応える
「〝あいつ〟を呼べ! あの〝石〟がなければ────!」
その
扉の開く音。
そして、すぐに聞こえる声。
「…………相変わらず…………落ち着きを失うとは…………」
後ろから近付くその声に、
「お久しぶりです……
周囲の空気を暖めるかのような妖しくも柔らかいその声は、
「
軽く振り返りながら思わず
その
「まあ……私も関係してましてね…………詳しくは後でお話ししますよ…………」
そして、その口元が大きく、ニヤリと笑みを浮かべる。
それに
「……はじめまして…………じゃ、ないわね……」
「お前が出てくるとは…………」
「おかしな縁ね…………でも本命は来ないわ…………あなた
「────お前
「……あの時……私はあなたに見事に騙された…………あなたは私に〝嘘〟を見せた…………」
「やっと気付いたのか…………」
応える
そして目を伏せた。
言葉を繋げるのは
「あの時…………
──…………お母さん……?
そう思った
「だからあなたはそれを排除したかった…………私に形だけの
「────屈辱的だったろ? だから私を探したのか? 仕返しがしたかったのか? ご苦労なことだ…………」
すると、唇を噛み締める
「…………
「……産まれ変わり…………?」
応えた
顔を
「…………ありえない…………」
反射的に声を上げたのは
「でも…………
「…………輪廻転生は宗教の中で作られたもの…………人々に進むべき道を伝えるための〝教え〟の一つ…………そして……その宗教を作り出したのは人間…………人間
それに最初に応えたのは意外にも
「
「あなたがそう思いたかっただけ…………その〝思い込みからくる感情〟が
「…………
「覚えてるの? あなたは〝あいつ〟の意思を継いだだけ…………〝あいつ〟そのものではない…………そう思いたいだけ…………」
その
「
「…………もう一人いた…………」
そして続ける。
「……あの時、邪魔をしたのはお前か…………お前を〝利用〟しようと思ったのに邪魔が入った…………」
「……あなたは一度……
「…………わたし…………」
そう口を開いたのは
「あの時、
「……まだ幼い貴様に────」
「
そして、
「────お前に問う…………お前は誰だ! どうしてそこにいる! あの関係のない夫婦を犠牲にしてまで…………お前が取り憑いてるその少女だって────!」
「取り憑いてる? 笑わせるな! 私は最初からこの姿だ!
叫ぶ
「…………どうして…………
「────
その
天井から降り注ぐようなその声は、
やがて、ゆっくりと口を開いたのは
「…………どういう…………こと……………………」
その声に被さる音。
低めのヒール。
重い音。
重なる音は高いヒールの音。
短い髪の先が視界を邪魔する。
──…………
次の瞬間、声を上げたのは
「
「黙っててお母さん!」
「お願い! 後で説明するから!」
そして
動けなかった。
──……なに…………?
咄嗟に
その
──…………落ち着いて…………
まるで吸い込まれるようなその瞳に、
そしてゆっくりと、流れるように、その
足が止まると同時に、ロングスカートの
その
そのまま、
震えた声を絞り出した。
「…………どうして…………お前が…………」
しかし
黙ったまま、しかしその
直後、声を上げたのは
体が動かないままで、まるでその声は唸り声のよう。
「…………何が見えてるの…………
しかしその声は、今の
──…………崩せるはずだ…………
──……………………? これって…………
やがて、聖堂の空気に伝わって広がる
「あなたが父親を使って殺した胎児は…………〝私〟ではない。あなたのただの思い込みだ。あなたは一人の人間に過ぎない。あなたが操られていると思い込んでるだけだ」
そして、
「────どうして〝お前〟がそこにいるんだ‼︎」
すると、
そこには、チェーンを指に絡めた小さな〝水晶〟。
横の
その光が、揺れる。
──……………………〝水の玉〟……………………
そして響く
「私は……命をかけても
「貴様がそれを言うか‼︎」
「すぐに〝その子〟を解放しなさい…………そうしなければ────」
「
「────私の〝娘〟に手を出すな‼︎」
小さな足音。
瞬時に
そして、
一瞬時が止まったかのようなその光景に、誰もが目を見開いていた。
その
──…………黒い蛇…………怖い…………
☆
その日は暖かかった。
小学二年の夏休み。
学校の友達のいう〝おじいちゃんの家〟〝おばあちゃんの家〟という感覚が
寂しくないと言えば嘘だった。
お盆が近くなると、遊ぶ友達もいなくなる。
遠くにお墓参りに行ったことはある。しかし、なぜか
どうして自分の家だけ他と違うのか、その頃の
テレビをつければお盆の話題ばかり。
しかし父がお盆休みを取ることはなく、その日も
その母が近くのスーパーの買い物から帰ってくると、
いつもの団地の中の小さな公園。
午後の日差しが暑い。
そこには、数日前まではいつもの友達がいた。
行けばいつも誰かがいる場所だった。
しかし、その日は静か。
誰の声もしない。
──……これから誰かが来るかもしれない…………
ほんの数分でも、まだ幼い
まるで、世界が自分一人だけになってしまったかと思うような寂しさに包まれる。
どうして自分には〝おじいちゃん〟も〝おばあちゃん〟もいないのか…………みんなのように遠くまで会いに行きたかった。
そして足元の砂をいじる指が止まった時、
強い視線だった。
顔を上げる。
無意識の内に立ち上がっていた。
その視線の先には、一匹の〝蛇〟。
真っ黒で大きなその〝蛇〟は、微動だにしないまま、ただ、
☆
さらに、
小さく呻き声を上げた
やがて三人の人影の手に見えるのは、間接照明の中で鈍い光を放つ刃物。
そこから、影で黒く染まった液体が滴る。
膝を落とした
「
小さな体で
次の瞬間、
「まだ駄目です!」
床に倒れた
「早く逃げて!」
震えたその声は、涙を含む。
「ここにはもう関わったらダメ!」
「────〝娘〟を返して‼︎」
その姿は、
外の門まで強引に連れて行かれた
「…………今回の検証は……少し落ち着いてからで…………」
「……
「大丈夫です…………
軽く息を切らした
「…………
しかし、
──……今はまだ…………もう少しだけ…………
「二人とも早く乗って!」
その声は運転席の
「やっぱり公安の奴らが張ってた。車も見られた────」
「それじゃあ…………」
後部座席で心配そうに身を乗り出す
「大丈夫。ナンバープレートは偽物貼り付けてあるから」
しかし、直後のルームミラーに映る光景に再び声を張り上げる。
「────
「
「…………まだ…………駄目です…………」
「……
「…………どうして…………
「……それも含めて………………私の所で数日預かります…………」
「────返せ‼︎」
「出来ません‼︎」
その
そのまま
「……
そして、小さく返す。
「……私は99.9%…………信じない…………」
「では0.1%で結構です…………私を信じて下さい」
そして、
☆
粉雪が舞っていた。
縁側の古い板に落ちた小さなその粒は、まるで吸い込まれるように消えていく。
不思議と寒くは感じなかった。
むしろ春特有の柔らかい日差しが暖かい。
少しだけ冷たかった。
手にしていたコーヒーのマグカップを縁側に置き、立ち上がる。
近くで戯れあっていた二匹の子猫が不思議そうに
縁側に振り返ると、そこには母猫の姿。
「…………幸せだね…………お母さん…………」
なぜかそんな言葉が口から
「……君たちも…………幸せそうで良かった…………」
涙が溢れた。
頬を流れ落ちていく。
視界が滲む。
──…………なんだろう…………
──……………やっと泣けた………………
顔には、笑顔が浮かぶ。
嬉しかった。
そして、その音に気付く。
無意識に立ち上がっていた。
懐かしい色の車。
運転席から降りてくる、懐かしい姿。
その
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十一部「粉雪」終 〜